琉球は、現在の沖縄県に位置した独立王国で、明治12年(1879)の琉球処分まで存続していました。
沖縄諸島は東シナ海とフィリピン海にはさまれた南北に点在する列島で、地勢的に北の朝鮮半島、北東の日本、 西の中国、南の東南アジアの中央にあり、戦略的要所となっています。12世紀頃に按司(あじ)らが各地に割拠する グスク時代となり、やがて按司の盟主的存在である「世の主(王)」を長とする山北・中山・山南の3勢力が鼎立する 三山時代となり、第一尚氏王統の尚巴志王(位1422〜39)による三山統一が行なわれました。琉球はその地勢を生 かして中国歴代王朝の冊封体制下に入り、15・16世紀には日本・中国・東南アジアの中継貿易を行なうことで貿易 立国を果たしましたが、やがて衰退。万暦37年(1609)には薩摩の侵攻によって、薩摩の服属国となりましたが、冊 封体制下の名目上として独立国の体裁は琉球処分まで維持されました。 沖縄には御嶽(うたき)信仰をはじめとした独特の信仰がありますが、王国時代には祭政一致の政策をとり、国王を 太陽(てだ)とし、最高神女官である聞得大君を頂点として、琉球各地に無数ある御嶽を拝所として祈る巫女(ノロ)を 支配する宗教的ヒエラルキーを形成していました。このような琉球の固有信仰の中がある中、那覇など三角貿易の ため中国人・日本人が居留していた地域には、それぞれの出身地の宗教が信仰され、結果、外来宗教である仏教・ 神道・道教などが琉球に流入することになります。 琉球における仏教初伝は、咸淳年間(1265〜74)に禅鑑が琉球に漂着し、極楽寺を建立したことにはじまるとさ れ、三山時代を経て、第一尚氏王統の尚巴志王(位1422〜39)による琉球の統一期には、「十刹」と称される寺院 がありました。さらに尚泰久王(位1454〜60)は多くの寺院を建立し、天界寺・建善寺などは彼の治世下に建立され ました。第二尚氏王統時代になると、初代尚円王(位1469〜76)による天王寺の建立や諸寺の整備、第3代尚真王 (位1477〜1526)による円覚寺の建立が行なわれ、国家仏教としての体裁が整えられ、絶頂期を迎えました。 琉球における仏教の最大の特色は、排他的国家仏教である点で、首都のある首里や国際交易港である那覇を除 いた地域には、浦添の龍福寺・金武の観音寺・普天間の神宮寺・伊江島の照太寺といったわずかな寺院しかありま せんでした。
また宗派は臨済宗・真言宗の2宗派のみで、しかも布教活動が低調であったため、民衆には仏教は広まらず、また
浄土宗・浄土真宗などが公式あるいは水面下で布教活動を行ないましたが、信仰が民衆に浸透することはありませ んでした。さらに臨済宗は除災、真言宗は祈福を第一義とし、同じく外来宗教であった神道の神社は、当初は臨済宗 寺院にも付属されましたが、やがて中心的な神社である「琉球八社」の大半は真言宗に付属されました。このように 琉球の仏教はあくまで祈祷がメインであって、信仰そのものにはそれほど関心が持たれることはありませんでした。 薩摩侵攻後、薩摩側面が布達した「掟十五箇条」によって琉球側は新たな寺院を建立することを禁じられ、さらに薩 摩の要請によって宮古島の祥雲寺、石垣島の桃林寺が建立された以外には官寺が建立されなくなったため、私寺 の官寺昇格や、薩摩の光明寺を琉球管理に移管した他は官寺の増加はなく、以後官寺の数はほぼ固定化しまし た。『琉球国由来記』(1713年)には以下リストの寺院が官寺として記載されています。
『琉球国由来記』は康熙52年(1713)に尚敬王(位1713〜52)の命によって編纂された琉球の諸制度史で、制度
に関する条項が詳細かつ細目にわたっているため、「琉球の『延喜式』」と呼ばれています。地理・官職・祭祀を由来 から記しており、とくに各地の御嶽の名・神名が875にわたって記されていることで有名です。制度のみならず、琉球 史書としても、『中山世鑑』(1650)、『中山沿革志』(1684)、蔡鐸本『中山世譜』(1701)、蔡温本『中山世譜』 (1725)など並ぶものであり、後世『琉球国由来記』を簡略化して漢文に書き改めた『琉球国旧記』(1731)が成立し ています。この『琉球国由来記』は『琉球史料叢書』1・2に所収されていますが、この『琉球史料叢書』編集作業のた め東京に移された底本は、刊行後に東京大空襲によって焼失しています。
『琉球国由来記』の、巻10には「諸寺旧記」として臨済宗寺院が、巻11には「密門諸寺縁起」として真言宗寺院に
ついて記されています。『琉球国由来記』以前に成立した『中山世鑑』や蔡澤本『中山世譜』には仏教関係の記事は 極めて少ないため、琉球の仏教を知る上で根本史料となっています。さらにここに記載された寺院は、いずれも琉球 における官寺としての寺院であり、よって琉球の対仏教政策がどのようなものであったかを知る上でも重要なものと なっています。それら寺院のリストは上記の通りで、25箇寺が記載されています。
このように、このように、琉球には多くの官寺があり、そのすべてが臨済宗・真言宗のいずれかに属していました。
さらに国家仏教であるにもかかわず、寺院や僧侶に対する予算や扱いが大幅に削減され、僧侶が軽視、なかば蔑 視される風潮が生まれ、琉球仏教の停滞に輪を掛けました。琉球処分後、王廟であった円覚寺・天王寺・天界寺・崇 元寺・龍福寺は旧王家である尚侯爵家の私有財産となり、檀家を持たないほかの寺院は秩禄処分によって財政的 に困窮することになり、多くの寺院が廃寺となってしまいました。
明治以降、沖縄で布教・社会活動の中心となったのは、在来の臨済宗・真言宗ではなく、浄土真宗・真宗大谷派・
日蓮宗など、琉球王国時代には地下活動を行なったり、あるいは新規参入した宗派で、大典寺・妙徳寺などが建立 されました。昭和8年(1933)には円覚寺・崇元寺の建造物が国宝に指定されるなどしましたが、昭和20年(1945)の 沖縄戦で金武の観音寺、石垣島の桃林寺、宮古島の祥雲寺を除いたすべての寺院が失われてしまいました。 戦後復興されて現在にいたる寺院もありますが、円覚寺・神応寺など、住職およびその家族が戦死したため廃寺と なったままの寺院もあります。 「本朝寺塔記」へ戻る 「とっぷぺ〜じ」に戻る |