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瀛洲の北島(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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寿址宮の工厰に行った後は長寧宮の北側に位置する瀛洲に行きました。瀛洲は皇城(阮朝王宮)の園地で、皇城の北側に東西にわたって広がっています。
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瀛洲の北島(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)。かつては橋があった。
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瀛洲の北には北台があり、上に建物があります。北台のすぐ西には皇城の南門の和平門があります。
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北台(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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北台(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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瀛洲を東に行き、ここから皇城(阮朝王宮)の東側のエリアになります。ここから南へ行くと幾暇園がみえます。
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瀛洲から南側の道(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)
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幾暇園には写真下のようなわけのわからない物体があります。一体何なのか理解に苦しむのですが、近くに漢文で書かれた小石碑があり、それによると阮朝第三代皇帝の紹治帝(位1841〜48)が「霓橋霽月」という詩文を詠んだ地だそうです。幾暇園は紹治帝がつくった離宮なので、これも彼が建造させたもののようです。
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幾暇園福聚洞(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)
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幾暇園福聚洞(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)
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紹治帝は旅行ガイドブックなどには「風流を愛する皇帝」となっているのですが、この幾暇園を見る限りは、あまり趣味がよろしくない人のようです。
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幾暇園の土山(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)
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幾暇園の土山上の祠(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)
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幾暇基(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。瀛洲金水湖中にある。
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幾暇園の中心は欽文閣という建物でしたが、現存せず、今はトタンのバラックが欽文閣跡に建てられています。一応世界遺産の阮朝王宮の中なのですが、このような生活臭満点のバラックが、しかも欽文閣基壇の上に建てられているのです。
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幾暇園の欽文閣跡(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。トタンのバラックが欽文閣跡の基台上に建てられている。
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幾暇園の西門である西作門跡(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。現在では門があった場所の塀がないことによって、かろうじて西作門跡が判別できるのみとなっている。
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幾暇園を南に出て東側に向かうと西台があります。ここには銃痕が生々しく残っています。ここフエではヴェトナム戦争中の1968年にテト攻勢でベトコンと米軍の間で激しい戦闘が行なわれました。この皇城(阮朝王宮)も激戦地となり、多くの弾痕が残されています。
ただしここの弾痕は撃ちあったにしては逆側(西)の内務府などには弾痕がなく、しかもここだけ集中的に弾痕があるのです。
変だなと思いつつ、テト攻勢の際にベトコンによって知識人や役人、僧侶が大量処刑されたことを想い出しました。この弾痕はあるいはその時のものかもしれません。
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西台(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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西台の銃痕(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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幾暇園の南側には内務府の跡があり、建物が現存しています。このフレンチ・コロニアル風の建物は保大13年(1933)に建てられたものです。内務府は日本でいえば宮内庁みたいなところです。
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内務府(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)。西洋式の建物となっている。
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皇城の南西の城壁は何故か土山があって、ここから登って眺めることができます。
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皇城の南西から午門方向をみる(平成23年(2011)3月19日、管理人撮影)
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皇城の東側のエリアの最南端には太廟があります。阮朝以前にヴェトナム南部を支配した地方政権である広南阮氏を祀る廟です。広南阮氏は西山党の乱で滅亡しましたが、反撃してヴェトナム全土を統一したのが広南阮氏の王族であった嘉隆帝です。
嘉隆帝は広南阮氏を継承したという思いがあり、そのため太廟を最も重要視したのですが、1948年の戦火で焼失しており、再建されたものの、今でも荒廃したエリアとなっています。屋根は瓦のようにみえますが、トタンです。
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太廟(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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太廟の北側には肇廟があります。肇廟は広南阮氏初代の父にあたる人物阮淦(1468〜1545)を祀る廟で、阮淦は仕えていた黎朝が滅亡すると、黎朝再興運動を起して黎朝を復活させ、さらなる本格的再興に向けて尽力しましたが、実権を一手に握っていたため、敵対勢力によって暗殺されました。
肇廟は太廟よりも小規模な廟です。
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肇廟(平成23年(2011)3月18日、管理人撮影)
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