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旧円覚寺総門(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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円覚寺はかつて沖縄県那覇市首里当蔵2-1、首里城の北に位置(外部リンク)した臨済宗の寺院で、弘治7年(1494)に建立されました。山号は天徳山。寺号の「円覚」はよく鎌倉円覚寺に因んだものとされていますが、仏のさとりを意味する語です。開山は日本僧芥隠承琥(?〜1495)で、開基は尚真王(在位1477〜1526)です。戦前は「七堂伽藍」を完備した寺院とされ、仏殿は国宝となっていましたが、昭和20年(1945)5月に沖縄戦における首里攻防戦で跡形もなく破壊されました。現在は放生池の石橋のみが残存し、総門が復元されています。
円覚寺開山仏智円融国師芥隠承琥禅師 〜その@〜
円覚寺の開山は日本の禅僧芥隠承琥(かいいんじょうこ)である。芥隠承琥は京都の人で、容貌が奇異で、虎視牛行、すなわちまるで虎のように辺りを鋭く観察し、牛のように悠然と歩くようであった。南禅寺塔頭語心庵の開祖である椿庭海寿(1319〜1401)の法嗣であり、元の禅僧古林清茂(1262〜1329)から数えて五世の孫にあたる。芥隠承琥はある日、「海南の琉球は小国であるとはいえ、人は清廉で根器がある。」といったが、南海は遠く、また風便も稀であった。そのため薩摩国(鹿児島県)宝福寺(俗に山寺という)にて時期を待った。ついに景泰年間(1450〜57)海を越えて琉球に至った(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、当山住持次第)。
ところで、芥隠承琥の生年は不明であるが、示寂年は弘治8年(1495)のことである。そうであるとすると、師である椿庭海寿(1319〜1401)の時代とは合わない。また「古林五世法孫、沙門承琥」(「旧天龍精舎洪鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)とあるように、芥隠承琥は古林清茂の「五世」を称しているが、椿庭海寿が古林清茂から数えて三世にあたるから、芥隠承琥は当然四世でなくてはならない。
椿庭海寿は、遠州国(静岡県)で生まれ、俗姓は藤原氏であった。幼くして竺仙梵僊(1292〜1348)に師事して出家した。竺仙梵僊が南禅寺に移ると行動を共にした。ある日竺仙梵僊は椿庭海寿を呼んで「理解できたか」と問いかけると、椿庭海寿は「わかりません」と答えた。竺仙梵僊は「向上事一星也無」といい、言いおわるや椿庭海寿は悟りを得た。貞和6年(1350)に渡海して入元した。天寧寺の空海□念によって蔵主となり秉払(ひんぽつ。住持に代わってその資格のある者が法座に上って説法すること)した。ついで南堂□欲・月江□印らにまみえ、穆庵□康は偈にて椿庭海寿を浄慈寺に招き、その第二座(後堂首座)とした。後に応天府(南京)の天界寺に掛錫した。その時、明の太祖皇帝は天界寺の住持白庵□金に命じて諸名僧に大蔵経を校合させ、椿庭海寿もそれに加わった。洪武5年(1372)白庵□金は太祖の命によって椿庭海寿を鄰県の福昌寺の住持とした。元・明にあること23年、応安6年(1373)に日本に戻り、翌年には京都真如寺の公帖を受けて住持となり、鎌倉浄智寺・円覚寺、京都天龍寺・南禅寺に歴住した。晩年南禅寺に語心庵を造立し、応永8年(1401)閏正月12日に示寂した。84歳(『延宝伝灯録』巻第27、京兆南禅椿庭海寿禅師伝)。
芥隠承琥が椿庭海寿の法嗣であることを主張しながら、実際には一世代ほど年代があわないこと、また実際に椿庭海寿の法嗣ならば、古林清茂の「五世」ではく、四世であるのが正しいことから、椿庭海寿と芥隠承琥との間に、一世代別の人物がおり、芥隠承琥はその人物に師事したと考えられている。その人物として考えられているのが、椿庭海寿にかつて師事したことがあり、また芥隠承琥が滞在した宝福寺開山の字堂覚卍(1357〜1437)である。
字堂覚卍は薩摩国(鹿児島県)の人で、俗姓は藤原氏。生まれた時瑞雲が部屋を覆うという瑞兆があったという。南禅寺の椿庭海寿に師事して得度した。師事すること20年に及んだが、後に薩摩国に戻って秦鑚庵・玄豊寺を建立した。補厳寺の竹窓智厳(?〜1423)が加賀国(石川県)瑞川寺に住していることを聞き、謁見して竹窓智厳の法嗣となった。熊嶽の杜(もり)で3年石の上で坐禅していると、ある猟師がやって来て草庵をつくってくれ、いくばくもしない内に伽藍となった。これが宝福寺である。その地は険しい場所にあったから、門弟達はほかの場所に移りたいと思っていた。字堂覚卍は「老僧は山の神に地面を取り払ってくれるようお願いするから待ちなさい」といい、器に米を盛って山を巡り、上部を切断した。すると山は震動し、陥没して平坦となった。字堂覚卍は永享9年(1437)9月7日示寂した。81歳(『延宝伝灯録』巻第9、薩州忠徳山宝福寺字堂覚卍禅師伝)。
このように、字堂覚卍は椿庭海寿に20年以上も師事しながら、ついに椿庭海寿の法を嗣ぐことなく、曹洞宗の竹窓智厳の法嗣となってしまった。そのことから、芥隠承琥は字堂覚卍の法嗣であった可能性があり、字堂覚卍が曹洞宗竹窓智厳の法系を嗣いだため、自己の法系から字堂覚卍を省き、直接に椿庭海寿としたと考えられている。古林四世ではなく五世孫としているのは、芥隠承琥にしてみれば多少とも後ろ髪を引かれる思いがあったという(葉貫1993)。
芥隠承琥は琉球に着くと、後の広厳寺の地に滞在したという。尚泰久王は芥隠承琥の道風に帰依し、ここに禅寺を創建して住まわせた。これが広厳寺である(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、万年山広厳寺、万年山広厳禅寺記)。さらに景泰年間(1450〜57)には尚泰久王(位1454〜60)によって芥隠承琥を開山とする天龍寺・普門寺も建立された(蔡温本『中山世譜』巻5、尚泰久王、紀、景泰年間条)。また景泰7年(1456)に天龍寺・普門寺の鐘が鋳造されており、この2口に「開山承琥、これを証す」(「旧普門禅寺洪鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)、「古林五世法孫、沙門承琥、謹んで記す」(「旧天龍精舎洪鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)と署名している。この年を中心として、同様の鐘が尚泰久王代によって23口鋳造されており、いずれも相国寺の渓隠安潜(生没年不明)が銘文を作成している。この渓隠安潜と芥隠承琥が同一人物であるという説があるが、前述の2口の銘文が、撰述者と真正者が別人の署名をしていることから、否定されるべきであろう。この尚泰久王朝の仏教界において、最も力を有していたのは渓隠安潜であるとみるべきであって、芥隠承琥はその他多くの禅僧の一人であったにすぎなかった。それでも数年の間に3寺を建立した実力は確かなものであって、尚泰久王が芥隠承琥を開山として3寺を建立したのは、「道風を慕い、説法を聞いて歓喜の余り」が理由であったという(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、当山住持次第)。
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沖縄戦焼失以前の円覚寺総門(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉25頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)
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円覚寺開山仏智円融国師芥隠承琥禅師 〜そのA〜
芥隠承琥がはじめて琉球の地を踏んだのは、第一尚氏王統の尚泰久王治世下の景泰年間(1450〜57)のことであった。芥隠承琥は尚泰久王の信認を受け、広厳寺・天龍寺・普門寺の3寺の開山となったが、尚泰久王の次代の尚徳王(位1461〜69)の後、クーデターによって第一尚氏王統は滅亡し、王位は重臣の金丸の手に渡ることになる。この金丸こそが第二尚氏王統初代の尚円王(位1469〜76)である。
金丸が王位を簒奪するにあたって、芥隠承琥が政界のフィクサー的存在となって裏で暗躍したと考えられている。また禅僧は王国の対外交流、とくに対日交易における外交官として重要な役割を果たしていた。寛正7年(1466)に芥隠承琥は琉球の正使として京都を訪れているが、この禅宗界・政界の実力者・季瓊真蘂(1401〜69)は芥隠承琥のことを「芥隠西堂」とよび、芥隠承琥と「旧識」であったという(『蔭涼軒日録』寛正7年8月7日条)。芥隠承琥が尚泰久王の篤い帰依を受けることによって、芥隠承琥が政治に介入する余地があったとし、さらに金丸が臣下時代に就任していた御物城御鎖之側官は対外交易によって得た物品を管理する役職であり、これが金丸と芥隠承琥が結びつくきっかけとなったともみられている(知名2008)。このように王朝や政権が変わる際に、当事者の精神的支柱ないしはフィクサーとなった禅僧は多く、日本では足利尊氏の帰依を受けた夢窓疎石(1275〜1351)、朝鮮王朝(李朝)の太祖(李成桂)の帰依を受け、王位に就くことを預言した無学大師(1327〜1405)、ベトナム李朝の太祖(李公蘊)が王位に就くことを預言した万行(?〜1025)などがいる。
尚円王は、第一尚氏王統時代に王廟であった慈恩寺を改め、崇元寺を建立しているが(蔡温本『中山世譜』巻六、尚円王、附記)、この時芥隠承琥が開山になったという(『琉球国由来記』巻10、霊徳山崇元寺、丈室)。また尚円王は衰退していた極楽寺を成化年間(1465〜87)に移転させ、旧号を改めて龍福寺とし、芥隠承琥を屈請して開山としている(『琉球国由来記』巻10、天徳山龍福寺、天徳山龍福寺記)。極楽寺も第一尚氏王統以前よりあった琉球最初の寺院で、王廟としての要素があったことから、芥隠承琥を開山として龍福寺に改められたとみられる。このように尚円王は前王朝の廟所となっていた寺院については、改称して芥隠承琥を開山にすることによって、前王朝色を薄めようとしていたことが窺える。さらに天王寺の開山も芥隠承琥であるが、天王寺も尚円王の時代に建立された寺院であるという(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、福源山天王寺、当山住持次第)。この天王寺は円覚寺建立まで第二王氏王統の王廟としての役割を担っており、尚円王の宗教政策は、芥隠承琥の存在抜きではありえないものであった。
尚円王は成化12年(1476)に在位7年で薨去し、弟尚宣威王(位1476)のわずか6ヶ月の短い治世の後、尚円王の子尚真王(位1477〜1526)が即位した。円覚寺はこの王の在位期に建立された。
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円覚寺放生池石橋(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉26頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)
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旧円覚寺放生池石橋(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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円覚寺の開創@
円覚寺は尚真王によって弘治5年(1492)建造に着手された(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創天徳山円覚禅寺記附重修事)。円覚寺の地は琉球国王の宮殿である首里城からみると、艮(北東)の方角に位置している。この方角は日本の陰陽道において鬼門とされ、忌み嫌われた。日本では平安遷都以来、この方角に除災を目的として寺院を建立した。実際、円覚寺は平坦な空閑地に建立されたのではなく、「土を闢(ひら)いて基(もと)となし」(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創天徳山円覚禅寺記附重修事)とあるように、人工的に造成した地に建立しており、首里城との地勢的関係を重視して建立されたものであった。
当時の琉球はいわば貿易立国であり、交易港である那覇には明人などが雑居していた。そのため明人によって中国の宗教・習慣が持ち込まれ、道教もまた琉球国内においてある程度浸透していた。第一尚氏王統においては、尚巴志王(位1422〜39)は道教の一派である天一教の天師府に宛てて進物を奉献しており(『歴代宝案』1-43-14)、天師府からは符録(符讖。道教で未来のことを予言する文書、ないしは護符の類)を賜下されたが、さらに琉球側は科録(免状)の給賜を願う書簡をしたためていた(『歴代宝案』1-43-18)。ところが尚巴志王が薨去すると、琉球の道教への国家的傾倒は息を潜め、変わって日本から持ち込まれた仏教が抬頭することになる。琉球は東南アジア各国とも交易を行なったが、基本的には明と日本間の三角貿易によって財をなしていた。そのようななかで、当時正式な外交文書はすべて漢文によって作成されており、日本においては禅僧が作文を担当したから、自然、仲立ちした琉球側においても禅僧の活躍は注目されていた。ところが宣徳9年(1434)には琉球で登用されていた禅僧受林正棋が、奴婢の八志羅(八郎)に殺害されて、八志羅が明に逃亡するなど(『歴代宝案』1-12-13)、単に外交文書作成者として禅僧を用いるには限界があった。そのため琉球側において、仏教を国家仏教として統率する必要があり、同時に仏教が除災・祈福など、その存在が国家の利益になるようにすることが望まれた。
琉球において仏教初伝は英祖王の時とされるが、最初に仏教が隆盛したのは尚泰久王の時代であった。この尚泰久王の時代には多くの寺院が建立され、尚泰久王がつくらせた梵鐘にも、多くの禅僧の名がみえる。ところで琉球にいた禅僧達は、必ずしも禅僧としての条件が完備した人物であったわけではなかった。例えば正統3年(1438)に琉球は明に対して、琉球報恩寺の天屋裔則に度牒を受けることの許可を求めているが(『歴代宝案』1-17-5)、そもそも得度証明である度牒を有していない禅僧が寺院の住持を務めるというのが琉球における仏教の実態であった。さらに芥隠承琥は前述したように尚泰久王時代に鋳造された天龍寺の鐘銘に「古林五世法孫、沙門承琥、謹んで記す」(「旧天龍精舎洪鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)と、自身の法系を誇示するかのように署名しているが、尚泰久王時代に鋳造された他の梵鐘には法系を記したものはなく、芥隠承琥がわざわざ法系を誇示していることは、琉球において法系が確かな禅僧が皆無であったことを示唆している。すなわち当時の禅僧において最も重要視された法系が確かな僧は、わずかに芥隠承琥一人に留まったことは、琉球において禅宗というものが、あくまで国王に対して除災・祈福を行なうだけであって、禅宗そのものへの理解が乏しかったことを意味する。
芥隠承琥の登場は、琉球において国家仏教が根付こうとした最初の一歩を示したことになる。尚真王は円覚寺を建立するとともに、第二尚氏王統の陵墓として弘治14年(1501)に玉陵を造成しており(蔡澤本『中山世譜』巻之4、尚真王、弘治14年条)、祭祀の確立をはかっていた。
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玉陵(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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円覚寺の開創A
円覚寺が建立される以前、円覚寺敷地は首里城北側に点在する池・湿地帯の一つであったとみられている。円覚寺周辺の地山は不透性の細粒砂岩であり、地形的に上位ある首里城へ降る雨水はこの細粒砂岩を伝って円覚寺方向に流れ込んだ。そのため円覚寺の地には大量の水が流れ込むことになる(沖縄県立埋蔵文化財センター2002)。
既に前述したように、円覚寺は尚真王によって弘治5年(1492)建造に着手された(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創天徳山円覚禅寺記附重修事)。円覚寺は平坦な空閑地に建立されたのではなく、「土を闢(ひら)いて基(もと)となし」(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創天徳山円覚禅寺記附重修事)とあるように、人工的に造成した地に建立しされていた。
円覚寺の建立にあたって尚真王は、琉球のもてる技術・人員を可能な限り用いたらしい。それは「土を陶(や)き瓦となし、工(たくみ)を鳩(あつ)め材を聚(あつ)め」(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創天徳山円覚禅寺記附重修事)とあるように、円覚寺建立のため瓦を燒き、工匠を招集したことが知られる。さらに老弱貴賎を問わず、ともに造立の功徳にあずかろうと、課せずして来たため、尚真王は公卿・大夫・士・庶人らにそれぞれ椎松一株を植えさせ、後人の標榜とした(「円覚禅寺記」『金石文 歴史資料調査報告書X』)。
弘治5年(1492)の建造開始から2年、円覚寺は弘治7年(1494)に完成した。建造物は寝室・方丈・大殿(仏殿)・法堂・山門(三門)・両廊・鐘楼・鼓閣や、僧房・厨庫・浴室など、多くの堂宇が建造された。さらにすぐれた工匠を精選し、梁や礎石に彫刻し、巧美をつくした。絵で荘厳して金や碧で飾った(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創天徳山円覚禅寺記附重修事)。
天子(中国皇帝)の恩徳を荷っているため、山号を天徳としたという(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創天徳山円覚禅寺記附重修事)。さらに『琉球国由来記』では、「祖師の古語をかり、以て故に寺を円覚と号すか」と推測している。「円覚」の語は、ほとけの悟りを意味し、禅宗においては非常に好まれた語であった。これを主題とする「円覚経」では、「無上法王に大陀羅尼門あり。名づけて円覚となす。一切の清浄なる真如・菩提・涅槃および波羅密を流出す」(『大方広円覚修多羅了義経』大正蔵842)とある。なお「円覚経」は仏陀多羅が唐代に訳した経典と伝えられていたが、現在では7世紀頃に中国で撰述された偽経と考えられている。
芥隠承琥が円覚寺の開山第一祖となった。円覚寺には常に僧侶300余人がおり、王家代々の冥福を修し、もっぱら当君(現国王)の康寧を祈っていた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創天徳山円覚禅寺記附重修事)。円覚寺のことは琉球の古歌集『おもろさうし』にも登場し、「一おぎやか思いが おこのみ 円覚寺 げらげて 祈りよれば てだが 誇りよわちゑ 又按司襲いが おこのみ 又大君は 崇べて (又)宮寺は げらげて 又君々は 崇べて 又上下は 揃へて 又地離れは 揃へて 又宮寺の孵で水 おぎやか思いに みおやせ 十百末 十百歳す ちよわれ(尚真王、国王様のお考えで、円覚寺を造って、大君、君々神女は神を崇べ敬ってお祈りをして、宮寺を造って、国じゅうの心を揃えて、祈り給えば、太陽神が誇り喜び給いて、国は栄えることだ。離島の心を揃えて、宮寺の孵で、水を尚真王様に奉れ。国王様は千年末、千歳末まで国を治めてましませ。)」(外間守善校注『おもろさうし』上〈岩波文庫、2003年3月〉194〜195頁より転載)と歌われた。
円覚寺の完成後も周辺の工事は継続され、円覚寺の石橋・放生池が完成したのは円覚寺完成から4年後の弘治11年(1498)になってのことであった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、立石碑併有椿事)。首里城の北側には幾筋か小屋根があり、円覚寺方向へと流れ込む水の自然堤防的役割を果たしていた。この小屋根の開削工事のため、放生池・石橋の完成が遅れ、円覚寺創建から4年後もたつことになったとみられている(沖縄県立埋蔵文化財センター2002)。
芥隠承琥は円覚寺建立翌年、弘治8年(1495)5月16日に遷化した。位牌は方丈に建てた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、当山住持次第)。この位牌は円覚寺に戦前まで残存していたが、沖縄戦によって失われた。芥隠承琥は後世にわたって尊崇され、康熙26年(1687)3月に円覚寺住持の石峰は円覚寺門中に開山国師(芥隠承琥)の土像を造って安置した。尚貞王(位1669〜1709)は土像をみて、歓喜の余り金色の袈裟および紫衣を賜った。その後忌日にあたっては坐具や紐環を給する慣例ができた。康熙33年(1694)、芥隠承琥承琥二百年遠忌の年にあたって、円覚寺の蘭田智休は琉球国王に奏上したため、芥隠承琥に「仏智円融国師」の勅諡号を賜った。この勅諡号は了道恵覚が撰定した。(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、当山住持次第)。
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焼失前の尚真王御後絵(鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』〈岩波書店、1982年10月〉311頁より転載)。戦前は尚侯爵家(旧尚王家)に所蔵されていた。
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円覚寺歴代住持
円覚寺の開山は芥隠承琥であり、以後住持職が遷任されていった。
円覚寺の歴代住持は、開山国師(芥隠承琥)以来、年月がたつにつれ前住列祖の位牌が混雑し、位次が定まらなくなるという事態が起こった。また歴代住持の中から失われたり脱落した者は、2・3人におよんだ。円覚寺の前住持の了道恵覚が視篆(じてん。寺に伝わる数々の印を確かめる儀式)の日に祖堂に入ると、歴代の位牌は壊れていた。そこで改めて大牌を一つ製造し、古い記録によって考察し、年月を推察して逐一改正し、真実を明らかにしていった。これによって錯誤がなくなったという。康熙50年(1711)12月12日、新牌を祖堂に移した。随喜の余り、住持・弟子らは諸山諸寺の和尚・西堂(前住持)を募って斎会を設け、供養を行なった。了道恵覚は円覚寺住持の叟山禅海の手を借り、新牌を安置した(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、甲乙住持事)。
これにより円覚寺住持の歴代が判明したのであったが、.康煕52年(1713)に編纂された『琉球国由来記』甲乙住持事により、円覚寺歴代住持を記載してみよう。はじめに代数がつくが、同書の順序によったものであり、あくまで正確なものではないことをあらかじめ明示しておく。
1、開山仏智円融国師芥隠大和尚
2、文為和尚
3、(日本)不材一樗和尚
4、種桂和尚
5、(浙江)煕山周雍和尚
6、仙岩和尚
7、龍雲興和尚
8、(日本五山)檀渓全叢和尚
9、鄂隠和尚
10、洞観鑑和尚
11、桂叔和尚
12、五渓一源和尚
13、(日本五山)春蘆祖陽和尚
14、桃庵祖昌和尚
15、義秋和尚
16、修翁智善和尚
17、祖庭和尚
18、菊隠宗意和尚
19、天叟和尚
20、イ(くにがまえ+力。UNI361E。&M002299;)翁周航和尚
21、以文和尚
22、恩叔宗沢和尚
22、藍玉宗田和尚
23、(再住)恩叔宗沢和尚
24、(妙心)喝伝玄好和尚
25、参雪安心和尚
26、(妙心)覆岩英本和尚
27、(妙心)明宗義宣和尚
28、(妙心)霊道元昭和尚
29、(妙心)心源宗安和尚
30、(妙心)雄岳祖英和尚
31、乾叟祖竺和尚
32、(妙心)脱心祖穎和尚
33、(再住)明宗義宣和尚
34、空山智秀和尚
35、(妙心)喝三全一和尚
36、説三一玄和尚
37、石峰宗ミン(王へん+民。UNI73C9。&M020916;)
38、古道宗恵和尚
39、際外宗実和尚
40、(妙心)蘭田智休和尚
41、(妙心)徳叟宗智和尚
42、(妙心)了道恵覚和尚
43、叟山禅海和尚
44、(再住)徳叟宗智和尚
45、康岳紹歓和尚
ここにみえるように、「日本」「浙江」「日本五山」「妙心」とあり、円覚寺住持の出自、ひいては琉球仏教界の人材動向をしることができる。最初に日本と記された僧は、日本僧とみてよく、それ以外は琉球の僧であると見ることができる。「浙江」とあるものは、現在の中国江南の浙江省のことで、中国五山の寺院が林立していた。また「日本五山」とあるのは、日本の五山僧をさしており、その後に「妙心」とあるのは、京都にある林下寺院で、現在臨済宗最大勢力となっている妙心寺派のことである。
五山僧と妙心寺僧の間には、菊隠宗意のような大徳寺派の禅僧もいたが、やがて妙心寺派の勢力が円覚寺に及んでいったことが知られる。このように五山・大徳寺・妙心寺の勢力の推移は、日本中世末における禅宗勢力の推移と全く同様であって、琉球が日本禅宗界と極めて密接な関係にあったことが知られる。
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沖縄戦焼失以前の円覚寺三門(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉27頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)
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円覚寺三門跡(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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円覚寺の修復
円覚寺は開創から100年たって老朽したため、万暦16年(1588)に丈室(方丈)・大殿(仏殿)・山門(三門)などの諸堂宇を修復した。その後、順治9年(1652)に山門(三門)・両廊をともに修復している(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創天徳山円覚禅寺記附重修事)。
また順治15年(1658)には丈室を修復した。康熙28年(1689)に丈室・厨庫・僧坊、および鐘楼など、修理することは前回のようであった。しかし康熙36年(1697)にいたると、ほとんど荒廃してしまった。そのため石を削って旧跡を修理し、土を焼いて瓦をつくり、日を選んで着工した。工匠はそれぞれその力を尽くし、大殿・山門・両廊・鐘楼・大門はみな修理して新たとなった。諸尊像や供器のようなものであっても、修理してこれを補ったり、改めてこれを造ったりした。もとの絵もやや消えていたため、改めてこれを描き、重ねて彩色した(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創天徳山円覚禅寺記附重修事)。
方丈の壇上…虚空蔵菩薩の木像
大殿の中央…釈迦・文殊・普賢の木像が安置され
土地堂…大帝判官大権の木像
祖師堂…菩提達磨大師・護法・韋駄天の木像
仏殿の背後…もとは普庵禅師の号が掛けられていたが、康熙36年(1697)に修造が終わった後、もとの絵が消えかかっていたため、改めて新たに金剛会を描き、ついでこの像を描いた。そのため普庵禅師の号をかえた。
大殿には「円覚禅林」の扁額がある。弘治年間(1488〜1505)に諸堂宇を建立したものの、大宝殿には扁額がなかった。そのため住持恩叔宗沢は奏上して、遠く中国径山まで揮毫を求めた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、額併聯事)。
大門には「天徳」という扁額が掲げられているが、誰の筆跡なのか不明である(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、額併聯事)。
大殿の梁上の聯は芥隠によって揮毫されている(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、額併聯事)。
客殿の左右に掲げられている聯には万暦7年(1579)尚永王に王爵を封ずるための明の冊封使蕭崇基が揮毫している(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、額併聯事)。
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沖縄戦焼失以前の円覚寺三門背面(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉28頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)
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円覚寺三門跡(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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沖縄戦焼失以前の円覚寺三門門脇(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉28頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)
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円覚寺三門脇跡。背後にみえるのは総門(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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円覚寺の建築
円覚寺は沖縄戦にて壊滅的打撃を受け、完全に破壊されたが、戦前はよくその伽藍配置や建造物を保っていた。焼失以前の建造物のうち、仏殿・三門・総門・石橋・放生池・方丈は旧国宝に指定されていた。円覚寺は当時の琉球の建造物のなかでは、比較的残存状況がよく、仏殿・三門・総門・石橋・放生池・獅子窟は弘治7年(1494)の建立当時の建造物であった。ここでは建立当初の建造物を紹介しよう。
円覚寺は西面して配置されている。琉球は中国・日本の影響を受けているにもかかわらず、南面することなく西面に配置されている。首里城も西面しており、風水による地勢的なものであるとい見解と、国王を「てだこ(太陽子)」とみなすため、東にいる国王(太陽)に謁見するという意味を込めたものいう見解がある。
円覚寺の周囲には厚さ207cm、高さ240cmの石垣を廻らせ、西面中央部に設けられているのが総門である。
総門は3間一戸単層で、入母屋造、本瓦葺の建造物で、桁行は6m96cm、梁間は3m33cmの規模で、形式としては八脚門の建築である。梁間は外部からみると2間となっているが、西側1間分は吹抜となり、奥の左右には仁王像が配置されていた。柱は円柱で、床にはすべて石が敷いてあった。概ね唐様を踏襲するが、木割が大きいため繊細な所がなく、重厚な印象を与えている。
総門の左右には石垣が設けられ、その左右の延長線上に脇門が設けられている。日常の出入りは脇門から行なっていた。脇門を入るとその正面には放生池があり、中央に石橋が架橋される。さらにその正面には18段の間口の広い石段が設けられ、その上には三門が建っている。三門の左右には門廊が設けられていた。
総門の左右には石垣が設けられ、その左右の延長線上に脇門が設けられている。日常の出入りは脇門から行なっていた。脇門は石のアーチを架設し、上に唐破風のついた屋根が設けられ、蟇股の形を彫刻する。屋根には装飾があり、大棟中央には石製の火焔宝珠が、両端には鴟吻(しふん。鯱の原型)と鬼瓦があった。脇門は戦後、北側のみが復元されたが、屋根の装飾は一切省かれた。
総門を入るとその正面には放生池があり、中央に石橋が架橋される。さらにその正面には18段の間口の広い石段が設けられ、その上には三門が建っている。三門の左右には門廊が設けられていた。
三門は3間一戸楼門で、入母屋造、本瓦葺の建物である。上部には勾欄付の廻椽がある。全体のプロポーションは高めとなっているが、放生池付近より見上げた視覚的効果が考慮され、石段と相まって荘重となっている。上層内部には宝冠の釈迦如来が安置され、その左右に十六羅漢が高欄付の仏壇の上に配列され、天井は鏡天井となっている。三門は弘治7年(1494)に完成後、万暦16年(1588)・順治9年(1652)・康熙36年(1697)に修理されている(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創天徳山円覚禅寺記附重修事)。
仏殿は三門の奥に位置する。弘治7年(1494)に完成後、万暦16年(1588)・康熙36年(1697)に修復されており(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創天徳山円覚禅寺記附重修事)、円覚寺随一の建造物であった。桁行5間(10m72cm)、梁間4間(向拝1間付で10m72cm)の建造物で、重層、入母屋造、本瓦葺の建造物となっている。向拝は6本の裸柱が並んでおり、日本の禅寺には例がない様式となっている。柱は円柱で、柱脚には唐様石製礎盤が据えられている。正面5間のうち、中央3間には両開の桟唐戸が設けられ、その左右1間づつには壁面が設けられ、花頭窓が付す。内部の床面には四半瓦敷となり、周囲1間分が外陣、その内側の桁行3間、梁間2間分が内陣となっており、その中央1間分には須弥壇が設置され、須弥壇の後壁は来迎壁となっている。来迎壁は金剛会を描いたもので、高3m93cm、幅2.48cmの規模で、弘治7年(1494)に完成した原図は康熙36年(1697)に修復されている(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創天徳山円覚禅寺記附重修事)。
獅子窟は仏殿と方丈の中間北方に位置している小堂で、桁行3間(7m93cm)、梁間3間(7m27cm)、単層入母屋造、本瓦葺の建造物である。内部は前面の桁行3間、梁間2間分が外陣、その奥の桁行3間、梁間1間分が内陣となり、内陣は須弥壇となっている。堂内は四半瓦敷となっている。弘治7年(1494)に完成後、万暦年間(1573〜1620)・順治9年(1652)・康熙15年(1676)・康煕32年(1693)に修復されている(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創両廟記附重修事)。
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沖縄戦焼失以前の円覚寺仏殿(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉30頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)
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円覚寺仏殿跡(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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蔡温の仏教統制政策
円覚寺には末寺が15箇寺あった。崇元寺・祥雲寺・桃林寺・照大寺・西来院・長寿寺・広厳寺・東禅寺・清泰寺・興禅寺・報恩寺・樹昌院・来光院・福寿院・紫雲軒がそれである(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、末寺事)。
薩摩の琉球侵攻後(1609)、琉球は抜本的な構造改革の必要性に迫られていた。最初の改革を実行したのが、羽地按司朝秀(1617〜75)である。彼は宗教面に大鉈を振るい、琉球の祭祀面で非常に大きな影響力のあった聞得大君を初めとする神女組織を縮小させていた。一方で仏教の国家統制政策も打ち出しており、康熙11年(1672)にはこれまで100斛であったり50斛であったりと変動があった円覚寺住持職の知行を、60斛と定め、また天王寺・天界寺は30斛とした(『球陽』巻之7、尚貞王4年条)。その後康熙34年(1695)に円覚寺住持僧の知行高は40斛増加の100斛となった(『球陽』巻之8、尚貞王27年条)。
その後、琉球の三司官となって強力な改革を推し進めたのが蔡温(1682〜1762)である。乾隆元年(1736)から翌乾隆2年(1737)にかけて矢継ぎ早に仏教統制政策を打ち出した。その中核となったのが、僧への糧食の給付で、その区別を明確化することで、仏教における余分な出費を抑えて、国庫の正常化をはかったのである。
乾隆元年(1736)紫衣僧で、円覚寺・天王寺・天界寺・護国寺・臨海寺の住持をへて老年となった者は、毎月米1斗3升5合を給付し、その従僧1人には米9升、従僕1人には雑穀9升を給付した。紫衣僧で、これらの寺院の住持となっていない者は、従僧の給付を行なわないが、その他はみな同様であった(旧来は住持となっていない紫衣僧でも、従僧に給付していた)。黄衣僧で、崇元寺・慈眼院・円覚寺法堂・神応寺・万寿寺・神徳寺・聖元寺の住持をへて老年となった者は、毎月米1斗3升5合を給付し、その従僕には雑穀9升を給付した。ただし黄衣僧であって住持にならなかった者は、黄衣僧本人のみ米1斗3升5合を給付し、その従僕には給付しなかった。また桃林寺・祥雲寺・照泰寺の住持や円覚寺御照堂の亭知事をへて老年となった者は、毎月米1斗3升5合を給付し、その従僕には雑穀9升を給付した。また黄衣僧で祥雲寺の住持となったといっても、同様であった。また住持とならず、ただ西堂(前住持)位であったものは、旧来は給付していたが、みな米を給付しないこととなった(『球陽』巻之11、尚敬王16年条)。
また翌乾隆2年(1737)には官位制度を改定しており、その中で僧の官位相当も定められた。紫衣僧は正二品、紫袈裟僧は従二品、黄衣で公寺の住僧は正三品、黄衣僧は従三品、黄袈裟僧で公寺の住僧は正四品、黄袈裟僧は従四品、緑袈裟僧で公寺の住僧は正五品、従五品は緑袈裟僧と定められた(『球陽』巻之12、尚敬王17年条)。
昔から毎年7月のはじめ、諸地頭らはそれぞれ白米1升を円覚寺・天王寺・天界寺に納付していた。施餓鬼の日にいたって、住僧はその米で神酒を醸造し、勤めの僧や諸官に与えていた。しかし施餓鬼の費用は官費から出ていたため、乾隆元年(1736)地頭が米を円覚寺・天王寺・天界寺に納付することを廃止した(『球陽』巻之11、尚敬王16年条)。
毎年7月7日に国王が円覚寺・天王寺・天界寺に行幸して、先王の神主(位牌)を礼拝していが、乾隆2年(1737)から7月14日に国王が百官を率いて円覚寺・天王寺・天界寺に行幸し、翌日15日に王妃もまた同所に拝謁することとし、7日の拝礼を廃止した(『球陽』巻之12、尚敬王17年条)。
またこの年、円覚寺・崇元寺の社参を廃止した。社参とは、官員311人が馬に乗り、諸寺に詣でて福を祈ることである。正月元旦および15日に国王が法司官を遣わして香を円覚寺で行なっていたが、これは国廟であるから、社参の者が詣でて福を祈るのは礼に反していることであり、また崇元寺も歴代の国廟であって、社参の者が道すがら福を祈るというのは、これまた礼に反することとされたためである(『球陽』巻之12、尚敬王17年条)。
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沖縄戦焼失以前の円覚寺仏殿天井(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉31頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)
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沖縄戦焼失以前の円覚寺仏殿内部来迎壁(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉32頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)
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宗廟としての円覚寺御照堂
仏殿と方丈の中間の北側には、獅子窟・御照堂があった。獅子窟は東御照堂ともいい、前述したが弘治7年(1494)に完成以来、沖縄戦で失われるまで一度も焼失しなかった。その西、すなわち三門方向には御照堂が位置しており、西御照堂とも称された。
弘治7年(1494)、はじめて宗廟(国王の廟所)を方丈の右に構え、これを東御照堂(獅子窟)をいった。その後隆慶5年(1571)にあわせて西御照堂(御照堂)を建した(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創両廟記附重修事)。御照堂であるが、このうち西御照堂に関して、嘉靖22年(1543)に建立されたという史料もあり、それによると、廟(東御照堂=獅子窟)の建物は狭く、先王の神主(位牌)を安置することが困難であったため到って宗廟を加建した。これを御照堂といい、正当昭穆の諸位神主として祭祀したとある(『球陽』巻之4、尚清王16年条)。
御照堂は桁行5間、梁間5間で、単層切妻造、本瓦葺の建造物で、正面と左右に濡椽を廻らせる。床は、四半瓦敷であった獅子窟とは対照的に、床を張りその上に畳を敷いた。
獅子窟・御照堂は万暦年間(1573〜1620)に修復を行なった。当初は板葺であったとはいえ、屋根が朽ちてしまい、柱も傾いた。本格的修復ができなかったため、苫(とま。むしろのこと)で屋根を覆ったが、暴風雨の時にはしばしば雨漏りする年が多かったため、みるものは正視に耐えなかった。順治9年(1652)の修理の時には屋根を瓦で覆った。康熙15年(1676)に再度修理したが、その後10数年後の癸酉年(1693)、雨が降ると両廟とも雨漏りしたため乾くことがなかった。そのため修復することになり、画工の妙手を選んで世祖(王の先祖)の尊像に色を塗り、蟠龍・舞鶴を描き、その巧美を尽くした(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創両廟記附重修事)。
円覚寺は正月2日、7月14日、王の親戚などが円覚寺に入り、先王を拝謁していたが、他の臣下には拝謁させなかった。雍正8年(1730)より始めて王子から庶民にいたるまで、みな衣冠を附け、円覚寺に詣でて拝礼させることとなった(『球陽』巻之11、尚敬王10年条)。また、これまで国王が正月・7月に円覚寺・天王寺・天界寺に謁する時、各寺の僧は正月には御嘉例を出し、7月には立御菓を出すことが恒例となっていたが、雍正13年(1735)に住僧側から出すことを禁じて、公司から御佳例・立御菓を献することとした(『球陽』巻之13、尚敬王23年条)。
照堂坊主とは、侍真のことである。侍真とは一般的には開山塔の塔主のことをさすが、円覚寺では開山塔の例に準じて、先王廟の主で祠事を勤める者をいった。耆徳(徳望の高い老人)の者を主としていたため、照堂坊主を勤めた者は西堂(前住持)の位にのぼった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、照堂坊主事)。円覚寺の照堂僧・亭僧・知事僧は、切米(扶持米)を給付せず、ただ住僧一人とその従僕一人に粮米を給付しているだけであった。乾隆6年(1741)に朝議して、切米それぞれ4斛を賜わることとした(『球陽』巻之13、尚敬王21年条)。
円覚寺はもともとから仏像を大殿(方丈)に安置していたが、大殿の側に別に小堂2座(御照堂)を構えて先王の神主(位牌)を安置していた。乾隆元年(1736)、大殿を王の宗廟とすることに改めた。その照堂一座を小堂に改築し、仏像を安置して、獅子窟といった。一方の一座は小堂を改築して、法堂の僧を移した。その他のことは旧例によって敢えて改めることはなかった(『球陽』巻之11、尚敬王16年条)。このように方丈には新たに琉球国王の神主(位牌)が安置されることになり、以後宗廟としての役割を有すことになる。一方で獅子窟は仏像を安置するだけとなり、御照堂は法堂僧の居住空間となった。
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沖縄戦焼失以前の円覚寺獅子窟(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉29頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)
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円覚寺獅子窟跡(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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円覚寺の鐘
首里城に掛けられていた2鐘は、銘文によるともとは円覚寺の鐘であり、一つは尚真王が良工に命じて弘治8年(1495)に鋳造させたもので、鋳造したのは大和氏相秀・藤原家信である。もう一つは尚真王が弘治8年(1495)に鋳造させたもので、円覚寺住持の文為が撰文し、大工大和相秀が鋳造した(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、銅鐘四箇)。円覚寺龍淵殿の金は高77cm、口徑49cmで、弘治8年(1495)に鋳造された。現在は沖縄県立博物館の所蔵となっている。仏殿前に掛けられていた鐘は総高114cm、口径72cmであり、現在は沖縄県立博物館に所蔵されている。
鐘楼の鐘は、尚真王が鋳造させたもので、弘治9年(1496)4月に煕山周雍が撰文し、大工藤原家信が鋳造した。その後、順治年間(1644〜61)には壊れてしまい、響きが正しいものではなかった。康熙34年(1695)夏、住持の蘭田智休は使僧として船に乗って薩摩の鹿児島に赴いたついでに、便船を出して山城(京都府)に遣わし、鐘を鋳造させた。3年で完成品が送られてきた。康熙丁丑(1697)季夏(6月)のことであった。もとの鐘楼を修復して鐘を掛けた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、銅鐘四箇)。康熙36年(1697)に鋳造された鐘は高207cm、口径118cmで、銘によると宗味なる者によって鋳造されたことが知られる。ほかにも「天順元丁丑(1457)八月鋳之」銘の雲飯(雲板)が国王殿の前に掛けられていたという(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、雲飯銘曰)。
円覚寺の鐘楼は、古来放生池の左辺に位置していたが、地勢的に低地にあり、鐘声が隠れてしまい遠くまで聞えなかった。そのため乾隆9年(1744)、亭寮・照堂寮を寺の南の広地に移築し、鐘楼は亭寮・照堂寮のもとの場所に移築した(『球陽』巻之14、尚敬王32年条)。沖縄戦焼失以前の鐘楼は、桁行3間、梁間2間、袴腰入母屋造、本瓦葺の建造物であった。
円覚寺の鐘を撞くのは「行者」と称される者の職掌であった。行者とは、晩年に至って発心して行道した者のことで、鼓を撃ち、鐘を鳴らし、香火を勤め、掃除する者であった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、行者事)。円覚寺の行者は鐘撞きを職掌としていたから、行者役その家は池(放生池)の上の地に構えて円覚寺から離れさせなかった。雍正11年(1733)に至って、その池の上の地に宅座を創建した。もしその家がほかにあった場合、行者役の用を行なうことが困難となることを恐れたのである。そのため、寺社奉行が俸米としてそれぞれ5斗を賜って行者役を寺内に居住させることを奏上し、それが許可された。もとより行者役を務める者は、人家の従僕であったが、その数年前に行者役を務める者を首里出身者と改代し、恒例とした(『球陽』巻之13、尚敬王21年条)。
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沖縄戦焼失以前の円覚寺鐘楼(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉29頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)
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円覚寺仏殿跡(左)と鐘楼跡(右)(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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円覚寺法堂
法堂(はっとう)は禅寺における建物で、僧侶が講義を行なう建物をさした。七堂伽藍を構成する建物の一つであり、通常、三門・仏殿・法堂・方丈が一列に配置された。円覚寺においては三門・仏殿・方丈が一直線に配置されているが、独立した建造物としては法堂は存在していない。これは方丈の中に法堂の機能が内在されたためであり、円覚寺の方丈は「大殿」とも呼ばれ、法堂の慎終庵、宗廟の龍淵殿が集合していたため、円覚寺内では最大の建造物であった。なお円覚寺において「大殿」と呼ばれる建造物は史料によって異なり、『琉球国由来記』では仏殿のことで、『球陽』では方丈のことを指す。
法堂は円覚寺の伽藍で、七堂伽藍の中では随一であり、「住持唱法の道場」とみなされていた。かつ諸祖の忌日年間になると祖像をここに勧請し、供養を設けた。順治年間(1644〜61)の7月に尊牌を請い、祭祀を行なっており、「慎終」と号していた。草創以後、百年ほど歴たが修復せず、衰退の極みにあった。先王である尚元王(位1556〜72)の二十五回遠忌の時である万暦24年(1596)夏、修復を開始して、7月上旬に完了した。その後小規模な修復を何度も実施しているが、その回数は不明であるという(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、法堂縁由記附重修事)。
法堂の壇上には、もとは薬師・弥勒・勢至の三体の尊像を安置していたが、造立以後、長い年月をへて傷みがひどく、そのため円覚寺の前住持である際外宗実が国王の許可を得て、康熙32年(1693)に新像を中国福建より請来した。この時の住持は月中西堂であった。法堂の開山は祖庭和尚であるが、それ以降の住持の次第は不詳である。順治年間(1644〜61)の法堂の住持は以下の通り。
実山長老 喜山長老 心了長老 太伝西堂 牧源西堂 文淵西堂 勝山西堂 太安西堂 鶴山西堂 道源西堂 蟠山西堂 月中長老 徳田長老 覚翁長老 湛道長老 方山長老 向恩長老 雲岩長老
(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、法堂縁由記附重修事)
円覚寺法堂の住僧は諸山の前堂(前住持)に準じられているが、その理由として円覚寺内で法堂の住僧は「黒衣の長老」と称されていたからという。その後五山の旧例によって黄衣を着ることとなった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、法堂縁由記附重修事)。
康煕60年(1721)正月1日丑刻(午前1時)、火災によって円覚寺の大殿(方丈)が焼失した。しかし、照堂・仏殿・山門は幸いにして火災を免れた。この時、住僧覚翁は誤って火災を起してしまったあげく、専ら自分の荷物を担ぎ出し、先王の神主(位牌)を顧みることがなかったため、尚清王の神位(位牌)、尚豊王・尚賢王の寿像を焼失してしまった。このため、覚翁は八重島に配流、照堂の僧は久米島に配流となり、亭知事は照泰寺に300日入寺処分となった(『球陽』巻之11、尚敬王9年条)。同年再建された方丈は桁行9間(19m51cm)、梁間6間(12m81cm)、単層入母屋造、本瓦葺の建造物で、康煕60年(1721)に火災で焼失したのを再建したものであった。方丈は内部に法堂(慎終庵)が内在していたため、規模は円覚寺建造物中最大のものであった。
乾隆元年(1736)、円覚寺はもともとから仏像を大殿(方丈)に安置していたが、大殿の側に別に小堂2座を構えていた。これを御照堂といい、先王の神主(位牌)を安置していた。この年、大殿を王の宗廟とすることに改めた。その照堂一座を小堂に改築し、仏像を安置して、獅子窟といった。一方の一座は小堂を改築して、法堂の僧を移した。その他のことは旧例によって敢えて改めることはなかった(『球陽』巻之11、尚敬王16年条)。このように方丈には新たに琉球国王の神主(位牌)が安置されることになり、以後宗廟としての役割を有すことになる。一方で照堂はただ仏像を安置して、獅子窟と呼ばれるだけの存在となってしまった。
このように、方丈はその内部に法堂・宗廟を内在し、さらに西北隅には国王の御座の間があり、方丈はその一つ建造物で多様性を持っていた。宗廟は龍淵殿と称されていた。方丈には「龍渕殿」の扁額があり、これは開山国師(芥隠承琥)の真筆であるとされた。このことを薩摩が伝聞したため、薩摩によって没収されてしまった。そのため円覚寺住持の心源宗安は太淳にこれを摺り書きさせた。これが今(17世紀)の扁額である(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、額併聯事)。
乾隆元年(1736)に、黄衣僧で、円覚寺法堂・崇元寺・慈眼院・神応寺・万寿寺・神徳寺・聖元寺の住持をへて老年となった者は、毎月米1斗3升5合を給付し、その従僕には雑穀9升を給付することとした。ただし黄衣僧であって住持にならなかった者は、黄衣僧本人のみ米1斗3升5合を給付し、その従僕には給付しなかった(『球陽』巻之11、尚敬王16年条)。乾隆2年(1737)、龍福寺・安国寺・慈眼院・慎終庵(円覚寺法堂)の各寺に、知行12石を給することを定めた(『球陽』巻之12、尚敬王17年条)。
乾隆2年(1737)正月2日に国王が円覚寺・天王寺・天界寺の先王および妃の神主(位牌)を拝謁し、百官もまた円覚寺・天王寺を拝謁し、3日には王妃ならびに翁主、王の親族の婦女らが円覚寺・天王寺・天界寺を拝謁することとなった(『球陽』巻之12、尚敬王17年条)。
円覚寺の壇および天王寺に安置された五位(現国王より五世前までの先祖)の神主(位牌)は、三十三回忌を終わった後も、毎年忌日となれば6椀を奉っていた。乾隆2年(1737)から三十三回忌がすぎれば、忌日であっても饌を奉ることを廃止した(『球陽』巻之12、尚敬王17年条)。
円覚寺の左右の神壇は、先王の神主(位牌)を安置してきたが、乾隆6年(1741)に神主を改めて、屏牌(当主より5世を経過した祖先達を合祀して、一位牌としたもの)とした(『球陽』巻之13、尚敬王21年条)。さらに正月・7月に国王が三寺(円覚寺・天王寺・天界寺)に行幸して香を行なう時、階下にて音楽を演奏することを廃止した(『球陽』巻之13、尚敬王21年条)。
古来、正月1日と15日になるごとに、国王は必ず進香を円覚寺・崇元寺・広厳寺・長寿寺に行なってきたが、雍正7年(1729)にいたってこれを廃止した。乾隆26年(1761)に旧例に復した(『球陽』巻之15、尚穆王12年条)。
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沖縄戦焼失以前の円覚寺方丈(『世界美術全集』24〈平凡社、1928年10月〉84頁より転載)。円覚寺方丈は龍淵殿と称されていた。手前の一見物置のような入口がみえる建造物は庫裏。庫裏は円覚寺の他の建造物に比して「粗末」と評されたため、写真はほとんど残っていない。
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円覚寺方丈跡(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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沖縄戦焼失以前の円覚寺脇門(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉25頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)
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円覚寺脇門(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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弁財天堂
円覚寺の放生池の西側には弁財天堂がある。やはり沖縄戦で焼失しているが、戦後再建された。この弁財天堂はもとは経典を納める輪蔵(りんぞう)であった。
弘治15年(1502)に朝鮮国王が「方冊蔵経」を琉球に献上してきた。そこでこの地を選んで輪蔵を建造し、方冊蔵経を納めた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創弁財天女堂記附重修事)。「方冊蔵経」とは大蔵経のことで、現在の韓国慶尚南道に位置する海印寺には、13世紀に高麗によって版行された高麗大蔵経があり、この版木で摺られた大蔵経は、朝鮮王朝時代には日本など周辺諸国への輸出品となっていた。琉球の大蔵経輸入であるが、朝鮮側の記録によると、琉球の使節が天順5年(1461)に天界寺建立に際して大蔵経を求めたほか(『世祖実録』巻26、世祖7年12月戊辰条)、弘治6年(1493)にも安国寺に蔵納するため大蔵経を求めている(『成宗実録』巻279、成宗24年6月戊辰条)。輪蔵を造営して納めたという大蔵経であるが、朝鮮側の記録にはみえない。あるいは弘治13年(1500)11月に琉球国王が梁広・梁椿を朝鮮王朝に遣わして通好しているが(『燕山君日記』巻39、燕山君6年11月戊午条)、この時の遣使と翌々年の大蔵経請来が何らかの関係があるのかもしれない。なお他にも円覚寺には大般若経を所蔵しており、もとは龍福寺の所蔵であり、中国福建より請来されたものであったが、その後龍福寺の手を離れ、円覚寺の公用となっていた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、大般若経来由記)。
万暦37年(1609)の薩摩の琉球侵攻によって、堂は破壊されて経典は散佚し、すべて空地となった。天啓元年(1621)、尚豊王は円覚寺住持の恩叔宗沢に詔した。「朕は次のように聞いている。弁才天女は我が国第一の守護神である。しかしながら昔より未だに堂はなかった。想うに経蔵の遺跡に新たに堂を構えて、弁才天女の像を屈請し、これを崇敬したい」 これに対して恩叔宗沢はうやうやしく奏上した。「よいことです、大王。幸いにも円覚寺の方丈にはもとより天女の像があります。これを屈請すべきです。」 工匠はその力を発揮して完成した。これが像堂の世にあらわれるの最初である。その後康熙20年(1681)、尚貞王は始めて参詣し、毎年正月・5月・9月に参詣した。今にいたるも途絶えていない。毎年9月7日には弁才天講と称して祭祀を行なう。毎年有司二人が祀りの事を行なうが、これを講主といった。康熙5年(1666)に修復を行なったまた康熙33年(1694)にはさらにこれを新たにした。翌年夏、住持の蘭田智休は国王の命令によって、池中に蓮を栽培した(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、肇創弁財天女堂記附重修事)。
ところで琉球において、弁財天は大いに信仰され、琉球の本地、すなわち守護神として尊崇された。弁財天は「弁戈天(べんかてん)」とも称されたが、これは弁財天の異称の弁才天の「才」字を「戈(ほこ)」として、守護神としての意味を持たせたことによる。また弁財天は琉球の最高神女官である聞得大君をよりしろにするとされ、琉球固有の信仰に基づく国家祭儀と、仏教が融合し、この信仰の発展次第によっては、琉球の宗教も新たな展開もあり得たが、この弁財天信仰はある事件が原因で急激に失われていくことになる。そのことは汪楫『使琉球雑録』に詳しいから以下に引用する。
「伝聞するところでは、この国には六臂の女神をまつるとのこと。手には日月をとり、名づけて辨戈天という。霊異は特にあらたかである。婦人で再婚しないものをよりましとしており、このよりましは女君となづけられている。王も世子も陪臣も、これには低頭尊敬しないものはない。国によくないことがあれば、神はそのたびごとに王に告げて、その者をとらえさせる。隣国が侵略して来ると、神は、水を塩にかえてしまい、米を砂にかえてしまう。かくして、すぐに(包囲を)といて去ってしまう。そこで、この国の人は、神につかえてはなはだ敬虔なのである。明の某使臣は、この国へ来て、王と会して語りあい、たいそう気があった。そこで王に、「この国には、城郭はなく、戦いの装備も少いのだが、何によって外国からの侵略を防禦なさるのか」と、たずねた。王は、くわしく女神の霊力を述べ、「女神をたのみにすれば、おそれはありますまい」と答えた。使臣は、「神がよりたまわず、たまたま霊力がなかったときは、一体、何をたのみになさろうとするのですか」と言った。その後、日本が突然(この国に)大いに進攻し、人々を殺し、物をうばい、はなはだ無惨なこととなった。王と王相とを捕虜としてつれ去り、永らくとどめたのち、やっと釈放した。王は、「神の霊は、遂に天使の一言によって、破られてしまったのか」と言い、そののち二度と、辨戈天を口にしなかったとのことである。あちこちの寺へも行きはしたのだが、どこにも辨戈天を祀ったところはなかった。」(汪楫『使琉球雑録』巻3、俗尚〈原田1997、97・98頁より転載〉)。
亭坊主とは、維那のことである。維那は梵語であり、翻訳すると次第という意味になる。そのため僧事の次第をつかさどることをいうのであるが、円覚寺では弁才天堂の香灯を奉る者のことをいった。そのため「亭」と称したのである。坊主は僧の別名であり、徳行の人を選んでその職に任じたから、亭坊主を務めた者は西堂(前住持)の位に転じた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、亭坊主事)。円覚寺の亭僧・知事僧は、切米(扶持米)を給付せず、ただ住僧一人とその従僕一人に粮米を給付しているだけであったが、雍正11年(1733)朝議して、切米それぞれ4斛を賜わることとした(『球陽』巻之13、尚敬王21年条)。乾隆9年(1744)には亭寮を寺の南の広地に移築し、その跡地には鐘楼を移築した(『球陽』巻之14、尚敬王32年条)。
咸豊7年(1857)11月25日夜、弁財天堂が焼失し、神像から堂宇にいたるまですべて焼失した(『球陽』巻之22、尚育王22年11月25日条)。
円覚寺弁財天円鑑池から戦後、鰐口が出土している。この鰐口の銘に「明和九年壬辰正月吉祥日/奉掛御宝前/仮屋普請手伝大城筑登之」とあるから、明和9年(1772)に鋳造されたことが知られる。また琉球で常用された中国年号ではなく、日本の年号で記されていることから、この鰐口が日本で鋳造されたことが知られる。
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沖縄戦焼失以前の弁財天堂(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉42頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)
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弁財天堂(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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沖縄戦における首里の壊滅と円覚寺の消滅
円覚寺は明治17年(1884)、王府所管から旧王家の尚家の私寺へと移管された。そのため僧録などの職掌は円覚寺から切り離され、安国寺に移管した。円覚寺が尚家の私寺となったため住持は不在となったが、安国寺の住持が兼任することとなった。昭和8年(1933)に総門・放生池・三門・仏殿・鐘楼・獅子窟・方丈が旧国宝に指定されたが、昭和20年(1945)の沖縄戦ですべての建物が失われた。
昭和20年(1945)4月19日午前6時、また第24軍団の27個大隊の砲兵は75mmから8インチ(203mm)の榴弾砲すべてで砲撃し、また米国海軍のターナー提督 Richmond Kelly Turner(1885〜1961)は6隻の戦艦、6隻の巡洋艦と9隻の駆逐艦で艦砲射撃を行なっており、消費砲弾はこの日1日だけで1万9000発に及んだ。さらに650機の海軍・海兵隊員の航空機が(第58機動艦隊からは300機以上)がロケット弾やナパーム弾を投下し、機銃掃射を浴びせた(『Okinawa : the last battle』・『Okinawa: Victory in the Pacific』)。航空機のうち139機は首里を空襲した。この日をはじめとして首里は連日砲撃と空襲にさらされて完全に壊滅、沖縄一中とメソジスト教会の2つの建物を残して廃墟と化した。5月29日に米国第1海兵師団第1大隊A中隊が首里城趾に突入して同地を占領した。この時同中隊は南部連合軍の旗を掲げたため、南部出身者は歓呼の声をあげ、北部出身者は不満の声をもらし、西部出身者はどうしたものかと迷っていたという。
首里城における戦闘の様子は、米軍が映像で記録しており、沖縄県立公文書館のウェブサイト中の「沖縄戦関連映像資料」(http://www.archives.pref.okinawa.jp/streaming/index.html)中の「Battle of Okinawa No.3(沖縄戦 No.3)A(http://www.archives.pref.okinawa.jp/streaming/227_11.html)にみることができる(実際の戦闘場面や日本兵の遺体など凄惨な場面もあるので注意)。その中に円覚寺らしきものが映されているが(1分35秒程)、詳細は不明である。円覚寺は沖縄県立博物館などにのこる遺品などからみれば、焼失したのではなく、激しい砲撃による爆風と破片で、破壊・倒壊したものであり、破片で引き裂かれた石造物や、首が引きちぎられた仏像などがそれを物語っている。破壊された具材は、戦後地元の人らが廃墟から運び出し、復興のための建設資材や燃料となったため、大半が現存していないが、一部は沖縄県立博物館に所蔵されている。
円覚寺住持の長岡敬淳は、安国寺住持でもあったが、陸軍少佐でもあったため、沖縄戦で防衛隊長となり戦死した(名幸1968)。戦後に安国寺は再建されたが、円覚寺はついに再建されることはなかった。
円覚寺の跡地は1948年に開学された琉球大学の教員宿舎が建てられ、かろうじて残存していた基壇・石畳といった遺構が破壊されるか土中に埋蔵された。1968年に琉球政府文化財保護委員会によって総門・左脇門が復元され、放生池が修復されたが、仏殿・龍淵殿が建てられていた伽藍の中心跡地は1965年頃に琉球大学のグラウンドとして再造成された。
昭和47年(1972)に放生池が重要文化財に指定され、木造白象及び趣意書・放生池石橋勾欄・総門が県指定有形文化財に指定された。昭和59年(1984)に首里城跡地にあった琉球大学キャンパスが移転したため、首里城の復元が進むこととなる。それに伴って円覚寺跡地は県営公園に位置づけられており、平成9年(1997)から5年をかけて発掘調査が実施された。
円覚寺の南側の首里城は、現在も復元工事が進行中であるが、円覚寺の復元は1968年を最後に止まっている。円覚寺の壮大な伽藍が蘇る日は果たして来るのであろうか。
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昭和20年(1945)4月28日に撮影された沖縄戦の首里攻防戦以前の首里城付近の写真。丘陵の上に位置する首里城の下にあったのが円覚寺であるが、木々に囲まれているためみえない。かつての琉球王国の首都の繁栄ぶりが、首里城の付近からうかがえる。下の1ヶ月後の写真と比べられたい(『Okinawa : the last battle』〈アメリカ陸軍省編、1948年〉399頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)
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昭和20年(1945)5月23日、沖縄戦の首里攻防戦後の首里城付近の写真。首里攻防戦における米軍の艦砲射撃を中心とした激しい砲撃によって、建物という建物は大半が失われ、かつて繁栄をほこった旧王都は見渡す限り焼け野原となっている。とくに首里城周辺は日本軍第32軍司令部が置かれたこともあって米軍による主要攻撃目標となり、地形が変わるほど破壊された(『Okinawa : the last battle』〈アメリカ陸軍省編、1948年〉399頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)
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[参考文献]
・伊東忠太「琉球紀行」(同『木片集』 万里閣書房、1928年)
・田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』(座右宝刊行会、1937年10月)
・『Okinawa : the last battle』(米国陸軍省編、1948年。ただし訳出部分は外間正四郎訳『沖縄 日米最後の戦闘』〈光人社、2006年8月〉によった)
http://www.history.army.mil/books/wwii/okinawa/
・『Okinawa: Victory in the Pacific』(米国海兵隊編、1955年。ただし訳出部分は陸上自衛隊幹部学校編『沖縄 太平洋の勝利』〈陸上自衛隊幹部学校、1961年1月〉によった)
http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Okinawa/
・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社、1968年)
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝 写真(編)』(岩波書店、1982年10月)
・鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝 (本文編)』(岩波書店、1982年10月)
・『金石文 歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会、1985年)
・葉貫磨哉『中世禅林成立史の研究』(吉川弘文館、1993年2月)
・原田禹雄『訳注 冊封琉球使録音三篇』(榕樹書林、1997年9月)
・『旧円覚寺美術工芸慶関係資料調査報告書』(沖縄県教育委員会、2000年3月)
・『円覚寺跡-遺構確認調査報告書-(沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書第10集)』(沖縄県埋蔵文化財センター、2002年3月)
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)
・ユージン・B・スレッジ著/伊藤真・曽多和子訳『ペリリュー・沖縄戦記』(講談社学術文庫、2008年7月)
・『沖縄の金工品関係資料調査報告書』(沖縄県教育委員会、2008年)
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