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神護寺境内(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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ここ数年来、毎年8月16日に愛宕山に登っているようなので、毎年8月16日は愛宕山に登ることが恒例となっていましたが、前年8月16日は日本全国で大雨、京都市でも1時間に約100ミリの記録的短時間で大雨となり、避難指示や勧告が出るほどでしたので、行けませんでした。
今回は京都市高雄の神護寺の境内背後からの山道を抜けて愛宕神社にいたる、合計約6q程の行程です。
まず神護寺に入ります。神護寺から愛宕山までは2度ほど行ったことがありますが、神護寺の拝観の係員によっては拝観料が必要という人と、不要という人(できれば払ってね)という人がいましたが、「神護寺には用がないの。愛宕山に行くだけだから」というのはあまりにも失礼なので、不要という係員がいたとしても、出来れば礼儀として拝観料は払っておきたいものです。
神護寺を奥に進み、宝塔の背後に行くと鋪装された道路があり、しばらく進むと下写真のような砂利道に出ます。ここから登山道となります。
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高雄道入口(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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高雄道(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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最初は整備された穏やかな山道となっていますが、徐々に木の根が足元を困難にしていきます。
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高雄道(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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神護寺から500mも進んでいない頃に、左手に高雄山方面に登る側道があります。これは性仁親王墓への参道です。少し寄り道してみましょう。
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高雄道(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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性仁親王墓参道(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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150mほど登ると性仁入道親王(1267〜1304)の墓所です。後深草天皇の第4皇子で、仁和寺門跡ですが、「高雄御室」と称されたように神護寺と密接な関係がありました。
その隣は神護寺僧の文覚(1139〜1203)の墓です。これは宮内庁が治定したものではありませんが、日本史・仏教史ともに文覚の方が重要人物です。
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宮内庁治定性仁親王墓(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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文覚墓(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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寄り道したのは性仁入道親王の墓に詣でるためではなく、たまたま京都府立総合資料館に開架されていた『京都府中世城館跡調査報告書第3冊 山城地域1』を閲覧していたら、高雄城跡縄張り図があり、保存状態が比較的良好であったことを知り、恒例の愛宕山に登る時、もし高雄道を通るなら、寄り道してみようと狙っていたのです。
性仁親王墓と文覚墓は高雄山城跡の郭の一角を利用して築かれており、とすれば南北朝期頃に建造された高雄山城に、鎌倉時代に示寂した2人の僧のお墓なんてあるわけがないのですが…。
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高雄城跡縄張り図(『京都府中世城館跡調査報告書第3冊 山城地域1』〈京都府教育委員会、2014年3月〉163頁より一部転載)
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高雄城段郭跡(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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高雄城跡二の丸から本丸方向へ(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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性仁親王墓と文覚墓の背後(北側)を行くと、灌木が生い茂っていますが、段郭にあたります。しばらく進むと二の丸とでもいうべき郭があり、そのさらに北側に本丸とでもいうべき四方形の主郭があります。
さらに進むと高雄城の位置する尾根を東西に分断する堀切があります。堀切があると中世城郭らしい雰囲気が出ます。
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高雄城本丸跡(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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高雄城は南北240m、東西120mの高雄山の尾根に位置しており、ここから京都市街と麓の神護寺を一望できます。
築城年はわかっていませんが、神護寺文書によると、建武3年(1336)に神護寺が新田義貞に与力して城郭を築いたとあります。
「足利直義御教書」神護寺文書194
田井啓吾「資料神護寺文書(六)」(『史林』26−2、1941年4月)
新田義貞以下の悪逆の徒が、比叡山に逃げて立てこもっているから、誅伐を加えるとの旨の院宣が発せられているが、神護寺は義貞らに与力して城郭を構えているという趣旨の風聞がある。早くこの城を破却しなさい。もしなおも承知しないのであれば、罪科に処すであろう。しかし早く時間を経ずにこちら方に馳せ参ずるならば、軍忠状を交付するであろう。
建武三年(一三三六)六月十日 (直義花押)
「光厳院院宣」神護寺文書196
田井啓吾「資料神護寺文書(六)」(『史林』26−2、1941年4月)
院宣をいただくところによると、「当寺(神護寺)は弘法大師空海が創始した寺院で、文覚上人が再興した遺跡である。長い間顕密の仏法を専らに行ない、いまだに弓剣といった武略を携えたことがなかった。しかしながら今、ひたすら敗残兵の悪逆に従い、自宗(真言宗)の破滅を招くに等しいことを行なっている。荒くみだりなことの結果は、仏法を妨げる魔障の度合いを超えている。あわせて一部の強行派が行なったことであって、寺全体が定めたことではないのであろう。いまより以後、速やかに城郭の壘構を撤去し、朝廷国家の太平を祈祷すべきである。」とある。院宣はこのようである。
八月二十一日 参議資明
神護寺住侶御中
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高雄城跡堀切(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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天文16年(1547)閏7月には、細川国慶が立て篭もる高雄山城を、細川晴元が攻撃して陥落させ、周囲の神護寺・高山寺も焼失したといいます。
『厳助往年記』天文16年閏7月条
閏七月、高雄、栂尾、堂塔僧坊、悉滅却、細川玄蕃頭城郭構之処、晴元責之、次寺家放火也、
閏7月、高雄(神護寺)・栂尾(高山寺)の堂塔・僧坊がことごとく焼失した。細川玄蕃頭(国慶)が城郭を構えたところ、(細川)晴元がこれを攻撃し、ついでに寺家に放火したからである。
『厳助往年記』天文16年閏7月3日条
閏7月3日、(細川)晴元が出陣した。玄蕃頭(細川国慶)は城を高雄山に連れており、これを攻撃するという。晴元は龍安寺に陣を構えた。(中略) 細川方の衆は、かれこれ二万余の人数がおり、玄蕃頭(国慶)方の人数はわずかに七百をかぞえるほどであるという。
『厳助往年記』天文16年閏7月5日条
閏7月5日の朝、玄蕃頭(細川国慶)の高尾城が落城した。その勢五百人ばかり。(中略)神護寺金堂・塔婆・御願堂・潅頂堂以下、ひとつも残らずことごとく放火され、大紋八夜叉神(といった仏像)まで焼失したという。(中略)栂尾(高山寺)もまた十三重塔婆以下、ことごとく炎上し、諸坊はひとつも残らず当寺は滅却してしまった。
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高雄城跡堀切(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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高雄城跡(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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高雄城跡より京都市街をみた遠望(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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高雄道(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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高雄道からみた眺望(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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高雄道(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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道をしばらく進むと、下の写真のような分岐があります。この分岐を左側に進みます。狭い方です。
この付近は三井物産の所有地らしく、左側の看板は三井物産が建てた注意書きです。
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高雄道の分岐(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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高雄道(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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山道を進むとアスファルト舗装された道路との分岐点に出ます。この道路は西ノ谷林道です。
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高雄道と西ノ谷林道の分岐(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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西ノ谷林道(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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西ノ谷林道(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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西ノ谷林道をしばらく進むと、写真下のような三叉路に出ます。これをUターンするように雲心寺林道に向かいます。以前間違って谷山林道方向に直進してしまい、西明寺に戻ってしまったことがあります。案内板をみると一目瞭然なのですが…。
ちなみにもう一つの看板によると神護寺からここまでは約4.8qあると書いています。
なお谷山林道はオフロードバイクの往来が多く、真夏は蠅・蚊・虻の羽音と蝉の声とオフロードバイクのエンジン音が愛宕山登山の風物詩となっています。
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西ノ谷林道・谷山林道・雲心寺林道の分岐(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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西ノ谷林道・谷山林道・雲心寺林道の分岐の案内板(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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西ノ谷林道(左)・雲心寺林道(右)の分岐(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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雲心寺林道(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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しばらく進むと雲心寺林道とダルマ峠の交差に着きます。ここは「裏愛宕道・ウジウジ峠・首無地蔵」で書きましたのでこちらを参照下さい。ここを左折してサカサマ峠を目指します。サカサマ峠を行くと首無地蔵がみえます。
首無地蔵からさらに愛宕尾根路を進むと愛宕神社に到着です。
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雲心寺林道とダルマ峠の交差地(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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雲心寺林道とサカサマ峠の交差地(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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サカサマ峠(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)。奥に首無地蔵がみえる。
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愛宕尾根道(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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[参考文献]
・金久昌業『北山の峠』中(ナカニシヤ出版、1979年11月)
・今谷明『言継卿記ー公家社会と町衆文化』(そしえて、1980年5月)
・『京都一周トレイルコース公式ガイドマップ 北山西部』(京都一周トレイル会、2009年7月)
・『京都府中世城館跡調査報告書第3冊 山城地域1』(京都府教育委員会、2014年3月)
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愛宕神社(平成27年(2015)8月16日、管理人撮影)
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