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むっしゅくれむのクリスマスケーキです。教会の横の十字架が、ハリウッドのホラー映画に出てくるお墓みたいです。中身はとてもおいしいです。
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京都は雪となりました。朝通りかかった北野天満宮の鳥居背後の松の木で何か神事が行なわれています。
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本隆寺境内背後のタカオカエデの木です。京都市の保存樹に指定されています。
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名古屋の「イチビキ」に行ってきました。
鰻丼がとてもおいしいです。
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高麗の紀年法(『高麗史』および金石文等より)
918〜932(高麗太祖の天福元〜16年)
932〜938(後唐の正朔)
938〜948(後晋の正朔)
948〜950(後唐の正朔)
950〜951(高麗光宗の光徳元〜2年)
951〜964(後周の正朔)
964〜994(宋の正朔)
994〜1016(遼の正朔)
1016〜1022(宋の正朔)
1022〜1032(遼の正朔)
1032〜38(遼太平年号を継続する)
1038〜1116(遼の正朔)
1116〜1142(干支)
1142〜1224(金の正朔)
1225〜1259(干支)
1259(8月)〜1369(元の正朔)
1369〜1377(明の正朔、洪武)
1377〜1378(北元の正朔、宣光年号)
1378〜1388(明の正朔、洪武)
1388(洪武年号を廃し胡服に復す)
1388〜1392滅亡(明の正朔、洪武)
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娘が大きくなってきました。チアノーゼ色ももはや見る影もありません。
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相国寺承天閣美術館の「花鳥画展ー室町・桃山・江戸 中国宮廷画壇の名品」に行ってきました。
相国寺は室町時代の五山美術の一大コレクションで有名なので、雑感はこれら室町時代五山の絵画について述べてみます。ただし相国寺は「将軍の御寺」にして、五山第二位の寺格を誇る大寺院なので、大徳寺など林下の禅僧の作品については割愛します。
まずは第一展示室の「墨梅図」です。大周周チョウ(大+周)・江西龍派・心田清椿・玉エン(王+宛)梵芳賛で、筆者は不明となっています。墨梅は物外が多く描いているので、あるいは彼の筆になるのかもしれません。梅は四君子の一つで、老枝と若枝の対比が見事で、中央に下から伸びた一本の枝が天に向かって一直線にのびています。枝の根元は逆巻いており、幹からはぎ取られた状態を現わしています。これは『大本山相国寺と金閣・銀閣の名宝展』(読売新聞大阪本社、2004年)に図版が掲載されています。
第二展示室の北側に、五山禅僧関連の絵画が展示されています。
玉エン(王+宛)梵芳の竹蘭図(リストには「石竹図」とある)は、北宋文人画のような隠逸的なもので、土から生えた蘭が、しなやかに天に向かって生育する様を描いており、左側に着賛されています。玉えんは同じような構図のものを20数幅描いています。これは『大本山相国寺・金閣・銀閣寺宝展図録』(北海道新聞社、1997年7月)に図版が掲載されています。
惟肖得巌・江西龍派賛の「蘭梅図」は、画面に大きく岩から生えた梅を蘭と梅を描き、その左側の間に惟肖得巌が「懸獄恚ハ圧板〜」と、その下に江西龍派が「九エン孤山若有〜」と着賛しています。梅も蘭も中国の文人が好んだ画題で、明の文人画を思わせる様相はまさに五山禅僧らしいものです。
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横川景三賛・能阿弥画の「松月杜鵑図」は、画面の天側半分を朧雲が占め、左側にほととぎすと月を描き、地側半分のうち右側に松の幹を描き、松の枝は朧雲に隠れつつも伸びた枝先が現れたような構図となっています。賛は「杜鵑底告勧帰去、松月コン(斤+頁)西若箇辺、衣弊履穿頭半雪、不知帰得是何季 小補横川題」とあります。これも『大本山相国寺・金閣・銀閣寺宝展図録』(北海道新聞社、1997年7月)に図版が掲載されています。
柏庭宗松の「竹岩上に栗鼠(りす)図」は、岩の上にまさに竹から飛び降りたようなが一匹描かれたもので、妙心寺92世の柏庭宗松が賛をしています。キャプションによると、画は専門絵師によるものとしています。栗鼠は中国では古くから描かれた画題で、吉祥の画題として好まれたものです。『君台観左右帳記』の元朝下上の項に「松田〔栗鼠〕用田〔同〕」とあるように、室町時代の東山御物には松田・用田の栗鼠図が所蔵されていたようです。
景南英文序、愚極礼才他二十九僧賛、伝周文画の「沙鴎図」は、画面の大半を埋め尽くした賛のわずかな隙間というべき地側に、遊弋する三羽の鴎を描いたもので、退蔵院の「瓢鯰図」とならんで詩画軸の代表的なものの一つです。東京国立博物館・九州国立博物館・日本経済新聞社編『京都五山 禅の文化』(日本経済新聞社、2007年)に図版が掲載され、また城市真理子『室町水墨画と五山文学』(思文閣出版、2012)に論考があります。
岳翁蔵丘の「芦雁図」ですが、一羽ないしは数羽の雁に芦がちょろっとみたいな一般的な芦雁図の画題とは異なって、画面三分の一にわたって芦が生い茂り、その影を多数の雁が地をうごめいており、上方に向かって歩いています。地がとぎれたところからは空を滑空する雁が描かれています。これは多くの賢人が世に知られずに隠れており、やがて大成して世間に羽ばたくことになる暗喩なのかもしれません。城市真理子『室町水墨画と五山文学』に掲載されていないので、最近発見されたものかもしれません。
柴庵の「鴛鴦図」ですが、縦長の紙本に水辺を遊弋するオシドリが二羽描かれています。絵は没骨法で、ぬくもりのある穏やかで柔和な筆致で表現されています。柴庵は『本朝画史』に「画墨八景及柘榴折枝、能く真相に似る。蓋し相国寺の僧と聞くなり」とあり、相国寺の僧で、阿弥派を継承した絵師のようです。キャプションには「『國華』に杜子美図・柳燕図・梅月図」がある程度でほとんど知られていないと書かれていますが、この内「柳燕図」「梅月図」は『水墨美術大系6 如拙・周文・三阿弥』(講談社、1978年)に図版が掲載されており、また「柳燕図」の他、「竹に鶺鴒図」が『日本美術全集15北山・東山の美術』(学習研究社、1979年)に、他にも『室町時代水墨画の系譜』(根津美術館、1992年)には「蟹図」が、『ドラッカーコレクション水墨画名作展』(大阪市立美術館・日本経済新聞社、1986年)には「柳燕・鶺鴒図(双幅)」の図版が掲載されています。「鴛鴦図」は「柳燕図」と比較すると、葉の表現、潤沢な鳥の羽の表現が同一であることがわかり、柴庵の表現法を示しています。天の空白は賛文が書かれることを想定して空けられたものかもしれません。
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壬生寺の子院一覧(坊名、創建年、開山、建物)
地蔵院 文化8年(1811) 快賢 客殿・台所
中之坊 寛永年間(1624〜44) 本良真英 観音堂・庫裏
南之坊 享保7年(1722) 春照秀広 仏殿・台所
竹之坊 寛永6年(1629) 高永 仏殿・台所
西之坊 元和7年(1621) 高永 妙見堂・庫裏
梅之坊 承応元年(1652) 託願 客殿・庫裏
東之坊 万治元年(1658) 元良 仏殿・庫裏
安養庵 万治元年(1658) 知空 仏殿・庫裏
寂静庵 (不明) 順正託願 持仏堂
西岸庵 寛永8年(1631)
宝蔵坊 〈慶長元年(1596)見〉
福乗坊 宝永7年(1710) 清尊(中興、慶長元年見)
地蔵院は現本坊。坊城通りより東門に入った参道の北側に竹之坊・南之坊・西之坊が東から西に並び、参道をはさんで向かい側、現在の壬生老人ホームの場所に梅之坊、中之坊があり、梅之坊は南之坊と、中之坊は西之坊と正対する。中之坊の背後に西岸庵があった。安養庵は西門を出て仏光寺通りをはさんで南側(現駐車場)にあり、その東側に寂静庵、さらにその東側に東之坊があった。
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可睡斎歴代斎主
『歴代年譜』(可睡斎史料集編集委員会編『可睡斎史料集第1巻 寺誌史料』〈思文閣出版、1989年10月〉49〜64頁)より
開山 恕仲天ァ 1439寂
2世 真巌道空 1451年寂
3世 川僧慧済
4世 大年祥椿 1513年寂
5世 太路一遵 1518年寂
6世 林英総逋 1531年寂
7世 大陽一鴒 1569年寂
8世 天用一超 1549年寂
9世 潜竜慧湛 1566年寂
10世 天叟禅長 1572年寂
11世 仙麟等膳 1617年晋山 1590年寂
12世 一株禅易 1590年晋山 1598年寂
13世 士峯宋山 1598年晋山 1635年寂(94)
14世 一機慧策 1613年晋山 1626年
15世 道中雲達 1627年晋山 1633年寂
16世 恭伝存康 1626年晋山
17世 一東秀天 1634年晋山 1642年寂
18世 萃亭豚秀 1654年寂
19世 不外東伝 1658年寂
20世 名山大誉 1658年寂
21世 貴外嶺育 1660年寂
22世 丹山嶺香 1666年晋山 1672年寂
23世 一通松天 1673年晋山 1679年寂
24世 桂巌寿仙 1679年晋山 1680年寂
25世 太嶺寅朔 1680年晋山 1696年寂
26世 黙外門室 1687年晋山 1701年寂
27世 教寂芸訓 1692年晋山 1700年寂
28世 東洲真海 1700年晋山 1718年寂
29世 大通貫道 1708年晋山 1736年寂(79)
30世 月関湛亮 1720年晋山 1729年寂
31世 大昶光国 1729年晋山 1753年寂
32世 大梁禅棟 1741年晋山 1752年寂(76)
33世 道山守賢(寂円派) 1752年晋山 1789年寂
34世 天倫光音(寂円派) 1776年晋山 1784年寂
35世 観国光錐(寂円派) 1784年晋山 1796年寂
36世 盛元大胤(寂円派) 1790年晋山 1794年寂
37世 魯道道擔(寂円派) 1794年晋山 1802年寂(65)
38世 因孝休覚(寂円派) 1801年晋山 1836年寂 越渓
39世 筧海休豊(寂円派) 1836年晋山 1840年寂
40世 大光実英(真巌派) 1841年晋山 1843年寂
41世 道快亨全(真巌派) 1843年晋山 1848年寂
42世 天嶺玄童(真巌派) 1848年晋山 1856年寂
43世 静巌亮禅(寂円派) 1856年晋山 1868年寂
44世 碓山興宗(寂円派) 1868年晋山 1870年寂
45世 林峯要禅(明峯下) 1869年晋山 1870年寂
46世 巨嶽玄齢(明峯派卍山下) 1872年晋山 1876年寂
47世 穆山瑾英(明峯派卍山下) 1877年晋山
48世 維室黙仙 1892年晋山 1920年寂(74)
49世 大忍孝道 1916年晋山 1932年寂(77)
50世 乾堂物先 1930年晋山
51世 玉堂瓏仙 1928年晋山 1968年寂
52世 大忍金栄
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一条通のいわゆる「ラーメン通り」に行ってきましたが、ラーメン屋ではなく、天丼屋さんで天丼を食べました。
写真の通り、平安時代の貴族のようなご飯です…。
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京都ハリストス正教会。明治36年(1903)落成で、現在も用いられているものとしては最古級の本格的ロシア・ビザンティン建築による正教会の聖堂です。
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私は「▲★国の古事記・日本書紀」といった歴史書が好きで、イギリスの日本書紀ともいうべき『アングロ・サクソン年代記』(9世紀後半)を読んでいたのですが、以下のような記述をみつけました。
「六七九年。(中略)また、〔スコットランド南東部の旧州ベリックシャーの〕コルディンガムが、天から送られて来た火によって、やきつくされた。」(大沢一雄『アングロ・サクソン年代記』〈朝日出版社、2012年10月〉53頁)
「天からの火」といえば、某アニメ映画でム★カ大佐が、「旧約聖書にあるソドムとゴモラを滅ぼした天の火だよ。ラーマ・ヤーナではインドラの矢とも伝えているがね」といっているのですが、『アングロ・サクソン年代記』によると、さらに知られざる「天の火」があったことになります。
この時にコルディンガムに一体何が起こったのでしょうか?
普通に一つの街を潰滅させるほどの「天からの火」といえば、雷ごとき小規模な災害ではなく、火山や隕石、あるいは人智の及ばざる古代文明の攻撃でもあったのではないかと、想像力が踊ります。そこで何か情報がないかと、ネットで「スコットランド コルディンガム 679年」と検索してみましたが、何もでてきません。
よく調べてみると、コルディンガムがあるベリックシャーは、その後イングランドに編入されたようです。さらにコルディンガムの綴りは「Coldingham」であることがわかったため、ウィキペディアの英語版で検索してみると、「Bede describes it as "the Monastery of Virgins" and states that in 679 the monastery burnt down.」という一文がありました(http://en.wikipedia.org/wiki/Coldingham)。
この一文にある「Bede」とは、中世イングランドの教会史家ベーダ・ヴェネラビリス (672〜735)のことで、彼の著作『イングランド教会史』は高橋博氏によって『ベーダ英国民教会史』のタイトルで和訳されています。
この本が家にあったことを思い出し、「これに詳細が書いてあるのでは?」と、さっそく見てみました。
しばらくページを括っていると、それらしき記述が目にとまりました。この記述は訳本で6頁にも及ぶのですが、結論は最初の数行に書いてありました。
「当時コルディンガム修道院(スコットランドのバークシャーにある邪な生活をむさぼると疑われた複合修道院のひとつ)が不注意の過失による火事によって灰燼に帰した。しかも、それがこの修道院に居住している者、とりわけ長老とされる者たちの邪な生活から起こったことは、だれもが容易に認めるところであった(「詩篇」百六篇三十四節)。神の慈悲の戒告は彼らを罰せずにおくことはなく、断食や祈りによってその罪を潔め、ニネヴィア人のように(「ヨナ書」三章五ー十節)、正しい審判の怒りをさけることになったのである。(高橋博訳『ベーダ英国民教会史』〈講談社学術文庫、2008年2月〉240頁)
さらに読み進めると、スコット人のアダムナンの兄弟が、旅先で神の人より修道院が焼失するという預言を受け、生活を悔い改めなかった修道院は焼失してしまったという記述になります。
要は、『アングロ・サクソン年代記』は、『イングランド教会史』の記述を端折りすぎたため、コルディンガムの修道院は、まるで街そのものと捉えかねない記述となり、さらに神の人が預言した失火は、「天から送られて来た火によって、やきつくされた」とかなり大げさな記述にしてしまっていたことになります。
わかってしまえばつまらない事実でしたが…。
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法事のため実家のある登別に戻りました。写真はキウシト湿原。
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このキウシト湿原が知られるようになったのはつい最近のことで、母より「南高の南にある湿原に北大のえらい先生がたが調査した」と聞いたとき、写真右の原っぱのことだと思っていました。これもキウシト湿原の近所にあるのです。
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わら天神に行ってきました。お産のお守りのためです。
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