玉盞山神祠



玉盞山(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。中腹にみえるのが玉盞山神祠。

 玉盞山神祠は香江(フォン川)の河岸の海葛社の玉盞山の崖の中腹に位置する祠廟である。旅行ガイドブックなどでは「ホンチェン殿」と称される。

 香江はフエの新市街・旧市街を西から東にかけて流れる。その源流は長トウ(山+同。UNI5CDD。&M008039;)山と振山の二箇所からなり、それぞれ左沢源・右沢源といった。この二流は左沢源は南西から北東に向かって流れる。右沢源は東から西に流れた後、方向をかえて北から南へ流れ、U字形となって左沢源と孝陵付近で合流する。そこから香江は南から北へと流れるが、玉盞山を起点として大きくU字形を描き、フエの新市街・旧市街の間を西から東にかけて流れ、京城の東側を大きく北へと向きを変え、再度転回して東の順安口から海へと注ぐ。

 いわば玉盞山は香江が龍のようにうねって京城(フエ旧市街)へと向かう起点となる場所であり、神聖視された。玉盞山は京城(フエ旧市街)から南に直線距離で約4kmの地点に位置する。またの名を香碗山といったように、伏せたお椀のような形をしているから、そのように名付けられた(『大南一統志』巻之2、承天府上、山川、玉盞山)

 玉盞山神祠はその玉盞山の中腹に位置し、含龍祠最霊祠と号した。主神は天依阿那(ティエンイアナ)演妃という女神である(『大南一統志』巻之2、承天府上、祠廟、玉盞山神祠)。この神の漢字表記の「天依阿那」のうち、「天依」は漢字表記通り天に依るの意味であるが、阿那はチャム語の固有名詞、ないしは「母」の意があるという(田村1998)

 天依阿那はもとはチャム人が信仰する女神ポー・ナガーであり、南のニャンチャンにあるタップ・バーという社に現在も祀られているという。十本の手をもち、ヒンドゥー教のシヴァ神の化身、ないしはその妻ウマがもとであるという(田村1998)

 チャム人はかつてヴェトナム中部から南部にかけてチャンパー王国を打ち立てたが、キン人(ヴェトナム人)の勢力が拡大するにつれ、南へと圧迫された。このキン人勢力の南部への拡大は広南阮氏によってなされたものだが、広南阮氏がよった富安(現フエ)は、かつてチャンパー王国ヴィジャヤ朝の北限ウリク州であった。この富安に対して、チャンパー王国は二度攻撃を行なったもの撃退され、以後広南阮氏によって順城鎮藩王に組み込まれた。チャム人と玉盞山の関係は不明であるが、かつてフエもチャム人の勢力下にあったことから玉盞山が香江交通の要衝であるため、自然信仰が形成されたのか、あるいは正和14年(1693)7月に戦争捕虜となったチャンパー王が玉盞山に幽閉されたのが契機であるのか不明である(『大南寔録前編』巻7、顕宗孝明皇帝寔録上、癸酉2年7月条)。いずれにせよ玉盞山神祠の原型はフエにいたチャム人が信仰する女神であり、これが天依阿那となったことになる。


玉盞山神祠(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



玉盞山神祠貞吉院(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。阮朝時代の皇帝の妾や宮女が30歳になるとここに送り込まれて余生を過ごしたという。1953年の洪水で被害にあったため、扁額は本殿に掲げられる。再建は1963〜68年頃。

 玉建山神祠は明命13年(1832)2月に本格的な再建が行なわれている。この時、承天(フエ)の雇工によって工事が実施されている(『大南寔録正編』第2紀、巻之78、聖祖仁皇帝寔録、明命13年2月甲午条)。すなわち兵士などによる徭役ではなく、宮廷からの私費に近い形で再建工事の費用が支出されたことになる。このことは明命帝自身の玉盞山神祠への信仰を表わすとともに、それが皇帝のプライベートなものであり、公的なものでなかったことを意味する。

 この玉盞山神祠は同慶帝(位1885〜88)の帰依により、新たな展開をみせる。同慶元年(1886)に玉盞山神祠を恵南殿と改称した。同慶帝は即位以前よりこの玉盞山神祠にたびたび参詣しており、そのたびに多くの験があったという(『大南一統志』巻之2、承天府上、祠廟、玉盞山神祠)。また同慶帝は子が無かった嗣徳帝(位1847〜83)の養子であったが、他の養子たちが先に帝位に即いていったため、疑問に思って玉盞山神祠で儀礼をあげると、三年後に帝位に即くとのお告げがあり、その予言が成就すると帰依を深めていったという(田村1998)。同慶元年(1886)3月に玉盞山神祠に「恵南殿」の同慶帝宸筆の扁額が掲げられており(「恵南殿扁額」)、「越南(ヴェトナム)」に恵みをもたらす神祠と位置付けられた。

 また同年6・7月に承天府(現トゥアティエン・フエ省)で雨が降らなかったため、フエの臣下がそれぞれの祠廟で祈祷させたものの効果がなく、恵南殿で祈祷させたところ、雨が降ったという(『大南一統志』巻之2、承天府上、祠廟、玉盞山神祠)


玉盞山神祠恵南殿(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



玉盞山神祠前庭の婆中天塔(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。大工の信仰を集める。

 玉盞山神祠は渡し舟が着く桟橋から石段を15mほど登った丘上にある(田村1998)。石段からしばらく進むと貞吉殿があり、さらに石段を登ると関帝廟、さらに進むと恵南殿がある。

 本殿はコンクリート製で、屋根には鳳凰の屋根飾りがあるが、鳳凰は王の象徴龍に対する王妃の象徴であり、ここに女神が祀られるから鳳凰飾りがある(田村1998)。中央に「恵南殿」、左に同慶丁亥(1887)秋につくられた同慶帝宸筆による「貞吉殿」の扁額が掲げられるが(「貞吉殿扁額」)、もとは本殿下部に位置する貞吉院のもので、1953年の洪水以降、本殿に掲げられたという(田村1998)。右には啓定3年(1918)秋には「明鏡高台第一宮詩」の字を句頭に置いた詩文の扁額が掲げられる(「明鏡高台第一宮詩扁額」)。恵南殿は奥にむかって手前を「明鏡前台第三宮」、中間を「明鏡中台第二宮」、奥を「明鏡高台第一宮」といい、それぞれ階段を登った三段構造となっている。

 恵南殿の中央に「玉盞天依阿那演玉妃上等神」「水龍聖妃中等神」「山中僊妃中等神」の三神が祀られた。左側に関聖帝君が、右側に六将軍が祀られた(『大南一統志』巻之2、承天府上、祠廟、玉盞山神祠)。中央三神のうち「玉盞天依阿那演玉妃上等神」は前述した通り、チャム人の信仰がもとになったものであるが、「水龍聖妃中等神」は香江に対する信仰であったらしく、玉盞山神祠の前には深い渕があり、深さは測ることができないほどであったという。伝説によればこの下は水族窟の住処であり、巨大な亀がおり、一たび浮き上がるごとに水面が波を起したという。そのため河伯(水神)の使者と考えられた(『大南一統志』巻之2、承天府上、祠廟、玉盞山神祠)。この地点は香江が南北方向から突然U字形に転回して西から東へと流れを変える、河川交通の難所である。また「山中僊妃中等神」は玉盞山そのものに対する信仰であり、この山が龍や虎のようにみえたとされ(『大南一統志』巻之2、承天府上、祠廟、玉盞山神祠)、難所に差し掛かる船舶がこの山を目印とし、やがては信仰に変わっていく様が想像される。


玉盞山神祠関帝廟(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



玉盞山神祠虎祠(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。

 ところで玉盞山神祠は、チャム人の信仰がもとになったものであるが、同慶帝による深い帰依によって、宮廷と深い関わりを有するようになる。玉盞山神祠における信仰は儒教・仏教とは異なる民間の、しかも霊媒の祭祀を基盤とするものであり、本来公には迷信とみなされていたものであったが、同慶帝が信仰を公式なものへとしたという(田村1998)

 このように、もとはチャム人の信仰であったものが、同慶帝を通じて阮朝王権と関わりをもつようになると、その信仰はやがてヴェトナム中部を代表する新興宗教である天仙聖教(ティエンティテンタインザオ)と姿を変える。天仙聖教は阮朝皇族の末裔によって現在も信仰され続けているが、1975年にヴェトナム当局から禁止された。そのためかつて大祭の時、二百隻の舟が香江に浮かんで五千人から一万人以上が参詣し、神輿をフエ中を練り回っていたが、現在はそのようなことはない。


玉盞山神祠五行社(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。1958年の建立。1975年以前には左右の石碑には寄進者が記されていたが、天仙聖教の禁教によって削り取られた。

[参考文献]
・田村克己「ヴィエトナム、フエのホンチェン殿」(『東洋文化』78、1998年)


玉盞山神祠(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)



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