六部



皇城図・『大南一統志』巻1より六部部分(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉46-47頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

吏部

 吏部は京城(フエ旧市街)内の仁厚坊に位置する官房である。東側に戸部がある。

 吏部は官吏の人事を管理する役所であるが、その長官として尚書1名、次官として左右参知・左右侍郎がそれぞれ2名おり、その他に郎中・員外郎・主事・司務・属司書・書吏が配下にあった(『大南一統志』巻之1、京師、官署、吏部)

 吏部は嘉隆年間(1802〜19)初頭に六部が設置され、長官として尚書が1名、次官として参知が2名、僉事が4名、勾稽が2名が置かれた。当初、六部は京城内の廉能坊・慎勤坊に六部長廨が建てられて、そこに入居していた(『大南一統志』巻之1、京師、官署、吏部)。六部長廨は明命3年(1822)6月にさらに造築されており、その規模は一座29間にも及んだ(『大南寔録正編』第2紀、巻之16、聖祖仁皇帝寔録、明命3年6月条)

 明命2年(1821)に六部の定員が増加され、郎中が4名、主事が4名、司務が4名、八・九品の位の書吏がそれぞれ8名、吏兵が2名、未入流書吏と呼ばれる文人の雇用人が70名となった。ちなみに兵部と吏部の未入流書吏は70名が定員であったが、戸部は100名、礼部・工部はそれぞれ50名、刑部は60名となっていた。また六部と都察院・大理寺・通政使司を九卿とし、左右侍郎を増置した(『大南一統志』巻之1、京師、官署、吏部)。また同年3月に六部堂門の扁額がつくられた(『大南寔録正編』第2紀、巻之8、聖祖仁皇帝寔録、明命2年3月甲寅条)

 明命8年(1827)に僉事を改称して郎中とし、郎中は員外郎とした。同年、六部長廨から現在の跡地に移った(『大南一統志』巻之1、京師、官署、吏部)。明命11年(1830)12月には六部公庁に飛檐を設けているが(『大南寔録正編』第2紀、巻之70、聖祖仁皇帝寔録、明命11年12月己亥条)、詳細は不明である。あるいは飛檐垂木のことで、垂木に装飾を施したものなのかも知れない。

 紹治4年(1844)に吏印司・文選司・澄叙司・稽勲司・封典司の五司を設置したが、嗣徳3年(1850)に吏印司・稽勲司を廃止した(『大南一統志』巻之1、京師、官署、吏部)

 吏部には尚書堂・左参知堂・右参知堂・左侍郎堂・右侍郎堂があり、また六部にはそれぞれ部司員房屋があったから、吏部にも吏部司員房があった。周囲を塀で囲まれ、前門・後門があった。成泰年間(1889〜1907)に六部堂の修理が実施され、いずれも西洋式に改められるとともに、左右司員房の建物は撤去され、その代わりに正東門内の左右に長廨を建て、六部の官吏を居住させた(『大南一統志』巻之1、京師、官署、吏部)


吏部跡付近(平成23年(2011)3月17日、管理人撮影)

戸部

 戸部は吏部堂の東、礼部堂の西に位置した官房である。役所自体は消滅したが、六部の中で唯一当時の建造物がのこる。戸部は土地・戸籍・官員への俸給など財務関連の行政を司った。官員などの制度は概ね吏部と同じである。紹治4年(1844)に戸印司・京直司・両畿司・南圻司・北圻司・賞禄司・税項司の七司を設置し、戸部に所属させた(『大南一統志』巻之1、京師、官署、戸部)

 嗣徳3年(1850)に戸印司・両畿司を廃止し、嗣徳6年(1853)に漕政司を戸部に所属させた(『大南一統志』巻之1、京師、官署、戸部)。漕政司は明命2年(1821)に設置された通商に関する独立した役所であったが、この年に戸部に併合されたのである(『大南一統志』巻之1、京師、官署、漕政司)。また内務・武庫・京倉は戸部に属していた(『大南一統志』巻之1、京師、官署、戸部)


戸部跡付近(平成23年(2011)3月17日、管理人撮影)

礼部

 礼部は戸部堂の東、兵部堂の西に位置する。官員などの制度は概ね吏部と同じである。文廟の祭祀など、礼制に関わることを職掌とした。

 紹治4年(1851)、礼印司・イン(しめすへん+西+土。UNI798B。&M024761;)祀司・賓興司・酬応司・儀文司の五司を設置した。嗣徳3年に礼印司を廃止し、嗣徳6年(1853)には太常司・光禄司を所属させた。成泰18年(1906)に右参知堂の前に祀器堂を増設し、また左参知堂の前の司員房を酒炉所とした(『大南一統志』巻之1、京師、官署、礼部)


礼部跡付近(平成23年(2011)3月17日、管理人撮影)

兵部

 兵部は礼部堂の東、積善坊に位置する。文字通り軍事を司るが、官員などの制度は概ね吏部と同じである。太僕寺・郵政司は兵部に所属する(『大南一統志』巻之1、京師、官署、兵部)

 紹治4年(1844)に兵印司・京畿司・直省司・武選司・考功司・検閲司・火砲司の七司が設置された。嗣徳3年(1850)に兵印司・検閲司を廃止した(『大南一統志』巻之1、京師、官署、兵部)


兵部跡付近(平成23年(2011)3月17日、管理人撮影)

刑部

 刑部は兵部堂の東、工部堂の西に位置する。制度は概ね吏部と同じである。紹治4年(1844)に刑印司・京章司・直畿司・南憲司・北憲司の五司を設置したが、嗣徳3年(1850)に刑印司を廃止し、京章司と直畿司を合併して京直司を設けた。また都察院と大理寺と刑部を併せて三法司と称している(『大南一統志』巻之1、京師、官署、刑部)

 明命13年(1832)、京城内の南昌台の北に公正堂を建造している。この建物は北向で、三法司が月に三度ここに控えており、冤罪を訴える者が前に置かれた太鼓を叩いたという(『大南一統志』巻之1、京師、官署、刑部)


刑部跡付近(平成23年(2011)3月17日、管理人撮影)

工部

 工部は刑部堂の之東に位置する。制度は吏部と概ね同じである。紹治4年(1844)に工印司・ 規制司・営建司・修造司・勘弁司の五司を設置し、嗣徳3年(1850)に工印司・勘弁司を廃止した。嗣徳6年(1853)に材木司を工部に所属させた(『大南一統志』巻之1、京師、官署、工部)

 また節慎司・武庫・制造司・営繕司は工部に所属していた(『大南一統志』巻之1、京師、官署、工部)


工部跡付近(平成23年(2011)3月17日、管理人撮影)



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