海正寺(車僧影堂)

 家の近所にある太秦の春日神社の木が伐られて、丸裸になっています。このように神社に緑が全くないと、あやしい祠にしかみえません。神社というものは「杜(もり)」と称されたように古態は森・山・石を祀る場所が神聖化されて、社が建ったものです。その古態を残しているのは各地に残る磐座(いわくら)、三輪山を祀る大神神社などが代表的な例といえましょう。 


太秦の春日神社(平成18年(2006)08月26日、管理人撮影) 

 さて、この春日神社のことが気になりましたが、鳥居の寄進銘に「大正九年」とあるだけで、詳細はわかりません。明治16年(1883)の『葛野郡神社明細帳』(京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち、京都府庁史料(宗教)神社明細帳3)に記載がないので、少なくとも明治16年(1883)以降に勧請されたことがわかりますが、それ以上のことはわかりません。そこで『日本歴史地名大系27 京都市の地名』(平凡社、1979年9月)を調べてみました。この本は俗に「平凡社地名辞典」と称される、現在の地名検索の代表的書籍ですが、このような小社が載っていようはずもありません。 


太秦の春日神社の後方(平成18年(2006)08月26日管理人撮影) 

 そこで、『太秦村誌』(1924年8月)をみましたが、やはり掲載されていません。ではその周辺はというと、『太秦村誌』では「海正寺」という項目を立てて、以下の文章(後に西田直二郎『京都史蹟の研究』(吉川弘文館、1961年12月)に再掲)が掲載されています(107・108頁。現代語仮名遣いになおした)

 太秦村の内小字海正寺という所に一小堂がある。土人は車僧(くるまぞう)と称し、之(これ)を崇敬し、堂内に安置する所の木像に濫(みだり)に触れると祟りを蒙(こうむ)るといっている。「クルマゾウ」の意里伝明かでない。只五月五日を以て之をまつるのは車僧の忌日であるという。村の一老人はいう。明治初年奈良の僧が之を尋ねて来て永年求めていた像がこれだといって随喜したということである。その僧についても何も知れない。
 正面に安置する木像は一老僧の几(つくえ)に倚(すわ)れるもの、高さ三尺二寸五分、幅前面で二尺一寸三分ある。もと彩色を施していたような痕跡がある。其(そ)の傍に木牌がある。牌面には「當寺開山深山和尚大禅師。」と刻してあり、裏面に建武元年甲戌五月五日と墨書してある。
深山和尚並に建武元年の年月について調査中であるけれども、未(いま)だ得る所がない。土地の小字から考えると、もと此(この)地に海生寺という寺院があったが、久しく荒廃して其(そ)の跡を絶ち、其(そ)の開山の深山和尚の像と、その木牌だけ伝わったのであろう。像は足利初期の彫刻と認められる。木牌記する所の建武の年と近いものだろう。(京都帝大講師文学士西田直二郎調


 その次の頁には江戸時代の地誌が掲載され、その地が江戸時代より有名であったことが記されています。

 「海正寺」の語に聞き覚えがあったため、住宅地図で調べてみると、私の家の目の前が「海正寺町」であり、件の「車僧影堂」は私の家から直線距離で70mしかないことを知って仰天しました。

 というわけで、太秦春日神社はいずれかの機会にでも述べることとし、「海正寺」について述べていくとしましょう。


車僧への案内石碑(平成18年(2006)08月26日管理人撮影)



クルマゾウ(京都府史蹟勝地調査会編『京都府史蹟勝地調査会報告 第1冊』〈京都府、1919年〉図版第13より一部転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)



車僧への参道(平成18年(2006)08月26日管理人撮影) 

深山正虎

 この「車僧」の地は、もとは海正寺という寺院があり、史料によっては「海生寺」(『太秦海生寺開山深山和尚行状』、『扶桑禅林僧宝伝』5)とも「海上寺」(『延宝伝灯録』11)とも記されるが、いずれも「カイショウジ」と読むべきであることを示唆している。

 この海正寺の開山は深山正虎(しんざんしょうこ)であり、その基本的伝記は『太秦海生寺開山深山和尚行状』によって知ることができる。同伝は『続群書類従』9下(続群書類従完成会、1927年7月)、『東福寺誌』(大本山東福寺、1930年)に掲載されているほか、江戸時代の地誌・名所誌に盛んに引用されており、また『扶桑禅林僧宝伝』・『延宝伝灯録』の深山正虎伝もこれによっており、人口に比較的膾炙している。


車僧影堂南側(平成18年(2006)08月26日管理人撮影) 

 『太秦海生寺開山深山和尚行状』によると、深山正虎は、その俗姓・出身地は不明で、常に破れ車に乗って町におり、道行く子ども達がその車を押したり引いたりしていたという。そのため里の人は彼のことを「破れ車」と呼んだという。また語ることは700年前のことを語っていたので、「七百歳」とも称された。

 ある夏、筥崎宮(福岡市東区)の松の木の上で坐禅をし、夏が終わると直翁智侃(ちょくおうちかん1245〜1322)のもとに参禅し、ここで剃髪して僧となった。

 山階の山中に庵をつくって住んだが、たびたび師の直翁智侃の塔である光蔵庵に赴いては、季節の果物をもって直翁智侃の木像に備えていた。

 深山正虎の臨終の10日前にも光蔵庵にやってきて木像に礼拝し同遊の僧無心□石なるものに端午の日の入寂すると予言した上で、「一衆を携え来たりて行くを送れ」といい、無心□石は承諾した。そのため端午の日に無心□石は深山正虎のもとに赴こうとしたが、周囲の人が「風狂の言、信ずべからざるなり」といったため、行くのをためらい、そのため無心□石は行くのを遅れてしまった。深山正虎は3回門を出て無心□石を待っていたが、日没になっても来なかったため、「同門の出入、宿世の寃家たるも、わが約言に違いて来ざるのみ!」と罵り、袈裟を披して草鞋を着け、しゅ杖を拈じて坐り、怡然として示寂した。

 深山正虎は生前、あらかじめ庵の後方に喪地を定めて、自ら薪を積んで篭のようにしていた。無心□石が深山正虎のもとに到って、すでに示寂しているのをみて、速かに人を光蔵庵に遣わした。光蔵庵の衆がやってきて深山正虎を荼毘に付した。その火が消え終わると、骨も灰もなかったという。


車僧影堂北側(平成18年(2006)08月26日管理人撮影) 

 さて深山正虎はいつ頃、直翁智侃に参禅したのであろうか。

 直翁智侃は蘭渓道隆(1213〜78)に参じ、しばらくして入宋した。直翁智侃が2度目に入宋した際、師の蘭渓道隆は直翁智侃に語録を託したが、中国僧(大川普済とも虚堂智愚とも)は偈頌を添削して直翁智侃に返した。直翁智侃は帰国後、語録を蘭渓道隆に提出したが、添削によって蘭渓道隆の不興をこうむり、その会下を辞せざるを得なくなってしまい、円爾弁円(1202〜80)に参禅した。また、大友貞親の招きによって嘉元3年(1305)に九州に赴き(『東福第十世勅賜仏印禅師直翁和尚塔銘』)、徳治元年(1306)に豊後国万寿寺の開山となっている(『延宝伝灯録』10)。大友貞親はかつて北条貞時に対して寺を建立したとのホラ話をしてしまったため、実際に寺院建立に着手せざるを得なかったのであり、万寿寺はそうした背景で建立された。

 直翁智侃はその後、東福寺第十世となったが、大友貞親の危篤を聞き、東福寺を出山して再度九州に赴いている。つまり九州には少なくとも4度滞在したことが確認されるが、深山正虎が直翁智侃に参禅したのは3度目で、徳治元年にそう遠くない頃であろうこと推定される。


 直翁智侃の塔所の光蔵庵とは、現在の東福寺の塔頭盛光院のことである。深山正虎は「庵を山階の山中に結び、毎に光蔵の塔を往来す」(『太秦海生寺開山深山和尚行状』)とあるように、山科の山中に庵を構えて、たびたび東福寺盛光院に赴いていたことは前述の通りである。また「預(あらかじ)め庵の後において喪地を占めて、自ら薪を積むこと籠のごとくなり」(『太秦海生寺開山深山和尚行状』)ともあるように、庵の後方に自らの葬地とすることを生前より定めていたことが窺えるのである。ともすれば海正寺はあくまで「開山」であって、住寺としていたというわけではないことがここに確認されるのである。江戸時代の貞享元年(1684)に刊行された黒川道祐(?〜1691)の『雍州府志』巻五、寺院門、葛野郡に「菴を山階山中に結ぶ。然して後に此の寺に移りて、遷化す」(黒川道祐著/宗政五十緒校訂『雍州府志』上〈岩波文庫、2002年3月〉297頁)というのは、史料の都合的解釈にすぎない。現在、海正寺は深山正虎の開山塔跡のみが残存しているが、これは分塔である可能性が高い。現在、海正寺開山塔跡が「車僧(クルマゾウ)」と称されるのは、深山正虎が破れ車に乗っていたことから派生した語である。

 その後の海正寺がいかなる変遷をたどったのか、全くわかっていない。室町時代の嵯峨は「山城国嵯峨諸寺応永鈞命絵図」(1426。伊藤毅「寺院と塔頭」(『図集日本都市史』〈東京大学出版会、1993年〉所収)、「山城国臨川寺領大井郷界畔絵図」(1347。原田正俊「中世嵯峨と天竜寺」(『講座蓮如』4〈平凡社、1997年7月〉)所収))、「山城国嵯峨亀山殿近辺屋敷地指図」(南北朝時代。原田正俊「中世嵯峨と天竜寺」(『講座蓮如』4〈平凡社、1997年7月〉)所収)によって知ることが出来るが、海正寺が所在する太秦の様相は残念ながら不明である。

 いつ頃海正寺が衰退したか不明であるが、『雍州府志』巻五、寺院門、葛野郡では「則ち遺像あり。相伝う、この像は村人、筑紫より携え来ると。今、黄檗派の僧、これを守る」とし、『京都名所図絵』(1780)に「太秦の南竹林の中にあり。今は草庵にして、開山深山禅師の像を安置す。」とあるように、江戸時代には廃寺となって竹林となっていたことが知られる。この「海正寺町」の道路を挟んで南側が「藤ヶ森町」という呼称であるということも、そのことを想起させる。現在は海正寺は「車僧」と称され、住宅地に囲まれた畑の中に位置する。


[参考文献]
・京都府史蹟勝地調査会編『京都府史蹟勝地調査会報告 第1冊』(京都府、1919年)
・貴船繁次編『太秦村誌』(1924年8月)
・『東福寺誌』(大本山東福寺、1930年)
・『群書解題』4下(続群書類従完成会、1967年5月)
・玉村竹二『五山禅僧伝記集成』(講談社、1983年5月)


東福寺塔頭盛光院境内(平成18年(2006)09月04日管理人撮影) 



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