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天王寺跡(メスジスト派首里教会)の石垣(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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天王寺(てんのうじ)は沖縄県那覇市当蔵町2丁目に位置(外部リンク)していた臨済宗の寺院で、第二尚氏王統初代の尚円王が即位する前の邸宅であった地に建立された寺院とされています。王妃の廟所があり、円覚寺・天界寺とならんで「三廟」と称されて尊崇されていました。明治に廃寺となりました。その跡地にはメスジスト派の首里教会が建てられました。
尚円王@
尚円王の事跡は琉球の正史『中山世譜』『中山世鑑』に比較的詳細に記されているものの、第一尚氏王朝を事実上簒奪して新たに王朝をたてたということもあって、その生涯は潤色に満ちており、具体的な事跡をたどることは困難である。
尚円王は金丸といい、葉壁山(伊平屋諸島)に生まれ、生まれながらに賢徳があり、父をたすけて農業に従事した(蔡鐸本『中山世譜』巻之4、尚円王、附記)。金丸が生まれた時代は、ちょうど第一尚氏王朝の初代国王尚思紹王の治世下であり、尚思紹王が薨去して、世子で実質上の王朝の創始者尚巴志王の治世となった永楽19年(1421)の段階では6歳となっていた。
宣徳9年(1434)、金丸が20歳の時、父と母をともに失った。その時弟の宣威は5歳であったから、金丸は憂慮することになる。農業に従事していたものの、旱(ひでり)に遭うごとに、民衆の田はみな涸れてしまったが、金丸の田のみは水が満々としていたから、人はみな水を盗んだものと疑った。そのため日頃から金丸とは睦みを通ぜず、ある者は害そうとした。正統3年(1438)、24歳のとき、ついに田畑を捨て、自ら妻と弟を連れて海をわたって国頭に到り、数年居住したが、ここでもまた同じであった。金丸は真心をつくしたが、ついに容れられることはなかった。正統6年(1441)、27歳の時、また妻と弟を連れてはじめて首里に到り、その身を国王の叔父尚泰久に託した(蔡温本『中山世譜』巻六、尚円王、附記)。
尚泰久は金丸の居動から、大きく常人と異なることをみてとり、尚思達王(位1445〜49)に推薦した。はじめは家来赤頭(げらへあくがみ)という王府の下級官吏職となったが、数年勤務すると同僚から尊敬を受けた。景泰3年(1452)、尚金福王(位1450〜53)の治世において、38歳で黄冠の位に昇進した(蔡温本『中山世譜』巻六、尚円王、附記)。
その後尚泰久が即位した。琉球は中国明朝の冊封体制下にあり、歴代国王は明朝の冊封を受けていたのであるが、尚泰久王が景泰5年(1454)2月に遣わした報によると、「「長兄金福が没して、次兄布里と兄の子志魯が争い、府庫を焼き、双方とも傷つきともに倒れました。賜っていた鍍金の銀印もまた毀壊してしまいました。国中の臣民が臣(尚泰久)を推して権(かり)に国事を摂らせました。再び印を賜わって遠方を鎮撫することを乞います」(『英宗実録』景泰5年2月己亥条)とあるように、尚泰久王が即位するとき、琉球では王位継承をめぐる内戦が勃発したらしい。尚泰久はいわば「棚からぼた餅」式に王位を手に入れたのであるが、後に王位を事実上簒奪した金丸の目にこれがどのようにうつったのか、定かではない。いずれにせよ最初に金丸を評価した尚泰久が王位につくことによって、金丸は大出世をとげることになる。
景泰5年(1454)、内間(現西原町内間)の領主に任じられ、わずか一年で百姓が金丸に心服し、名が世間の評判となった(蔡鐸本『中山世譜』巻之四、尚円王、附記)。
この後、尚泰久王の治世下最大の事件ともいうべき阿摩和利(あまわり)の乱が勃発している。阿摩和利は勝連グスクに拠った按司(あじ)である。按司は琉球のグスク時代が始まる12世紀頃から各地に存在していた在地豪族で、琉球の三山時代の王たちですら、有力按司による緩やかな連合体の長というほどのものでしかなかった。そのため自然王権は突出することなく、かえって彼ら按司は独自に使節を明に送り、中国側の史料には「寨官(さいかん)」として記録されているほどで、王権の伸張を阻んだ。さらに三山時代には王が他の按司によってその地位をとってかわられるという事態もたびたびあった。実際三山を統一して成立した第一尚氏王統ですら、もとは佐敷の小按司であり、中山王位を奪い、山南・山北を征服して統一したという事情をもっていた。
このような事情であったため、按司たちは王権内において独自の地位を占めており、なかでも阿摩和利は尚泰久王の娘を娶るほど勢力は大きいものであった。勝連の阿摩和利は琉球の古歌謡集『おもろさうし』巻16に5首ほど謡われ称揚されているが、「一おもろ殿原よ 精の口正しや 勝連 選びやり ちよわれ 又宣るも殿原よ 又聞ゑ阿麻和利や 国の弟者 成しよわちへ(おもろ殿原よ、宣るも殿原よ、霊力のあることばの勝れて正しいことよ。勝連を選んで来給うたのだ。名高い阿麻和利を国の縁者としての兄弟になし給いて、勝連は栄えることだ。)」(『おもろさうし』第16、第1128番歌〈外間守善校注『おもろさうし』下、岩波文庫、2000年11月、210頁より一部転載〉)とあるように、阿摩和利が国王の縁者であることを讃え、阿摩和利が勢力を持つ勝連(肝高)を讃えている。
さらに「一勝連の阿麻和利 玉御柄杓 有りよな 京 鎌倉 此れど 言ちへ 鳴響ま 又肝高の阿麻和利 又島知りの御袖の按司 又国知りの御袖按司 又首里 おわる てだこす 玉御柄杓 有りよわれ(勝連の阿麻和利、肝高の阿麻和利は、神酒を注ぐ玉御柄杓を持っているよ。大和の京、鎌倉にまで、これをぞいい囃して鳴り轟かそう。島を、国を支配し治める高貴な按司様、首里にまします国王様こそ、神酒を注ぐ玉御柄杓を持ち給うのだ。)」(『おもろさうし』第16、第1134番歌〈外間守善校注『おもろさうし』下、岩波文庫、2000年11月、213頁より一部転載〉)とあるように、琉球におけるレガリアである玉御柄杓を阿摩和利が所有しており、その名声は日本の京都・鎌倉までとどろいているとし、さらに阿摩和利を首里の国王と同列に並べて讃えている。
ここでは阿摩和利の勢力は沖縄本島だけにとどまらず、名声は日本にまで及んでいたとするが、他に「一勝連人が 船遣れ 船遣れど 貢 徳 大みや 直地 成ちへ みおやせ 又おと思いが 船遣れ(勝連人、おと思いの航海である。航海こそ貢物をもたらすのだ。徳之島、奄美大島を陸続きにして、領主様に奉れ。)」(『おもろさうし』第13、第867番歌〈外間守善校注『おもろさうし』下、岩波文庫、2000年11月、213頁より一部転載〉)とあるように、勝連の勢力は海を渡って徳之島・奄美大島に及んでおり、これらの島々からの貢物を獲得していたという。
阿摩和利の勢力拡大は、同じく按司であった中城(なかぐすく)の護佐丸との間に抗争をもたらし、阿摩和利は護佐丸を讒訴して王権の承認下にこれを滅ぼした。さらに天順2年(1458)阿摩和利は軍馬を整え、密かに配下の者を召還して中山王府の攻撃をもくろんだが、夫人の配下の鬼大城が夫人を背負って勝連から逃走し、王に報告した。そのため阿摩和利は金大城率いる王軍の攻撃をうけ、討ち取られることになる(蔡鐸本『中山世譜』巻之3、尚泰久王、紀、天順2年条)。
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勝連グスク(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)
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尚円王A
天順3年(1459)御物城御鎖側官(おものぐすくおさすのそば)に就任した。尊敬の念をもって君守に仕え、信をもって人を使い、賞罰は理にかなっており、言行も法にかなっていたから、那覇四邑がその教化を受け、海外諸島に及ぶまで感服しないものはいなかった。尚泰久王は平素から金丸を信じ、おしなべて政務にあっては、必ず金丸を召して相談した(蔡鐸本『中山世譜』巻之四、尚円王、附記)。
天順4年(1460)、尚泰久王が薨去し、世子が即位した。これが尚徳王である。尚徳王の資質は敏捷で、才力は人なみ以上で、知謀をめぐらせ、賢人の諌めを受け入れず、巧みに自慢をし、ほしいままに良民を殺した。金丸は進んで諌めたが、受け入れられなかったという。王の暴虐は日に日に甚だしくなり、金丸はしばしば諫めたが聞き入れられることはなかった。成化4年(1468)8月9日、金丸は54歳であったが、天を仰いで嘆息し、致仕して内間に隠居した(蔡温本『中山世譜』巻六、尚円王、附記)。
明年(1469)4月、尚徳王が薨去した。その時法司は世子を擁立しようとして典例にしたがい、群臣を宮殿の庭に集め、説いてこの事を知らしめたが、群臣はみな法司の権勢を恐れ、黙って何も言わなかった。たちまち一人の老臣がいて、白髪が雪のようであったが、身を挺して進み出て叫んだ。「国家はすなわち万姓の国家である。一人の国家ではない。私が先王尚徳の所業をみてみるに、暴虐無道にして、祖宗の功徳を思うことなく、臣民の艱苦を顧みず、朝綱を廃止し、法典を破棄し、みだりに良民を殺し、ほしいままに賢臣を誅殺してきた。国人はみな怨み、天変がたびたびおこった。自ら滅亡を招いたのだ。これは天が万民を救おうとしたことなのだ。幸いにも今、御鎖側官の金丸は、寛大でなさけ深く、度量が大きく、さらに恩徳を兼ねており、世間に広がっている。民の父母たるに足る者である。これまた天が我が君(金丸)を生むところなのだ。この時に乗じて世子を廃し、金丸を立てん。天の人の望みであるのだから、何の不可なぞあろうか」。言い終わる前に朝廷に兵士が満ちあふれ、声を同じくして承諾し、その声の響きは雷のようであった。貴族や近臣は変事がおこったのをみるや、先を争って逃走した。王妃や乳母は世子を助けようとして真玉城に隠れたが、兵が追ってこれらを殺害した。群臣は鳳輦・龍衣(いずれも王位の象徴)を捧げて内間に金丸を迎えに行った。金丸は大いに驚いて「臣下が王位を奪うのは忠であるのか。下の者が上に叛くのは義なのか。お前達は首里に帰って、貴族で賢徳の人を選んで君守としなさい」といい、涙を流すこと雨のようであり、固持して起たなかった。また海岸に隠れたが、群臣は追い従い、王位につくことを要請した。金丸はやむを得ず天を仰いで嘆き、ついに野服を脱ぎ、龍衣を着、首里にいたって王位についた(蔡温本『中山世譜』巻六、尚円王、附記)。
このように、尚徳王の暴虐によって徳を失った第一尚氏王統を群臣達がクーデターによって倒し、金丸に王位につくことを要請したため、やむを得ず王位についたように記述されているが、尚円王自身が琉球処分まで続いた第二尚氏王統の始祖であり、正史である『中山世譜』などに美化されて描かれている可能性がある。例えば、この第一尚氏王統の滅亡について、伊波普猷(1876〜1947)は久高島の外間祝女の家に伝承されていた以下の口碑を紹介している。
「危機が近づいていることを露とも知らなかった王(尚徳王)は、その翌年、百官を率いて、久高(くだか)島参詣に出かけた。同島の外間(ほかま)村に、代々祝女(のろ)を職とする家があったが、当時家を嗣いだのは、十七八歳の女で、クニチヤサという絶世の美人であった。王が祭典の際、この祝女を見そめて、彼女と恋に落ち、首里に帰るのを忘れた頃、革命(よがわり)が勃発した。革命党は、王城に闖入して、王妃世子及び王族を虐殺して、早速、京の内で、よのぬし選挙の大会が開かれた。この際、金丸と親交を結んでいた安里大親(あさとのひちあ)が、神懸りして、「食呉(ものく)ゆ者(す)ど我が御主(おしゅう)、内間御鎖(うちまおざす)ど我が御主」といったように、謡い出したら、衆皆ヲーサーレーと和して、「琉球国のよのぬし」は立どころに選挙された。これは所謂ユーウテーというもので、この言葉は、私達の語感には、一種異様に響くものであるが、古琉球では、革命がある場合には大方この形式で、主権者の選挙が行なわれていたとのことである。」(伊波普猷『琉球古今記』〈『伊波普猷全書』第7巻121頁〉。仮名遣いを現行のものに一部改め、ルビは初出のみとした)。「さて、こういうことが起ろうとは、夢想だもしなかった尚徳は、歓楽極まって、不安を感じ始め、クニチヤサと別れを惜しみつつ、この神秘の小島を見棄てたが、船が数町も進んだかと思う頃、一隻の漁船に出会った。船頭は恐る恐る王の船に近寄って来て、「よがわり」がおこって、伊平屋王(金丸)が立つに至るまでの一伍一什を物語った。王は之を聞いて、憤恚やる方なく、遂に海に投じて死んだ。」(伊波普猷『琉球古今記』〈『伊波普猷全書』第7巻122頁〉。仮名遣いを現行のものに一部改めた)。
実際に金丸は第一尚氏王朝初代の尚思紹王の治世下に生まれ、父を擁立して事実上第一尚氏王朝を打ち立てた尚巴志王の治世下に青春時代を過ごしている。さらに金丸を引き立てた尚泰久王は、王位継承をめぐる内戦下において棚ボタ式に王位につき、さらに在位中には護佐丸・阿摩和利の乱がおこるなど、第一尚氏王朝の政情不安と、王朝始祖の治世したに生きていたのであるから、実力行使をよしとする風潮の中で、王位簒奪が心の奥になかったとはいいきれない部分があろう。さらに阿摩和利の乱の翌年には御物城御鎖側官に就任して海外貿易を一手に掌握し、尚泰久王の諮問にあずかっており、政治的・財政的にも琉球王国の屋台骨を支えていたという自負心があったのかもしれない。
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焼失前の尚円王御後絵(『世界美術全集』21〈平凡社、1929年2月〉68頁より転載。現在はパブリック・ドメインとなっている)。戦前は尚侯爵家(旧尚王家)に所蔵されていた。 なお同書では「尚真王」となっているが、鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』(岩波書店、1982年10月)などを参照すると、尚円王とするのが正しい。
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天王寺の建立
成化年間(1465〜87)に尚円王は輔臣に命じて寺を建立した。名づけて天王寺といい、家廟の備えとした(蔡温本『中山世譜』巻六、尚円王、附)。琉球王国の正史『中山世譜』(蔡温本)にはこのように天王寺の創建のことが記されている。このように天王寺は尚円王によって建立され、王廟の一翼を担うことを期待されていたことがうかがえる。
また琉球の制度を由来から書き起こして編纂された『琉球国由来記』には以下のように記述される。
成化年間(1465〜87)に龍脈の地を選んで道場を営んだ。これはながく宝祚万年(国王の長寿)・無窮の福徳(善行によって得る福利を無限に受けること)を祝すためであり、山号を福源とし、護国天王(毘沙門天)を中尊(本尊)とし、寺号を天王とした。続いて僧堂・香積・大門を構え、一方の巨刹とした。伏していろいろと考えてみれば、尚円王の旧居で、かつ尚真王の生まれたところであった。このため毎年隔月の一日に道場を荘厳して、もっぱら今上国王のために聖身の万安を祝延した。これを御甲子御祈念という。今に至るまで絶えることはなく、恒式となっている。かつ佳節令辰(めでたい時)・朔望の祝聖(一日と十五日に国王の聖寿無窮を祝祷する法要)・朝課夜誦の修善は、僧寺の通儀であるから、記録するまでには及ばない(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、福源山天王寺)。この記述からは、天王寺を建立した地は、尚円王が王位につく以前に金丸と名乗っていた頃居住していたところを寺院としたもので、尚真王が誕生したところでもあったという。尚真王は『中山世譜』によると成化元年(1465)に誕生したといい、父尚円王こと金丸は天順3年(1459)から隠居する成化4年(1468)まで御物城御鎖側官の職にあったから、那覇四邑を管轄する御物城御鎖側官の職にあった金丸の邸宅は天王寺の位置からみてみると首里の、しかも首里城の付近に位置したことがうかがえる。
御甲子御祈念は、御甲子祈福ともいい、毎年正月御甲子の日、多くの僧が円覚寺・天王寺に集まって、壇を設けて経を読み、国王の万福、子孫繁栄、国泰民安を祈る行事である。その朝からはじまり、晩に終了した。翌日には恭しく配帙(経典)を国王に献上した。また七社の祝官はみなその年歳徳あるところの神社に集まり、同じく神楽三座を行なった。波上宮の祝官は仏餉を国王に献上した(『球陽』巻之11、尚敬王16年条)。また尚豊王の天啓年間(1621〜27)、甲子の日の戌刻になるごとに、城内各役所の夜番官および国殿の役人は、城庭に坐って寅の方角に向って聖歳の数行をもって拝礼したという。しかしその頃から夜番および下庫理(したぐり。城内の諸儀式を管轄する役所)の役人が、城庭の左右に列になって座り、みな王殿に向って三十三拝を2度、九拝を1度行なった(『球陽』巻之11、尚敬王16年条、所引勢頭双紙)。この御甲子御祈念は乾隆元年(1736)に廃止されるまで存続した(『球陽』巻之11、尚敬王16年条)。
なお天王寺の開創時期については、第二尚氏王朝第3代の尚真王の在位中であるとの説があったらしい。これについて『琉球国由来記』では「これを耆老に聞いてみると、尚円王が建立したものであるとのことであった。このため在位の時、いわゆる御甲子祈念を始め、聖寿万歳(国王の長寿)を祈ったが、昇駕(薨去)の後におよんで、ここ(方丈)に神主の牌を安置し、菩提の勝縁を修した。これをよろしく証とすべきである」(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、福源山天王寺、西壇)と述べているように、方丈に安置された国王の位牌は在位中には安置されずに、国王の誕生日を記念して長寿を祈る「甲子祈念」の場として方丈が用いられたが、薨去してから位牌が安置されるようになったという。つまり第二尚氏王朝初代の尚円王の時には安置されるべき位牌が在位中には存在していないはずであるから、天王寺は尚円王の建立であるというのである。
弘治7年(1494)に尚真王は王廟として円覚寺を建立したが、それまで王廟の位置を担ってきた天王寺は王妃の廟となった。そこで尚円王の父尚稷以下、諸妃・神主はみなこの寺に奉られた(蔡温本『中山世譜』巻六、尚円王、附)。
天王寺の方丈に安置されたのは中尊は護国毘沙門ならびに脇立の木像、三宝大荒神の木像であった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、福源山天王寺、方丈)。また康熙52年(1713)に撰上された『琉球国由来記』によると、西壇には先王龍室慶雲大神主ならびに先妃の位牌が(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、福源山天王寺、西壇)、東壇には先王尚久紹和大神主および先妃らの位牌が(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、福源山天王寺、東壇)、東横壇には柏窓妙意君夫人(尚質王妃)および先妃・先翁主などの位牌があった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、福源山天王寺、東横壇)。方丈の東に岩があり、時々理由なく自ら震動した。霊石であるとのことであるため、石堂を建立して三宝大荒神を安置してこれを鎮め、その後静かになって、動くことはなかった。その後堂は壊れたため、方丈に安置されることになったという(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、福源山天王寺、方丈)。
天王寺には景泰7年(1456)銘の天龍寺の鐘がかけられていた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、福源山天王寺、鐘銘)。
天王寺の開山は仏智円融国師(芥隠承琥)であるが、第2世から130余年にわたって記録がなく、そのため歴代住持の数は万暦年間(1573〜1619)の住持まで考察することすらできなかったという(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、福源山天王寺、当山住持次第)。琉球側の史料では16世紀の天王寺の動向を窺い知ることは出来ないが、大徳寺僧の語録に天王寺住持が散見している。
大徳寺の古岳宗亘(1465〜1548)の語録『スイ(ひとがしら+土。UNI738D。&M053003;)チョウ(くさかんむり+召。UNI82D5。&M030779;)コウ(高+木。UNI69CD。&M015299;)』によると、古岳宗亘は「天王寺和尚」である不材の依頼により道号頌を作文している(『スイチョウコウ』巻3、道号、不材号頌并叙)。この不材は、円覚寺第3世住持となった日本僧の不材一樗(生没年不明)のことで(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、甲乙住持事)、弘治8年(1495)には円覚寺の鐘銘を撰述(「旧円覚寺殿中鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)、弘治10年(1497)には「万歳嶺記」を撰述している(「万歳嶺記(上ミヤキジナハノ碑文)」『金石文 歴史資料調査報告書X』)。すなわち不材一樗が一時期天王寺の住持であったことが窺える。
天正13年(1585)正月18日付の島津義久の書状によると、「天王祖庭和尚」が琉球国王の書簡を持参して薩摩を訪れている(「島津義久書状案」島津家文書1433〈『大日本古文書 島津家文書之3』242頁〉)。この祖庭とは円覚寺住持の祖庭のことで(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、甲乙住持事)、円覚寺法堂の開山でもある(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、法堂縁由記附重修事)。大徳寺春屋宗園(1529〜1611)の語録『一黙稿』にも、「球陽之天王主祖庭禅師」の弟子宗忻が、師の祖庭の道号偈を春屋宗園に求めている(『一黙稿』乾、道号、祖庭号)。すなわち円覚寺住持である祖庭が、天王寺住持を務めており、外交を司る禅僧として、薩摩に赴いていたことが知られる。この宗忻は、大徳寺派の系字「宗」字を有していることから、大徳寺派の禅僧とみられている(伊藤2002)。
万暦21年(1593)には天王寺の菊隠宗意(?〜1631)が紋船(あやふに。対薩摩外交船で、島津家の家督継承の祝儀のために派遣された)のために薩摩に派遣されている(蔡澤本『(琉薩)中山世譜』巻之1、尚寧王、万暦21年条)。
万暦年間(1573〜1619)以降の天王寺の住持は以下の通りである。寿山和尚・藍玉和尚・参雪和尚・一舟和尚・霊道和尚・心源和尚・雄岳和尚・閃空和尚・空山和尚・霊室和尚・江南和尚・達全和尚・説三和尚・石峰和尚・際外和尚・湛然和尚・蘭田和尚・徳叟和尚・了道和尚・蟠山和尚・叟山和尚・康岳和尚・東峰和尚・覚翁和尚(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、福源山天王寺、当山住持次第)。
末寺として龍福寺・建善寺・仙江院・蓮華院・広徳寺・伍徳院・智福院・桃昌院・玉龍庵・天慶院がある(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、福源山天王寺、末寺)。
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沖縄戦焼失以前の天王寺方丈(鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』〈岩波書店、1982年10月〉101頁より転載)。天王寺方丈は島尻郡小禄小学校として移建された。
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王廟としての天王寺
弘治7年(1494)に円覚寺が建立されることで、それまで王廟の位置を担ってきた天王寺は王妃の廟と格下げとなったことは前述したが、円覚寺・天界寺とならんで三廟として位置づけられ、王家の重要儀式に際しては国王の行幸があった。
古来より円覚寺にて施餓鬼祭があり、座を庭の北辺に設け、祭品を供えた。後に日本の礼を参照として、ある時は山門の前で、ある時は仏殿の前にて座を設けて祭礼をおこなった。毎年7月14日・15日に天王寺にて施餓鬼祭があった。その後施餓鬼祭の改定が行われ、一次(14日の施餓鬼祭)を減らし、15日を祭礼日とし、法司官1人を主祭官とした。康熙丙午(1666)に主祭官を改定して、王子を主祭官とし、世子・世孫・王子・法司官を拝礼させ、その後に按司・親方・親戚を拝礼させた。近世になると寺社奉行をも拝礼させた(『遺老説伝』巻1、尚質王21年条)。
尚稷・尚懿・尚久はいずれも国王の父で、王位につかなかったものであるが、彼らの神主(位牌)は、先王と尊称していたため、崇元寺の廟に安置されていた。康熙己卯(1699)、唐栄(くにんだ)の儒者が、三神主の王爵を除いて、改めて安置することを題奏した。王はその意見を受け容れて、尚稷・尚久の神主は天王寺に、尚懿の神主は天界寺に安置した(『球陽』巻之10、尚敬王7年条)。
雍正11年(1733)、天王寺および天界寺の廟内に、先王・妃・太子・太子妃の神主(位牌)が安置されていた。しかし手狭となったため、これらの神主を屏主(当主より5世を経過した祖先達を合祀して、一位牌にまとめることとした(『球陽』巻之11、尚敬王13年条)。
雍正12年(1734)秋、王は按司向世恩(名護按司)らに命じて天王寺を改修させ、大殿を王妃廟とした。もともとは大殿の中央の壇に仏像を安置し、その左右の壇に王妃の神主(位牌)を安置していたのだが、改めて大殿を王妃廟とした。大殿の右に地に、別に小堂を構築し、仏像を安置して照堂の僧を居住させた。左の地にもまた方丈・厨庫を構え、大殿の前には新たに儀門を建てた。その規模壮観は円覚寺と等しいものと評価された(蔡温本『中山世譜』巻9、尚敬王、紀、雍正12年秋条)。また同年、天王寺・天界寺の廟内に安置された屏主に対して、正月・7月の間、その屏主ごとに各一饌(饌ごとに計12椀)を設け、その屏主に奉献した(『球陽』巻之11、尚敬王14年条)。同年、尚敬王(位1721〜52)は三廟(崇元寺・天王寺・天界寺)に行幸した。それまでは、住僧が香を焼き礼を行ってから国王を迎えていたが、この年よりまず国王が廟に行幸して、後で住僧が香を焼き礼を行うことに改定した(『球陽』巻之11、尚敬王14年条)。
また寺院への出資が減額されたのに伴って、必要最小限の礼法を維持するための処置も行なっている。これまで国王が正月・7月に円覚寺・天王寺・天界寺に謁する時、各寺の僧は正月には御嘉例を出し、7月には立御菓を出すことが恒例となっていたが、雍正13年(1735)に住僧側から出すことを禁じて、公司から御佳例・立御菓を献することとした(『球陽』巻之13、尚敬王23年条)。
毎年7月7日に国王が円覚寺・天王寺・天界寺に行幸して、先王の神主(位牌)を礼拝していが、乾隆2年(1737)から7月14日に国王が百官を率いて円覚寺・天王寺・天界寺に行幸し、翌日15日に王妃もまた同所に拝謁することとし、7日の拝礼を廃止した(『球陽』巻之12、尚敬王17年条)。さらに同年には毎年正月2日・7月14日、王子から吟味官に至るまで、天王寺に詣でて、先王の妃を礼拝することが定められた(『球陽』巻之12、尚敬王17年条)。
天王寺に安置された五位(現国王より五世前までの先祖)の神主(位牌)は、三十三回忌を終わった後も、毎年忌日となれば6椀を奉っていた。乾隆2年(1737)から三十三回忌がすぎれば、忌日であっても饌を奉ることを廃止した(『球陽』巻之12、尚敬王17年条)。さらに乾隆6年(1741)には正月・7月に国王が三寺(円覚寺・天王寺・天界寺)に行幸して香を行なう時、階下にて音楽を演奏することを廃止した(『球陽』巻之13、尚敬王21年条)。
乾隆39年(1774)正月10日、これまで元旦・上元(正月15日)・冬至などの日に国王が天王寺に進香を行なう礼は存在していなかったが、この日、国王は諭定して尚穆王は継承後に御書院奉行に遣わして進香することとし、以後恒例とした(『球陽』巻之16、尚穆王23年正月10日条)。
乾隆41年(1776)2月3日巳刻、雷が天王寺の南辺の間の地に落ち、大松一株を破壊した。長さ1丈5尺(4m50cm)ほど疵つけられたが、ほかには疵がなかった(『球陽』巻之16、尚穆王25年2月3日条)。
天王寺には高30cmほどの錫製の燭台があり、脚部内部に「天王寺」の墨書銘があった。18〜19世紀に造られたものとみられている。他にも錫製の一双の燭台があり、こちらも「天王□」「天王」の針書銘がある。こちらは19世紀のものである。現在はいずれも沖縄県立博物館に所蔵されている。
天王寺は琉球処分以後に廃寺となり、敷地の西半分はメスジスト派の首里教会が建立された。この首里教会は沖縄戦における首里攻防戦で損害を受けたが、首里の大きな建造物のなかでは沖縄戦を生き残った数少ない建造物であった。
[参考文献]
・伊波普猷『古琉球』(沖縄公論社、1911年。ただし改訂初版〈青磁社1942年10月〉を典拠とした岩波文庫版〈伊波普猷著/外間守善校訂『古琉球』岩波書店、2000年12月〉によった)
・伊波普猷『琉球古今記』(刀江書院、1918年。ただし底本は『伊波普猷全書』第7巻〈平凡社、1975年6月〉を用いた)
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝 写真(編)』(岩波書店、1982年10月)
・鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝 (本文編)』(岩波書店、1982年10月)
・伊藤幸司『中世日本の外交と禅宗』(吉川弘文館、2002年2月)
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)
・『沖縄の金工品関係資料調査報告書』(沖縄県教育委員会、2008年)
[参考サイト]
沖縄県立図書館(http://www.library.pref.okinawa.jp/okilib/syuzou/)のウェブサイトのコンテンツ「収蔵資料」(http://www.library.pref.okinawa.jp/okilib/syuzou/syurikochizu/)内の「首里古地図」より天王寺
http://www.library.pref.okinawa.jp/okilib/syuzou/syurikochizu/tennouji.html#start
日本キリスト教団 首里教会オフィシャルホームページ
http://www14.ocn.ne.jp/~scuccj/
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天王寺跡(メスジスト派首里教会)の石垣(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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