寿址宮



寿址門(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

 寿址宮はフエの皇城(阮朝王宮)内の西側に位置した宮殿施設である。北側に長寧宮、南側に奉先殿が位置し、東側に皇城の城壁がせまり、西側に紫禁城がある。

 寿址宮は南向きであり、正面に寿址門があり、障壁をはさんで前庭があり、前庭の後方に寿址宮がある。前庭の西側にはフランス風の二階建建造物である静明楼があり、東側には左恭の廃墟がある。寿址宮の後方にはかつて寧寿宮があり、今でこそ存在していないが、復元工事が進められている。

 寧寿宮は建造当初は長寿宮と呼ばれた(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)。長寿宮の建造は嘉隆3年(1804)3月のことで、この時と同じくして勤政殿・坤徳宮が建造されており、これらの建設責任者は阮徳川・黎質・陳文能であった(『大南寔録正編』第1紀、巻之23、世祖高皇帝寔録、嘉隆3年3月庚辰条)。また嘉隆9年(1810)4月には坤徳宮と右長廊の修復が実施されている(『大南寔録正編』第1紀、巻之40、世祖高皇帝寔録、嘉隆9年4月丁酉条)。なお嘉隆15年(1816)には皇太子の在所である清和殿が建立されているが、成殿は長寿宮の材木で建造されている(『大南寔録正編』第1紀、巻之53、世祖高皇帝寔録、嘉隆15年6月乙丑条)

 長寿宮は明命元年(1820)7月に明命帝(位1820〜41)によって慈寿宮と改められ、改装が行なわれた。この頃疫病が流行しており、明命帝も兵士や民を休ませるべきと考えてはいたが、結局建造を強行した(『大南寔録正編』第2紀、巻之4、聖祖仁皇帝寔録、明命元年7月丙子条)。同年10月に慈寿宮は竣工し(『大南寔録正編』第2紀、巻之5、聖祖仁皇帝寔録、明命元年10月朔条)、明命帝は諒闇していた皇仁殿(後の奉先殿)から移ってきた(『大南寔録正編』第2紀、巻之4、聖祖仁皇帝寔録、明命元年10月辛卯条)。以後、慈寿宮は明命帝の平素の居住空間となった。

 嗣徳年間(1848〜83)初頭に修理された際に嘉寿殿となり、成泰13年(1901)に現行の寧寿宮に改称された(『大南一統志』巻之1、京師、城池、紫禁城)


寿址宮(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



皇城図・『大南一統志』巻1より寿址宮部分(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉46-47頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

 寿址宮の西側に位置する静明楼は、保大7年(1932)に同慶帝皇后の医院として建造された。風健康のため、湿気の多いヴェトナムの伝統建築ではなく、風通しがよいフランス式が採用された。1947年のフランス侵攻による戦闘のため、フエの皇城(阮朝王宮)の建造物の大部分は破壊されたが、静明楼はかろうじて焼失を免れた。この時住居としていた建中楼を失った保大帝によって、1950年に彼の個人的住居となった。

 寿址宮の東側に位置する左恭は1947年のフランス侵攻における戦闘のため、現在では廃墟となっている。かつて左恭から東に向かって回廊が伸び、紫禁城内の貞明殿まで繋がっていた。


静明楼(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



左恭跡(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



回廊(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)



福卒庵(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)

[参考文献]
・藤木大介・中川武・中沢信一郎・林英昭「阮朝の仏領期宮殿建築について -ヴィエトナム・フエ阮朝王宮の復原的研究(その134)(建築歴史・意匠)」(『研究報告集II 建築計画・都市計画・農村計画・建築経済・建築歴史・意匠』78、2008年2月)
・伊藤亮・中川武・中沢信一郎・坂本忠規・中村泰一「静明楼について ヴィエトナム/フエ・阮朝王宮の復原的研究(その69)」(『日本建築学会関東支部2002年度研究発表会 研究報告集II』2003年3月)


寧寿宮跡(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)。再建が進められている。



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