補厳寺



補厳寺四脚門(平成19年(2007)6月25日、管理人撮影。) 

 補厳寺(ふがんじ)とは奈良県田原本町味間中垣内に位置する曹洞宗寺院です。現地はかなりわかりにくいところにあるので、国道14号で味間まで行って、その近くのコンビニで道を聞くのが一番手っ取り早い方法のようです。

 現存する建造物は門・鐘楼・庫裏が残っているのみで、しかも庫裏はみることはできません。現在こそほとんど廃寺に近い状態ですが、中・近世では曹洞宗了堂派の根拠として末寺230ヶ寺を数える大寺だったのです。また補厳寺の第2代竹窓智厳には、能楽の大成者・世阿弥が帰依したことでも有名です。

 世阿弥や檀越の十市氏との関係で語られることの多い補厳寺ですが、同寺の本末関係・住山した僧侶について詳細に語られてきたことはほとんどなかったので、これを機にみてみることにしましょう。


補厳寺の開創年

 補厳寺は「補巌寺」「補岩寺」とも記し、山号を「宝陀山」という。「補巌」も「宝陀」もフダラクのことを指し、観音菩薩の住む霊地のことをさす(香西1962)

 補厳寺の開創年について、二説ある。一つは『日本洞上聯灯録』の説で、至徳元年(1384)とするものである。二つ目が『大和志』の康安元年(1361)とするもので、両説には23年間もの隔たりがある。ただし両説とも開山は了堂真覚(りょうどうしんがく)で一致している。

 『日本洞上聯灯録』とは、江戸時代に成立した僧伝で、およそ曹洞宗の僧侶700人の伝記である。このうち補厳寺の開創年は了堂真覚伝にあるのだが、この部分はその以前の元禄6年(1693)に湛元自澄が撰述した『日域洞上諸祖伝』をそのまま流用したものである。しかし『日域洞上諸祖伝』には補厳寺の開創年についての記述はなく、『日本洞上聯灯録』が付け足したものなのである。

 もう一方の『大和志』は、正式には『日本輿地通志畿内部』といい、江戸幕府による最初の官撰地誌である。これは企画された『日本輿地通志』のうち、板行され流布したものが畿内部だけであったところから、『日本輿地通志畿内部』という長ったらしい書名をもつこととなったのであるが、『五畿内志』と通称される。この『五畿内志』のうち大和国部分のみは『大和志』と通称されるのである。享保19年(1734)に完成した同書は、その編集に際して、各地を巡歴してその地理を相し、古文書・古記録を収集し、伝承・歌謡などを探訪し、それら史料を根拠に記述を進めたことから、比較的史料的価値は高く、後代の地誌や名所図会の典拠となっっている。

 補厳寺開山年が記されているのは官選地誌と曹洞宗僧伝であるということになるのであるが、開創から300〜400年後の史料であるから双方とも決め手を欠き、結局のところ、補厳寺の正確な開創年というのは判然としないのであるが、了堂真覚が開山である以上は、至徳元年(1384)にしろ康安元年(1361)にしろ、双方に近い年代に建立されたことは間違いなさそうである。

 補厳寺は大和国に最初に建立された禅宗寺院とされるが事実ではない。それ以前に臨済宗の達磨寺が嘉元3年(1305)に建立され、まもなく興福寺六方衆によって破却されている。ただし延文2年(1357)には再建されている。


開山了堂真覚

 補厳寺の開山は了堂真覚(1330〜99)といい、曹洞宗の僧侶である。彼の伝記は『延宝伝灯録』・『日域洞上諸祖伝』・『日本洞上聯灯録』にみえる。このうち『日本洞上聯灯録』は前述の通り、『日域洞上諸祖伝』を孫引きしたものにすぎないのであるから、了堂真覚について知るには『延宝伝灯録』と『日域洞上諸祖伝』を参着する必要がある。『延宝伝灯録』は、臨済宗妙心寺派の僧、卍元師蛮(1627〜1710)が延宝6年(1678)に撰述した禅僧伝記集で、日本における臨済・曹洞の禅僧1050人を列挙している。卍元師蛮自身が凡例で述べているように、曹洞宗の僧侶の伝記は少なく、また卍元師蛮は臨済宗妙心寺派の僧侶であるということもあって、曹洞宗僧侶よりも臨済宗僧侶に記述の重点を置き、曹洞宗僧侶は13世で止めているため、それほど伝記の数は多くない。また卍元師蛮自身が曹洞宗の僧侶の伝記を長年探し求めていたところ、最乗寺の龍州文海(?〜1541)の著作を入手してようやく書き記すことができたといっている。卍元師蛮がみたという龍州文海の著作は現存していない。一方の『日域洞上諸祖伝』は、湛元自澄(?〜1699)が元禄6年(1693)に撰述した曹洞宗の禅僧伝記集で、曹洞宗の僧伝としては最初のものであり、『大日本仏教全書』・『曹洞宗全書』に所収されている。以下、了堂真覚の伝を両書を中心に記述してみよう。

 了堂真覚は、太源宗真(?〜1370)の法嗣で、初め能登国総持寺(もと石川県鳳至郡門前町。現在は横浜市鶴見区に移転)の住持となり、その後加賀国仏陀寺に住んだ。太源宗真は曹洞宗太源派の祖で峨山紹碩の法嗣である。太源宗真は加賀仏陀寺を開創し、総持寺内に普門院を創設して、太源派の基礎を築いた。峨山韶碩には「五哲」と称された法嗣5人(太源宗真・通幻寂霊・無端祖環・大徹宗令・実峰良秀)がおり、観応元年(1350)に総持寺内にそれぞれ五院(普蔵院・妙高庵・洞川庵・伝法庵・如意庵)を建立して、総持寺の住持は五院の住持による輪番制とした。この太源宗真は加賀国に仏陀寺を現在の石川県能美市に建立して、太源派438ヶ寺の根本道場とした。補厳寺はこの仏陀寺の末寺であり、補厳寺の歴代住持は仏陀寺や総持寺普門院の住持に出世した。仏陀寺は現在は廃寺となっており、わずかに「仏大寺」の地名と観音堂が往事を偲ばせるにすぎない。

 了堂真覚は後に招聘されて大和国補巌寺の開山始祖となった。門人教育のために公案を挙げて、門弟に接していた。公案とは禅の問答のことで、これを参究・工夫することによって悟りを開く手助けとして禅宗では多く用いられてきた。しかし曹洞宗では坐禅することをもって足れりとする黙照禅を主としており、道元の只管打坐も相俟って、公案の利用は曹洞宗では珍しいものとなっていた。そのような中で太源派は公案を用いることが多く、臨済宗の禅僧に比べて文章を不得手とした曹洞宗の禅僧にあって、太源派が多くの優れた学僧を生み出すことができた要因ともなった。

 ある時、了堂真覚のもとに僧がやってきて、五位の訣を問いただしてきた。五位とは偏正五位(へんじょうごい)のことで、正中偏・偏中正・正中来・偏中至・兼中到があって、仏法の実態を5分類したものである。この時了堂真覚は親切にも丁寧に五位の訣を僧に伝え示した。夏安居が終わって、その僧が了堂真覚のもとに再び入室して、五位の訣を教授してくれた恩に感謝した。その時了堂真覚は「五位の外には、どのような一訣があるだろうか? お前はどのように理解しているか?」と質問した。その質問に僧は言葉が出なかった。そのため了堂真覚は「お前はまだ五位の境地に達していない。ここを去って綿密に精彩をつけなさい」といったという(『延宝伝灯録』巻第7、和州補巌寺了堂真覚禅師伝)

 貞治5年(1366)大和国三輪山に無著妙融(1333〜93)が住しており、了堂真覚は彼のもとを訪ねた(『延宝伝灯録』巻第7、和州補巌寺了堂真覚禅師伝では了堂真覚が日向国皇徳寺の無著妙融のもとに赴いたとする)。両者はこの時まで面識がなかったのであるが、会うなり「釈迦弥勒はこれ他奴である。しばらくしてから言ってみなさい。「他」というのは誰なのか?」と問いかけた。無著妙融は笑ったが、了堂真覚は「向上還という事はあるのか?無いのか?」とさらに問いかけた。無著妙融は「ある」とだけ答えた。そこで了堂真覚は「どのようなものなのか?向上事というのは?」というと、無著妙融は「茶でも飲め」と答えた。了堂真覚はこの言葉に感服して礼拝して退いた(『豊後州国崎郡妙徳山泉福禅寺開山無著勅謚真空禅師行道記』)

 了堂真覚は応永6年(1399)7月2日に示寂した。70歳(『日本洞上聯灯録』巻第3、仏陀大源宗真禅師法嗣、和州宝陀山補巌寺了堂真覚禅師伝)。法嗣は8人おり、竹窓智厳・奇叟異珍・太容梵清・方外光超・天寧良祐・麟岡慧祥・了然祖了・無学宗全の名が知られる(『日域洞上諸祖伝』巻之下、補巌寺了堂真禅師伝)



「ふかん寺二代」竹窓智厳

 補厳寺の第二世は竹窓智厳(ちくそうちごん、?〜1423)であり、了堂真覚の法嗣である。竹窓智厳の伝は『重続日域洞上諸祖伝』に収録されている。同書は蔵山良機(?〜1729)が、前述した『日域洞上諸祖伝』『続日域洞上諸祖伝』に漏れた僧の伝記を集成した、曹洞宗禅僧の伝記集であり、享保2年(1717)に刊行された。『大日本仏教全書』・『曹洞宗全書』に所収される。注目すべきは『重続日域洞上諸祖伝』に収録される竹窓智厳の伝の内容は、『日域洞上諸祖伝』に収録される了堂真覚の伝の内容と全く同じであるということである。すなわち『日域洞上諸祖伝』の了堂真覚の伝も、『重続日域洞上諸祖伝』の竹窓智厳も同一資料をもとに撰述されたということになる。とくに『日域洞上諸祖伝』に関しては資料提供に補厳寺が協力したとみられる。本来『日域洞上諸祖伝』の了堂真覚の伝に竹窓智厳の説話が覆い被さるようになったのは、補厳寺内部の事情が関係する。

 補厳寺は了堂真覚の後、その法嗣の竹窓智厳・奇叟異珍・太容梵清・方外光超・天寧良祐・麟岡慧祥・了然祖了・無学宗全が輪住として3年ごとに輪番で住持をつとめた。彼らの示寂後は、その法嗣達が継承することとなるのだが、主として竹窓智厳・奇叟異珍・太容梵清の法嗣が補厳寺の輪住を担当することとなる。しかし「補厳寺開山支派」(『田原本町史』史料編1、田原本町役場、2001年3月)によると、明応7年(1498)の泰岳□崇より、竹窓派が独住として補厳寺の住持を独占することとなった。その結果、了堂派の寺院であった補厳寺は、竹窓派の度弟院(つちえん。住持が自分の派下、あるいは得度させた弟子を後継とする寺院)寺院となってしまい、かわって太容梵清が建立した玉雲寺が末寺130ヶ寺を有して了堂派最大勢力となった。すなわち本来補厳寺の一末寺にすぎない玉雲寺が了堂派の指導的地位を有することとなったのである。そのため補厳寺では了堂真覚→竹窓智厳の法系を強調して、本来了堂派は補厳寺であることを思い起こさせる必要性に迫られたのである。そのこともあって『日域洞上諸祖伝』の了堂真覚の伝は、竹窓智厳と組み合わせることによって、了堂真覚の第一の法嗣が竹窓智厳であるように印象づけられる。

 竹窓智厳は、生誕年・俗姓ともに不明であるが、近江国(滋賀県)の出身であったという(『日本洞上聯灯録』巻第4、補巌了堂真覚禅師法嗣、和州補巌竹窓智厳禅師伝)。各地を旅しては名僧達のもとに遍く参じていたが、たまたま補厳寺の了堂真覚に謁する機会があった。了堂真覚は竹窓智厳と所証をためしてみたが、竹窓智厳は一歩も譲るまいと多言抗弁した。堂曰く、「お前は本当はまだ明快に理解していない。ただ分別によって仏法を理解会得を心得ているだけなのだ。このことは恐らくはもっともであろう。(なぜならば)このように去っては到ったところで、饒舌をふるい、人々をたぶらかしているだけだからである。(このような人間に)どうして無常殺鬼(人間の肉身が不断に変化して、きわまりなくはかないこと)を理解できよう。もし生死到来して自在無礙を得ることができれば、お前の意識の中に秘蔵するものことが取るに足るものなのだ。一旦去って空でありゆったりし、虚しくあって広いところに向って、さらに精彩をつけられれば、たちまちに古今(の賢人達)を打ち破ることができよう。全世界を蹴飛ばしてから(この境地は)始めて得ることができるのだ。」といった。この語に竹窓智厳は心服し、了堂真覚のもとに参禅することとなった(『日域洞上諸祖伝』巻之下、補巌寺了堂真禅師伝)

 了堂真覚がある日陞座(しんぞ)した。陞座というのは住持などが説法を行う建物である法堂(はっとう)の須弥壇に上って説法することであるが、了堂真覚はそこで「首山竹箆の話」を挙げた。「首山竹箆の話」とは、中国の禅僧首山省念が禅僧の持つ法具である竹箆(しっぺい)を取り上げて、「竹箆と呼ぼうにも竹箆という固定のものはなく、ただ竹で造ったものを仮に竹箆と呼ぶにすぎないし、また竹箆でないといえば、これも形としてあるから、それも背く。背触ともに非である。」といった公案である。了堂真覚は「触れず背かず、考えてなにか言いなさい。諸君、これは一体何なのか?」といった。竹窓智厳は了堂真覚が言い終わるや否や大いに悟って、聴衆の中から進み出て、敷物を手で高く掲げてそのまま投げ出した。了堂真覚は杖を握って、「お前はどうして一句もいわないのか?」といった。これに対して竹窓智厳は、「昨日すでに言い終わっています。」と答えた。了堂真覚は「(私には)お前を打ちすえる暇などない。しばらく去れ」といって、方丈に帰ってしまった。こうして竹窓智厳は各地を旅することをやめ、了堂真覚の命によって補厳寺を嗣ぐこととなった(『日域洞上諸祖伝』巻之下、補巌寺了堂真禅師伝)

 竹窓智厳はその後能登国の総持寺の住持となったが、しばらくもしないうちに住持を辞して補厳寺に戻っていった。竹窓智厳は自身の肖像画に次のような賛をした(『重続日域洞上諸祖伝』巻第2、補巌寺竹窓厳禅師伝)
  半身独立、叉手当胸。  半身独立して、叉手当胸(しゃしゅとうきょう。両手を重ねて胸にあてる作法)す。
  安身立命、擬議何容。  安身立命、擬議何ぞ容れん
 
 応永2年(1395)、竹窓智厳は加賀国(石川県)瑞川寺を建立し、師の了堂真覚を迎えて第一祖とした。師の了堂真覚示寂後に瑞川寺をとりしまっている。応永30年(1423)8月9日示寂して、瑞川寺にて荼毘された(『日本洞上聯灯録』巻第4、補巌了堂真覚禅師法嗣、和州補巌竹窓智厳禅師伝)。法嗣は15人おり、通峰真宗・大仲奇興・同軌阿轍らが有名である(『重続日域洞上諸祖伝』巻第2、補巌寺竹窓厳禅師伝)。そのほかにも中室俊一・無界善徹・宗峰霊真・草堂齢芳・一庵利諦・竺芳智梵・トク(賣+皮。UNI76BE。&M022929;)岩奇峻・章山宗鑑・義天主仁・正的・字堂覚卍・嵐了旧おり、この15人は「竹叟下十五哲」と称されている(「補厳寺開山支派」)

 竹窓智厳といえば、能の大成者の世阿弥(1363〜1443頃)が帰依したことで有名である。宝山寺蔵の金春(こんぱる)大夫家旧伝文書の中に、世阿弥から金春大夫(禅竹)へ宛てた書状2通が伝存している。そのうち年未詳5月14日付書状は、永享年内(1429〜41)の書状とみられている。その中で世阿弥は「仏法にも、宗師のさんがくと申ハ得法以後のさんがくとこそ、ふかん寺二代ハ仰せ候しか。(仏法にも、宗師の参学というものは、得法して以後の参学であると、補巌寺二代は仰っていましたので)」を記している。「得法して以後の参学」とは、前述した了堂真覚と竹窓智厳とのやりとりで、得法してからの修練こそが重要であるとの意味であることがわかる。このように世阿弥は親しく竹窓智厳に参禅しては教えを受けていたことがみてとれるのである。

 また補厳寺の田畑施入帳である「補厳寺納帳」(『田原本町史』史料編1、田原本町役場、2001年3月)には、世阿弥の法号「至翁禅門」と忌日の可能性がある8月8日の記載、およびその妻とされる「寿椿禅尼」の名が発見されたことによって注目された(香西1962)。これら補厳寺と世阿弥の関係によって、補厳寺は廃寺同然であるにもかかわらず、能楽愛好者が多く訪れ、四脚門の横には「世阿弥参学之地」碑がたつ。 


「世阿弥参学之地」碑(平成19年(2007)6月25日、管理人撮影) 

南蛮国の奇叟異珍

 竹窓智厳のあとの補厳寺の住持について、「補厳寺開山支派」では異なる見解をみる。同書の系図では3代目は竹窓智厳の法嗣同軌阿轍が継いだとし、古記では奇叟異珍(きそういちん)であるとする。前述の通り、補厳寺は当初は輪住制であったが、後に竹窓派の独住制となっており、竹窓派の法系を強調する必要があったから、竹窓智厳のあとを竹窓派の門弟がただちに継いだとする系図よりも、開山の了堂真覚の法嗣が順番に継承したとする古記の方が信用できそうである。

 奇叟異珍は生没年不明である。『重続日域洞上諸祖伝』では南蛮国の人とする。さらに寺の伝説(門にパンフレットが掛けられており、その記載)によると、「当寺輪住5代奇叟異珍は南蛮人(ポルトガル?)で象をつれてきた。」とある。奇叟異珍は14世紀後半から15世紀前半の人と思われ、すなわちポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわってインドに周航した(1498)のより奇叟異珍はかなり前の人物であることから、ポルトガル人云々というのは噴飯物の伝説ということになる。

 では「南蛮国」というのは何であるのかということになる。補厳寺開山の了堂真覚が建立した寺院に薩摩国金鐘寺がある。そのこともあって了堂派僧は薩摩国出身者が多く、字堂覚卍(竹窓智厳の法嗣)・希曇和尚(太容梵清の法嗣)といった者がいる。薩摩国は当時の日本では事実上の最南端であり、琉球との交易もあった。薩摩以南の人間であれば、容易に「南蛮人」たり得たのである。例えば、字堂覚卍(1357〜1437)は薩摩国(鹿児島県)の人であることは先ほど述べたが、南禅寺の椿庭海寿(1319〜1401)に師事して得度し、薩摩国に秦鑚庵・玄豊寺・宝福寺を建立している(『延宝伝灯録』巻第9、薩州忠徳山宝福寺字堂覚卍禅師伝)。この宝福寺には琉球円覚寺の開山芥隠承琥(?〜1495)が琉球渡海以前に滞在している(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、当山住持次第)。また芥隠承琥は字堂覚卍が最初に師事した椿庭海寿の法嗣であるとされ(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、当山住持次第)、「古林五世法孫、沙門承琥、」(「旧天龍精舎洪鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)とあるように、元の禅僧古林清茂(1262〜1329)から数えて5世の孫にあたることを主張したが、椿庭海寿が古林清茂から数えて3世にあたるから、芥隠承琥は当然4世でなくてはならず、また椿庭海寿の生存年代とも異なるから、実際には、芥隠承琥は字堂覚卍の法嗣で、字堂覚卍が竹窓智厳の法嗣になってしまったため、やむを得ず椿庭海寿の法嗣であると称したと考えられている(葉貫1993)

 ちなみに、象の産出として有名であったのが交趾、すなわち現在のヴェトナムで、中国に渡った日本の僧侶(成尋・戒覚)は日記で交趾より中国に献上された象を見物している。以上のことを踏まえれば奇叟異珍は薩摩以南の出身ということになる。また本人が薩摩以南出身であることを自嘲して「南蛮人」と吹聴した可能性もある。また象は、『法華経』普賢菩薩勧発品にて法華経信仰者を保護すると説かれる普賢菩薩の乗り物とされているから、僧侶の象に対する関心は高かったのである。この補厳寺の寺号・山号ともに観音菩薩が住むフダラクを意味することは前述したが、観音菩薩も『法華経』の中では極めて重要な位置をしめる。補厳寺自体の名称と象には『法華経』を介した以外な接点があるのである。ただし「象」云々は伝説にすぎず、奇叟異珍が南蛮人であるとか象を連れてきたというのは、あくまで伝説としてとらえるべきなのであろう。

 奇叟異珍は、薩摩国金鐘寺の了堂真覚のもとで出家得度した。その後東に行き龍泉寺の通幻寂霊(1322〜91)や普門山慈眼寺の天真自性(?〜1413)に謁したが、大きな成果を得ることが出来なかった。そこで加賀国の仏陀寺に行き、得度を受けた了堂真覚のもとに赴いた。了堂真覚は奇叟異珍に賓客をもてなす役を命じて仏陀寺に留まらせた。奇叟異珍は修行に励み、ある時重い荷物を放るようにして忽然と悟り、直ちに了堂真覚のいる方丈に上って触礼(そくれい。略式の礼)した。了堂真覚はこの様子を一見して、「お前は理解したな。」といった。奇叟異珍は「他を謗しることなければよいでしょう。」といった。そこで了堂真覚は、「受用(物と自分の一体の上、活きたはたらき)とは何か?」と問いかけた。奇叟異珍は了堂真覚を手で叩いた。了堂真覚はこれを見て、奇叟異珍が本当に悟ったことを知って微笑した(『重続日域洞上諸祖伝』巻第2、仏陀寺奇叟珍禅師伝)

 その後奇叟異珍は総持寺の住持となり、間もなく仏陀寺に移った。奇叟異珍が赴く所、至るところから人がやってきて、往来する者が絶えなかったという。ある僧が奇叟異珍に問いかけて、「万法一に帰するといいますが、一帰とはどこなのですか?」といった。奇叟異珍は払子(禅僧が手に持つフサフサのついた短い棒)を立てて、「わかったか?」といった。僧は、「わかりません。師(奇叟異珍)は答えて下さい。仏法的的の大意(仏法の真実の趣旨)とは何のことですか?」といった。奇叟異珍は、「むきだしの柱の問いだ」と、重ね重ね分別意識の否定を説いた「石頭問取露柱」の公案を含意した。しかし僧は、「学人(私)にはわかりません。師(奇叟異珍)の考えを示して下さい」といった。奇叟異珍は、「誰がお前(の理解)を妨げているのだ?」と問いかけたが、僧はその質問には答えずに、「この道と何のことですか?」と問いかけた。そこで奇叟異珍は、「すべての道は長安に通じている。」と答えた。これは『趙州録』の公案であったため、僧は「それは古人の(答え)ではないですか!」といったが、奇叟異珍は、「どうして道を古人に借りることを妨げようか!」と答えたという(『重続日域洞上諸祖伝』巻第2、仏陀寺奇叟珍禅師伝)

 奇叟異珍の示寂年は不明である。法嗣として名が知られているのは、わずかに大弁了訥だけである(『重続日域洞上諸祖伝』巻第2、安養院大弁訥禅師伝)


太容梵清と玉雲寺太容派の形成

 「補厳寺開山支派」古記によると、補厳寺輪住4代となったのは太容梵清(たいようぼんせい。?〜1427)である。

 太容梵清は、了堂真覚の法嗣で、加賀国の仏陀寺に住し、応永29年(1422)冬には総持寺の住持となっている。法嗣に窓仲梵康(玉雲寺3世)・希曇和尚(徳雲寺開山)・古澗仁泉(法泉寺開山)がいる。

 太容梵清は仏陀寺に住している間、多くの禅籍の書写を行なっている。その中で最も著名なのが、徳雲寺(南丹市園部町)所蔵の『正法眼蔵(84巻本)』14冊である。これは『正法眼蔵』各本のうち、75巻本または60巻本を主体として、その中に含まれていない巻を他の系統から補ったものである。この太容梵清書写にかかる『正法眼蔵』は、以後江戸時代に至るまで標準的な『正法眼蔵』として書写されることが多かった(現在では道元直筆本が用いられる)。もと26冊あった(綱目も含む)が、火災のため損傷を受け、全体の4分の1残るにすぎない。ほかにも太容梵清書写本として、『天童宏智禅師小参録』『真歇劫外録』が徳雲寺に所蔵されていたが、火災で焼失している。焼失以前の正徳5年(1715)2月に徳雲寺所蔵の『続如浄語録』が南陽寺(南丹市園部町)とともに出資して源光庵にて出版している(『天童遺落録』序〈『大正新修大蔵経』48〉)。また太容梵清は応永30年(1423)には『瑩山清規』を書写している(『加能史料』中世室町3参照)

 このように太容梵清は太源派・了堂派のみならず、曹洞宗屈指の学僧であり、多数の禅籍の書写を行なっている。語録に『玉雲開祖太容和尚語録』1巻(『曹洞宗全書』所収)がある。また余暇があれば、儀軌を訂正して諸国の曹洞宗寺院に対して規則を定め、これを遵守させたという(『日域洞上諸祖伝』巻之下 仏陀寺太容清禅師伝)。太容梵清は丹波国玉雲寺を開創したが、この玉雲寺は近世には末寺130ヶ寺を誇り、とくに園部藩では玉雲寺末寺の徳雲寺・竜穏寺の2ヶ寺にそれぞれ40ヶ寺を支配させて、宗教統制政策をとったから、玉雲寺を中心とする太容派は、了堂派の中では他を圧倒する最大勢力となった。また明応7年(1498)より補厳寺は輪住制を廃止して竹窓派の度弟院寺院となったから、名目的には玉雲寺は補厳寺の末寺でありながら、玉雲寺の威勢は補厳寺を越え、玉雲寺末寺から次々と総持寺住持を輩出した。このように太容派の形成と補厳寺の度弟院寺院化は、補厳寺衰退の序章となってゆくのである。


京都府京丹波町の玉雲寺山門(平成17年(2005)8月25日、管理人撮影) 

補厳寺第二・第三世代の輪住達

 「補厳寺開山支派」古記によると、太容梵清のあとに補厳寺輪住となったのは無学宗全(5代)・方外光超(6代)・天寧良祐(7代)・麟岡慧祥(8代)・了然祖了(9代)であり、いずれも了堂真覚の法嗣である。その後一翁という法系不明の人物が第10代となったが、11代・12代は竹窓智厳の法嗣同軌阿轍・通峰真宗が相次いで輪住した。同軌阿轍・通峰真宗両者は補厳寺開山了堂真覚からみれば第3世代にあたり、補厳寺の世代交代がみてとれる。その後第13代輪住となったのが、大弁了訥(だいべんりょうとつ。生没年不明)である。

 大弁了訥は仏陀寺の住持をしていた了堂真覚のもとで出家得度した。各地を旅しては名僧達のもとに遍く参じていたが、総持寺の奇叟異珍の法嗣となった。大弁了訥は初め加賀国仏陀寺の住持となったが、後に補厳寺を拠点とした。大弁了訥が至るところには檀越がまるで雲のように集まり、学僧は川のように集まってきたという。伊勢国(三重県)に招かれて安養院を開創している(『重続日域洞上諸祖伝』巻第2、安養院大弁訥禅師伝)

 第14代輪住は同軌阿轍の法嗣である春谷宗葩が嗣いだが、第15代輪住は太容派の古澗仁泉(こかんにんせん。1380〜1458)が継承した。

 古澗仁泉は信濃国(長野県)の人で、天模和尚のもとで得度受戒した。多くの名僧のもとに参じたが、太容梵清の法嗣となった。総持寺に住持した後、加賀国仏陀寺・補厳寺・丹波国玉雲寺の住持を歴任した。伊勢盛定は古澗仁泉の徳を仰ぎ慕い、備中国長谷郷(岡山県井原市)に法泉寺を建立し、古澗仁泉を請じて開山とし、山林・荘園を寄進した。古澗仁泉が自身肖像画の賛を以下のように記している。
  間眠高臥老生涯。  間眠高臥す老の生涯、
  凛凛威風渠是誰。  凛凛たる威にして風渠是れ誰ぞ。
  要見愚夫眞面目。  愚夫の真面目を見るを要す。
  心如牆壁眼如眉。  心は牆壁の如く眼は眉の如し。
 死期が近いと悟った古澗仁泉は檀越に告げ、学徒に遺誡し、遺偈を書き記した。
  披毛戴角、満八十年。  毛を披き角を戴すること、満八十年。
  末後一句、阿鼻現前。  末後の一句、阿鼻現前す。
 遺偈を書き終ると筆をなげうって示寂した。長禄2年(1458)2月のことであった。その亡骸は法泉寺に葬られた。法嗣に契隆・関叟梵機・融庭らがいる(『続日域洞上諸祖伝』巻第2、法泉寺古澗泉禅師伝)

 古澗仁泉のあとをうけて第15代輪住となったのが春谷宗葩(生没年不明)である。春谷宗葩は同軌阿轍の法嗣で、悟真寺2世・松源寺2世となっている。第16代輪住は海門興徳(かいもんこうとく。?〜1476)である。

 海門興徳は補厳寺第13代輪住大弁了訥の法嗣であるが、奇叟異珍のもとで出家得度しており、補厳寺の太容梵清・丹波永沢寺の清寧妙祐(生没年不明)のもとに参じて開示を乞うた。両者より印可を得ることはできなかったものの、両者は海門興徳を激励した。その後海門興徳は加賀国仏陀寺の大弁了訥のもとに赴き参禅じた。ある日、僧が『証道歌』をよむのを聞いて驀然として悟り、大弁了訥の印可を受けた。大弁了訥が補厳寺に移ったのにともなって、海門興徳も補厳寺に移った。後に伊勢国安養院に招かれたが、再び補厳寺に戻った。文明8年(1476)正月26日に示寂した。大和国慶田寺は梵興居士が海門興徳の為に開創した寺院である(『重続日域洞上諸祖伝』巻第3、慶田寺海門徳禅師伝)

 補厳寺の輪住について、第17代は華岳□甫が、第18代は盛仲玄訓、第19代は山窓□旧、第20代は章山□予、第21代は義天□仁、第22代は徳海□潤、第23代は照山□監、第24代は玉山□サン(王+粲。UNI74A8。&M021270;)が継いだが(「補厳寺開山支派」古記)、第18代の盛仲玄訓が同軌阿轍の法嗣で悟真寺3世であったというほかは、ほとんど詳しいことはわからない。

 第25代輪住は江父徳源(こうほとくげん。1421〜96)である。江父徳源は大和国出身で、俗姓は平氏。生まれつき賢かったが、俗事につかえず、もとから僧を慕った。父母は前世の因縁があることを知り、慶田寺住持で補厳寺第16代輪住であった海門興徳のもとに送り、童子役とした。海門興徳は愛情をそそぎ、11歳の時に得度させた。成長すると各地に遊学し、新豊寺の天叟祖寅(?〜1467)・竜興寺の大見禅竜(1391〜1456)・仏陀寺の希曇和尚に参見するも、印可を受けることはなかった。そのため海門興徳のもとに戻った。ある日、江父徳源は海門興徳に中国の禅僧の霊雲志勤が30年間修行して、毎年咲いては散る桃の花を見て不疑の境地を得たという「霊雲見桃花の話」についての教えを請うたが、海門興徳は「お前はどうして自己に向わず究去するのか」と叱った。江父徳源は怒ることなく、ただちに立ち上がって海門興徳のもとを去ったが、途中足をつまずいて地に倒れた瞬間に悟りを得て、速かに海門興徳のもとに戻って面会した。海門興徳は「お前はどうして去らなかったのか」と問いかけると、江父徳源は「これより以後は世界中の禅僧の言われることに迷いはありません」と答えた。そこで海門興徳は「お前は試しに一句を言ってみなさい」というと、江父徳源は体を曲げてただちに退出した。これで海門興徳は江父徳源が悟りを得たことを知ったのである。江父徳源は総持寺住持となり、退いた後は仏陀寺・補厳寺・安養寺・慶田寺の住持を歴任した。ある時僧が「ことばも沈黙も、所詮は実在の半面しか示すことができないのですが、語っても黙しても実在そのものに通じるにはどうすればよいでしょうか」と問いかけた。江父徳源は払子を立てた。僧は「わかりません」といった。江父徳源は「夜明簾の外の主、偏正方に堕ちず」といった。僧は「どうしてこれが悟りの境地なのですか」と問いかけた。江父徳源は「江南の地ではまだ春風が吹いていないのに、鷓鴣(しゃこ。雉の一種)は花に隠れ鳴いて(春風に)こたえているではないか」と答えた。江父徳源は晩年、安能寺の開山となった。明応5年(1496)11月12日示寂した。塔所(墓所)を実相院といった。76歳。法嗣に天聖寺開山の麟翁徳祐・極楽寺開山の寂中□常がいる(『重続日域洞上諸祖伝』巻第3、安能寺江父源禅師伝)


補厳寺鐘楼(平成19年(2007)6月25日、管理人撮影) 

近世・近代の補厳寺と没落

 補厳寺は十市氏の保護を受け、その菩提寺として寺勢は発展した。「補厳寺納帳」によると45町(45ヘクタール)もの寺地を有していた。しかし松永久秀(1510〜77)の攻撃によって十市氏は滅亡。補厳寺も焼失したとされる。

 近世になると、補厳寺の位置する味間の地は、藤堂家の領地となり、同家より田3反を寄進されている。近世における補厳寺の直末寺としては、大和国式上郡芝村の慶田寺、同国吉野郡井戸の玉峰寺、同国宇陀郡自明の悟真寺、丹波国船井郡瀧見村の玉雲寺、石見国那賀郡周布の聖徳寺、石見国那賀郡浜田の地久寺、同国邇摩郡銀山の竜昌寺、出雲国能儀郡安来町の松源寺、近江国坂田郡長浜の徳勝寺、長門国阿武郡萩川上村の梅岳寺、安芸国佐東郡広島の禅昌寺、陸奥国磐井郡千厩村の大光寺、同国栗原郡在壁村の観音寺が、延享2年(1745)に幕府寺社奉行の命によって曹洞宗が寺院掌握を目的として作成された書上帳である『大中寺配下本末牒』4、大源派、末寺之3、大和補岩寺末(『延享度曹洞宗寺院本末牒』)に記載されている。

 安政5年(1858)5月3日夜、放火によって補厳寺の本堂は焼失し、太平洋戦争終結後の農地解放によって寺田は失われ、現在にみるような廃寺化してしまった。



[参考文献]
・横關了胤『江戸時代洞門政要』(仏教社、1938年10月)
・香西精『世阿弥新考』(わんや書店、1962年2月)
・大友泰司「補巌寺の禅僧達-「世阿弥から禅竹へ」序-」(『駒沢国文』14、1977年)
・竹貫元勝「丹波園部藩における曹洞宗教団の発展」(『花園大学研究紀要』7、1976年3月)
・田原本町史編さん委員会編『田原本町史』本文編(田原本町役場、1986年9月)
・葉貫磨哉『中世禅林成立史の研究』(吉川弘文館、1993年2月)
・曹洞宗宗学研究所編『道元思想のあゆみ』2(吉川弘文館、1993年7月)
・小西甚一編訳『世阿弥能学論集』(たちばな出版、2004年8月)
・吉田清監修『園部町史通史編 図説園部の歴史』(園部町・園部町教育委員会、2005年12月)


補厳寺四脚門扁額(平成19年(2007)6月25日、管理人撮影) 



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