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基聖陵(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)
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基聖陵は京城(フエ旧市街)から南に直線距離で7km、香江西沿岸の香水県居正社の山中に位置する。昌陵(ティエウチ帝廟)からミンマン通りを南に孝陵(ミンマン帝廟)まで行く途中にある。被葬者は興祖(1733〜65)で、興廟のところで若干説明した。
乙酉年(1765)、興祖が薨ずると、しばらく陽春の私邸を梓宮(しきゅう。遺体安置所)として安置しており、葬る場所は決まっていなかった。ある夜、一人の老僧が葬る場所を決めたかどうかを家人に聞いてきた。家人はまだである旨を答えると、居正山の窪地を指して、「向こう地に私はすでに竪木にその場所を誌しておいた。急いで竪木の方向を確認して葬りなさい」といい、言い終わると去った。翌日、家人がその言われた場所に行って探していると、はたして木に誌された場所が発見された。さらに僧を探したが、どこに行ったのかわからなかった。そこでこの場所に埋葬したという(『大南一統志』巻之1、京師、山陵、興祖孝康皇帝基聖陵)。
庚戌年(1790)冬、西山党が席捲すると、西山党の都督阮文伍が遺体を陵の前の川に投げ入れた。たまたま阮文伍の家が火事となったため、阮文伍は逃げ帰った。居正社の人阮玉諠は、川に潜って遺体を運び出して隠した(『大南一統志』巻之1、京師、山陵、興祖孝康皇帝基聖陵)。
辛酉年(1801)、嘉隆帝が旧京(フエ)を回復すると、阮玉諠はこのことを報告した。ここに)9月に基聖陵の修造を行ない、陵を復旧・再興した(『大南寔録正編』第1紀、巻之16、世祖高皇帝寔録、辛酉22年9月乙亥条)。嘉隆5年(1806)山陵を修造し、今の名称を奉った(『大南一統志』巻之1、京師、山陵、興祖孝康皇帝基聖陵)。嘉隆13年(1814)12月に修復されている(『大南寔録正編』第1紀、巻之49、世祖高皇帝寔録、嘉隆13年12月庚申条)。明命2年(1821)その山を興業山とし、従祀祠・郊壇を設けた(『大南一統志』巻之1、京師、山陵、興祖孝康皇帝基聖陵)。
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基聖陵(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)
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基聖陵脇の祠(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)
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基聖陵内部(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)
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