武庫



御河(平成23年(2011)3月17日、管理人撮影)

 武庫は京城(フエ旧市街)内の廉能坊の西に位置した。御河屈折部の東側、心湖の西側がその地に推定されている。

 前方に公堂・友収所がそれぞれ1棟あり、後方に倉庫が約10棟あった。武庫侍郎1名が武庫を管轄し、郎中・員外主事・司務・属司・書吏が所属した(『大南一統志』巻之1、京師、官署、武庫)

 もとは外図家といったが、明命元年(1820)に名称を武庫と改めた。北を武庫とし、督工所が監督に当たっていた(『大南一統志』巻之1、京師、官署、武庫)

 また武庫の獄は西山朝阮氏の木主(位牌)が意図的に放置される場であった。

 西山党(西山朝)阮氏は広南阮氏を滅ぼして、王族をほぼ皆殺しとしたが、この殺戮を逃れた阮福映は西山党と対決し、ついに西山朝を滅ぼして即位し、嘉隆帝(位1802〜20)となった。嘉隆帝は辛酉年(1801)に西山朝の阮文恵(1753〜92)の墓を暴いて首を晒しており、その子どもや一族郎党と西山朝軍の将校あわせて31人を凌遅刑(生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、苦痛を与えた上で死に至らす刑)としている(『大南寔録正編』第1紀、巻之15、世祖高皇帝寔録、辛酉22年11月丙戌条)。嘉隆元年(1802)には西山党最後の当主阮光纉(1783〜1802)らを太廟に捧げて復讐を成し遂げたことを報告すると、そのまま城外に引きずり出し、凌遅刑に処し、最後は五体を五匹の象で引っ張って八つ裂きとした(『大南寔録正編』第1紀、巻之19、世祖高皇帝寔録、嘉隆元年11月癸酉条)

 このような復讐は生者のみならず、死者へも向けられており、阮文岳(?〜1792)・阮文恵・阮光纉の頭蓋骨と夫人の木主(位牌)は意図的に武庫の獄中に放置されていた(『大南正編列伝』初集、巻之31、偽西列伝、阮光纉伝)。西山朝が滅亡して20年たった明命2年(1821)にはこれら頭蓋骨や木主を砕いて破棄するよう群臣が建議を行なったが、刑部のみが木櫃にこれらを入れて獄に置くよう主張したため、明命帝(位1820〜41)は刑部の意見に従っている(『大南寔録正編』第2紀、巻之9、聖祖仁皇帝寔録、明命2年6月条)

 その後武庫は百工場に改められ、督工所も耕農場となった。両者ともフランスの官吏が管理した(『大南一統志』巻之1、京師、官署、武庫)





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