氷室神社

 京都府立総合資料館にて、氷室神社なる神社が京都市北区に位置しており、そこには氷室跡があるということを知って、突然行ってみることにしました。


 京都府立総合資料館は北区にあるので、同じ北区なら自転車でも行けるだろうと思ったのです。ゼンリンの住宅地図をトレースして、16時30分頃に総合資料館を出発。鷹ヶ峰の佛教大学から北上して一路氷室神社のある西賀茂氷室を目指しました。途中、御土居を左側に通過します。これが旧き京都の境界線です。


鷹ヶ峰の御土居(平成19年(2007)1月25日、管理人撮影。) 

 途中で何かがおかしいことに気づきました。登り坂ばかりで下り坂や平面がないのです。それは自転車で行くにはあまりにもきつい道です。

 トレースしたゼンリンの住宅地図では、光悦寺を通過したあたりが全行程の3分の1ということになっていますが、実際の距離ははるかに長いようです。これは峠道なので地図(住宅地図なので)を省略していたからなのかもしれません。そこから京見峠に入ると突然傾斜が急になり、自転車をこぐのがやっとで、歩いた方が速いのです。氷室別から氷室道に入るとさらに傾斜が急になり、自転車をこぐことはもはや不可能となります。


氷室別れ(平成19年(2007)1月25日、管理人撮影。電柱と道の角度差に注目!) 

 さらに進むと電波塔がみえてきます。

 電波塔に写る夕闇が、日没が近いことを示しています。


 ここから数メートル進み、カーブを曲がると急な下り道となっています。 


氷室近郊の電波塔(平成19年(2007)1月25日、管理人撮影) 

 長く急な下り道の先に氷室の里があります。鷹ヶ峰から5km程の道程ですが、坂道のため非常に疲れました。氷室は旧愛宕郡で、天隘の山間部に位置します。氷室の地は『拾遺都名所図絵』の時代とあまり変化無く、現在も隠れ里の趣きをたもっています。到着した時にはまさに日が暮れなんとしていました。


氷室の里(平成19年(2007)1月25日、管理人撮影) 

氷室の地と栗栖野

 氷室神社の成立年はわかっていない。明治16年(1883)の『愛宕郡神社明細帳』(京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書(宗教)神社明細帳2)には「由緒 不詳」としている。

 鎮座地の西賀茂氷室は、古代には栗崎野あるいは栗栖野と呼ばれ、平安遷都後には天皇の遊猟地であった。特に平安遷都を断行した桓武天皇はこの地を好み、延暦15年(796)11月29日この地に遊猟している(『日本後紀』巻5、延暦15年11月丙辰条)。延暦25年(806)3月23日には栗棲野(栗崎野)をはじめとして大井・比叡・小野で山火事があり、その煙は京まで達して日中にもかかわらず煙のために暗かった。この山火事は、葛野郡宇陀野(現右京区宇陀野)に造営中の桓武天皇陵が賀茂社に近かったことから、神の怒りとみなされて、陵墓位置の変更を余儀なくされている(『日本後紀』巻13、大同元年3月丁亥条)
 また嵯峨天皇も弘仁5年(814)8月26日に遊猟し(『日本後紀』巻24、弘仁5年8月己巳条)、仁明天皇も天長10年(833)9月25日に遊猟している(『続日本後紀』巻2、天長10年9月戊寅条)。このように天皇の遊猟の地であったとい関係から、天長年間(824〜34)には樵夫と牧童以外の者が鷹を放ってウサギを追うことを禁止している(『日本三代実録』巻42、元慶6年12月21日己未条)。 


氷室の里(平成19年(2007)1月25日、管理人撮影) 



『拾遺都名所図絵』巻3、氷室神社(『新修京都叢書』12〈光彩社、1968年〉251頁より一部転載)



氷室神社参道(平成19年(2007)1月25日、管理人撮影) 



氷室神社拝殿(平成19年(2007)1月25日、管理人撮影) 



氷室神社本殿覆屋(平成19年(2007)1月25日、管理人撮影。まがってるけど…。) 



氷室神社末社覆屋(平成19年(2007)1月25日、管理人撮影)

 氷室跡は氷室神社の北方100mほど上った丘陵地にあります。そこは私有地で周囲にはイノシシ除けの電流鉄線が張り巡らされています。

 持主の方にどこにあるのか聞いてみると、作業小屋の後ろだといわれました。暗いのであまりみえませんが、イノシシ除けの電流鉄線の隙間があり、その背後の丘陵地に石碑がありました。なお写真の大半が心霊写真のように暗いのは、日が暮れてしまったからです。

 石碑がある丘を若干登ると氷室跡につきます。現在3基が残っており、深さ2mほどとなっています。


氷室跡入口(平成19年(2007)1月25日、管理人撮影) 

氷室の造営

 氷室とは、夏でも氷を使用できるよう、寒冷地に設けられた池の氷を冬に採取して貯蔵する穴のことである。

 中国では紀元前より氷室が存在し、凌陰・凌室とも呼ばれていた。飲食用はもちろんのこと、葬礼にも氷が用いられた。例えば葬礼において、君・大夫の場合は氷を用いるが、士以下は氷を用いることが許されなかった(『礼記』喪大記)。葬礼に氷を用いるのは、葬礼期間が長いために遺体保存として用いるのであり、身分が高いほど葬礼期間が長かったため、夏には遺体保存のため氷が必要となるのである。これは唐代にも踏襲され、日本の令制の条文にも影響を与えた。紀元前2世紀から5世紀にかけて、中国東北部から朝鮮半島東北にかけて存在した民族である夫余は、葬礼期間が長かったため、ほとんどの階層が夏に氷を用いていたという(『三国志』巻30、魏志第30、烏丸鮮卑東夷伝、夫余)。朝鮮半島の新羅では氷を用いることがさかんで、伝説上の新羅第3代の弩礼王が蔵氷庫をつくったとされる(『三国遺事』巻1、紀異第1、第三弩礼王)。官職として氷庫典があり、大舎1人、史1人があてられた(『三国史記』巻39、志8、職官中)。また『新唐書』東夷伝では新羅の習俗として、夏に食物を氷の上に置くことが報告されている(『新唐書』巻220、列伝第149下、東夷伝、新羅)

 日本における起源として『日本書紀』仁徳天皇62年条にみえる説話が有名である。それによると、額田大中彦皇子が闘鶏(都祁)に遊猟をした際に、山上より望見したところ、野中に何か庵のようなものがあることを発見し、何かと尋ねたところ、「窟(むろ)」であることがわかった。そこで闘鶏稲置大山主を召喚して「この野中にあるのは何の窟(むろ)であるか?」と尋ねたところ、氷室であると返答を得、さらに闘鶏稲置大山主は、「土を丈(3m)ほど掘り、草をその上に葺きあつく茅を敷いてその上に氷を置けば、夏になっても氷は消えません。その氷は暑い月に水酒にひたして使います」といった。そこで額田大中彦皇子は仁徳天皇にその氷を献上したところ、大いに喜ばれ、それ以来、冬の終りに氷を氷室におさめ、春分になるとこれを取り出して配ったという。
 この説話が4〜5世紀に比定される仁徳天皇の治世期に実際あった出来事かどうかは論外であるが、石上氏と同祖であったという氷宿祢(『新撰姓氏録』第2帙、巻11、左京神別上、天神)や、同じく石上朝臣と同祖であり、饒速日命の11世孫の伊已灯宿祢の後裔であるという氷連(『新撰姓氏録』第2帙、巻19、河内国神別、天神)という氏姓の存在が確認されるように、少なくとも律令制以前より氷に関する何らかの職掌集団がいたとみてよい。氷宿祢はもとは氷連であり、天武13年(684)12月2日に氷連は朝廷より氷宿祢を賜っている(『日本書紀』巻29、天武天皇13年12月己卯条)。氷連氏の代表的人物に氷連老人(ひのむらじおきな)がいる。彼は、白雉4年(653)の遣唐使一行に学生として加えられ(『日本書紀』巻25、白雉4年5月壬戌条)、翌5年(654)2月に帰国した(『日本書紀』巻25、白雉5年2月条)。その後、白村江の戦い(663)に際して唐軍捕虜となって連行された。天智9年(670)に土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝児の4人は唐の謀略を察知して、日本に報告しようとしたが、旅費がなかったため、筑紫君薩夜麻の申し出により筑紫君薩夜麻を奴隷として売却し、その金を旅費に充てて帰国した(『日本書紀』巻30、持統天皇4年10月乙丑条)。このように、大化後では必ずしも氷連氏は氷に関する職掌に関わっていたわけではないが、延長6年(928)の「安倍乙町子家地売券」(内閣文庫所蔵文書、『平安遺文』230)および「安倍乙町子解」(内閣文庫所蔵文書、『平安遺文』238)に「散位供御都介氷所勾当従六位上氷部」と署名があるように、氷部を氏姓とするものが引き続き主水司を構成する職員であることが確認される。


 上記の『日本書紀』の説話によって、氷室によって保存された氷は、夏の暑い日に水や氷にひたして用いることが確認されるが、それ以外にいかなる用途で氷を用いたのかわかっていない。

 大宝令の施行とともに、氷室は主水司の管轄となった。この主水司は宮内省の下部組織で、「もんどのつかさ」と通称されるが、『倭名類聚抄』によると「もいとりのつかさ」と呼んだらしい。「もい」とは飲み水のことであり、水・粥・氷室に関することを司った。官舎は待賢門内で、宮内省の北、大膳職の西に位置した。氷は葬礼にも用いられ、喪葬令(親王条)には「凡そ親王及び三位以上、暑月に薨ずる者、氷を給え」と規定された。その氷を貯蓄する氷室は、『日本書紀』の説話の通り都祁(奈良県天理市福住)にあり、ここから平城京に輸送・供給された。都が藤原京から平城京に遷都(710)されたことから、都祁から平城京へは迂回ルートを通らなければなかったことから、和銅8年(715)6月には都祁山の道が開削された(『続日本紀』巻6、和銅8年6月庚申条)。氷は宮中のみならず上級貴族にも給されたようで、長屋王家木簡には「氷室進上物□」(『平城宮発掘調査出土木簡概報』27)とあるように、長屋王(684〜729)にも給付されていたことがみえる。


氷室、上から(平成19年(2007)1月25日、管理人撮影) 

栗栖野の氷室

 平安遷都によって、都祁の氷室は都から遠くなり、都への氷の運搬に支障をきたすようになっていった。そこで大同4年(809)3月14日には。主水司に史生2人を加え(『日本後紀』巻17、大同4年3月己未条)、弘仁7年(816)9月23日には平城宮の皇后宮の人手不足に対処するため主水司の水部を13人加えた(『類聚三代格』巻4、弘仁7年9月23日官符)が、抜本的解決とはなりえなかった。

 天長8年(831)8月20日に山城・河内両国にそれぞれ氷室を3宇加えて供御の欠乏に対処することとした(『日本紀略』前篇14、天長8年8月乙酉条)。この時設置された氷室がどこであるのか比定することは困難であるが、『延喜式』によると、氷室は山城国葛野郡徳岡に一所、愛宕郡小野・栗栖野・土坂・賢木原にそれぞれ一所あり(『延喜式』巻40、主水司)、北区西賀茂氷室の氷室は栗栖野に該当するとされる。

 『延喜式』によると、天皇には4月1日から9月30日まで氷を供し、中宮・東宮・斎宮・妃・夫人・尚侍・雑給氷者・侍従にも氷を給された。その結果、主水司所管の氷の運搬量の合計は年間800〜900駄、78tに達すると考えられている。その需要をまかなうため、山城国をはじめとした5ヶ国の氷室の合計は21室、氷池の合計は540ヶ所にも達した。その労役に従事する徭丁は全体で796人であり、うち山城国では414人となっている。その労役の内容は、氷池に張った氷を切り出して氷室に納めること、氷室を修理すること、氷室の氷を主水司に納めることである。氷1駄を運ぶ徭丁は栗栖野では2人と規定され、駄を運ぶ徭丁には一日一人あたり米4合、塩5撮(0.009リットル)、駄馬用の秣稲を2把給された。これらは年間給付額を計算して、毎年宮内省に申請して受理する必要があった。駄には氷標幡なる長さ2尺(60cm)の旗がつけられた。1駄あたり8個運搬できたようで、氷の重量は1個あたり10.8s、1荷駄あたり86.4sとなる。なお元慶8年(884)7月6日には氷を駄する牝馬が主水司にて流産したが、これは穢(ケガレ)にあたるにもかかわらず馬主は隠匿して人には知らせず、主水司はその氷をそのまま御膳に供奉してしまうという事件がおこっている(『日本三代実録』巻46、元慶8年7月19日丁未条)


 さて栗栖野の氷室であるが、氷室田が分布していた山城国愛宕郡八ヶ郷は寛仁元年(1017)11月の賀茂社行幸に際して、同社に寄進されたが、翌2年(1018)11月には愛宕郡八ヶ郷に散在する氷室等を賀茂社領から除かれた(『類聚符宣抄』)。源経信(1016〜97)の歌集『大納言経信集』野外春雪に「春も見る氷室のわたりけを寒みこやくるすのの雪のむら消え」とあり、栗栖野の氷室が11世紀段階で残存していたことが確認されるが、また氷室を除く栗栖野の地が賀茂社領であったことが寛治4年(1090)の「鴨御祖大神宮申状案」(『平安遺文』1287)に確認される。

 氷室跡の規模は現状で直径6〜8m、深さは2m前後であるが、ボーリング調査によればさらに0.5mほど深いことが判明している。これが古代からのものであるかどうかは不明で、『雍州府志』(1681)に「今、氷室絶えたり」とあるように、江戸時代には氷室の機能は失われ、明治頃になって復活したとみられている。現在3基の氷室跡が斜面に残存し、周囲には樹木がないが、刊行物にみえる氷室はいずれも樹木が周囲に生えており、もとは樹木があったものとみてよい。氷室の木を伐採したため、氷室に日陰がなくなって氷が溶けそうになったという記録(『実隆公記』永正6年3月11・14日条)がそれを裏づけている。

 なお都祁の氷室の和銅5年(712)2月における規模を長屋王家木簡によってみてみると、都祁の氷室は2具あり、深さはそれぞれ1丈(3m)、周囲はそれぞれ6丈(18m)、氷室を被う草は1,000束で、1室にそれぞれ500束づつで、この草を刈り取るのは20人、一人あたり50束がノルマにかせられた。また功に応じて布3常、米4斗、塩1升、戸のカスガイ2具を鉄2斤で造って給付したとある(『平城京木簡』2)


京都市中京区の主水司跡石碑(平成19年(2007)2月3日、管理人撮影)

「風神」と氷室神社

 氷室神社の勧請年は不明であることは前述の通りである。中世以降、主水正を世襲し、宮中に氷を供御することにたずさわった清原氏が、氷室や氷池の守護神として氷室神を勧請したという伝承がある。

 その一方で、『延喜式』巻40主水司によると、「氷池風神」を9所で祀り、うち山城国では5所にあるとされる。この5所というのは山城国に設置された氷室の数と合致し、「氷池風神」というのは氷室と関係のある神であることがしられる。また暖冬で氷が薄い年には祀りを行い、祭祀料規定もある。すなわち氷室神社は天長8年(831)前後に栗栖野に氷室が設置されたのにしたがって祀られた「氷池風神」の後の姿である可能性が高い。

 この氷室に関する神は日本だけのものではない。隋(581〜618)では仲春(2月)に氷室を開き、寒神を祀るということが行われており(『隋書』巻第7、志第2、礼儀2)、これは唐制にも引き継がれた(『通典』巻第55、礼15、沿革15、吉礼14)。しかし隋のものは氷室開きを祀るというもので、現在金沢で行われている「氷室開き」に近いものであるのに対し、「氷池風神」はあくまで氷製造段階での祀られる対象である。

 氷室神社の主神は現在では額田大中彦皇子に氷を献上した稲置大山主神であるということになっているが、明治16年(1883)の『愛宕郡神社明細帳』では「氷室明神」とあり、社殿間数は梁行3尺9寸、桁行4尺8寸とある。また拝殿は方1間3尺で、皇嘉門院の寄附であるとする。本殿の横の末社は2社が鎮座し、覆屋1宇が両社を保護している。この末社は明治16年(1883)の『愛宕郡神社明細帳』によると、正面向って右が太神宮社で、皇太神宮を祀り、社殿間数は梁行3尺、桁行2尺5寸とある。正面向って左が稲荷神社で、倉稲田明神を祀り、梁行3尺、桁行2尺5寸とある。

 拝殿は方1間ほどで、屋根はこけら葺、平軒唐破風を設けてある。近衛家に仕えていた当地出身の女中がこの建物を拝領したという伝承がある。宮内庁書陵部の『近衛殿御屋敷女二之宮御殿指図極』に描かれている建物の中に氷室神社の拝殿に合致するものがあり、そのことから寛永13年(1636)近衛尚嗣に後水尾天皇の第2皇女の女二之宮すなわち昭子内親王(1625〜51)が降嫁した際に建てられた女二之宮御殿の鎮守の拝殿であったことが判明している。さらに女二之宮御殿は元和6年(1620)に東福門院(1607〜78)が入内した時に建てられた女御御里御殿を移築したものであるため、御所より近衛家に移築された鎮守拝殿が、さらに近衛家より氷室神社に移築されたということになる。


氷室、上から(平成19年(2007)1月25日、管理人撮影) 

[参考文献]
・藤岡通夫『京都御所』(彰国社、1956年)
・福尾猛市郎「主水司所管の氷室について」(『日本歴史』178、1963年3月)
・井上薫「都祁の氷池と氷室」(『ヒストリア』85、1979年12月)
・京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会、1983年)
・『京都市の文化財』第12集(京都市文化観光局文化部文化財保護課、1995年)
・北田栄造「氷室七景」(『古代文化』48-3、1996年3月)


氷室、下から(平成19年(2007)1月25日、管理人撮影) 



「本朝寺塔記」へ戻る
「とっぷぺ〜じ」に戻る