竜興寺



竜興寺全景(平成19年(2007)3月22日、管理人撮影。) 

 竜興寺(りょうこうじ)は臨済宗妙心寺派の寺院で、南丹市八木町に位置しています。JR山陰線八木駅より徒歩数分のところです。開山は義天玄詔(1393〜1462)で、開基は応仁の乱で悪名高い細川勝元(1430〜73)。本尊は釈迦如来。この竜興寺は京都市右京区の竜安寺、亀岡市の竜潭寺とともに「京都三竜寺」と称されています。


義天玄詔 その@ 〜師日峰宗舜と出逢うまで〜

 竜興寺の開山は義天玄詔である。以降、初期妙心寺派祖師の基本的伝記である『正法山六祖伝』竜安義天詔禅師伝によって記述してみる。

 義天玄詔は土佐国(現高知県)出身で、俗姓は蘇我氏。大化の改新の契機となった政変である乙巳の変(645)で殺害された蘇我入鹿の後裔と伝えられる。『正法山誌』第6巻、古今紀談には、軍記物語『曾我物語』で有名な曾我兄弟の五郎時宗(時致)の孫とする。それによると曾我兄弟が父の仇(工藤祐経)を討ち取った際に、助成は戦死し、時宗(時致)は生捕りにされて由比浜で斬られようとしたところ、源頼朝がその義勇を惜しんで死一等をゆるし、曾我兄弟を助成した箱根別当にあたえて土佐に配流したという。その曾我時宗(時致)の子孫が義天玄詔なのであるという。しかし実際には建久4年(1193)5月29日に工藤祐経の子犬房丸に引き渡されて斬首されており、土佐国の配流は確認できない。もっとも、これは貴種流離譚を含む祖先伝承に、義天玄詔が貴種であることを示そうとする門下の伝承が加わったのものにすぎないのであるから、事実であろうとなかろうと本筋にはとくに関係しない。

 義天玄詔は寛正3年(1462)に70歳で示寂していることから逆算すると、1393年誕生ということになる。父は生まれた子を「王法師」と名付けた。現在からみると奇妙な名であるが、昔日本では小児を名づけて○△法師と名付ける習慣があった。応永14年(1407)、15歳の時に土佐国天忠寺の義山和尚によって剃髪し、応永17年(1410)18歳で得度し、海を渡って京に上った。なお義天玄詔の法諱である玄詔は、当初は明詔であったが後に玄承と改め、晩年に自ら玄詔としたが、混乱を避けるため特に明記しない限り「義天玄詔」とする。

 建仁寺に掛搭し、同寺の開山塔である護国院にあって侍客(住持の内客を掌る)となり、やがて侍香に転じた。建仁寺に孤芳阿菊が住山したとき、蔵主となり、結制秉払した。この時に細川満元は法筵にのぞんで楽聞していたが、義天玄詔をみて周囲に「わが州のさいわいなり」と称賛したという。この孤芳阿菊は古芳阿菊ともいい、夢想疎石の法嗣龍湫周沢(1308〜88)の弟子であり、華徳院に住しており、建仁寺第107世住持となったという(『扶桑五山記』4、建仁寺住持位次)。義天玄詔はこの時まで五山派に属していたことが窺える。

 その後、義天玄詔は南禅寺福聚院の舂夫宗宿のもとで学んだが、2年後に去った。舂夫宗宿は不昧子と号し、無因宗因に印信を受けた。筑前国の崇福寺に住み、南禅寺の福聚院に戻っており(『延宝伝灯録』巻第28、筑前州崇福舂夫宗宿禅師伝)は、ここではじめて関山派の法を学んだのである。義天玄詔は舂夫宗宿のもとを去って、尾張国犬山の瑞泉寺の日峰宗舜(1368〜1448)のもとに参禅した。



関山派事情

 関山派とは、関山慧玄(1277/97〜1360)を始祖とする臨済宗の一派である。関山慧玄は妙心寺の開山であり、関山派=妙心寺派といってもよい。関山慧玄は大徳寺開山宗峰妙超(1282〜1337)の法嗣であり、関山派・大徳寺派ともに室町時代の禅宗の主流をしめた五山派と一線を画した。それは同時に幕府による禅院政策の対象外である、いわゆる林下に属することとなる。のちに関山派は、白隠慧鶴(1685〜1768)を輩出し、現在の臨済宗の法系はすべて白隠慧鶴の後裔であることから、関山派の法系の祖である大国師南浦紹明(1235〜1308)・大国師宗峰妙超・山慧玄の3人をあわせて「応灯関」と称される。

 関山派は妙心寺を中心としていたが、応永6年(1399)に大内義弘(1356〜99)が室町幕府と戦った応永の乱に連坐して妙心寺は完全に廃絶となった時期があった。大内義弘は周防・長門・石見・豊前の守護であったが、室町幕府の確立に貢献し、明徳の乱(1391)の恩賞としてさらに和泉・紀伊の守護となり、6ヶ国の守護大名となっていた。和泉国の守護となったのを契機としてか、大内義弘は隣国の河内国に拠点をもっていた関山派に接近し、大内義弘と拙堂宗朴(妙心寺第6世)は資檀関係を結ぶこととなった。大内義弘は6ヶ国の守護大名であるばかりか、対外貿易によって莫大な利潤を得るようになっており、日本国内では屈指の勢力となっていた。しかし権力の絶対化をめざす将軍足利義満(1358〜1408)は有力守護大名を圧迫・挑発した。結果義弘は鎌倉公方の足利満兼と通じ、10月に5,000の軍勢を率いて和泉国堺に入って蜂起、幕府軍との20日間の戦闘の末12月21日に大内義弘の自決によって平定された。

 応永の乱が平定された後、諸将が足利義満に「妙心の拙堂、賊虜に混じて軍中を馳突す。賊と同罪なり」と訴えた。義満はこれを信じて拙堂宗朴のみならず、罪科を妙心寺全体に及ぼして妙心寺の境内地を取り上げ、荘園や寺産までも没収して子の青蓮院に与えた。さらに3年後、ふたたび没収した土地を7所に分割し、実弟で南禅寺徳雲院の廷用宗用和尚に与え、そのほかの荘園は諸方に散逸させた。廷用宗用は妙心寺を「竜雲寺」と改め徳雲院末として管理した。これによって妙心寺は完全に廃絶し、当時の門徒達は地方の関係寺院などによってその場をしのぐしかなかった(『正法山六祖伝』正法山妙心禅寺記)

 永享年間(1429〜41)の初めには妙心寺はすべて他寺の領地となっており、堂宇は破壊・撤去されており、ただ開山塔の微笑庵が残るのみとなっていた。ある日廷用宗用は南禅寺の根外宗利西堂に対して、「華園妙心寺はお前の祖師の遺せきである。いままで将軍の命によって私に賜っていたが、私は今これを西堂(根外宗利)に返還しよう。よろしく同門の諸老に報告しなさい。合浦の珠を収拾する(一度失ったものが再び持ち主のもとに還ること)は可とすべきことである。」といった(『正法山六祖伝』正法山妙心禅寺記)。根外宗利は雲山宗峨の法嗣であり(『正法山誌』第1巻、人物)、この時南禅寺に住していた。根外宗利は関山派の耆老のうち京都近辺に住む者達を招集して会議を開き、妙心寺の再興の適任者として日峰宗舜を推薦した。耆老達はこれを受け入れ、日峰宗舜を妙心寺に住まわせるべく、使者を瑞泉寺に遣わした。日峰宗舜はこれを固辞したが、耆老達の再三の要請によって妙心寺に入寺した。日峰宗舜はまず方丈を建設し、開山塔の微笑庵を荘厳した。また妙心寺山内に退蔵院を造営し、自らの塔所として養源院を建立して妙心寺を再興へと導いた(『正法山六祖伝』正法山妙心禅寺記)


妙心寺養源院(平成19年(2007)1月22日管理人撮影)

義天玄詔 そのA 〜師日峰宗舜の示寂まで〜

 このように、義天玄詔が日峰宗舜の弟子となった時期は、妙心寺は壊滅状態にあり、地方の関連寺院や南禅寺のように関山派に好意的な寺院に身を寄せていたのであった。

 義天玄詔は舂夫宗宿のもとを去って、尾張国犬山の瑞泉寺の日峰宗舜のもとに参禅した。日峰宗舜は無因宗因の法嗣で、前述の舂夫宗宿と同門であった。日峰宗舜は人に接することが性急で、指導は極めて厳しかった。義天もその指導にこたえて寝食を忘れて修行すること5年、ついにさとりの境地に至った。ここに日峰宗舜より印可を受け、臨済宗関山派の正脈を嗣いだのであった。時に応永35年(1428)2月13日、義天玄詔31歳であった。印可状は妙心寺に現存する。

 その後父が没したので郷里に戻ったが、故郷の人は義天のために竜門山瑞巌寺を建立している。京に戻って日峰宗舜のもとにいたが、しばらくもしないうちに美濃国愚溪庵に住み、また再び瑞泉寺に赴いて塔頭を管理した(『正法山六祖伝』竜安義天詔禅師伝)。文安5年(1448)正月に師の日峰宗舜が示寂したので、義天玄詔は瑞泉寺を出て妙心寺養源院の塔主となった。


細川氏と関山派

 宝徳2年(1450)、師の日峰宗舜の3年忌が催されたが、それからしばらくもしないうちに養源院の義天玄詔のもとに管領細川勝元(1430〜73)が訪れた。この時細川勝元は若干21歳であったが、義天玄詔に寺院の建立を申し出た。これが現在の竜安寺である。この申し出を聞いた時、義天玄詔は感泣したという。竜安寺建立に際して、義天玄詔は建立地の選定にあたり、北山の嶺が最適であると考えた。そこで持ち主を問うてみると、右大臣徳大寺公有(1410〜74)の所有地であるという。そこで細川勝元は自らの土地を割いて徳大寺公有の所有地と交換し、ここに竜安寺を建立した。なお義天玄詔は師の日峰宗舜を勧請開山としている。

 細川氏と関山派の関係は、義天玄詔の師日峰宗舜と、細川勝元の父細川持之(1400〜42)との関係にまで溯る。嘉吉2年(1442)8月、細川持之は死の床にあった。持之は邸宅に日峰宗舜を招いて問いかけた。「生死到来す。いかんが回避せん。」 日峰宗舜はこれに対して「本来生無く、生来死に死去なし。更になんの回避と説かんや」と答えた。持之はこれを聞き合掌して没した(『正法山六祖伝』養源日峰舜禅師伝)

 細川氏は足利氏支流で歴代管領をつとめ、丹波・摂津・讃岐・土佐の守護を世襲した。管領細川家を確立した細川頼之(1329〜92)は臨済宗夢窓派の碧潭周皎(1291〜1374)に帰依して地蔵院を建立した他、曹洞宗の通幻寂霊(1322〜91)を庇護して領国丹波国に永沢寺を開き、領国讃岐国の支度寺も保護している。そのようななかで、持之と勝元の関山派への帰依は、関山派台頭の一大転機ともなるのである。


竜安寺石庭(平成17年(2005)2月23日管理人撮影) 

竜興寺の開創

 竜安寺建立の翌年の宝徳3年(1451)、細川勝元は領国丹波に寺院を建立し、義天玄詔を開山とした。その地を八木村といったため、米山竜興寺と称した。寺院普請開始の日、義天玄詔と細川勝元は一簣(もっこ)の土を運んで工事関係者の労に率先した(『正法山六祖伝』竜安義天詔禅師伝)。このように一簣の土を運んで衆労に先んじることは、南禅寺建立に際して亀山上皇と規庵祖円の故事にならったもので、相国寺建立の時も足利義満と義堂周信(1325〜88)も対となって一簣の土を運んでいる(『空華日工集』永徳3年12月14日条)

 竜興寺と京都との距離は、徒歩で一日程であったため、義天玄詔は幾度も両所を往来して門弟を指導し、日々作務を行っていた。それは雨雪であっても休むことがなかったため、たえられず脱走する者が多かった。


義天玄詔 そのB 〜大徳寺入寺と示寂〜

 享徳2年(1453)義天玄詔は大徳寺に入寺した。妙心寺開山関山慧玄は大徳寺開山宗峰妙超の法嗣であるので、関山派は大徳寺派の別派ということになる。しかし大徳寺内では関山派は擯斥(追放)されたということとなっていたため、関山派の僧が大徳寺に入寺することはなく、また妙心寺自体が壊滅状態にあったこともあり、関山派の大徳寺入寺はなかった。しかし妙心寺が再興され、また関山派と管領細川氏とが密接な関係をもつと、細川氏の支援もあって日峰宗舜は文安4年(1447)8月22日に大徳寺に入寺することとなった。しかし大徳寺山内でも強硬な反対があり、関山派の大徳寺入寺は困難であった。

 義天玄詔は享徳元年(1452)12月に勅命を奉じて大徳寺に入寺した。それまで大徳寺入寺者は黄衣を着用する習わしであったが、はじめて紫衣着用を勅許された。これには細川勝元の尽力があったという(「烏丸資任書状」大徳寺文書)。義天玄詔は3日で大徳寺を退院し、竜安寺に帰った。長禄3年(1459)10月12日、妙心寺開山関山慧玄の百年忌に際して、衣資十万銭を五山諸刹に分送して、五山の諸僧を竜安寺に屈請した。この衣資十万銭は細川勝元から出たものであった。

 義天玄詔は竜安寺に住むこと10余年、寛正3年(1462)3月18日卯刻(午前5〜7時)に示寂した。70歳。竜安寺の西北の丘に葬られた。義天玄詔は「面目厳冷にして、語言は人情をいれず、諸方に畏憚せらる」と評され(『正法山六祖伝』竜安義天詔禅師伝)、また門弟からは「義天はおのれを処するに厳峻、機鋒尖鋭のごときは、以て触るるべからず、故にその門に登って一問を致す者は、身は栗(りっ)し汗流る、江湖多くこれを難ずるなり」(『碧山日録』寛正3年3月21日条)と恐れられていたという。


竜興寺鐘楼(平成19年(2007)3月22日、管理人撮影) 

雪江宗深

 雪江宗深(1408〜86)は義天玄詔の法嗣で、現在では妙心寺中興の祖とみなされる。

 雪江宗深は摂津国の出身で、建仁寺の文瑛禅師のもとにいたが、尾張国瑞泉寺の日峰宗舜のもとに参禅し、関山派の門に入った。日峰宗舜の門弟であった義天玄詔・雲谷玄祥・桃隠玄朔は次々と印可状を受けて日峰宗舜のもとを去っていったが、雪江宗深は印可状を与えられなかった。日峰宗舜は雪江宗深を義天玄詔に付属したため、雪江宗深はそのまま義天玄詔の門下に入った。義天玄詔は軽々しく印可を与えるようなことをしなかったため、雪江宗深は義天玄詔に面会するたびに罵倒される始末であった。義天玄詔が竜安寺に入寺してから、雪江宗深は妙心寺養源院の塔主となったが、毎日朝夕、養源院と竜安寺の間を往復し後輩に交じって参禅した。そのため後輩達は「院主(雪江宗深)は禅機がすすんでいない」とバカにしたため、かつての同門ですでに印可状を受けていた雲谷玄祥・桃隠玄朔はみるにしのびなかったという。ある日隠遁の志がおきて、丹波の別院に入って州人の小河丹後守の保護を受けた。しばらくもしないうちに竜安寺の義天玄詔に呼び戻されて再び養源院に戻った(『正法山六祖伝』衡梅雪江深禅師伝)。寛正3年(1462)2月22日にようやく義天玄詔より印可状を受けた。雪江宗深時に55歳。その26日後の3月18日に義天玄詔が没しており、雪江宗深は義天玄詔から印可状を受けた唯一の人物となった。この印可状も妙心寺に現存する。

 義天玄詔が示寂した後、雪江宗深は細川勝元の帰依を一身にあつめ、竜安寺の住持となった。雲谷玄祥(1456寂)・桃隠玄朔(寂年未詳)も相次いで遷化し、また彼らの門下では印可状を受けた者がいなかったため、義天玄詔・雲谷玄祥・桃隠玄朔の門下はすべて雪江宗深の門下に入ることとなり、その結果雪江宗深は関山派での第一人者となった。寛正3年(1462)8月22日には勅命を奉って大徳寺に入寺した。「勅命」とはいっても細川勝元の尽力があったことは明らかで、細川勝元と山名持豊(1404〜73)が軍勢を率いて警固を行った(『正法山六祖伝』衡梅雪江深禅師伝)。この警護した両人はしばらくもしないうちに対立状態となり、いくつかの要因が重なって未曽有の戦乱を引き起こした。それが応仁の乱である。


応仁の乱と竜興寺

 応仁元年(1467)5月、応仁の乱が勃発して、雪江宗深は細川勝元の領国丹波国の竜興寺へと避難した。大徳寺・妙心寺・竜安寺は戦火で壊滅したが、その報を聞いた雪江宗深はにこやかに笑って門衆に「お前達、歎くことはない。これは細事である。その昔花園法皇は離宮を改めて禅寺とされた。そのこと宸翰に書かれている。諸天があえて護ることもない。」といった上で、「興廃には時がある。花園(妙心寺)にも再び春が来るだろう。王法や仏法がいつか再び勃興することを足のつま先を立てて待とうではないか」といった(『正法山六祖伝』正法山妙心禅寺記)

 竜興寺での雪江宗深の動向を伝える逸話は少ないが、当代を代表する文化人である一条兼良(1402〜81)から漢詩が贈られた。彼もまた戦火を避け、子の住む奈良に疎開していた。
  聞説龍興雲亦浮   聞き説く竜興の雲もまた浮ぶと
  雲龍變化卷潭湫   雲竜の変化潭湫を巻く
  喝雷棒雨無途轍   喝雷棒雨途轍なし
  天下蒼生蘓息不   天下の蒼生蘇息するせざるや
雪江宗深の和答
  喝雷轟起盡閻浮   喝雷轟起す尽閻浮
  解道龍興百丈湫   いうことを解す竜興百丈の湫と
  殿下仁風扇九野   殿下の仁風九野を扇ぐ
  等閑吹散陣雲不   等閑に陣雲を吹散すやせざるや

 その後雪江宗深は文明年間(1469〜87)の初めに竜安寺を再建し、ついで妙心寺を再建した。晩年には中風によって半身不随となったが、それでも意気軒昂で大応国師南浦紹明の遺跡である龍翔寺の修復を手がけるなど、関山派法系の再興に尽力した。雪江宗深は文明18年(1486)6月2日に示寂した。79歳。妙心寺衡梅院に葬られた。


竜興寺本堂(平成19年(2007)3月22日、管理人撮影)

雪江宗深法嗣の竜興寺住山

 雪江宗深が竜興寺を去ってから当寺に入寺したのは法嗣の東陽英朝(1428〜1504)である。東陽英朝は美濃国賀茂郡の人で、土岐氏の出身である。5歳の時に上京し、天龍寺・南禅寺をへて、竜安寺の雪江宗深の門下となった。東陽英朝は文才が秀で、仏典であろうとなかろうと見た書はすべて記したため、文雅で知られることとなる(『延宝伝灯録』巻第28、京兆大徳東陽英朝禅師伝)。文明10年(1478)正月に雪江宗深より印可を受けた(『雪江禅師語録』)。文明12年(1480)7月15日に竜興寺に入寺しているが(『少林無孔笛』巻之1、米山竜興禅寺語)、この時のは初住ではなかったらしく、東陽英朝自身は雪江宗深が中風に倒れる前年である文明10年(1478)に竜興寺に居住し、師の雪江宗深が「妙心寺記」「関山行実記」を撰述し、東陽英朝には校正および新たに関山派の祖師の行状を撰述することを命じたということを自ら記している。なおその時は完成することはなかったが、明応5年(1496)に美濃国定恵寺で雪江宗深の著作部分と東陽英朝の著述をあわせて『正法山六祖伝』に結集した(『正法山六祖伝』跋)。文明13年(1481)11月19日に大徳寺に入寺し、その後瑞泉寺に移り、文明18年(1486)頃竜興寺に再住した。その後明応6年(1497)に美濃国各務郡の不二庵に移った。

 雪江宗深の法嗣は他に景川宗隆(1425〜1500)・特芳禅傑(1419〜1506)・悟渓宗頓(1416〜1500)の3人がいる。これに前述の東陽英朝をあわせて「妙心寺四派」と呼ばれる。『延宝伝灯録』では4人とも竜興寺に住したこととなっているが、確実視されるのは特芳禅傑のみであり(『西源特芳和尚語録』巻外、伝)、かつ詳しい年はわからない。また景川宗隆も竜興寺に滞在した形跡があるが(『景川和尚語録』巻之上、丹州米山竜興寺語)、詳しい年は不明である。

 その他に竜興寺に住したことが確認できるのがトウ(登+おおざと。UNI9127。&M039630;)林宗棟である。トウ林宗棟は悟渓宗頓の法嗣で、山名持豊の子である。細川勝元ははじめ子がなかったため、養子としたのだが、政元(1466〜1507)が生まれたため、出家させてしまった。これがトウ林宗棟なのだが、これより以来、細川家と山名家は互いに憎みあうようになったという。トウ林宗棟は成長するつれ頭角を現わし、関山派の長老となった。関山派の長老は妙心寺入寺の規を大徳寺で行うこととなっていたのだが、この時トウ林宗棟は竜興寺にいて、勅使をここで受け、妙心寺に入寺してしまった。これは細川家の意によるところであったのだが、大徳寺の衆徒は赤松家に訴え、このたびの規式を破棄しようとした。しかし細川政元は妙心寺を多勢の軍卒を率いて警護したため、赤松家は手も足も出なかったという(『正法山誌』第5巻、参内)


竜興寺本堂庇(平成19年(2007)3月22日、管理人撮影) 

近世の竜興寺と塔頭

 寺伝によれば、天正7年(1579)竜興寺は付近の八木城落城の際に兵火に罹り焼失したという。これが大戦乱の記憶であったのか、あるいは単なる伝説の付加なのか、その実態はさだかではない。八木城は内藤宗勝の拠点とされており、織田信長に反旗を翻した波多野氏の攻撃で落城している。なお口丹波一帯の社寺は一様に「明智光秀に焼かれた」云々の伝承を持つ。いずれにせよ、戦国時代の戦乱によって丹波を領国としていた細川家は完全に没落し、丹波は7小藩に分割されて江戸時代の幕藩体制を迎えることとなる。細川家の保護を受けていた竜興寺もまた衰退した。

 竜興寺の領域を支配においたのは、小出家の丹波園部藩5万石である。園部藩の宗教政策は、禅宗それも曹洞宗を宗教政策の中心に置き、曹洞宗太容派の玉雲寺の下に徳雲寺・竜穏寺の2ヶ寺を置き、その下に40ヶ寺づつ末寺とする政策をとった。そのため臨済宗妙心寺派で竜安寺の末寺であった竜興寺(『正法山妙心禅寺末寺帳并末々帳』〈『江戸時代寺院本末帳集成』上188頁〉、『寺院本末帳』95冊〈『江戸時代寺院本末帳集成』中2320頁〉)は自然、園部藩の宗教政策の蚊帳の外に置かれ、中世とはうってかわって船井郡の中心的寺院である役割を果たすことはなくなった。

 竜興寺は寺伝によれば、元和頃(1615〜23)に伯蒲(伯蒲慧稜)和尚が再興したという。元文5年(1740)時点での竜興寺は、4間6間の方丈1棟で、境内地面積は60間に50間ほどであった(『寺社類集』巻之1、八木村)。現在の本堂には天明6年(1786)の建立とみられており、桁行17m、梁行11m。入母屋造桟瓦葺となっている。また正面には「方丈」の扁額が掛けられている。鐘楼は延享4年(1747)頃の建立で方1間、庫裏は弘化3年(1846)頃の建立とされる。鐘楼は南丹市の指定文化財となっている。ほかに開山堂があり、秋葉堂が鎮座する。

 また塔頭に栖碧院・雲処軒・ビン(王へん+民。UNI73C9。&M020916;)玉軒・東雲庵の5院があった。栖碧院は康正年中(1455〜57)義天玄詔の建立、雲処軒は長禄年中(1457〜60)義天玄詔の建立、ビン玉軒は元亀年中(1570〜73)宗佐首座の開基建立、東雲庵は元和8年(1622)宗延首座(?〜1674)の開基建立であるという(『寺社類集』巻之1、八木村)。ビン玉軒を建立した「宗佐首座」とは材岳宗佐(?〜1586)のことである。

 これら塔頭のうち、ビン玉軒は明治16年(1883)までに姿を消し、栖碧院は明治17年(1884)1月11日に本寺竜興寺へ合併。雲処軒は明治27年(1894)5月31日に高知県吾川郡上八川村に移転した(京都府立総合資料館蔵、京都府庁文書うち京都府庁史料『丹波国船井郡寺院明細帳』)。現在も残るのは東雲庵のみで、東雲寺と寺号を改めている。


東雲寺(平成19年(2007)3月22日、管理人撮影) 

[参考文献]
・川上孤山『妙心寺史』上(妙心寺派教務本所、1917年4月)
・妙心寺大観編集委員会編『妙心寺大観』(妙心寺派宗務本部、1972年3月)
・萩須純道「初期竜安寺について」(『禅文化』64、1972年3月)
・竹貫元勝「丹波園部藩における曹洞宗教団の発展」(『花園大学研究紀要』7、1976年3月)
・妙心寺派宗務本所総務部編『昭和改訂正法山妙心禅寺宗派図』11(妙心寺派宗務本所、1977年3月)
・萩須純道『正法山六祖伝訓註』(思文閣出版、1979年2月)
・『京都の社寺建築(乙訓・北桑・南丹編)』(京都府文化財保護基金、1980年9月)
・玉村竹二『五山禅僧伝記集成』(講談社、1983年5月)
・大山喬平編『細川頼之と西山地蔵院文書(京都大学文学部博物館の古文書3)』(思文閣出版、1988年10月)
・今泉淑夫校注『一休和尚年譜1(東洋文庫641)』(平凡社、1998年9月)
・八上城研究会『戦国・織豊期城郭論』(和泉書院、2000年6月)





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