引摂寺跡



兵庫県たつの市の綾部梅山(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影) 

 引摂寺(いんじょうじ)はかつて播磨国飾西郡に存在した寺院で、「綾部別所」と称されていました。「別所」と表記された寺院としては最も時代が溯るものに属しています。この引摂寺は入宋僧の戒覚が住んだ寺院であり、戒覚が宋に留まることを決意した時には、日記や五台山の遺品をこの引摂寺に納めています。引摂寺は鎌倉時代にはすでに廃寺となっていて、今ではその故地すらわかっていません。


プロローグ

 兵庫県姫路市の書写山に位置する円教寺は、性空(917〜1007)開創の寺院である。性空の生前より書写山にはいくつかの堂が建っていたが、そのなかに常行堂があった。しかし年月を経るうちに朽ちてきたのか、円教寺第27世長吏の教厳房信覚(生没年不明)はこの常行堂の修造を行ない、仏像を荘厳して柱の後戸に絵を描かせた。寛喜元年(1229)10月15日に落慶の法要が行なわれ、堂ならびに絵供養の導師として、松尾の証月上人こと慶政(1189〜1268)が招かれた(『性空上人伝記遺続集』常行堂修造事)

 慶政は摂関家の九条良経の子として生まれたが、幼少の時から身体に障害を持っており、廃嫡されて仏門に入った。園城寺・東寺と諸寺を遊学し、建保5年(1217)頃に入宋して「波斯文書」を明恵のもとに送っている。建保7年(1219)までには帰朝したが、その後も常に入宋者について関心を抱いていたようである。実際、渡宋への航海中に琉球に漂着した者達の記録である『漂到流球国記』を聞書しており(1244)、慶政の並々ならぬ入宋者への関心が窺える。慶政は円教寺の常行堂供養の際、書写山において実報寺の寺主である仏如房と対面しているが、この仏如房より平安時代中期に入宋した戒覚(生没年不明)の日記である『渡宋記』の存在を聞いたらしく、翌日の16日に仏如房の弟子である実尊が実報寺にて、戒覚の自書原本より書写し(『渡宋記』書写奥書)、その写本は慶政の手に渡ることとなる。この『渡宋記』写本は慶政の没後、慶政の実家である九条家に移り、九条家から宮内庁書陵部に寄贈され、現在に至っている。なお『渡宋記』は、『図書寮叢刊 伏見宮家九条家旧蔵諸寺縁起集』(宮内庁書陵部、1970年3月)に翻刻されている。

 『渡宋記』は、戒覚が入宋中に記した日記を元豊6年(1083)6月15日に戒覚自身が抄出したもので、戒覚は『渡宋記』を人に委ねて日本に送らせた。この時戒覚は「日本国播磨国綾部別所引摂寺の頻頭盧尊者の御前に置き、あえて山門より出さず、来住の人の道心に備えたい」という希望を述べており(『渡宋記』元豊6年6月15日条)、実際に引摂寺に『渡宋記』は引摂寺に備えられていたようである。しかし慶政が実報寺の寺主である仏如房より聞いたところによると、「その寺(引摂寺)は今は廃寺となってしまい、そのためどうすることもできず、この書(『渡宋記』)を当寺(実報寺)に安置した。当寺(実報寺)は当初、戒覚上人が住んでいた寺院であったが、上人(戒覚)は喧騒を嫌ってひそかに閑地(静かな土地)を選んで、引接寺と名付けた。これ(実報寺)から5町(500m)ほど離れている」と述べているように(『渡宋記』慶政自筆奥書)、慶政が『渡宋記』写本を入手した寛喜元年(1229)の段階で引摂寺はすでに廃寺となっていたのであった。そのため引摂寺が現在ではどこにあったのか全く以て不明である。また仏如房は、寂光寺・実報寺・引接寺の3ヶ寺の院主であったといい(『渡宋記』慶政自筆奥書)、実報寺から引摂寺まで5町(500m)離れているという地理的条件から、一見すれば引摂寺の位置が特定できそうではあるものの、これらの寺院は江戸時代初期の本末帳にはみえず、よって少なくとも江戸時代初期までには廃寺となっていることが確認される。そのため実報寺から引摂寺まで5町(500m)離れているという距離の基準も、実報寺自体が廃寺となっている以上、どこに引摂寺があったかもわかっていないのである。

 まずは戒覚の『渡宋記』の記述より、戒覚の宋での滞在の様子をみてみよう。 


円教寺の常行堂(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影)

戒覚入宋

 古代より多くの日本人が中国に滞在し、それに関する記録も少なくないにもかかわらず、古代・中世における日本人の中国旅行日記というものは極端に少ない。まとまった形でのこっているのは円仁(794〜864)の『入唐求法巡礼行記』、円珍(814〜91)の『行歴抄』、成尋(1011〜81)の『参天台五台山記』、笑雲瑞訴(生没年不明)の『笑雲和尚入明録(旧名、允澎入唐記)』、天与清啓(生没年不明)の『戊子入明記』、策彦周良(1501〜79)の『策彦入明記初渡集』・『策彦入明記再渡集』くらいのものにすぎないのであり、またいずれも僧侶の日記なのである。そのようななかで戒覚の『渡宋記』は短いながらも、貴重な記録であり、入宋の先輩である成尋の『参天台五台山記』とならんで史料的価値が高い。

 戒覚については、きわめて史料が乏しく、戒覚自身の『渡宋記』を除いては『万代和歌集』に1句が掲載されているにすぎない。『渡宋記』に記される情報から戒覚についてみてみると、天台宗の僧侶で、俗姓は中原氏、京都の人である。彼の父が没した後に官職についたが、出家して延暦寺に入ったという。その後40年間比叡山にいたらしいが、入宋を企て、弟子の隆尊と仙勢ともう一人(従者らしい)の4人とともに博多にて渡宋する船に乗船したところから彼の日記がはじまる。

 永保2年(1082)9月5日、筑前国博多津(福岡県福岡市)にて、戒覚とその弟子である隆尊・仙勢と従者の4人は唐船に乗船した。この唐船は宋の商人劉ケイ(王へん+景。UNI749F。&M021246;)が「廻却の宣旨」を蒙って出立する便であった(『渡宋記』永保2年9月5日条)。 
 劉ケイは劉コン(王へん+昆。UNI7428。&M021065;)と同一人物とされ、「隆コン(王へん+昆。UNI7428。&M021065;)」と表記する場合もある。劉ケイはこの前年の冬に大宰府に到着し、3月上旬に帰国を申請していたが(『水左記』承暦5年10月25日条、『帥記』同日条)、この帰国の許可が「廻却の宣旨」という形で出たものらしい。ところで当時、外交の窓口の役割を担った大宰府は、遣唐使や勅許を得た僧以外の出国を禁じており、戒覚一行も密航を企てていた。そのため船荷に紛れて舟底に臥せ、あえて息を出さないようにしていた。また大小便を我慢する必要があったため、飲食を摂らず用いず、「身はデキ(叔+心。UNI60C4。&M010755;)々として三箇年を経るがごとし」と記している。また戒覚には備物の蓄えがなく、「ただ祈念の苦みあり」とも記している。彼ら一行を支えていたのは文殊菩薩への信仰であった(『渡宋記』永保2年9月5日条)

 戒覚の乗船した唐船は6日に出航予定であったらしいが、当日になって西風が吹いたため、出航することが出来なかった。船檣(マスト)に船員が集まってきて、風伯を祭ろうとした。夜3更(午後12時から午前2時までの真夜中)に船頭が冕服(べんぷく。 貴人が礼服としてつける冠と衣服)を整えて、祭文を読み、手づからフ(たけかんむり+甫+土。UNI7C20。&M026517;)とキ(たけかんむり+艮+土。UNI7C0B。&M026448;)を捧げ、盃と皿を供えた。礼奠が終わった後、酒肉をともに食べた(『渡宋記』永保2年9月6日条)
 「風伯」というのは文字通り風の神のことで、『捜神記』巻4に「風伯・雨師は星なり。風伯は箕星なり。雨師は畢星なり」とある。この風伯を祀る祭礼方法は、宋代までに固定化されつつあり、宋の大中祥符年間(1008〜16)の初めには、原則として風伯・雨師(雨の神)は長吏が祭を執行したが、辺地・要劇に限っては通判が祭を執行することとなっている。しばらくもしないうちに沢州が風伯・雨師の廟を建立したが、この時に宋の朝廷は礼官に儀式を考察させ、考察結果を頒布させている。それによると、「唐の制度では、諸郡(に風伯・雨師の廟を設置し)、社壇の東に風伯の壇を、西には雨師の壇を設置した。祠(ほこら)には羊1頭、竹でつくった高坏であるヘン(たけかんむり+邊。UNI7C62。&M026801;)と、木製でできた器で中に野菜・肉・麺の漬物を入れる器具である豆(ず)がそれぞれ8つ、祭祀の際に供物の稲を盛るフ(たけかんむり+甫+土。UNI7C20。&M026517;)と、祭祀の際に供物の黍稷を盛るキ(たけかんむり+艮+土。UNI7C0B。&M026448;)はそれぞれ8つ(を設置する)」とある(『宋史』巻103、志56、礼6、吉礼6、風伯雨師)

 その後、戒覚の乗船した唐船は北崎浦に留まって順風を待っていたが、13日には北風が吹いたため、唐船は帆を揚げて出航し、肥前国土部泊に停泊した(『渡宋記』永保2年9月13日条)

 翌日14日になっても北風はやまず、昼時に及んで帆をはらって目的地を目指して出航した。日が沈もうとする時、戒覚は眸(ひとみ)を廻らして後の海を見てみると、すでに陸地はみえなくなっていた。戒覚は「ただ暮雲の孤行を見る。ここにおいてすでに日本の岸を離る。郷山ようやく没して、天水范々なるものなり。」と感慨を記している(『渡宋記』永保2年9月14日条)。戒覚が日本を見た最後の日であった。

 16日、船は夜5更(午前4時)に託羅山を通過した。これ(託羅山)は高麗国の別島であり、人民が多く住んでおり、勤めて土貢を任っている。2日2夜、飛帆落ちず、始めてこの島をみた(『渡宋記』永保2年9月16日条)
 「託羅山」とは耽羅のことで、現在の済州島であり、「山」というのは島を指す語である。耽羅は朝鮮三国時代から高麗中期まで、百済・新羅・高麗に臣属しつつも独立した勢力であり、戒覚が耽羅近海を通過した時代では、まだ独立した勢力のままであった。耽羅の沿革について、『高麗史』によると、「耽羅県は、全羅道の南の海中にある。その古記によると、“大初は人物がおらず、3人の神人が地より聳え出た。長男は良乙那といい、次男は高乙那といい、三男は夫乙那といった。3人は狩猟して荒れ地(に住み)、皮衣(を着て)、肉食した。ある日、紫泥の木箱が浮いて東の海浜に流れてきたのを見て、これを開いてみると、箱の中にまた石箱があった。一人の紅帯(を帯び)紫衣(を着た)使者が随ってやって来た。石箱を開けてみると青衣の処女が3人、駒(うま)・犢(こうし)・五穀の種が出現した。(使者は)「私は日本国使者です。我が国の王はこの3女を生んで、「西の海中の岳に神の子3人降った。まさに国をつくろうとするも、男達に配偶者はいない」と仰せになり、私に命じて3女を侍ってやって来たのです。(この3女を)配偶者にして大業を成就して下さい」というなり、使者たちまち雲に乗って去ってしまった。3人は年齢によって(3女を)分けて娶った。水がよく土が肥えたところにて矢を射て地を占い選んだ。良乙那が居住したところを第一都といい、高乙那が居住したところを第二都といい、夫乙那が居住したところを第三都といった。はじめて五穀を播き、かつ駒(うま)や犢(こうし)を放牧し、日(を経て)富裕となった。15代の子孫である高厚・高清・昆弟の3人(の時代)に至って、舟を造って海を渡り、耽津に到った。おそらくは新羅の最盛期の頃であろう。(中略)百済の文周王2年(476)、耽羅国の使者は恩率(の位)を拝領した。東城王20年(498)、百済は耽羅が貢納を行なわないため、親征して(軍隊は)武珍州に至った。耽羅これを聞いて遣使して謝罪したため、親征は中止された。百済が滅亡後、新羅の文武王元年(661)に耽羅国主の佐平の徒冬音律が(新羅に)来降した。(高麗の)太祖21年(938)に耽羅国の太子である末老が来朝し、(高麗王は)星主・王子に爵位を賜わった。粛宗10年(1105)には耽羅を改めて耽羅郡とした。毅宗の時に県令の官とした」とある(『高麗史』巻57、志11、地理2、耽羅県)。耽羅の神話に日本が登場するように、地理的に近い日本との関係は古く、7世紀後半に耽羅は日本に幾度も使者を派遣したほか、遣唐使・日宋貿易の商船がしばしば漂着している。耽羅人もしばしば日本に漂着しており、戒覚の乗った船が耽羅を通過した4年前(1078)にも、日本は高麗に耽羅の漂着民の高砺ら18人を送還している(『高麗史』巻9、世家第9、文宗32年9月癸酉朔条)

 18日、船頭や舟子らは、鉛のついた綱を海底に下して、水深を量った。唐の東の海は、北は浅く南は深い。そのため浅いところには行かず深いところを目指して船を行かせるのである(『渡宋記』永保2年9月18日条)
 このように水深をはかって道程を決定する方法は宋商船では一般に行なわれていたようであり、戒覚の10年前に入宋した成尋は「昨日の未時、唐の海に入った。縄を鉛を結んで海底に入れた時、日本の海は深さ50尋(75m)で、海底には石砂があった。。唐の海の深さは30尋(45m)で、海底には石がなく泥土がある。」と記している(『参天台五台山記』延久4年3月22日条)

 19日、周囲を見回してみても涯(はて)はなく、わずかに遠山をみるだけであった。ここは唐の海の中である(『渡宋記』永保2年9月19日条)

 20日、(船は)山を傍らに見つつ進む。順風のためまるで送るかのようである。ある時には漁翁の栖(すみか)があり、ある時には沙村の留が見えた(『渡宋記』永保2年9月20日条)

 21日、明州の近海、日が暮れてから船が停泊した(『渡宋記』永保2年9月21日条)
 明州は現在の寧波一帯を管轄する行政区で、州下に6県があった。戒覚が入宋して20年後にあたる崇寧年間(1102〜06)には戸数11万6140戸、人口22万17人を数えた(『宋史』巻18、志第41、地理4、両浙路、慶元府)

 22日、明州定海県の岸に着いた。以上、乗船してから18日を経過していた。離岸してからは9日を経過していた。ただし出航の間、もし昼夜を論ずるならば、都合18ヶ日である(『渡宋記』永保2年9月22日条)
 定海県は明州の一県で、明州(現在の寧波)の東北71里の位置にあり、5ヶ郷で構成されていた(『元豊九域志』巻5、明州、県、定海)


『皇朝礼器図式』(『四庫全書』656、史部、政書類、儀制之属より転載)。左はフ(たけかんむり+甫+土。UNI7C20。&M026517;)で、右はキ(たけかんむり+艮+土。UNI7C0B。&M026448;)。ともに祭祀に用いる祭器である。

戒覚宋上陸

 28日早朝、知府(知府とは太守のことである)の使がやって来て「名を報告しなさい」と告げた。そこで一紙に記した。(使者は戒覚の書いた)書跡を見てみると、感歎していた(『渡宋記』永保2年9月28日条)

 29日、府より騎馬3匹を送られたので、乗って吉祥院に入り、(吉祥院の)僧房に寄宿した。(吉祥院では)府の供養があり、(供養銭として)毎日銭100文が用いられていた(『渡宋記』永保2年9月29日条)

 10月2日、上表および申し文などを知府に奉った。終わってから奏聞すべきの旨の約諾があった。(表文には次のように記した)「表文、日本国天台山延暦寺僧、伝灯大法師位戒覚がもうしあげます。ひそかに思うところには、、遠方の異俗来朝・入覲・聖跡名山を巡礼した例は、近くは阿闍梨成尋が、去る熙寧5年(1072)に宣旨を賜って、心願を遂げたという先例がありました。長く父母の国と別れて、はるかに商客の便にしたがいましたが、齢(よわい)は衰老に及んでおり、さらに帰郷する望みはありません。魂はようやく陽(ひ)を得たというのに、どうして故郷を懐かしむ思いなどありましょうか。そのため五台山を終焉の地に選んだのです。道超上人の言を信じるべきなのです。天台山は、自宗(天台宗)の源であるので、智者大師の遺像に礼拝したいと思っています。そもそも小僧(戒覚)は、俗姓は中原で、洛陽城(京都)の出身です。父が没した後、立身出世したとはいえ、心は中に動き、ついには世をのがれてち延暦寺にて久しく法水の流を汲んだ(出家)のです。しばしばしば生涯の浪を愁い、懺悔罪障の涙を落とすこと千万行、朝夕の露は寒く、安養世界の業を修す。40年もの間、香火煙老していました。顕密の雑法文および潅頂の道具などを随身しておりますが、色目(の詳細)は別紙にあります。(戒覚)にしたがう弟子は2人で、僧隆尊と沙弥仙勢です。。伏して願うところは、鴻慈(皇帝の慈悲のこと)を曲げ、綸言(皇帝の言葉)を賜りたいところです。懇願するのにたえず、上表を款して以聞(いぶん。天子に上表すること)いたします。日本国天台山延暦寺の僧、伝灯大法師位戒覚、誠惶誠恐、頓首々々、死罪々々、謹言。元豊5年(1082)9月18日、日本国天台山延暦寺僧伝灯大法師位〔某〕上表いたします。」(『渡宋記』元豊5年10月2日条)
 この表文では、戒覚が入宋の先輩である成尋の例を引いて宋の滞在や、五台山・天台山の巡礼を請願している。天台山では、天台宗の開祖の智者大師(538〜97)の遺像に詣でることを希望している。遺像については不明であるが、日本天台僧の円珍は、大中8年(854)2月9日に天台山国清寺の東北の霊芝峰にある智者大師の墳に詣でているから(『行歴抄』大中8年2月9日条)、智者大師の廟所に類した場所をさしているのであろう。また五台山の巡礼の目的としては、五台山をみずからの終焉の地とすることであり、「道超上人の言を信じるべき」であると述べている。道超(生没年不明)はとくに行業はなかったが、久しく五台山の華厳寺に住み、山門から出ないこと20余年に及び、その後、命が終って、都率内院に生まれ変った。その時に天人は道超に語って、「お前は人間(人間界)ではとくに行業というものはなかったが、ただ法華経をよみ、文殊の境界の力を得たため、この天(都率内院)に生ま変ったことができたのである。お前は人間に戻って四部(四部衆。出家者や在家者)に接して聞き知らしめなさい。」といった。道超は(天人の)言によって天報を捨てず、おりて人間に告げたという(『法華経伝記』巻第6、諷誦勝利第8之4、宣州尼法空8)。このことから五台山入山の目的は兜率浄土・弥勒浄土を成し遂げるのが目的であったいう(荒槇1991)。またこの表文の記述によって、戒覚の出自が中原氏であり、父が没した後は官人として仕えたものの、出家して延暦寺僧となったことが知られる。中原氏は朝廷諸技能を司る地下官人を出した氏族で、明経道中原氏は、清原氏とともに外記局の実務を統括する局務家として栄え、明法道中原氏は、坂上氏とともに明法家を輩出する家となった。中原氏は仏教にも関心が高く、12世紀には西楽寺一切経(現興聖寺一切経)書写事業の中心的役割を担った。

 また(申し文には次のように記した)「申し文、日本国の僧戒覚が解(げ。個人の請願文書のこと)して知府裁事に申請いたします。特に府恩を蒙られんことを請う。奏聞上表1通の状。副えたてまつる、法文および道具などの目録1巻。右戒覚、謹んで案内を検ずるところによると、まずなすべきこととしては天台山に赴いて、今冬を過ごすべきで、明春に宣旨を賜ってから、五台山に赴きたいと思います。望み要請するところは、府恩をこうむって、早く奏聞していただきたいのです。よって事情を状に記録し、もって解す。元豊5年10月日。」(『渡宋記』元豊5年10月2日条)

 5日、行事官がやって来て、「(戒覚が)進上した表および目録などは、脚力(飛脚のこと) を遣わして(朝廷に)奏聞し終わった」と告げた(『渡宋記』元豊5年10月5日条)

 15日、当院(吉祥院)の学頭阿闍梨と筆談して、「『摩訶止観』は、章安大師が後に『摩訶止観論』と改名している。また『阿弥陀十疑』も同名論している(『渡宋記』元豊5年10月15日条)
 『摩訶止観』全10巻は天台三大部の一つで、智者大師が荊州玉泉寺の夏安居に講述し、弟子の章安大師潅頂が筆録校訂した書である。日本では天台宗止観業の学生が学ぶ書に規定されている(『類聚三代格』巻2、延暦25年正月26日官符)

 12月2日、宣旨が脚力(飛脚)によって下向してきた(『渡宋記』元豊5年12月2日条)。この宣旨の内容は不明であるが、戒覚は申し文で望んでいた天台山に赴くより先に、宋の都開封にむかっていることから、朝廷の招聘を受けたものらしい。


兵庫県たつの市の綾部山(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影) 

戒覚、都開封に入る

 11日、河船に乗って、京洛を目指した。蒋侍禁〔蒋は姓である。侍禁というのは官名である〕が(戒覚担当の)行事官となった。路次の国々で、毎日供銭を受けた(『渡宋記』元豊6年2月11日条)
 戒覚は運河を利用して都を目指すこととなった。「侍禁」というのは戒覚自身が述べているように、宋代の武官の官職名であり、右侍禁・左侍禁の別があった。このうち右侍禁の方が上官である(『宋史』巻169、職官9)

 元豊6年(1083)2月12日、宋州に入った(『渡宋記』元豊6年2月12日条)
 宋州は現在の河南省で、宋州というのは唐代からの通称であり、景徳3年(1006)には応天府と改称された。崇寧年間(1102〜06)の段階では戸数79,741、人口157,404を数え、絹を貢納しており、麾下の6県があった(『宋史』巻85、志第38、地理1、応天府)

 16日、厩(うまや)に行って象を見た。高さは8尺(240cm)、耳は1尺5寸(45cm)、鼻4尺(120cm)、南蛮から(宋に)これが献上されたという。鼻を用いて草を巻いて食べるのである(『渡宋記』元豊6年2月16日条)
 戒覚は象をみた見聞を以上のように記しているが、象は南蛮・交趾からの貢納品であった。戒覚の入宋の先輩にあたる成尋も「象の厩(うまや)に到った。1つの屋に3頭がいた。東の1屋に4頭の象がいた。まず3頭の象を見た。象を飼う人がいて象に、“外国の儒(先生)がやってきたから、見て拝謁しなさい”と教えた。第一の象は後ろ2足を曲げて、頭を垂れて拝踞した。」(『参天台五台山記』巻第4、熙寧5年10月7日条)と記しており、また神宗皇帝の「本国(日本)にはどのような禽獣がいるのか」という下問に対して、「本国(日本)には師子(ライオン)・象・虎・羊・孔雀(クジャク)・鸚鵡(オウム)などはおりませんが、そのほかの類はみなおります」と答えている(『参天台五台山記』巻第4、熙寧5年10月15日条)

 20日、入京した。以上、明州から東京(東京開封府)に到るまで、70日が経過した〔但し20余ヶ日は途中で逗留していたため、(実際の)行程は50日であった。〕 予の心の中に感慨がおこり、一人倭言を吟じた。「心こそ 嬉しかりけれ 命あれは 唐の都を 今日見つるかな」(『渡宋記』元豊6年2月20日条)
 この和歌について、『万代和歌集』では「宋朝に入り侍ける日、よみ侍ける 戒覚上人/命こそ うれしかりけれ 音に聞く 唐の都を 今日見つれば」とある。

 21日、劉大保の命令によって戒壇院に寄住した(『渡宋記』元豊6年2月21日条)
 この「劉大保」については未詳だが、宦官の尊称とする説がある(小野1973)。戒壇院とは太平興国寺の戒壇院のことで、正式には大平興国寺資聖万善戒壇院という。太平興国寺は東京開封府の右一廂に位置したが、戒壇は広化大師真紹によって造営されたという(『大宋僧史略』巻1、立壇得戒)

 3月5日、宣旨によって、(神宗皇帝の)朝見を得た。すなわち崇政殿の前にて、紫衣1襲を賜った〔衣・袈裟・裳(もすそ)〕。また闕(宮中)を出た後、追って香染・装束および絹20疋を賜った。人々がいうには、“これはとくに抽賞のことであり、先例の事ではない。”とのことらしい(『渡宋記』元豊6年3月5日条)
 戒覚が謁見を受けた時の皇帝は神宗で、王安石の新法の時の皇帝として世界史上に名高い。戒覚が謁見を受けた崇政殿は、皇帝の執務室のある宮殿で、宣祐門を北上し、内東門・御厨のさらに北に位置する。もとは簡賢・講武殿といったが、大中祥符7年(1014)に崇政殿と改められた。成尋もここで神宗の謁見を受けている。ところで唐代にはほとんどなかったことであるが、宋代に入ると日本人僧侶が皇帝の謁見の栄誉をうけることが多くなった。チョウ(大+周。UNI595D。&M059369;)然(938〜1016)は太宗に拝謁して『職員令』・『王年代紀』を献上し、太宗は日本の天皇の血統が長く続いていることを聞いて歎息したことは著名である。成尋も神宗の謁見を受けたが、いずれにしても入宋した日本人僧侶達は極めて優遇されており、各地でも好待遇を受けた。これは唐代に中国を旅行した円仁が乞食旅行をしたのと雲泥の差といってよい。

 7日、日本に帰るとのことを同船の唐人が告げて来た。そのため消息(手紙)を託そうと思ったが、双涙が自然と流れてきた。たちまち和歌をつくり、いささか述懐した。「茜さす 朝明の空を 見渡せば 我が故郷ぞ 思いてらるる」(『渡宋記』元豊6年3月7日条)

 13日、主上(神宗皇帝)は相国寺において万僧供を修せられた。しかしながら道士および比丘尼も一緒に斎(とき)を受けていた。いまだにその意味を理解することができない(『渡宋記』元豊6年3月13日条)
 相国寺は東京開封府の左一廂に位置する寺院であり、現存する。北斉の天保6年(555)に建立といい、もとは建国寺といったが、唐の睿宗の時に相国寺に改められた。東京開封府のなかで最も由緒が古く、朝廷の帰依が篤かった。神宗皇帝は成尋にも相国寺に参詣するよう要請している。「万僧供」とは文字通り、一万人の僧侶を招いて行なわれる供養のことで、日本では天宝勝宝4年(752)4月の東大寺大仏開眼供養以外にはほとんど例がない。というのも供養の際には斎(とき)、すなわち僧侶に昼食を提供しなければならず、一万人の僧侶およびその従者の昼食を用意するには莫大な経費がかかったからである。その斎において、道士および比丘尼がともに列席したという。道士は道教の僧侶であるが、藤原顕隆(1072〜1129)が永久2年(1114)に泰山府君を祀る願文を記しているように、日本において道教の伝播というのは皆無というわけではなかったが、日本では遂に道教の本格的伝播がなされなかったため、戒覚自身も道士をみる機会は宋に来るまでなかったであろう。また日本では僧と尼がともに法会を行なうようなことは少ないであろうし、ましてや道士がともにするということは、戒覚には理解しがたかったのであろう。

 4月16日、天竺(インド)を往還した僧と談話した。「菩提樹は根を払ってしまった。しかも祇薗精舎は見い出すことはできず、ただ礎石だけがのこっていた。摩竭提(マガタ)国のほかを除いては、ほかの国々には王がいなかった」といっていた(『渡宋記』元豊6年4月16日条)
 菩提樹とは釈迦がその下で悟りを開いたとされる樹木で、三蔵法師玄奘(602〜64)の見聞によると、「周りの垣に甎(レンガ)を畳んだもので、高く険固である。東西に長く、南北に狭い。周囲は500余歩であり、奇なる樹や名花が陰(かげ)をかさね。細かな砂に異なる草がいよいよ漫りに緑を覆っている。」(『大唐西域記』巻8、摩掲陀国上)とある。また祇園精舎についても三蔵法師玄奘の見聞によると、「城の南五、六里に、逝多林がある。〔唐に勝林という。旧に祇陀という。訛なり。〕これは給孤独園である。勝軍王の大臣の善施が、仏のために精舎を建てたのである。昔は伽藍であったものの、今はすでに荒廃している。東門の左右にそれぞれ石柱を建てた。高さは七十余尺であり、左柱は輪相をその端にきざみ、右柱は牛形をその上に刻んでいる。ともに無憂(アショーカ)王の建てるところである。建物は荒廃し、ただ遺跡だけがのこっている。ただ一つの甎(レンガ)室がい然としてのこっており、中に仏像がある。」(『大唐西域記』巻6、室羅伐悉底国)とある。

 5月6日、闕(宮中)に参上して辞退するの旨を奏上した。とくに勅禄があって、絹10疋を賜わった(『渡宋記』元豊6年5月6日条)


営造法式(『四庫全書』673より) 

念願の五台山へ

 (5月)8日、五台山に(むけて)進発した。(担当の)行事官である渭川潘原県の左侍禁の張従良は勅を奉って、駅路にて逓送の事を弁決した(『渡宋記』元豊6年5月8日条)

 12日、孟州に着いて、黄河の橋を渡った。長さ五・六町(500〜600m)ほどであった(『渡宋記』元豊6年5月12日条)
 黄河の橋について、戒覚はかなりそっけなく記しているから成尋の記載をみてみると、「次に黄河の浮橋を渡った。まず5町(500m)ほどであり、大船21隻を浮かべて橋を造るのである。1里(640m)を隔てて、次に浮橋を渡った。16の大船(を浮かべた橋で、長さが)3町(300m)ほどであり、河を二分していた。河陽駅を過ぎて、孟州河陽門の前に至った。」とある(『参天台五台山記』巻第5、熙寧5年11月7日条)

 15日、懐州の境に入って、太行山を通過した。山の石は刀のように(鋭く)、役車の車輪は(石の鋭さに)堪え難く、けずりやすいものである(『渡宋記』元豊6年5月15日条)

 25日、并州に入った。太原府下の寺院の中の僧房に寄宿した。伝駅を逐わなかった。村の老少男女がみなやって来て(戒覚を)質問し、茶菓子を分け施してくれた。この州は元来7歳以上の者は、ことごとく信心深く、念仏を勤修するという。まことにゆえあることなのであろう(『渡宋記』元豊6年5月25日条)

 6月3日、代州の府駅に到着した。日は高い(時間まで)留った。これは知府に謁見するためなのである。予は絶句を賦して、壁の上に書いた。(詞略) 府の行事官(担当官)が一人やって来て、壁に書いた詩を見て、写し取って去った。明日これについて聞いてみると、庁中にて披露したという。人々は「詩および草書体の字がよい」と褒めていたという。通判と宣徳亭にて謁見した〔通判は官職名である。宰吏と共に政務を執行するのである〕。談話の間、(通判)は詩を座上に投げてよこしてきた。その詞に、「日本の大徳、遠く聖地に遊ぶ。恵然として文煥〔通判の名なり〕を見訪す、詩を作り以てこれを贈る。」とあった。(後略) (『渡宋記』元豊6年6月3日条)

 8日、五台山真容院に到着した。まず坂の下の小堂にて、文殊尊像1驍ィよび供養料の唐絹10・名香2裹、院主・所司が来て向い、うけ取った。すなわち輿(こし)の中に安置し、シンバルを打ち鳴らして登った。申剋(午後3時)に入堂したが、焼香がすでに終わっていた。予は歓喜にたえず、いささか歌を詠んでみた。ただいま五台山に礼しているのは、これ自然にしてしかりなのか。(そこで)一雑言を賦した。また志(をのべた)の所である。
  先哲追従宜得攀  先哲追従してよろしく攀することを得べし
  一心敬礼五台山  一心に敬礼す五台山
  求方外 厭世間   方外に求めて世間を厭う
  願莫文殊生死還  願くは文殊生死に還すことなかれ(『渡宋記』元豊6年6月4日条)

 11日、金剛窟に参詣した。窟の入口に泉があり、清浄であり飲料してみた。これを飲んでみると厭うことはなく、心身が冷しくなった。すなわち窟の中の土を採取して帰った。また代州の衙牒が到来したところによると、「戒覚・仙勢は、長く山に住ませるべきである。ただしともに閑房を便宜して衆所を分け与えなさい」とあった。寺家の返牒には、「真容院は日本国僧戒覚・仙勢ら二人を収管しました。すなわち鐘楼の前の穏便のところにて、閑房1棟を分け与えました。(閑房の規模は)3間で、あわせてそれぞれに行者をつかわして2人(隆尊と従者か)が(一行から)去りました」とあった(『渡宋記』元豊6年6月11日条)

 元豊6年(1084)6月15日、書き終わった〔要を取って子細の文を載せなかった。人に便(たよ)るによって荒して略した〕。我れ願わくは、この記を日本国播磨国綾部別所引摂寺の頻頭盧尊者の御前に置いて、あえて山門から出さず、来住の人の道心に備えたい。そえて送るものは、菩薩石1枚〔日光の差し入るのところを暗くとざして、まさにこの石をみるべきである〕必ずや五色の光を定め放つであろう。もしそうであったならその光明に礼拝しなさい。これは菩薩不思議の化用である。よって大聖文殊の結縁や石光の功徳を礼拝すること(と同じ)になるだろう。また金剛窟の土を少々1包〔これらは仏檀の底に安置すべきである〕。また清涼山の背に生える茸(きのこ)1ふさ、および木の根など(『渡宋記』元豊6年6月15日条)


「五台山図」(『山西通志』巻1より)

エピローグ

 こうして戒覚の旅は終わった。戒覚は宋の五台山に留まることを望み、望みはかなえられて、おそらくは五台山で最期の時を迎えたのであろう。

 戒覚が霊物を送った日本国播磨国綾部別所引摂寺であるが、碧石(菩薩石)は播磨守平忠盛(1096〜1153)が拝見した時に取られてしまい、よってその行方は不明となってしまった。金剛窟(の土)は、引接寺仏壇の下に埋もれてしまったが、清涼山の茸は、実報寺に移されたという(『渡宋記』慶政自筆奥書)

 前述したとおり、慶政が『渡宋記』写本を入手した寛喜元年(1229)の段階で引摂寺はすでに廃寺となっており、その跡を実報寺が管理するだけになっていた。のちには引摂寺跡を管理していた実報寺もまた廃寺となってしまい、引摂寺の位置を知る手がかりは皆無となってしまった。ただし兵庫県たつの市に「綾部山」があり、「播磨国綾部別所」との何らかの関係が推測される。ただそ引摂寺が位置したという飾西郡は現在の姫路市にあたり、たつの市は揖保郡であるから、結局、「綾部別所引摂寺」の故地は不明であるというほかはない。



[参考文献]
・『図書寮叢刊 伏見宮家九条家旧蔵諸寺縁起集』(宮内庁書陵部、1970年3月)
・森克巳「戒覚の渡宋記について」(『中央大学文学部紀要』63、1972年3月)
・小野勝年「戒覚の『渡宋記』」(『龍谷大学論集』400・401合併号、1973年3月)
・孟元老著/入矢義高・梅原郁訳注『東京夢華録 宋代の都市と生活』(岩波書店、1983年)
・田島公「日本と宋の文化交流」(『古文書の語る日本史2』筑摩書房、1991年10月)
・荒槇純隆「五台山成仏した延暦寺僧戒覚」(『天台学報』43、1991年度)
・王麗&M055567;『宋代の中日交流史研究』(勉誠社出版、2002年) 


☆おまけ☆
関係はないけど、京都府の「綾部市別所町」にある「願成寺」


綾部山周辺(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影) 



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