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報恩寺玄関(平成26年(2014)12月25日、管理人撮影)
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報恩寺(ほうおんじ)は京都市上京区小川通寺之内下ル射場町579に位置(外部リンク)する浄土宗知恩院末の寺院です。山号は堯天山。明応3年(1494)に慶誉明泉(?〜1521)によって開創されました。もとは一条の地、御所の東北に位置していましたが、天正13年(1585)までに現在地に移転しました。天明8年(1788)の天明の大火により焼失、本堂が再建されないまま現在にいたっています。学僧の証誉湛澄(1651〜1712)や画僧の明誉古澗(1653〜1717)が住持をつとめた寺院でもあります。
報恩寺の開創
報恩寺の開創について、同時代の史料にはみえず、そのため後代の諸史料以外にそれを知るすべはない。ところがそれらの史料は開創事情については異なった見解を示している。
元禄9年(1696)に増上寺が幕府寺社奉行の命を受けて全国の浄土宗寺院を調査・集成した『浄土宗寺院由緒書』には、慶誉明泉が明応3年(1494)に建立したとし(『浄土宗寺院由緒書』山城2、洛陽上京門中〈『増上寺史料集』第5巻〉)、同書の異名抄本である『蓮門精舎旧詞』もまた同様である(『蓮門精舎旧詞』第3冊、報恩寺)。
一方、黒川道祐(1623〜91)が天和2年(1682)から貞享3年(1686)にかけて撰述した『雍州府志』によると、もとは天台浄土宗であり、法園寺と号していたが、後土御門天皇の時に一風玄誉が再興して報恩寺と改め、後柏原天皇より文亀2年(1502)に宸筆の額を賜り、これより浄土宗となって知恩院の末寺となったという(『雍州府志』4、寺院門上、愛宕郡、報恩寺)。延宝6年(1678)に撰述された「京師報恩教寺仏牙舎利縁起」では、もとは天台浄土の両宗兼学であり、法園寺と号していたが、一風慶誉が浄土宗一宗の寺院とし、詔によって法園寺を報恩寺と改めたという(『西大勅諡興正菩薩行実年譜附録』巻下、京師報恩教寺仏牙舎利縁起〈『西大寺叡尊伝記集成』〉)。
また貞享4年(1687)に報恩寺住持の証誉湛澄(1651〜1712)によって撰述された「報恩寺牙舍利縁起」によると、後土御門天皇が専修念仏の信仰があり、鎮西派(浄土宗において、法然の弟子弁長によって広められた一派で、知恩院・増上寺などで勢力をもった現浄土宗の主流)の流儀を報恩寺の開山に尋ねられ、帰依が深く、後柏原天皇より舎利を開基の明泉上人に賜ったという(「報恩寺牙舍利縁起」報恩寺文書14〈『京都浄土宗寺院文書』より。以後報恩寺文書は同書による〉)。さらに正徳3年(1713)刊の『浄土鎮流祖伝(浄土本朝高僧伝)』によると、一風玄誉は後土御門天皇の時代に洛北法園寺に住し、当寺法園寺は天台浄土の兼学であったが、彼が住して以降は浄土宗一宗となり、報恩寺と改め、文亀元年(1501)に後柏原天皇より仏舎利を賜り、翌年には寺額を賜ったという(『浄土鎮流祖伝』巻第4、京師報恩寺一風上人伝)。
このように、ほとんど同時代に編纂された諸史料の間で、報恩寺開山が慶誉明泉説と一風玄誉説があることが知られる。『浄土宗寺院由緒書』『蓮門精舎旧詞』「報恩寺牙舍利縁起」では慶誉明泉とするのに対して、「京師報恩教寺仏牙舎利縁起」では一風慶誉、『雍州府志』『浄土鎮流祖伝』では一風玄誉とする。このうち『雍州府志』は、「報恩寺牙舎利縁起」と内容が共通することから、「一風玄誉」は「一風慶誉」の誤りであり、「明泉」「一風」はともに慶誉の法号であり、同一人物のことを指していると考えられている(水野1972)。なお「慶」字の草体略字は「玄」字と酷似しており(とくにまだれの第三画を右側に寄せると)、そこからの訛伝とも考えられる。少なくとも報恩寺自体は開山を慶誉と認識しており、正徳3年(1713)に『浄土鎮流祖伝』が刊行された後も、享保4年(1719)に開山慶誉の二百年遠忌に関連して、開山所持の霊宝の開帳を知恩院に願い出ている(『知恩院役者日鑑』享保4年10月朔日条〈『知恩院史料 日鑑・書簡編』7。以後『知恩院役者日鑑』は同書によるが、冊数は該当箇所を参照されたい〉)。
ともすれば、報恩寺の開山は慶誉であることがわかるが、報恩寺蔵の法然上人像の永正17年(1520)7月25日の裏書に「報恩寺西蓮社慶誉記之(花押)」と自署することから(「法然上人自筆画像」裏書〈宮本・原口他2012所引〉)、報恩寺の開山は慶誉で確定する。
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報恩寺内政長稲荷社(平成26年(2014)12月25日、管理人撮影)
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報恩寺開山西蓮社慶誉明泉
慶誉は『浄土宗寺院由緒書』によると、西蓮社慶誉明泉と号し、姓氏・生国はともに不明である(『浄土宗寺院由緒書』山城2、洛陽上京門中)。慶誉を「一風玄誉」とする『浄土鎮流祖伝』では、姓氏不明としながらも、ある名族の家柄で京都の人であるとするが(『浄土鎮流祖伝』巻第4、京師報恩寺一風上人伝)、いかなる情報源によったか、あるいはただの文飾であるのか定かではない。『浄土宗寺院由緒書』によると、慶誉は勢誉愚底(1445〜1516)を剃髪の師として出家したといい、学問檀林・附法の師は不明であるという(『浄土宗寺院由緒書』山城2、洛陽上京門中)。
慶誉在世中の報恩寺の事蹟について、文亀元年(1501)に仏舎利を、文亀2年(1502)に寺額を賜ったことは前述したが、後柏原天皇・後奈良天皇の両帝は浄土信仰篤く、開創まもない報恩寺も朝廷の帰依を受けることになる。
文亀元年(1501)7月5日に香衣を勅許されている(「後柏原天皇綸旨」報恩寺文書1)。香衣は文字通り香染めの僧衣で、これを着用するには勅許が必要であったが、報恩寺はこれを知恩院の香衣執奏権を利用して獲得していた。それは同時に報恩寺が開創の時点より知恩院の末寺であることを意味し、江戸時代前期の寺伝と合致する。同日付の後柏原天皇の知恩院宛の宸簡によると、報恩寺の香衣勅許は、四十歳以降はともかく、四十歳未満の勅許は稀であるが、三十歳そこそこの人に勅許した先例があり、あまりに濫りがましいことであるが、報恩寺に関しては子細ある事から勅許したと述べている(「後柏原天皇宸筆女房奉書」報恩寺文書2)。このことから、慶誉は文亀元年(1501)の段階でまだ30歳代の若僧であり、その開創は知恩院の強いバックボーンがあったこと、香衣勅許もまた、後柏原天皇の篤い浄土信仰を背景とした、知恩院の強力な後押し、ないしは知恩院が主導的に行なったことが知られるのである。
朝廷による香衣勅許は公家による帰依をもたらしたらしく、永正元年(1504)6月13日に中御門宣胤(1442〜1525)に妙香院・報恩寺を訪れ、浄土の法談を聞いている(『宣胤卿記』永正元年6月13日条)。
永正元年(1504)8月に慶誉の師である勢誉愚底が知恩院第23世住持に晋山している。永正7年(1510)5月6日付の慶誉宛の勢誉愚底の書状によると、勢誉愚底は老年のため退院を望んでおり、先年より慶誉に知恩院住持職を譲ることを頼んだものの先延ばしとなり、ある時退院の事を相談したところ、かえって知恩院興隆のため滞留すべきとの意見を述べられてしまっていた。そのため慶誉に再三住持職就任を要請している。この中で、勢誉愚底は慶誉のことを「老僧の二世を預けたく候、万事を憑み入るの外、他事なき候」「なかんずくその方の事は、久々在京候間、京・田舎の人、おおよそ存じ様候条」と述べているように、弟子として大いに信頼しており、京都内外の信望を得ていると評価している(「知恩院勢誉書状」報恩寺文書3)。
結局、慶誉は勢誉愚底の申し出を辞退し続け、肇誉訓公(?〜1510)が知恩院住持となる。永正17年(1520)肇誉訓公が示寂するとその遺言に従い、超誉存牛(1469〜1550)を迎えようとしたものの辞退したため、後柏原天皇は綸旨を賜い、また京都の門徒の六ヶ寺が連署して招請した(「宝泉院上誉等連署招請状」知恩院文書7)。この六ヶ寺は浄教寺・法然寺・報恩寺・智恵光院・知恩寺・宝泉院であり、当時報恩寺住持であった慶誉も署判している。宝泉院は廃絶して不明であるが、後に知恩院と本末論争を引き起こす知恩寺、中世以来の由緒をもつ智恵光院、浄教寺・法然寺・報恩寺はいずれも十九箇寺に数えられる有力寺院であり(中井1994)、報恩寺は開創わずか24年で京都を代表する浄土宗寺院となったのである。
慶誉は大永元年(1521)5月8日に示寂した(『浄土宗寺院由緒書』山城2、洛陽上京門中)。文亀元年(1501)の後柏原天皇の宸簡に「ほうおん寺しゆつせ(報恩寺出世)の事、四十よりうちハ、さうそくなる事にて」(「後柏原天皇宸筆女房奉書」報恩寺文書2)とあり、また永正7年(1510)の勢誉愚底の書状に「今、四十・五十の年齡に候は」(「知恩院勢誉書状」報恩寺文書3)とあることから、少なくとも文明13年(1481)以降の生まれであるということになり、示寂した時にはまだ五十代そこそこであったとみられる。前述の通り、勢誉愚底の知恩院住持就任を固辞した経緯から、示寂後は知恩院の峰に葬られたという(『浄土宗寺院由緒書』山城2、洛陽上京門中)。
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慶誉墓(平成26年(2014)12月25日、管理人撮影)
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報恩寺の移転
慶誉示寂後の報恩寺の住持は、江戸時代までに円誉・永誉・勝誉・西誉・眠誉・智誉・満誉を墓碑銘などで知ることが出来るが、彼らの事蹟の詳細はわかっていない。
享禄2年(1529)2月19日には報恩寺にて涅槃会が行なわれていることが確認できるが(『お湯殿上日記』享禄2年2月19日条)、涅槃会は文亀元年(1501)に慶誉が後柏原天皇より舎利を賜って以来、毎年行なわれてきたものであったという(『雍州府志』4、寺院門上、愛宕郡、報恩寺)。
現在報恩寺に所蔵される宝篋印塔嵌装舎利厨子は貞享4年(1687)に報恩寺住持の証誉湛澄(1651〜1712)によって撰述された「報恩寺牙舎利縁起」によると、釈迦が涅槃後に、捷疾鬼という刹那の間に三千大千世界を飛行する羅刹も悲しんで帝釈天の後ろに隠れ、大衆が悲しむ隙をついて、舎利を盗み取ってはるか虚空に飛び去ったという。その後唐の南山道宣が顕慶5年(660)に西明寺にて、あやしい童子と捷疾鬼が夜ふけた頃に現れて、その傍らに現れた。捷疾鬼は増長天の使者捷疾鬼で、童子は北方毘沙門天の長子那陀太子と名乗り、捷疾鬼が奪った舎利を与えたという。道宣の示寂後、弟子の文綱が舎利を崇聖寺の東塔に納めたが、代宗皇帝が取り出して宮中に入れ、その後、西明寺・天宮寺へと流転し、五代の乱のため行方不明となっていたという。
「報恩寺牙舎利縁起」によると、報恩寺の舎利は延喜年間(901〜23)に日蔵が中国に渡ってこの舎利を得て帰朝し、弘安年間(1278〜87)に室町院(暉子内親王、1228〜1300)が所持しており、叡尊(1201〜90)を道宣とみなした室町院によって葉室の浄住寺にいた叡尊に寄進されたという(「報恩寺牙舎利縁起」)。「報恩寺牙舎利縁起」に掲載された寄進状によると、日蔵から室町院の間には、浄乗・白河法皇・祇園女御・鳥羽法皇・美福門院・八条女院・俊成卿・後高倉法皇・北白河院・安嘉門院・室町院と相伝したという(「報恩寺牙舎利縁起」)。室町院から叡尊に寄進された舎利が浄住寺に納められたことは事実であったらしく、浄住寺では宝塔に納められていたという(『西大勅諡興正菩薩行実年譜』巻下、弘安10年丁亥条〈『西大寺叡尊伝記集成』〉)。
浄住寺は元弘の乱に際して焼失している(松尾2007)。舎利は伝承によると、元弘の乱の際には一時行方不明となったが、再度浄住寺に納められ、応仁の乱によって宮中に避難したとも(「報恩寺牙舎利縁起」)、浄住寺が焼失とともに略奪を受け、舎利や霊宝が散逸したが、暦応3年(1340)に舎利を求めて宮中に入ったともいう(『雍州府志』4、寺院門上、愛宕郡、報恩寺)。叡尊に関連する舎利は、金銅宝塔ないしは密観宝珠形舎利容器に納められている場合が多いが、現在報恩寺に所蔵される宝篋印塔嵌装舎利厨子は、室町時代の作とみられる。「報恩寺牙舎利縁起」の伝承を信じるならば、舎利はもともと金銅宝塔ないしは密観宝珠形舎利容器に納められていたものの、浄住寺の焼失とともに舎利容器自体が現存の宝篋印塔嵌装舎利厨子に替えられたものと考えることもできよう。
報恩寺が後柏原天皇より舎利を賜ったことは、公家社会においても報恩寺に対する帰依をもたらしており、天文元年(1532)8月19日に伏見宮貞敦親王(1488〜1572)が報恩寺に参詣している(『二水記』天文元年8月19日条)。天文2年(1533)3月19日に、報恩寺の僧が知恩院と同道参内しており、朝廷より香衣勅許を得ている(『実隆公記』天文2年3月19日条)。この僧は、慶誉の後を継いで報恩寺住持となった円誉とみられるが、わずか3年後の天文5年(1536)正月16日にも報恩寺の僧某が香衣勅許を得て、後奈良天皇の拝謁を賜っている(『お湯殿上日記』天文5年正月16日条)。この報恩寺の僧は円誉の後を継いで報恩寺住持となった永誉とみられる。天文10年(1541)4月28日には報恩寺住持が霊宝を持参して宮中に参内している(『お湯殿上日記』天文10年4月28日条)。
報恩寺はもともと一条の地にあり(「京都奉行前田玄以折紙」報恩寺文書7)、一条の北、高倉の東に位置しており、後土御門天皇・後柏原天皇の頃の内裏の東北に近接していた(水野1972)。当時の様相の詳細は不明であるが、「洛中洛外図屏風(歴博甲本、旧町田家本)」(国立歴史民俗博物館蔵)の右隻第6扇に「ほうをんし」とあるように報恩寺が描かれている。これによると、報恩寺は周囲を築地塀で囲まれており、本瓦葺切妻造の四脚門がある。内部には本堂らしき建造物があるが、左側が表装で欠落していて詳細は不明である。本瓦葺入母屋造で平入、周囲を濡縁で巡らせ、正面中央に一間向拝がある。おそらく桁行3間ほどとみられる。建物は西向きで、柱と柱の間は竪板で覆われ、向拝部文は蔀戸がみられる。歴博甲本では左側が表装で欠落していて詳細は不明であるが、「洛中洛外図屏風(上杉本)」(米沢市上杉博物館)では、この堂の他に入母屋造の南向きの建物があり、その奥には切妻造の鐘楼がある。南向きの建物は、先程みた本堂らしき建造物よりも一見大きくみえるが、人物表現が精緻なことで知られる上杉本も、瓦の表現ではややデフォルメ化されるなど建物表現では歴博甲本にやや劣り、どちらが本堂か不明となってしまう。ただ報恩寺は浄土宗寺院であるため、西向きの建物を本堂とみるべきで、南向きの建物はおそらく中世浄土宗寺院で盛行した釈迦堂とみられる。
報恩寺が内裏の東北に近接していたことは報恩寺に対する朝廷の崇敬をもたらしていたようであるが、天正4年(1576)に報恩寺の敷地に二条晴良(1526〜79)・昭実(1556〜1619)・九条兼孝(1553〜1636)父子らの邸宅を造営しており、4月10日に移っている(『言経卿記』天正4年4月10日条)。この同日、京都所司代村井貞勝から報恩寺に対して、織田信長の命として、鹿苑院の替え地に移るよう命じられている(「京都所司代村井貞勝折紙」報恩寺文書5)。
鹿苑院は相国寺の塔頭であったが、天正元年(1573)に将軍足利義昭と織田信長の合戦の際に上京への放火によって焼失していた。この時指定された鹿苑院の旧地には移らなかったらしく、信長横死後の天正11年(1583)12月20日にも京都奉行前田玄以より既に信長より仰せつけられているからとして、鹿苑院の敷地に移るよう命じられている(「京都奉行前田玄以折紙」報恩寺文書6)。この催促でも移転しなかったようで、天正13年(1585)3月5日に京都奉行前田玄以より報恩寺の替え地として百々川の西の地への移転が承認されており(「京都奉行前田玄以折紙」報恩寺文書7)、同年10月23日にその替え地は報恩寺が買得したこと、宝鏡寺の前の地の東西54間(約95m)で東は川岸までであった。また一条の地は旧地であると報告していることから(「報恩寺納所請文案」報恩寺文書8)、結局、鹿苑院の旧地には移転しなかったこと、天正13年(1585)までに現在地に移転したことが知られる。
寺伝によるとこの頃の住持は9世住持の甫公であり、豊臣秀吉の叔父であったといい、秀吉の邸宅旧地を賜ったともいう(「上京区寺院明細帳」79、報恩寺〈京都府立綜合資料館蔵京都府庁文書〉)。また天正18年(1590)2月には報恩寺に宛てた禁制が発給されている(「前田玄以・浅野長政連署禁制」報恩寺文書9)。報恩寺移転により、後陽成天皇より再興を祝う宸簡を賜っている(「後陽成天皇宸翰御消息」報恩寺文書12)。天正19年(1591)9月13日には地子の替え地として山城国西院のうち7石1斗5升が寺領となった(「豊臣秀吉朱印状(折紙)」報恩寺文書11)。また仁寂周孝首座こと孝蔵主(?〜1626)が石橋を寄進しており(『雍州府志』4、寺院門上、愛宕郡、報恩寺)、その石橋と慶長7年(1602)8月寄進銘のある擬宝珠が現存する。また孝蔵主の墓とする五輪塔の境内に安置される。元和9年(1623)8月4日には上洛中の黒田長政が報恩寺にて病没した(『大猷院殿御実紀(徳川実紀)』巻1、元和9年8月4日条)。
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報恩寺東門と石橋(平成26年(2014)12月25日、管理人撮影)
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京都門中十九箇寺
近世の報恩寺は、京都門中十九箇寺の一つに数えられていた。
「京都門中十九箇寺」とは、京都における浄土宗寺院の格付である。近世における浄土宗寺院は、四箇本山(知恩院・知恩寺・金戒光明寺・清浄華院)、関東の檀林寺院や、越前西福寺・近江浄厳坊・三河大樹寺といった地方の有力寺院、その他群小寺院に分かれた。
そのような中で、京都の浄土宗寺院において「十九箇寺」という寺格が発生する。その寺院は、報土寺・浄福寺・報恩寺・上善寺・西園寺・正定院・常林寺・専念寺・西方寺・専称寺・信行寺・天性寺・大雲院・浄教寺・勝円寺・法然寺・永養寺・本覚寺・上徳寺である。
その式法としては、
@本山知恩院での元日の嘉儀は青銅100疋の折紙を持参する。
A正月4日に知恩院より方丈の名代が十九箇寺に回礼する。
B五節供の際に本山知恩院で嘉儀を勤める。
C知恩院方丈が入院の時、十九箇寺に回礼する。
D十九箇寺の住持が出世綸旨を受けた場合、入院の前に参内する。
E一般寺院の住持が出世綸旨を受けた場合、参内に代わって十九箇寺に回礼する。
となっており(「十九箇寺式法」浄福寺文書37)、十九箇寺が浄土宗僧侶が知恩院住持となるにあたって何らかの形で関与し、かつ知恩院住持は入院の際に回礼するなど、他の知恩院末寺とは別格の地位を有していた。
このような地位を有するようになった由来として、本山知恩院が御忌法要を中絶せざるを得なくなった時期であったといい(「十九箇寺式法」浄福寺文書37)、また知恩院住持が応仁・文明の乱の騒動を避けて近江国伊香立に移って御忌法要の断絶の危機に陥った際ともいうが(『浄福寺事蹟』慶長16年条)、十九箇寺の住僧が、祖師法然の報恩のために粉骨砕身し、そのため御忌法要を毎年執行することができたという。そのため満誉(1562〜1620)が知恩院住持であったとき、十九箇寺の功績が格別であることから、満誉が十九箇寺で回礼するとともに、それぞれの寺の住持分となる仮儀を行い、これを「入院寺」と称し、そのため知恩院代々の住持が入院の時に十九箇寺を回礼する習慣ができたという(「十九箇寺式法」浄福寺文書37)。実際には十九箇寺の大半が応仁の乱の頃、浄土宗寺院として存在していなかったことが立証されており(中井1994)、報恩寺の開創も明応3年(1494)のことであるから、十九箇寺創始伝承とは全く合致しない。そのため知恩院が他の本山級の寺院を抑えて浄土一宗の総本寺の地位を確立するのに際して、出世綸旨の執奏権を京都の有力寺院がもつ地方末寺との関係を介して行使し、また十九箇寺回礼によって本末関係の緊密さを誇示する目的があった(中井1994)。
また元和元年(1615)より知恩院では、京門中より役者6人を選び、山内の役者とともに役所を組織し、一切の事務を処理するようになった。これを「六役者」といい。そのなかで浄福寺もまたたびたび六役者に選ばれており、また京都門中十九箇寺の寺格を相俟って、知恩院方丈の名代として江戸に下向し、仏事を取り仕切ることもしばしばであった。
慶長10年(1605)9月29日に、京都の浄土宗寺院惣門中が信楽寺真誉を異安心者として擯出(追放)しているが、この中で報恩寺の順誉が署名している(「京都惣門中連判状写」増上寺文書)。ここで連署した寺院は、十九箇寺のうち17寺が署名していることから、慶長年間(1596〜1615)頃には十九箇寺制の大枠ができあがっていたとみられる(中井1994)。
順誉の後、崇誉・貞誉が報恩寺住持を継いだが、彼らの事蹟の詳しいことはわかっていない。報恩寺の活動が活発化するのは暁誉督阿が住持の時代になってからのことである。延宝6年(1678)の涅槃会において、暁誉は講説を行なっている(『西大勅諡興正菩薩行実年譜附録』巻下、京師報恩教寺仏牙舎利縁起〈『西大寺叡尊伝記集成』〉)。弟子に証誉湛澄(1651〜1712)がいるが、『三部仮名鈔』を講義していた湛澄に命じて『三部仮名鈔並諺註』を撰述させた。貞享4年(1687)6月の『三部仮名鈔並諺註』序に「前住仏牙老衲督阿謹撰」とあるから、同年までに報恩寺住持職を退院していたらしい(『三部仮名鈔並諺註』序)。
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安永9年(1780)頃の報恩寺。『都名所図会』巻之1、報恩寺より(『新修京都叢書』〈光彩社、1968年〉8頁より一部転載)
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証誉湛澄
報恩寺住持の中で著名な僧は証誉湛澄(1651〜1712)と明誉古澗(1653〜1717)の二人である。二人とも同時代の人物であり、それぞれ報恩寺の14世と15世住持であったが、片方は学僧、片方は画僧と、対照的な人物である。
証誉湛澄は、字を染問といい、別号を向西子と称した。生まれた場所や氏族は不明である(『続日本高僧伝』巻第4、浄慧2之3、京キ報恩寺沙門湛澄伝)。没年から逆算すると慶安4年(1651)の生まれになる。暁誉督阿の弟子にあたり(『三部仮名鈔並諺註』序)、若年の頃の事蹟は不明であるが、当麻寺などに遊学したらしい。湛澄は「長西録(浄土依憑経論章疏目録)」を読んで、恵心僧都の来迎讃がある事を知り、長らくこれを求めていたが、たまたま当麻寺に行った際に、迎講にて誦されていた讃本を見たところ、題に「来迎讃」とあり、恵心僧都の作と伝えられていた。その詞は古雅であり、常人がつくったようなものではなかったからこれを書写したが、抄本ではないかと疑っていたところに完本を得て、世の中に流布させたという(『無能和尚行業記』附)。天和年間(1681〜83)に同法の求めに応じて向阿証賢(1265〜1345)の『三部仮名鈔』を講じたことがあった(『三部仮名鈔並諺註』自序)。
湛澄は貞享2年(1685)に『女人往生伝』2巻を撰述し、貞享4年(1687)には『三部仮名鈔』の講義ノートをもとにして、同書を一般の俗語によって注解した『三部仮名鈔並諺註』14巻(『大日本仏教全書』62、『続浄土宗全書』8所収)を撰述した。これは師の暁誉督阿の命によるものでもあったが、この年には暁誉督阿は『三部仮名鈔並諺註』序に「前住仏牙老衲督阿」と称して報恩寺住持より退院していたことが知られる一方、湛澄は『三部仮名鈔並諺註』下巻末に「洛北仏牙院報恩寺第十四世湛澄向西子」と称していることから、報恩寺の住持職(14世)を継いだことが知られる。
また同年、報恩寺の涅槃会において、鷹司兼熙(1660〜1725)・有栖川宮幸仁親王(1656〜99)・実相院宮義延入道親王(1661〜1705)・今出川公規(1638〜97)・花山院定誠(1640〜1704)・九条輔実(1669〜1730)・醍醐冬基(1648〜97)・愛宕通福(1634〜99)・清閑寺熙定(1662〜1707)の9人の殿上人に「報恩寺牙舍利縁起」を浄書させている(「報恩寺牙舍利縁起」報恩寺文書14)。これは師の暁誉が延宝6年(1678)の涅槃会において舎利縁起を前天台座主(尊証親王、あるいは尭恕親王)に書かせていること(『西大勅諡興正菩薩行実年譜附録』巻下、京師報恩教寺仏牙舎利縁起)を模範としたものであるが、翌貞享5年(1688)の涅槃会には供養者50人を数え、さらに屈請したにもかかわらず参加できなかった高泉性敦(1633〜95)に対しては、わざわざ法友の専誉に高泉のいる仏国寺まで舎利を運ばせ、撰文させている(『西大勅諡興正菩薩行実年譜附録』巻下、京兆報恩寺仏牙記〈『西大寺叡尊伝記集成』〉)。
元禄元年(1688)11月には法然・聖光・良忠・顕真・明遍・常慶・聖覚ら浄土諸流の高僧や遁世者の法語を抄出した『一言芳談』の注解書である『標註一言芳談抄』(『大日本仏教全書』62、『続浄土宗全書』8所収)を撰述した(『標註一言芳談抄』叙)。元禄6年(1693)には法然の和歌を集めた『空花和歌集』3巻(『大日本仏教全書』62、『続浄土宗全書』8所収)を刊行しており、これは元禄9年(1696)に再校訂・刊行している(『空花和歌集』跋)。湛澄の著作は他に元禄4年(1691)『説法用歌集』10巻、元禄7年(1694)『浄土長歌註』1巻、元禄8年(1695)『秋の初風』1巻、元禄10年(1697)『阿弥陀経勧持鈔』2巻、同年「円光大師贈号絵詞(詞)」(知恩院蔵)、宝永2年(1705)3月18日「植槻道場縁起絵巻(詞書)」(植槻八幡神社蔵)、宝永5年(1708)『桑葉和歌抄』3巻(国枝利久・千古利恵子他編『桑葉和歌抄 四十八願古歌注 -翻刻と研究-』〈正林書院、1998年3月〉)、正徳元年(1711)『有鬼論評註』1冊などがある(著述リストは『国書総目録』より)。
湛澄が報恩寺住持を退院した時期は不明であるが、元禄9年(1696)の『浄土宗寺院由緒書』に報恩寺住持として明誉(古澗)が署名していることから、この頃までには報恩寺住持職を退いていたらしい。宝永2年(1705)に報恩寺住持盛誉龍碩(16世)の示寂に伴って、知恩院より召還されて意見を陳述しているが、それによると、報恩寺は開山(慶誉)より湛澄までの間、血脈(法脈)が代々相続していたと述べており(『知恩院役者日鑑』宝永2年8月21日条)、すなわち湛澄の後の15世明誉古澗、16世盛誉龍碩ともに開山以来の法脈の人物ではなかったことがうかがえる。自身を「洛北仏牙院報恩寺第十四世湛澄向西子」(『三部仮名鈔並諺註』下巻)と誇らしげに署名していた湛澄にとって、住持職の法脈が湛澄以降に別系統へ変わったことについて、心中いかばかりであったか。
報恩寺退院後には報恩寺内の永寿庵に退居していたらしい。元禄14年(1701)に木版本「永寿庵本尊記」を撰文しており、古澗が下絵を描いた。また湛澄の位牌の裏面に「遺弟永寿庵現住澄蓮社深誉信徹敬立」とあり(成田1975)、また湛澄没後、古澗によって描かれた「証誉上人一生記」は永寿庵が所蔵していた。後に紫野に草庵を営んで隠遁した(『空花和歌集』跋)。
正徳2年(1712)2月、病となり、同29日に宝洲(?〜1738)の請いによって隆尭(1369〜1450)撰『念仏奇特集』を校訂して序文をつくり、門人の信哲(深誉信徹カ)に書写させた。その後門徒らと永訣し、声を上げて念仏を唱え、翌2月30日に示寂した。62歳(『続日本高僧伝』巻第4、浄慧2之3、京キ報恩寺沙門湛澄伝)。同年3月6日に湛澄の弔問のため、報恩寺より知恩院に名代が派遣が要請された(『知恩院役者日鑑』正徳2年3月4日条)。
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明誉古澗墓(右端)と証誉湛澄墓(右から二番目)(平成26年(2014)12月25日、管理人撮影)
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明誉古澗
明誉古澗(1653〜1717)は澄蓮社と号し、印文には「虚舟」の文字を用いた。浄土宗の僧侶であった(『画人伝補遺』古澗和尚伝)。俗姓・出自はわかっていないが、はじめ大和国郡山の西岩寺(西岸寺)の住持となったという(『画人伝補遺』古澗和尚伝)。絵を好み、海北友雪(1598〜1677)に師事し、後に狩野洞雪(1625〜94)の弟子となっている(『扶桑名工図譜』古間和尚伝)。絵画を好み、前軌を踏襲することなく、その筆運びは凡人を超越し、大幅を描くことを得意とした(『画人伝補遺』古澗和尚伝)。
古澗は大和国郡山(奈良県郡山市)の西岸寺の住持であったことから、もとは大和国を根拠としていたらしく、残された絵画も大和国に関連するものが多い。後世、古澗の肩書きのイメージは、報恩寺住持よりも西岩寺住持の方が強かったらしく、『古画備考』に古澗が宝暦4年(1754)に描いた大黒図の落款「宝暦四年七月四日、明誉筆(印)」が掲載されているが、その右見出に「西巌寺古閑筆」とあり(『古画備考』巻第11、釈門、古澗)、また「涅槃図并釈迦八相図」(法隆寺蔵)の各巻の巻止に「和州郡山西岸寺明誉古澗和尚筆」とある(ヒックマン2010)。さらに享保9年(1724)刊行の『人物草画(類姓草画)』にも「和州西厳寺 古澗筆」としている(『人物草画』表紙)。また浄福寺住持ともされるが(『近世逸人画史』古澗和尚伝)、京都の浄福寺の歴代住持には数えられておらず、あるいは南都の浄福寺(浄土宗)であったのかもしれない。
貞享5年(1688)に刊行された『当麻曼陀羅白記撮要』2巻は古澗の挿図であり、また元禄元年(1688)刊行の『浄土十六祖図伝』1冊も古澗の挿図であった。『当麻曼陀羅白記撮要』の跋文に「元禄龍舎戊辰(1688)孟春望日、武江縁山野衲虚舟、書于寿月軒」とあり(漆山又四郎『日本木版挿絵本年代順目録』〈日本書誌学大系34-1〉)、『浄土十六祖図伝』の跋文に、「龍集元禄戊辰(1688)孟冬望日、日東武縁山頭陀虚舟拝書」とあるから(『浄土十六祖図伝』跋)、元禄元年(1688)10月の時点で古澗は江戸の増上寺の僧侶となっていたことが知られる。
また貞享3年(1686)4月には、増上寺十景を再現しようと、古澗は増上寺境内の名勝を十題選び、自ら絵を描いて光覚昌堂(?〜1681)のもとに持参して、彼を中心に一詩を賦させて合せて成巻しようとしていた。増上寺十景は過去に寛永10年(1633)に選ばれて詩文巻が作成されたものの、その後詩文巻ごと火災で失われて、十景は不明となっていた。これの跋文を書いたのが増上寺第34世住持の証誉雲臥(1640〜1710)であった(『三縁山志』巻11、第11境内地理、十境)。また貞享5年(元禄元年、1688)に古澗が挿絵を描いた『続集仏道論衡図』であるが、これの跋文に「貞享五年歳次戊辰(1688)正月十五日、把筆于縁キョウ(山へん+喬。UNI5DA0。&M008488;)香芝室、沙門不可停」とあるように、不可停こと証誉雲臥が跋文を描いている(漆山又四郎『日本木版挿絵本年代順目録』〈日本書誌学大系34-1〉)。この時点で、古澗は単なる増上寺の僧ではなく、住持とも親しい関係にあった人物であったことが知られる。『続集仏道論衡図』は元禄元年(1688)と元禄4年(1691)の二度にわたって開版されたが、古澗の肩書きは「洛北報恩教寺沙門」となっていることから(漆山又四郎『日本木版挿絵本音順目録』〈日本書誌学大系34-6〉)、元禄4年(1691)頃までには増上寺を去って報恩寺に移っていたことが知られる。
元禄9年(1696)の『浄土宗寺院由緒書』に報恩寺住持として明誉(古澗)が署名していることから(『浄土宗寺院由緒書』山城2、洛陽上京門中〈『増上寺史料集』第5巻〉)、この頃までには報恩寺住持となっていたらしい。その先代住持は学僧として有名な証誉湛澄であったが、湛澄自身が述べるところによると、報恩寺は開山(慶誉)より湛澄までの間、血脈(法脈)が代々相続していたといい(『知恩院役者日鑑』宝永2年8月21日条)、古澗は少なくとも報恩寺住持の法脈とは無関係であったことが知られる。当時から著名であった学僧湛澄の後に古澗が報恩寺住持になったということ、しかも報恩寺開創以来よりの法脈を退けて住持となったのは紛れもなく本山知恩院の意志が働いていたとみるべきであろう。
当時、報恩寺には塔頭・寮舎が光珠院・龍昇院・永寿庵・惣善院・蓮乗院・理芳庵・栖了軒・法輪院と8箇院に及んでいた。これらは住持の隠居寮として建立されたものが大半であるが、これら塔頭はそれぞれの法脈を有しており、住持選定においては必ずしも一枚岩ではなかったらしく、そのことが後に軋轢が生じる原因となった。また本山知恩院にしても、中世末期から近世初期にかけて、京都門中の寺院へは、香衣勅許の中継権によって掌握しており、また知恩院の末寺との紐帯・連携を生み出していた。知恩院の末寺掌握が安定化をみせると、京都門中十九箇寺の寺院にとっては、香衣勅許より住持職そのものに価値を見いだされるようになってくる。十九箇寺の住持は、知恩院の役者となって、山内の役者とともに役所を組織し、一切の事務を処理するようになった。これを「六役者」といい、知恩院のみならず浄土宗内においても大きな政治力と絶大な影響力を有した。
そのため知恩院にとって京都門中十九箇寺の寺院の住持職は、各寺院内部や塔頭・寮舎の中から選ばれるのではなく、知恩院が直接影響力を行使できる者の方が都合良く、そのため知恩院山内や宗派内の功績者より選定する方向へと変化していった。古澗の報恩寺住持就任は、このような趨勢の中での就任であり、報恩寺にとっては開山以来綿々と受け継がれた住持職の法脈が断絶したことを意味する。
知恩院側にとって、古澗を京都門中の寺院、とくに京都門中十九箇寺であり、「極大寺」の寺格を有する報恩寺(『知恩院役者日鑑』享保16年正月28日条)の住持とする必要性であるが、それはやはり古澗の画業そのものを必要とし、かつ評価されたためとみられる。
17世紀末から18世紀初頭にかけて、浄土宗では義誉観徹(1657〜1731)・霊誉鸞宿(1682〜1750)・宣誉忍澂(1645〜1711)・義山良照(1648〜1717)といった学僧を輩出しており、報恩寺の湛澄もまたその一人であった。そのため教学は大いに振るったが、その一方で初心行者らのため一般の俗語を用いた諺註や通俗的仏書も多く著述された。これら教学や宗史の理解の助けに最も適していたのは、視覚的に理解しやすい絵画による教化であり、古澗はこの時点で『当麻曼陀羅白記撮要』『浄土十六祖図伝』の開版をしており、すでに実績を積んでいた。
報恩寺住持となって以降、古澗の画業はさらに進む。元禄10年(1697)2月には「円光大師諡号絵詞」3巻(知恩院蔵)の挿図を描いている。これは同年正月18日に東山天皇より法然の大師号として円光大師の諡号を賜った時の儀式の様相を描いたものであるが、奥書に「洛陽門中 報恩寺前住証誉湛澄草之、同寺当代 明誉古澗図之、洛下 西方行者 僧雲竹書之」とあるように(國賀・橋本2005)、詞書は報恩寺前住持の湛澄が、浄書は北向雲竹(1632〜1703)が行なっている。また「観行曼陀羅(当麻曼陀羅)」(報恩寺蔵)も同年に着手されたが、これは中央の釈迦と両脇の菩薩を著色したのみに終わった。古澗は色彩を苦手としていたというが(『続本朝畸人伝』巻之5、高田敬輔伝)、これら以降の作品には色彩を苦手としていたということは微塵も感じられない。あるいは古澗は一種の工房のような形式をとったともみられ、自身が輪郭等を描きながら、彩色などは専門の職方がいたのではなかろうか。報恩寺蔵の「観行曼陀羅(当麻曼陀羅)」が未完に終わっているのは、自身が彩色するか、職方に担当させるかの方向性を見極める過渡的な作品であったのかもしれない。
湛澄や北向雲竹との共作は幾度も行なわれ、撰者不明ながら、古澗絵・北向雲竹浄書で「向阿上人絵詞伝」が作成されているが(『向阿上人伝』叙)、これも撰者は湛澄とみるべきかもしれない。また『念仏往生得失記』1冊も、古澗の絵で北向雲竹の浄書であった(『古画備考』巻第11、釈門、古澗)。
古澗が報恩寺住持職を退いた年は不明であるが、元禄11年(1698)9月の「十九箇寺式法」に盛誉龍碩(?〜1705)が報恩寺住持として署名していることから(「十九箇寺式法」浄福寺文書37)、この頃までに報恩寺住持を退いていたらしい。元禄13年(1700)春には、涅槃図を描いているが、「仏涅槃日、洛北報恩寺前住古澗画」としているように、涅槃会において描いたものであった(『古画備考』巻第11、釈門、古澗)。この銘文を有する仏涅槃図は現存していないが、涅槃会に描いたこと、涅槃会は報恩寺における主要な行事の一つであったことから、報恩寺が蔵していたものであったとみられる。以後涅槃図は古澗の主要なレパートリーの一つとなる。
中阿円智(?〜1703)は法然上人四十八巻伝の注解書を編纂していた。この事業に古澗と北向雲竹は「相い共に随喜」し、それぞれ画業と能書によって協力していた。ところが中阿円智が示寂してしまったため、この事業自体が宙に浮いてしまった。そのため円智の事業は義山良照(1648〜1717)が継承し、元禄16年(1703)に大冊の『円光大師行状画図翼賛』として結集した(『円光大師行状画図翼賛』序)。ところで古澗自身は、「相い共に随喜」したのではなく、「たまたま円智上人の需めに応じ」たと述べている(『円光大師伝(知恩院法然上人勅修伝)』跋〈藤堂1962所引〉)。結局、円智の事業は、より詳細な註釈を行なう方向となった義山と、抄出による大衆化を図った古澗・雲竹の路線に分割されてしまい、後者の方は元禄13年(1700)の「円光大師伝(知恩院法然上人勅修伝)」48巻24冊の刊行となって結集した。跋文に「元禄十三年春仏涅槃日 洛北報恩寺前住古澗画 洛西林観雲竹書」とあるように、前述の涅槃図を描いた同じ日に跋文を書いている(『円光大師伝(知恩院法然上人勅修伝)』跋〈藤堂1962所引〉)。
元禄14年(1701)には木版本「永寿庵本尊記」の下絵を描いており、撰文は湛澄であった(ヒックマン2010)。同年に「元興寺極楽坊縁起絵巻」(元興寺蔵)を描いており(戦前には古澗が描いていたことは知られていたものの、近年作者は再度不明となっていた。ヒックマン2010も参照)、道恕(1661〜1733)が詞書した(http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y03/gokuraku/gokurakubou_A.html)。元禄16年(1703)には清凉寺の釈迦如来像を優填王ら羅漢が造刻したところあらわした「羅漢彫瑞像図」(清凉寺蔵)を描いた。これは清凉寺本堂に安置される本尊の後壁の裏面に描かれたものである(ヒックマン2010)。
以後、古澗の活動の場所は大和国(奈良県)が中心となる。宝永元年(1704)には東大寺大仏殿再建のため、大虹梁が曳かれて奈良に入っているが、古澗はこの情景を描いた「大仏殿虹梁木曳図」(東大寺蔵)を描いている。また宝永2年(1705)には湛澄詞書による「植槻道場縁起絵巻」(植槻八幡神社蔵)が完成しているが、この絵の絵師の署名がないものの、「植槻寺」の扁額(個人蔵)を古澗が書いていること、奈良に地盤がない湛澄が詞書を書くには共作が多い古澗が関連しているとみられること、後の「薬師寺縁起絵巻」に作風が酷似することから、古澗の筆になるとみられている(ヒックマン2009)。また宝永4年(1707)頃に永慶寺の「涅槃図」(永慶寺蔵)を描いている。これはもとは光伝寺にあったといい、同寺は植槻寺の後継寺院であったという(ヒックマン2009)。
また円成寺(愛知県津島市)の曼陀羅堂に安置される観経曼陀羅(当麻曼陀羅)は、無塵居士(広野良吟)が霊夢によって岩倉山にて得た九色の彩土をもって古澗が当麻寺曼陀羅4幅を描き、山田の清雲院にあったものを、享保12年(1727)に向誉関通(1696〜1770)が円成寺の曼陀羅堂に安置したという(『関通和尚行業記』巻之上)。
宝永3年(1706)に「薬師寺縁起絵巻」4巻(道恕詞書、薬師寺蔵)を描いた。この絵巻を作成する間、古澗は薬師寺地蔵院に滞在しており(『寺社宝物展閲目録』4、大和下、薬師寺)、古澗の大黒天図の中には「薬師寺」の関防印が捺されたものが複数ある。また同時期に「法相十八祖図」(薬師寺蔵)も描いている(ヒックマン2010)。
また宝永7年(1710)には「涅槃図并釈迦八相図」(法隆寺蔵)を描いており、この頃、「一心寺縁起絵巻」1巻(一心寺蔵)を描いた。湛澄が示寂した正徳2年(1712)には「証誉上人一生記」を描いた(ヒックマン2009)。
最晩年の享保2年(1717)に「大涅槃図」(泉涌寺蔵)を描いた。これは本紙竪1,510cm、横730cmにも及ぶ巨大なもので、これより大きな仏画は護国寺所蔵の狩野種信(1665〜?)筆「涅槃図」(水墨、1,815×880cm、18世紀前半)(『別冊太陽131 狩野派決定版』〈平凡社、2004年9月〉91頁)くらいであろう。裏書に「享保二年仏誕生日」とあることから(藤堂1962)、同年5月23日に示寂した古澗の絶筆である。東大寺大仏殿に奉納するため大涅槃図を描いたが、差し障りがあったため、泉涌寺に納めた(『続本朝畸人伝』巻之5、高田敬輔伝)。東大寺大仏殿は平安時代末期の記録によると、高さ5丈4尺(1620cm)、横2丈8尺4寸(812cm)に及ぶ観音・不空羂索菩薩の繍仏の掛け物2幅があり(『七大寺巡礼私記』繍物大曼荼羅丈尺事)、巨大な涅槃図を掛けても遜色はなかったであろうが、結局東大寺に納入できず泉涌寺に納められた。この涅槃図はあまりにも巨大なため、毎年3月15日の泉涌寺仏殿における涅槃会の際には、上半分を掛け、下半分は地面に垂直に置いている。かつては木で支えて半分以上を天井に水平にし、半分から下のみを掛けていた。また大正12年(1923)に仏教専門学校(現在の佛教大学)の改築記念の展覧会を催した際、展示のため泉涌寺より貸し出し許可を得たにも関わらず、運搬困難のため中止となっている(藤堂1962)。
古澗は享保2年(1717)5月23日に示寂した。65歳(墓碑銘)。「大涅槃図」を描いてわずか1ヶ月半のことである。報恩寺山内に墓所がある。古澗に絵を学んだ人物に高田敬輔(1674〜1756)がいる。しかし古澗は専門の絵師ではなく、色彩を苦手としていたため、狩野家に敬輔を門人に推薦した(『続本朝畸人伝』巻之5、高田敬輔伝)。
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古澗筆の仏涅槃図(宇都宮清巌寺蔵)(脇本楽之軒「山栗抄(二)、古澗和尚と大津絵、喜左衛門井戸の駕籠」〈『画説』3月号、東京美術研究所、1937年〉より転載。同書はパブリックドメインとなっている。
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報恩寺出入始終一件@
報恩寺出入始終一件とは、報恩寺塔頭が住持を隠密裏に追放するため、本山知恩院に住持を病気と称して隠退許可を求め、発覚した事件である。その発端は享保15年(1730)6月の西陣焼けにともなって行われた再建事業に関連するものであるが、話を宝永2年(1705)に溯ってみてみる。
宝永2年(1705)8月17日、報恩寺住持の盛誉龍碩(?〜1705)が示寂した(『知恩院役者日鑑』宝永2年8月18日条)。知恩院は翌日にはその事を知り、さらに8月20日には方丈(知恩院住持)名代が報恩寺に焼香に訪れた(『知恩院役者日鑑』宝永2年8月20日条)。
知恩院側は報恩寺の後継住持の決定に困難をきたしたらしい。先々代住持にあたり、今は隠居となっている証誉湛澄に意見を求めたところ、知恩院側が提示したことは納得がいかないこととした上で、報恩寺は開山以来湛澄まで血脈(法脈)が代々続いてきたものであり、再度血脈によって相続させて欲しいと嘆願している(『知恩院役者日鑑』宝永2年8月21日条)。湛澄のように報恩寺代々の血脈による住持を求める報恩寺側と、選定した人物を住持としたい知恩院側とで住持職決定に紛糾があり、知恩院は後継住持の決定を先延ばし続けたらしく、報恩寺が5度に渡って後継住持決定を求めたにも関わらず、龍碩示寂後一ヶ月後になっても決まらず、「久々無住迷惑仕候」とまで言われる始末であった(『知恩院役者日鑑』宝永2年9月17日条)。
後継住持は同年9月19日に決定したらしく、報恩寺僧の心誉増門(?〜1710)が知恩院に召喚されることとなり(『知恩院役者日鑑』宝永2年9月19日条)、21日に増門を報恩寺住持に任命した(『知恩院役者日鑑』宝永2年9月21日条)。
この頃、報恩寺は積極的に法会等を行なっており、享保5年(1720)3月に報恩寺の開帳が行なわれており(『知恩院役者日鑑』享保5年3月26日条)、さらに同年5月8日には開山二百五十回忌が行なわれ、知恩院方丈(住持)の白誉秀道(1631〜1707)が報恩寺にお忍びで参詣している(『知恩院役者日鑑』享保5年5月8日条)。
享保6年(1721)6月21日、報恩寺住持の授誉頌覚(?〜1733)は、報恩寺住持職よりの退職と、当麻寺奥院への転住を願いでている(『知恩院役者日鑑』享保6年6月21日条)。さらに6月29日には弟子の接誉弁碩(?〜1730)を知恩院方丈の然誉了鑑(?〜1727)に御目見させており(『知恩院役者日鑑』享保6年6月29日条)、結果、7月2日に授誉は報恩寺住持職を解かれて当麻寺奥院住持に補任され(『知恩院役者日鑑』享保6年7月2日条)、7月6日には知恩院より接誉弁碩が報恩寺住持に任命された(『知恩院役者日鑑』享保6年7月6日条)。
享保9年(1724)、接誉弁碩は庫裏を修復しているが、この時借金をしており(『知恩院役者発翰控』享保16年7月18日、第176号文書〈『知恩院史料 日鑑・書簡編』12、462〜465頁〉)、その大半は宝鏡寺より借りていたらしい(『知恩院役者日鑑』享保16年8月5日条)。このことが後に報恩寺を揺るがす大事件へと発展する。
享保15年(1730)6月20日、報恩寺は享保の大火、いわゆる「西陣焼け」によって焼失した。浄土宗寺院では報恩寺・浄福寺・大超寺・護念寺・瑞雲院・親縁寺・香林寺・無量寺・善福寺の9箇寺が焼失しており、知恩院に報告がなされた(『知恩院役者日鑑』享保15年6月21日条)。そこで知恩院は報恩寺・大超寺・浄福寺・瑞雲院・親縁寺・護念寺に対して、祠堂銀として6貫匁の貸し付けを行なっている(『知恩院役者日鑑』享保15年6月27日条)。
このように報恩寺は再建すらままならない困難の最中、同年12月7日、報恩寺住持の接誉弁硯が示寂してしまった(『知恩院役者日鑑』享保15年12月8日条)。同月15日に塔頭が組の瑞雲院とともに知恩院に趣き、過去帳と金100疋を差出しており(『知恩院役者日鑑』享保15年12月15日条)、17日には塔頭龍昇院と組の真教寺が知恩院に参上し、過去帳と什物帳を差出すとともに、後継住持の任命を願い出ている(『知恩院役者日鑑』享保15年12月17日条)。18日に知恩院は報恩寺後継住持は来春まで引き延ばすこと、火の元を充分に取り締まるよう通達したが(『知恩院役者日鑑』享保15年12月18日条)、報恩寺側は焼け跡であるため取り締まりようがないこと、寮舎(塔頭)もまた無人であって心許ないこと、無住の日が多ければ経理上問題が発生することを理由に、せめて後継住持の名前だけでも公表して欲しいと述べており、知恩院側は無住の間は寮舎が寄り集まって守るよう通達した(『知恩院役者日鑑』享保15年12月20日条)。
報恩寺の後継住持が任命されたのは、接誉弁硯示寂のちょうど四十九日にあたる享保16年(1731)正月28日のことで、入誉玄門(生没年不明)が住持に補任された(『知恩院役者日鑑』享保16年正月28日条)。同年3月15日には仮小屋普請の絵図が公儀に提出された(『知恩院役者日鑑』享保16年3月15日条)。
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瑞雲院(平成26年(2014)12月25日、管理人撮影)。報恩寺の組寺院であった瑞雲院は、「報恩寺出入始終一件」によって本山知恩院より遠慮の処分を受けた。
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報恩寺出入始終一件A
本格的再建に乗り出したかにみえた同年5月26日、突如塔頭の光珠院玉仙・龍昇院恵咸・惣善院空巌、および組の真教寺が知恩院に参上し、報恩寺住持になったばかりの入誉玄門が病気により隠居したいとの連判の願書を提出した。これに応対した山内役者月番の源光院は、「入誉は住職となって間もないから隠居願はその意を得がたく、また病気といっても年が若いのであるから、よく保養し、再建は寮舎が心を添えて本坊を守護するように」と申し述べたが、真教寺は、「入誉は住持補任後、再建のため尽力し、仮小屋なども建て、48日間にわたって昼夜とも説法を行なってきたが、時節柄出費が多く、しかも助成金もないから、志がかなわず病気になってしまい、隠居したいとのこと」と述べた(『知恩院役者日鑑』享保16年5月26日条)。
源光院は怪しいと感づいたのか、「病気と申し立てているが、本当はそうなのか。しばしば知恩院に参上しており、毎度見受けられるが、他に理由があるのではないか。寮舎の面々はその訳を申し述べなさい」と尋ねると、光珠院玉仙は「隠居願については、それぞれ意見を加え、さらに組中寺院とも相談し、他の案もあったが、納得いくところではなかったから、彼の人とも相談したけども、とかく病身のため再建事業もできず、当人の病気も重なって、首尾よく隠居が叶うよう頼まれたから、やむをえず隠居願を行なった」と、最初に述べたことと異なった申し立てをしたから、源光院は「他に理由はないのか」と念を押すと、真教寺は「他に理由もありません。ただいま申し述べた通りに口上書を提出します。今日はこのような訳であるから、上申することはできず、まず願書を役所に留め置き、他に子細がからそのように書いて提出し、追って同列評議の上、吟味してください」と述べて退出した(『知恩院役者日鑑』享保16年5月26日条)。
5月27日に報恩寺塔頭と組の瑞雲院が知恩院に参上し、口上書を提出した。知恩院方丈の照誉見超(?〜1732)からの言葉として、入誉は住職となって間もなく、病だからといってもまだ年が若いから養生して、住職をするよう慰撫された(『知恩院役者日鑑』享保16年5月27日条)。6月8日に報恩寺塔頭3人と組の真教寺が知恩院に参上し、入誉の隠居が慰撫されたことについて、とかく病気であるから隠居を許されるよう願い出ている(『知恩院役者日鑑』享保16年6月8日条)。さらに14日にも報恩寺塔頭2人と組の瑞雲院が知恩院に参上し、報恩寺を差出すため、過去帳と什物帳を持参し、さらに17日にも参上して後継住職を願出ると述べている(『知恩院役者日鑑』享保16年6月14日条)。
6月17日、報恩寺の塔頭5人は対面所にて知恩院方丈(住持)の照誉見超が出座して、六役者・山内役者が列席する中、組中が召し出され、照誉見超自ら通達している。照誉見超はまずこれまで報恩寺塔頭や組の寺院が主張してきたことを追認して、入誉の隠居の許可もやむなしとしたが、突然トーンを変えて、「伝聞するところによると、入誉は塔頭より借金をしており、直ちに返済を催促されたため、住職でいることが難しく隠居を願い出たもので、これを内密に処分しようと塔頭・組中寺院も承知の上で、彼を病気に仕立てて隠居をはかったものであり、甚だあるまじき事で、塔頭・組中寺院が報恩寺をつぶそうとしている」と述べた。塔頭・組中寺院も返答しようとしたが、照誉見超の御前であることから、追って尋問するものとして一旦解散となった。そのまま退出の後、大方丈梅ノ間にて知恩院六役者・山内役者が列席の上、報恩寺塔頭の光珠院玉仙・龍昇院恵咸・永寿庵泉徹・惣善院空巌・蓮乗院泉凉の5人は一人づつ呼び出され、詳細に尋問され、口上は記録されてそれぞれ署名させられた(『知恩院役者日鑑』享保16年6月17日)。
6月19日、報恩寺塔頭の光珠院玉仙・龍昇院恵咸、組の徳寿院・瑞雲院は召還により知恩院に参上し、月番・加番の山内役者らに通達された。報恩寺玄門隠居の理由を吟味し、それぞれ返答の趣旨を一つ一つ記録して御丈室(照誉見超)に御覧に入れたところ、それぞれの返答の趣旨は至極もっともとも思われるが、もちろん逐一吟味したが、重大事であるためなかなか判断がつきかね、追って吟味することとし、盆前で寺院にとって閙ケ敷(さわがしき)時節であるから、組中はもちろん、寮舎の面々も難儀していることと察しているから、この吟味は盆後まで延期するものとした(『知恩院役者日鑑』享保16年6月19日条)。
裁決は7月18日と決定され、前日に報恩寺塔頭と組中寺院は残らず知恩院に参上を命じられた(『知恩院役者発翰控』享保16年7月17日、第175号文書〈『知恩院史料 日鑑・書簡編』12、462頁〉)。18日、六役者・山内役者が列席の上、判決が言い渡された(『知恩院役者日鑑』享保16年7月18日条)。
@入誉玄門が住職となって間もないにも関わらず、住持としてもりたてず、本山知恩院の叱責と檀家への外聞を恐れて病気と詐称して隠居させたこと。
A正徳5年(1715)本山知恩院よりの定書に、建立・修復に際しては檀家を招集して喜捨を勧請し、もし不足があって借金しなければならない場合、1貫目以上は修造差図(設計図)を添えて嘆願書を提出しなければならず、1貫目未満の借金が累積して1貫目以上となった場合も同様である。また再度修復して借金をする場合でも、前の借金は返済していなければならないとある。しかし接誉弁碩が住持であった時期、享保9年(1724)に庫裏修復のため多額の借金をしたが、住持と寺中は相談の上、借金を隠して、その上さらに借金に借金を重ねていたことが今回の騒動で露顕した。
B平僧の身分であるにも関わらず、たとえ小児のためとはいえ、戒名をつけ焼香し、小卒都婆を建てたことは公儀の禁制に明らかであり、法中の大賊、言語同断お誑惑で、もっとも重い罪である。
これによって光珠院玉泉・龍昇院恵咸の2僧は閉門に処され、永寿庵泉徹・惣善院空巌・蓮乗院泉凉・理芳庵良全・栖了軒伝応・法輪院戒音は報恩寺外の徘徊を禁止、組中寺院の徳寿院・瑞雲院は不届きを見逃したため遠慮を申付けられた(『知恩院役者発翰控』享保16年7月18日、第176号文書〈『知恩院史料 日鑑・書簡編』12、462〜465頁〉)。
判決が言い渡されている最中、第一条目で光珠院玉泉が、「我々としても、謝罪の証文を提出しては、報恩寺再建の差し障りになります」と言ったが、その場で役者が、「その言葉は乱暴な度を過ぎた物言いである。その方は自分が報恩寺の住持のようなものだと思っていることはその言葉にて露顕した。たとえいかなる大寺の住持であっても謝罪する時には証文を提出するものであるが、その方は寮舎の分際で非常に度を過ぎた物言いである。その方が証文を提出したところで、どのような意味で報恩寺再建に差し障りがあるなど申すのであろうか。この一言にて、日頃より自分の意を振い、重々住持を蔑ろにし、玄門をも追い出した事を知ることができた。他の吟味より、当山知恩院にて申し出すこの一言、うけたまわって提出しなさい」と申し付けたから、光珠院玉泉は非常に謝罪して平伏し、この後も言葉なく謝罪した(『知恩院役者日鑑』享保16年7月18日条)。
報恩寺塔頭や組寺院の処罰で終わったこの事件であるが、7月21日には超勝院・親縁寺が、遠慮を申付けられた徳寿院・瑞雲院の赦免を願い出た(『知恩院役者日鑑』享保16年7月21日条)。早くも23日には両寺院は赦免されることとなった(『知恩院役者日鑑』享保16年7月22日条)。7月25日に、報恩寺の組寺院が知恩院に参上し、今度は閉門・寺外徘徊を禁止された報恩寺塔頭の赦免を願い出ている(『知恩院役者日鑑』享保16年7月25日条)。この赦免願いは都合9度に及び、8月9日、ついに報恩寺塔頭の赦免が決定された(『知恩院役者日鑑』享保16年8月9日条)。8月10日、事件の全解決をもって、知恩院では関係書類一式を「報恩寺出入始終」として、一袋に入れて宝蔵に納めた(『知恩院役者日鑑』享保16年8月10日条)。9月5日に報恩寺新住持として、還誉卓冏(生没年不明)が任命されたが(『知恩院役者日鑑』享保16年9月5日条)、報恩寺では歴代住持として接誉弁碩が第19世に、還誉卓冏が第20世に数えられているにも関わらず、その間の入誉玄門は現在も歴代住持に数えられていない。
この報恩寺出入始終一件は、報恩寺再建に際して、必要な経費を借金で賄おうとしたため、借金に借金を重ねたが、住持交替によって後継住持がすべての借金を背負うこととなり、催促によって身動きがとれなくなった住持を塔頭・組寺院がはかって秘密裏に追放しようとした事件であったかのようにみえる。その一方、新住持は短期間の住持であったにも関わらず、知恩院の山内役者のみならず、知恩院方丈とも顔見知りであった。そのことは新住持は知恩院側が任免権を完全に掌握していたことが窺える。
報恩寺は、知恩院の任命によってトップとなった住持が掌握していたわけではなく、古くからの塔頭が、合議によって決定していたものであり、新任住持と塔頭の間での紐帯・連携といったものが、寺院運営に欠かすべからざるものであった。実際、報恩寺では先任の接誉弁碩が借金をした先は、報恩寺のすぐ北に位置する門跡寺院の宝鏡寺と(『知恩院役者日鑑』享保16年8月5日条)、報恩寺の塔頭であり(『知恩院役者日鑑』享保16年6月17日条)、資金調達も塔頭の助力なしでは成立し得なかった。逆に新任の住持と塔頭の間で不和があると、直ちにこれを追放しようとする動きが出たということが、この「報恩寺出入始終一件」の本質であったことを物語っている。
さらに事件裁決より赦免までの期間が非常に短く、遠慮を申し付けられた徳寿院・瑞雲院はわずか5日で赦免され、閉門・寺外徘徊の禁止を申し付けられた報恩寺塔頭も21日で赦免されることになった。これは組寺院の執拗な赦免願いによるものであるが、組寺院にとってこの事件は決して人ごとではなかったことを意味する。運営の実態を担う寺院内部の紐帯はどの寺院でも重大ごとではあるが、それに対して事あるごとに知恩院は宗法と新任の住持の人事権をもって寺院内部へ介入をはかってきた。前述したが、報恩寺でも17世紀中頃までは開山以来、報恩寺の血脈(法脈)の者が住持を務めてきたが、17世紀後半になると知恩院が人事権を発動して、住持は知恩院がすべて掌握することになる。報恩寺も浄土宗内部の本末制度内の格付けによって「極大寺」、また「京都門中十九箇寺」の格式を有していたから、浄土宗内部の本末制度内では比較的上位の方に位置していた。本末制度は上意下達式の組織関係によりなっており、寺院側でもタテマエ上では知恩院の掣肘を受け入れてきたが、知恩院によって派遣された新住持は必ずしも寺院内部の実態を掌握していたわけではないから、平時では寺院上下間において多少の距離があったところで問題などは起きなかったであろうが、重大案件、例えば借金など金の絡む問題となれば、簡単に瓦解することになる。
いうなれば知恩院を筆頭とする京都門中寺院の本末関係は、宗教政策をも身分上の格式によって掌握する幕府の保護があるため、宗法であっても事実上の国法であり、本山からの指示は厳守されなければならないが、当然運営実態と乖離した指示が下されることとなれば、寺院内ではタテマエ上では遵守しているように外部には見せかけながら、内済上では全く行なわれなくなっていたのである。これが報恩寺のケースでは、借金の禁止が本山から出されながらも、必要が生じたため借金をし、これが報恩寺出入始終一件の発端となったのであるが、本山による借金の禁止は、借金によって住持が逃散するケースがたびたび発生し、後住の住持が借金を背負う不条理が起きたためである。
ところが報恩寺では塔頭が経営上の大きな力をもっており、彼ら自身もその自負があった。報恩寺寮舎惣代の玉仙光珠院玉泉が、「我々としても、謝罪の証文を提出しては、報恩寺再建の差し障りになります」(『知恩院役者日鑑』享保16年7月18日条)と述べたことは、住持の権威以上に塔頭の経営能力の自負を垣間見ることが出来る。そのことは本山より派遣された上役である住持というものは飾り物であるという認識であり、その認識は本山での尋問によって露顕するのである。
「報恩寺出入始終一件」は、寺院における統制をめぐる典型的なものであり、それは中世的な寺院の「自専(自治)」と、近世的な本末関係による上意下達の表面上にあらわれなかった対立が狭間から噴出した結果でもあった。結果は報恩寺塔頭が本寺知恩院に一方的に屈服したものとなったが、一方で、他寺院による赦免願いが相次いだことからも、報恩寺寺院内部の対立と、本末関係の中で強引に屈服させられる姿は、京都門中寺院にとって人ごとではなかったということを意味しており、すなわち塔頭の協力なくしては寺院運営が成り立たないものであったことをあらわしている。
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徳寿院(平成26年(2014)12月25日、管理人撮影)。報恩寺の組寺院であった徳寿院は、「報恩寺出入始終一件」によって本山知恩院より遠慮の処分を受けた。
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報恩寺の建築物と塔頭
報恩寺の中世の様相は「洛中洛外図屏風」の歴博甲本・上杉本に描かれていることは前述したが、詳細は不明ながらも西向きの本堂、南向きの釈迦堂、鐘楼などがあったことが窺える。その後、報恩寺は一条の地から現在地に移転しているが、本堂と釈迦堂のあるのは基本的に変わらなかったようである。享保9年(1724)に庫裏を修復しており(『知恩院役者発翰控』享保16年7月18日、第176号文書〈『知恩院史料 日鑑・書簡編』12、462〜465頁〉)、庫裏がある以上は客殿もあったとみられる。
享保15年(1730)6月20日の西陣焼けによって報恩寺は焼失したが、直後に「報恩寺出入始終一件」が発覚して再建事業は遅延したが、享保16年(1731)11月20日に普請のための絵図を知恩院に提出しており(『知恩院役者日鑑』享保16年11月20日条)、12月には寺宝の虎の絵を将軍に上覧させるため江戸に送っている(『知恩院役者日鑑』享保16年12月11日条)。この虎図は明代に描かれた中国絵画であるが、江戸時代中期の寺伝では、豊臣秀吉がこの虎図を報恩寺より得た際に、虎の鳴き声がしたため、報恩寺に返却したという伝説があり、それが報恩寺の通称である「鳴虎」の語原であるという(『都名所図絵』巻之1、尭天山報恩寺)。これは翌月に返品されたが(『知恩院役者日鑑』享保17年正月晦日条)、そのこともあってか再建工事は6月24日に公儀より認可された(『知恩院役者日鑑』享保17年6月24日条)。
報恩寺は再建資金を得るため、享保18年(1733)3月16日から4月16日まで仏舎利などの霊宝を開帳することとした(『知恩院役者日鑑』享保17年10月13日条)。前述したように、報恩寺は知恩院より再建名義の祠堂銭を受けており、さらに「報恩寺出入始終一件」の発覚によって借金が出来ない状態にあったらしく、そこで開帳を行なうことにしたらしい。報恩寺新住持の還誉卓冏は知恩院六役者に任じられており(『知恩院役者日鑑』享保17年4月25日条)、申請からわずか6日後には開帳の認可が公儀から下りていることから(『知恩院役者日鑑』享保17年10月19日条)、優れた人材であったことが窺える。
ところが報恩寺が先に提出した設計絵図であるが、享保18年(1733)6月になってから「御法度之間数」があることが発覚したため、許可は下りなくなってしまった(『知恩院役者日鑑』享保18年6月12日条)。この「御法度之間数」とは寛文8年(1668)に規定された「梁間規制」のことであり、桁行は自由であるが、梁間は京間で3間までと規制されていた(『御触書寛保集成』第21冊、寺社之部、第1177号)。
西陣焼けによって再建された報恩寺の建物は『都名所図会』(1780)にみることができるが、この絵図によると報恩寺の本堂は享保18年(1733)に落慶した浄福寺本堂に似た複合型本堂建築となっていた。浄福寺本堂を参考にみてみると、報恩寺の本堂はおそらく桁行5間、梁間3間、入母屋造平入、向拝付の建物があり、この部文を礼堂とし、さらに後方に入母屋造で一重裳階付の建物が仏堂となって接続した。この複合型本堂建築によって梁間規制を遵守しながら正面に重厚感を持たせ、同時に内部に必要な空間を確保することができた。
この時再建された本堂は、天明8年(1788)の天明の大火にて焼失し、現在の本堂は享和元年(1801)に藪井棟定によって建立された「客殿」であり(「報恩寺客殿棟札」〈京都府教育委員会1983所引〉)、本堂が再建されなかったため、便宜的に本堂としたものである。堂は7室からなり、桁行は18m、梁間は13mとなっており、入母屋造桟瓦葺で、方丈形式の平面をもつが、中央に仏間を配置して、本堂としての機能をもたせている。
塔頭は、享保16年(1731)の段階で光珠院・龍昇院・永寿庵・惣善院・蓮乗院・理芳庵・栖了軒・法輪院の8箇院あり、このうち明治16年(1883)まで残存したのが蓮乗院・栖了軒・光珠院・永寿庵の4箇院のみであった。なお龍昇院は境内の客殿の東側に、現存する永寿庵の南側には光珠院・栖了軒・蓮乗院が南北に連なっていた。なお蓮乗院の場所であるが、当初は境内の南東にあったようであるが、享保15年(1730)に墓地が狭くなったため蓮乗院を移転させて、空き地を墓地としている(『知恩院役者日鑑』享保15年8月晦日条)。
これらのうち建立事情が判然とするものはないが、永寿庵は前述したように、証誉湛澄に関連する塔頭とみられる。また法輪院は開山は昌誉慶□、2世は光誉公爾、3世は優誉是栄、4世は栄誉長隆、5世は来誉澄岸の名が知られる(「法輪院歴代碑」)。
蓮乗院は明治42年(1909)に長崎県に移転し(「上京区寺院明細帳」82、蓮乗院〈京都府立綜合資料館蔵京都府庁文書〉)、栖了軒は報恩寺との本末関係を解消して檀王法林寺の末寺となり、明治38年(1905)に愛知県に移転した(「上京区寺院明細帳」83、栖了軒〈京都府立綜合資料館蔵京都府庁文書〉)。光珠院は明治44年(1911)9月に佐賀県に移転した(「上京区寺院明細帳」80、光珠院〈京都府立綜合資料館蔵京都府庁文書〉)。報恩寺に現存する塔頭は、ただ永寿院のみとなっている。
[参考文献]
・薮内彦瑞『知恩院史』(知恩院、1937年2月)
・脇本楽之軒「山栗抄(二)、古澗和尚と大津絵、喜左衛門井戸の駕籠」(『画説』3月号、東京美術研究所、1937年)
・鈴木進「画僧古澗と人物草画」(『画説』3月号、東京美術研究所、1938年)
・藤堂祐範「法然上人行状画図の弘伝に努めた人たちー殊に横井金谷について」(『仏教文化研究』10、知恩院内・仏教文化研究所、1961年)
・水野恭一郎「上京報恩寺小考」(『仏教史学研究』第16巻第1号、1972年9月)
・成田俊治「湛澄の略伝とその著述について」(『浄土宗典籍研究』山喜房仏書林、1975年8月)
・松永知海「当麻曼陀羅攷」(『仏教大学大学院研究紀要』11、1978年)
・水野恭一郎・中井真孝編『京都浄土宗寺院文書』(同朋舎出版、1980年7月)
・『浄土宗鳴虎報恩寺史』(報恩寺、1983年4月)
・京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会、1983年)
・中井真孝『法然伝と浄土宗史の研究』(思文閣出版、1994年12月)
・國賀由美子・橋本慎司編『高田敬輔と小泉斐』(滋賀県立近代美術館、2005年)
・松尾剛次「葉室浄住寺考」(『山形大学歴史・地理・人類学論集』8、2007年)
・マニー・ヒックマン/原田平作訳「古澗研究(一)画僧明譽古澗(1653〜1717)の概要」(『美術フォーラム21』20、2009年)
・マニー・ヒックマン/原田平作訳「古澗研究(二)画僧明譽古澗(1653〜1717)の作風」(『美術フォーラム21』21、2010年)
・マニー・ヒックマン/原田平作訳「古澗研究(三)画僧明譽古澗(1653〜1717)の研究課題」(『美術フォーラム21』22、2010年)
・宮本直美・原口鉄哉他『鳴虎報恩寺寺宝図録』(宮帯出版社、2012年11月)
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報恩寺塔頭永寿院(平成26年(2014)12月25日、管理人撮影)
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