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願成寺本堂(右)および庫裏(左)(平成18年(2006)10月24日、管理人撮影)
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丹波の綾部にも「別所」という地名があり、そこにも寺院があります。一見「綾部別所」引摂寺と関連がありそうですが、無関係とみるべきでしょう。綾部の別所こと願成寺は、京都府綾部市別所町神宮寺に位置する真言宗寺院で、かつては隣接する熊野神社の神宮寺でした。本尊は阿弥陀如来。山号は神宮山。
創立伝承
願成寺にはまとまった縁起が存在しておらず、その創立伝承はほとんど口伝の形で伝わったらしい。その口伝を元にした『何鹿郡寺院明細帳』においても、「伽藍ノ旧跡、漸(ようや)ク地名ト口碑ニ存スル耳(のみ)」(『何鹿郡寺院明細帳』44〈京都府立総合資料館蔵京都府庁史料、寺院明細帳15〉)とあるように、願成寺の沿革は地名や伝承のみにしか頼るすべしかなかったとみられる。
『何鹿郡寺院明細帳』によると、天暦7年(953)3月21日に空也上人(903〜72)によって七堂伽藍が造立され、道俗帰仰の霊場であるとされた(『何鹿郡寺院明細帳』44〈京都府立総合資料館蔵京都府庁史料、寺院明細帳15〉)。空也が願成寺を建立したことも、丹波に赴いたことも『空也上人誄』などにはみえず、また建立された「3月21日」というのも弘法大師空海の忌日であることから、創立説話自体が仮託であるとみなすべきであるが、願成寺には平安時代まで遡る木造熊野十二所権現蔵王権現像・木造熊野十二所権現十一面観音立像(いずれも綾部市指定文化財)が所蔵されており、少なくともこの地は平安時代には何らかの宗教的活動があったとみてよい。
『何鹿郡寺院明細帳』によると、徳治元年(1306)には足利尊氏が武運長久の祈願所として崇めたといい、暦応元年(1338)武将(将軍カ)に叙せられた際には寺領若干を寄進したという。さらに数代を経て明智光秀の世に到って寺領が没収されたという(『何鹿郡寺院明細帳』44〈京都府立総合資料館蔵京都府庁史料、寺院明細帳15〉)。この間の事情については他の史料にみえないため、実情は不明である。
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願成寺薬師堂(平成18年(2006)10月24日、管理人撮影)
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近世の再建
願成寺では寛文11年(1671)8月25日に阿弥陀如来の脇侍および厨子を再造している(棟札)。また享保6年(1721)4月1日には二王門を再建しているが、二王門の仁王は運慶造の仏像であるとされた(棟札)。二王門は大正6年(1917)に焼失し、現在は跡地にそれを示す石碑がたてられている。
願成寺は18世紀後半に焼失したらしく、その後50年ほど中絶していた。しかし天保2年(1831)に盛尊法印が中興して一宇の堂舎を再建した(『何鹿郡寺院明細帳』44〈京都府立総合資料館蔵京都府庁史料、寺院明細帳15〉)。一方で棟札によると願成寺を再建したのは現住であった覚吽であり(棟札が釘で打ち付けられていたため、裏未見。よって年代不明)、また阿弥陀堂を再建した者として先住の覚吽と当住の僧の名があげられている。また境内の薬師堂は天保2年(1831)3月に再建されている(『何鹿郡寺院明細帳』44〈京都府立総合資料館蔵京都府庁史料、寺院明細帳15〉)。
明治16年(1883)の『何鹿郡寺院明細帳』には「真言宗高野派 宝成院末」と記されているが(『何鹿郡寺院明細帳』44〈京都府立総合資料館蔵京都府庁史料、寺院明細帳15〉)、別所の地が山間集落であることもあって、寺院規模も徐々に衰退。昭和30年代に寺院名「願成寺」としての存続は放棄された。
[参考文献]
・吉田清『源空教団成立史の研究』(名著出版会、1992年5月)
☆追伸☆
『何鹿郡寺院明細帳』には「宝成院末」とありますが、その後本末関係にかなりの移動があったらしく、近所のおじさん(別所町を歩いている人に紹介してもらった総代さん)に話を聞きはしたのですが、あまりにも複雑だったので忘れてしまいました(2年たったし…)。以下のサイト(「綾部の文化財」)に顛末が書いてありますが、寺院名「願成寺」としての存続を放棄して他寺院の飛び寺扱いにするとは考えたものです。宗教法人の登録維持にはお金がかかりますから、人口が減りつつある集落には維持が大変なのかもしれません。ちなみに2年前に願成寺を訪れたとき、おじさんは「維持が大変だから庫裏を取り壊すことになりそう」といってましたが、どうなったのでしょうか…。
http://www.ayabun.net/bunkazai/annai/ganjyoji/ganjyoji.html
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綾部市別所町付近(平成18年(2006)10月24日、管理人撮影)
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