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太和殿(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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太和殿はフエの皇城(阮朝王宮)内部の正面に位置する宮殿である。午門を入ってすぐのところに位置しており、大朝正殿として機能していた。日本の大極殿に相当する。背後(北)には紫禁城が位置する。
嘉隆3年(1804)に建造が開始され、嘉隆4年(1805)正月に完成し、建造に従事した兵士や工匠に銭1,400緡を下賜している(『大南寔録正編』第1紀、巻之26、世祖高皇帝寔録、嘉隆4年正月丁未条)。
嘉隆5年(1806)5月、嘉隆帝は太和殿にて即位式を行ない、同日中に大朝の儀を太和殿にて実施し、群臣より金冊を奉られている(『大南寔録正編』第1紀、巻之29、世祖高皇帝寔録、嘉隆5年5月己未条)。このように即位式や大朝が実施されたが、後に大朝はあまり行なわれなくなった。
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皇城図・『大南一統志』巻1より太和殿部分(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉44-45頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)
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太和殿(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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太和殿は完成からわずか14年後の嘉隆18年(1819)5月に修理が行なわれている(『大南寔録正編』第1紀、巻之59、世祖高皇帝寔録、嘉隆18年5月条)。
この時までの太和殿は現在の大宮門跡の地に位置していたが、明命13年(1832)8月に太和殿と将軍厰の移転、午門と大宮門の建造が決定され(『大南寔録正編』第2紀、巻之82、聖祖仁皇帝寔録、明命13年8月条)、太和殿は現在地に移転された。
太和殿は成泰3年(1891)に修復が行なわれ、成泰11年(1899)には太和殿の前に花磚(植木鉢)が並べられた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、皇城)。
太和殿は1948年のフランス軍との交戦の際は奇跡的に無傷であったものの、1968年のテト攻勢の際に焼失。現在のものは再建されたものである。
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太和殿金池水(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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太和殿内部(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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太和殿の殿前は丹陛(階段)となっており、丹陛(階段)には龍彫の装飾がある(『大南一統志』巻之1、京師、城池、皇城)。
丹陛(階段)前の左右には銅製で金色に輝く猊の置物があり、丹陛(階段)前の正面には銅製の櫺星(坊門)がある(『大南一統志』巻之1、京師、城池、皇城)。
櫺星の前方には太液池がある。太液池には通路が三箇所あり、中央を中道橋、東は左待漏院、西は右待漏院といった(『大南一統志』巻之1、京師、城池、皇城)。
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太和殿の丹陛(階段)の龍(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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太和殿前庭の位次を示す石標(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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