|
舒光園はかつて皇城(フエ旧市街)の北、御河の南岸の潤屋坊に東向で位置した園池である。周囲1里(500m)ほどの規模であった(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、浄心湖)。かつて皇城の右街から保定宮の左に至る途中、すなわち永利橋と慶寧橋の中間に平橋という木橋があったが(『大南一統志』巻之1、京師、城池、京城)、舒光園はその平橋の南北岸をはさんで位置していた(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、浄心湖)。舒光園は現存しない。
舒光園の中央に賞勝楼が、東に奉芳殿、西に進芳亭、南に澄芳軒、北に合芳院が建てられていた。周囲は池で囲まれ、水関から通じた御河の水を用いていた。池をはさんで両岸に花台があり、東西には橋が架けられ、橋には屋根があった。また舒光園の南北は平橋を架けて舟が通れるようにしていた(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、浄心湖)。
明命17年(1836)に建設された。明命帝(位1820〜41)と順天高皇后(明命帝の母)はここで遊覧しており、やはり御製の詩文を詠んでいる。明命19年(1838)には進士新科の者にここで宴を賜った。宴で舒光園に入って花を見ており、舒光園の盛事は後代に伝わったという。紹治3年(1843)に紹治帝(位1841〜47)が「神京二十景」を詠んだ時、舒光園はその一つに数えられており、「舒苑春光」と題して詠まれ、これを銅榜に碑文とした(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、浄心湖)。
ところが舒光園の地が慶寧宮に近かったため、楼や殿は撤去され、材木は幾暇園に移建され、ついに廃された(『大南一統志』巻之1、京師、苑囿、浄心湖)。
|
|
|
|
|