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幾暇園の上苑門(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)
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幾暇園はかつてフエ・皇城(阮朝王宮)の左の金水湖の南前に位置した庭園である。北に内務府、西側に紫禁城が、南側に瀛洲の園池があり、瀛洲には幾暇園の幾暇島が突き出る。現在は荒廃しており、復元が進む阮朝王宮の中で、いまだに本格的復興がなされていない。
その中心となるのは欽文閣であり、その後方に賞勝楼があった。左(東側)に和風シャ(きへん+射。UNI69AD。&M015272;)、右(西側)に可月廊がある。幾暇園は寧謐廻廊に囲まれており、南に上苑門に設ける(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、幾暇園)。
嗣徳2年(1849)に欽文殿を経筵(進講)の場とした。成泰17年(1904)に解体され、左右廻廊を兵舎とした(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、幾暇園)。
幾暇園は嘉隆年間(1802〜19)の段階で、明命帝即位以前の居住場所であり、内庭は読書の場としていた。明命帝が帝位にのぼり幾暇園を離れると、天府(皇帝の倉庫)とした(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、幾暇園)。
明命18年(1837)に府蔵とし、幾暇堂を造営した。瀛洲の後方の湖・景山に隣接した。紹治年間(1841〜47)初頭に殿を建造し、幾暇堂を幾暇園と改名した(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、幾暇園)。
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幾暇園の欽文閣跡(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。トタンのバラックが欽文閣跡の基台上に建てられている。
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皇城図・『大南一統志』巻1より幾暇園部分(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉44-45頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)
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瀛洲同様、幾暇園は紹治帝(位1841〜47)による作詩の対象となっている。
紹治帝は漢詩を好み、景勝地を選んで詩文をつくったが、幾暇園は「幾暇十四景」と題して、「殿開文宴」「楼賞蓬瀛」「閣旻四照」「廊集群芳」「軒生詩思」「斎写書懐」「池留蓮舫」「山聳松亭」「霓橋霽月」「水シャ(きへん+射。UNI69AD。&M015272;)光風」「武江勝蹟」「僊トウ(山+同。UNI5CDD。&M008039;)芳蹤」「湖津柳浪」「島樹鴬声」の詩文がつくられ、それぞれに碑文が建てられた(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、幾暇園)。
幾暇園に現在残る碑文は「霓橋霽月」「湖津柳浪」などわずかであるが、碑文自体が摩耗して判読が困難になりつつある。このままでは百年後に碑銘が判別ができなくなる可能性がある。
幾暇園は現状では阮朝王宮内で、奉先殿と並んで最も復興が遅れている場所となっている。
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幾暇園福聚洞(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。「霓橋霽月」の地である。現在でこそ崩壊したトーチカのようなグロテスクな建造物となっているが、紹治帝の時代には景勝地として詩文が読まれていた。
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幾暇基(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。瀛洲金水湖中にある。
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幾暇園の「湖津柳浪」の石碑(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)
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幾暇園の土山(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。上部に祠がある。
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幾暇園の賽武江(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。賽武江は「コ」字形の池で、欽文殿跡に相対する。
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幾暇園の東門である東作門(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。西側に西作門があったが、現在では門があった場所の塀がないことによって、かろうじて西作門跡が判別できるのみとなっている。
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