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浄心湖の方丈島(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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浄心湖は皇城(フエ旧市街)の東北、御河橋の南側に位置した園池である。
当時は周囲を塀で囲まれており、夏薫門・春光門・秋月門・冬曦門があったが(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、浄心湖)、現存しない。浄心湖の建造物は蓬瀛殿を除いてほとんど現存しない。
湖の中に3島あり、南を蓬莱島といい、島の上に蓬瀛殿を建てていた。東を四阿の清心シャ(きへん+射。UNI69AD。&M015272;)、西を澄練楼とし、南に殿門を設け、門の前を蓬瀛橋とした(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、浄心湖)。
北を紅渠橋とし、その北を方丈島といった。島の上に南薫閣を建て、東を天然堂、西を養性軒、北を浄心楼、南を碧藻門とした。門の前は碧藻橋が建てられていた(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、浄心湖)。
二島の中間に四達亭を建て、四達亭の南に紅渠橋を通し、北には碧藻橋を通した。四達亭の東西に堤防があり、堤防に沿って柳が植えられた。この堤防は金鴬堤という(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、浄心湖)。
東は緑柳橋から春光門に達し、西は白蘋橋から秋月門に達した。白蘋橋の西南の水際に四阿である曲シャ(きへん+射。UNI69AD。&M015272;)をつくり、曲シャの前(南側)に向かって位置する島を瀛洲島といった。当時橋はすべて屋根で覆われており、湖の中に蓮が植えられていた(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、浄心湖)。
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京師図・『大南一統志』巻1より浄心湖部分(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉44-45頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)
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浄心湖は嘉隆年間(1802〜19)初頭、もと河であった場所を四角形に切り開き、2島の上に火薬焔硝庫を建てて、そこを既済池と名付けたことにはじまる(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、浄心湖)。
明命19年(1838)に火薬焔硝庫を東に移し、もとの地を浄心湖とした。浄心湖はまたの名を北湖という。明命帝(位1820〜41)は浄心湖に関する詩である「北湖十景」を詠んだ。これらの題目は「鴬堤春色」「曲シャ(きへん+射。UNI69AD。&M015272;)荷風」「浄湖明月」「竹径乗涼」「水シャ観魚」「湖楼烟雨」「軽槎賞蓮」「南薫覧勝」「澄練晩晁」「三洲暁景」であり、それぞれ額をつくって掲げていた(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、浄心湖)。
紹治年間(1841〜47)に紹治帝(位1841〜47)も「神京二十景」を詠んでいるが、浄心湖はその一つに数えられ、「浄湖夏興」の碑文が建てられた(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、浄心湖)。
また浄心湖の西南の隅に浄心湖神祠があった。これは明命19年(1838)に建立された。春・秋の2祭が実施され、行幸があった時は太監(宦官)が祭祀を行なったが、その他は管侍衛員が行なっていた(『大南一統志』巻之1、京師、群祠、浄心湖神祠)。
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四達亭跡付近よりみた浄心湖の蓬莱島(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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