都察院



都察院跡付近(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 都察院はかつて京城(フエ旧市街)内の西、保和坊に位置した官房である。国史に隣接していた。現存しない。諸官署の政務や不正を監察し、重大案件を処理するために置かれた官署である。

 明命14年(1833)に建てられ、左副都御史1名(または六部の参知(副官)が管轄していた)、六科掌印・六京畿路掌印が1名、諸道監察御史が12名いた。諸道監察御史は南直・北直・左畿内・右畿内・定辺・陸祥・安河・河寧・寧太・山興・宣海・安諒平といった地方の監察を行なっていた。また録事や、八・九品の位の学位を持たない書吏や、未入流書吏と呼ばれる文人の雇用人もここに属した(『大南一統志』巻之1、京師、官署、都察院)

 嘉隆年間(1802〜19)初頭に都察院の設置が決定され、その長官である左右都御史は正二品が相当位とし、左右副都御史は従三品が相当位とされたが、実際に任命されなかった(『大南一統志』巻之1、京師、官署、都察院)

 都察院は明命13年(1832)に設置された(『大南寔録正編』第2紀、巻之84、聖祖仁皇帝寔録、明命13年閏9月条)。その長官である左右都御史2名は六部を監査し、次官の左右副都御史2名は六部の次官の六部参知を監査したが、実際に左都御史は設けられず、左副都御史1名は他の役職の者が充てられた(『大南一統志』巻之1、京師、官署、都察院)

 右都御史・右副都御史は街の宣撫を目的とし、配下には六科給事1名(正七品が相当位)、書吏4名(八・九品が相当位)、未入流書吏と呼ばれる文人の雇用人が20名いた(『大南一統志』巻之1、京師、官署、都察院)

 明命16年(1836)京畿道監察御史2名を増設し、また京畿道掌印1名、京畿道御史2名も増設した。嗣徳3年(1850)六科給事中と京畿道御史を廃止し、諸道御史は12名に改定された。成泰年間(1889〜1907)にも掌印3名、御史3名を廃止した(『大南一統志』巻之1、京師、官署、都察院)

 成泰元年(1889)に都察院は太常・光禄の二箇所に準じて国史館とともに右長廨に入居した。成泰14年(1902)に長廨15間、棟講9間が撤去されたが、成泰17年(1905)に再度修理された(『大南一統志』巻之1、京師、官署、都察院)


京師図・『大南一統志』巻1より都察院部分(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉44-45頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。「都察」とある部分が都察院。



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