天界寺跡



天界寺跡(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 天界寺(てんがいじ)は沖縄県那覇市首里金城町1丁目の首里城の待賢門から直線にのびる道路に、玉陵(たまうどぅん)に隣接して位置(外部リンク)した寺院で、「てぃんけぇーじ」と呼ばれていました。山号は妙高山。宗派は臨済宗で、尚泰久王の時に渓隠安潜を開山として建立されました。円覚寺天王寺とならんで琉球における「三大寺」の一つとされてきました。明治末頃に廃寺になりました。現在は市指定文化財の井戸がのこっています。


天界寺の建立と尚泰久王

 天界寺は首里城の東側に建立された寺院であるが、発掘調査によって14世紀後半から15世紀前半の地層から掘立柱の建物のピット群が検出されている。このことから天界寺創建以前のグスク期には集落が存在していたとみられ、天界寺の建立に伴って撤去もしくは移転させられたとみられている。

 景泰年間(1450〜57)、尚泰久王(位1454〜60)は累世の善根を捨てず、大臣に勅して、「朕のために精舎(寺院)を造れ」と命じた。そのため日を選んで土地を開削し、工匠や材料をあつめて完成した。寝室・方丈・両廊・東房・西房・大門・厨司などはその巧美をつくし、完成すると渓隠安潜禅師を第一祖とした。以来、冬夜・除夜には法司官が諸官らを引き連れて音楽を演奏して天壇の拝をいたして長命を祝い、王への万歳の賀を叫んだ(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、妙高山天界寺、妙高山天界禅寺記)

 尚泰久王は琉球第一尚氏王統第6代の国王であり、尚巴志王の子である。『中山世譜』には永楽13年(1415)降誕とあるが、尚泰久王が在位中に鋳造させた多くの鐘銘には「琉球国王大世主 庚寅慶生」とあるから永楽8年(1410)誕生が正しい。尚泰久には多数の兄がいて、王位につく可能性はほとんどなかったが、尚巴志王のあとを継いだ兄の尚忠王(位1440〜44)には子は尚思達王(位1445〜49)しかおらず、尚思達王には子がなかったため、兄(尚巴志王の第6子)の尚金福王(位1450〜53)が即位した。

 この尚金福王のあとに国王になったのが尚泰久王なのであるが、琉球は中国明朝の冊封体制下にあり、歴代国王は明朝の冊封を受けていた。尚泰久王が景泰5年(1454)2月に遣わした報によると、「長兄金福が没して、次兄布里と兄の子志魯が争い、府庫を焼き、双方とも傷つきともに倒れました。賜っていた鍍金の銀印もまた毀壊してしまいました。国中の臣民が臣(尚泰久)を推して権(かり)に国事を摂らせました。再び印を賜わって遠方を鎮撫することを乞います」(『英宗実録』景泰5年2月己亥条)とあるように、尚金福王が薨去した際、琉球では王位継承をめぐる内戦が勃発したらしい。尚泰久はいわば「棚からぼた餅」式に王位を手に入れたのである。

 この尚泰久王は第二尚氏王朝第3代国王の尚真王とならんで、琉球史上、もっとも仏教をあつく信仰した王であった。とくに鋳造した梵鐘は23口にもおよんでいる。天界寺の開山となった渓隠安潜については詳細は不明であるが、尚泰久王代に鋳造された梵鐘23のうち、17に撰文したのが渓隠安潜であった。それらの銘文によると、渓隠安潜はすくなくとも景泰7年(1456)から天順3年(1459)までは相国寺(後廃寺)の住持であった。

 尚泰久王生前中には大宝殿(仏殿)は完成しておらず、その薨去後に尚泰久王の遺志を継いで天界寺を完成させたのが尚徳王(位1461〜69)である。尚徳王は尚泰久王の世子であり、『中山世譜』には正統6年(1441)降誕とするも、『李朝実録』には成化元年(1461)の時点で「国王は年三十三歳なり」としているように(『世祖実録』巻27、世祖8年2月辛巳条)、実際には宣徳4年(1429)誕生であったらしい。

 尚徳王は尚泰久王が薨去すると天界寺を廟所とし(『琉球国旧記』巻之7、寺社、妙高山天界寺)、さらに成化年間(1465〜87)尚徳王の時に大宝殿(仏殿)を建立し、金鐘を鋳造した(『琉球国由来記』巻10、妙高山天界寺、妙高山天界禅寺記)。その金鐘とは成化2年(1466)7月16日に鋳造した鐘のことで、銘によると琉球国中山府君の世高王(尚徳王)が金鐘(銅鐘)を1口鋳造し、天界禅寺の仏殿の前に掛け、開基安潜(渓隠安潜)に銘をつくらせたとある(「旧天界禅寺金鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)。この鐘は天界寺から波上宮拝殿に移され、さらに金武観音寺に移された。戦争で紛失したが、戦後、金武の山中で再発見され、観音寺に納められた。

 さらに尚徳王は、成化元年(1465)に普須古・蔡ケイ(王へん+景。UNI749F。&M021246;)らを朝鮮王朝に遣わし、土産を送り、朝鮮人漂流民を送り届けた。使節派遣理由は咨文によると、天界禅寺を建立したものの、経典がないため、咨文・礼文をもたらして、大荘尊経(大蔵経)全部を求めるというものであった(『世祖実録』巻26、世祖7年12月戊辰条)。使節は景福宮にて朝鮮国王の世祖(位1455〜68)と謁見した。この時普須古は天竺酒を贈った。世祖は湯進の法を知らなかったため開封しなかったが、普須古が世祖の前で、松脂の封印を火で溶かして開封した。しかし琉球本国の担当官が酒と砂糖を取り間違えたため、国王の目前で酒を開封したところ中身が砂糖であったという外交上の大失態を犯した。しかし世祖は「これはお前の過ではない。かつお前の王は私に天竺酒を贈ったのは、必ず私がこれを飲むと思ったからであろう。今お前が酒をたてまつるのは、天竺酒ではなかったからとはいえ、お前の王がお前を遣わしたという、そのことを飲むとしよう」と機転を利かせたため、琉球使節はかろうじて体面を保つことができた(『世祖実録』巻26、世祖7年12月戊辰条)。普須古らは大蔵経一部・金剛経・法華経・四教儀・成道記・心経・大悲心経・楞厳経・証道歌・永嘉集・起心論・円覚経・翻訳名義・楞伽経疏・維摩経宗要・観無量寿義議・金剛経五家解・宗鏡録・法経論および法帖などそれぞれ2部づつを得て琉球に戻った(『世祖実録』巻27、世祖8年正月辛亥条)

 このように父子二代にわたって建立に尽力した天界寺であったが、第一尚氏王統の断絶によってその後数百年におよぶ歴史が不明となってしまった。琉球の正史『中山世譜』によると、成化5年(1469)4月、尚徳王が薨去すると、法司は世子を擁立しようとして典例にしたがい、群臣を宮殿の庭に集め、説いてこの事を知らしめたが、一老人が重臣の金丸(尚円王)擁立を宣言、貴族や近臣は変事がおこったのをみるや、先を争って逃走した。王妃や乳母は世子を助けようとして真玉城に隠れたが、兵が追ってこれらを殺害し、死体は崖下に遺棄されたという(蔡温本『中山世譜』巻六、尚円王、附記)

 ところで成化6年(1470)に琉球国王は朝鮮に自端西堂を使者として派遣し(『成宗実録』巻13、成宗2年11月丁未条)、翌成化7年(1471)冬に自端西堂は朝鮮国王の成宗(位1469〜94)に謁見しているが、この使節は尚徳王の使として朝鮮に行きながら、尚徳王が成化5年(1469)8月18日に薨去したと述べている(『成宗実録』巻13、成宗2年11月庚子条)。自端が朝鮮の重臣申叔舟(1417〜75)に琉球の歴代国王について述べたところによると、「尚巴志は名を億載といい、尚金福は名を金皇聖といい、尚泰久は名を真物といい、尚徳は名を大家といったが、兄弟はいなかった。今の王は名を中和というが、まだ王号を称していない。年は16歳で、宗姓の丹峰殿主の女主を娶っている。弟は於思といい年は13歳、次弟は名を截渓といい、年は10歳」と述べている(『海東諸国記』琉球国紀、国王代序)

 この6年前の成化元年(1465)の時点で「国王(尚徳王)に子4人有り。長子は年15ばかり。余(ほか)は皆幼なり」とあるから(『世祖実録』巻27、世祖8年2月辛巳条)、尚徳王には世子および幼子が3人いたことがうかがえるが、成化7年(1471)の時点では世子は19歳であり、中和の年齢とは合致しない。このことから世子は王位につく以前に没したため、次子の中和が王位についたとみられる。そのため尚徳王の4人の子は、成化7年(1471)の時点で3人であり、自端の言と一致する。

 つまり『中山世譜』などが記す、尚徳王が薨去した後に、クーデターで世子が殺害されて金丸(尚円王)が擁立されたとする記述は事実ではなく、尚徳王が薨去した後は子の中和が王位を継承していたことが知られる。金丸らのクーデターが実際におこったのは成化6年(1470)の7・8月頃とみられているから(『『明実録』の琉球史料』2003年)、中和は在位1年あまりの16歳の時に金丸らに殺害されたと思われる。『中山世譜』は金丸のクーデターで王妃・乳母も殺害されたというが、中和の2人の弟も皆殺しにされたか、あるいは家譜などにみえるように、生き残って子孫が後世まで続いたかどうかは明らかにするすべはない。

 こうして第一尚氏王朝は滅亡して、第二尚氏王統の時代となった。中和は成宗に対して、尚徳王のために寺院を建立したことを述べ、朝鮮の先王の絵像や、成宗が揮毫した寺院の扁額を求めていた(『成宗実録』巻13、成宗2年11月庚子条)。成宗の「先王」は睿宗(位1468〜69)であるが、在位が短い睿宗ではなく、琉球の使節に便宜をはかった前述の世祖をさすのであろう。成宗は先王の遺像については遠く波涛を超えて贈るのは情として忍びないから、絵像の提供は謝絶したが、扁額・内典(仏典)・法器(仏具)を自端西堂に持たせた(『成宗実録』巻13、成宗2年11月丁未条)。自端西堂は帰国して政変を知ったのであろうが、持ち帰った扁額・内典(仏典)・法器(仏具)はどうなったのか不明である。

 天界寺の丈室(方丈)には壇上に本尊の木造阿弥陀如来像だけではなく、「先国王伝翁慶公君世日尊霊」(尚泰久王)・「世高王龍厳尊君台霊位」(尚徳王)・開山渓隠安潜和尚の位牌が祀られており、第二尚氏王統にいたっても重要な寺院と位置付けられ、円覚寺・天王寺とならんで尊崇された。


天界寺跡(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

天界寺の再興

 尚徳王が薨去して、その直後の政変によって第一尚氏王統が滅亡し、第二尚氏王統が成立した。尚泰久王・尚徳王の父子によって建立された天界寺は、その後百年以上も記録上に登場しない。その間の様相は不明であるが、発掘調査によって15世紀中葉から17世紀前半にかけての天界寺の地層から円孤状の遺構がみられ、さらに大型のピット群も検出されており、これが天界寺のものであると考えられている。

 この間の天界寺の動向について、ほとんど判明することはないが、永禄2年(1559)4月9日付の島津貴久(1514〜71)の書状によると、「天界寺叔和尚」と世名城大屋子が薩摩に琉球使節として赴いていることが知られる(「島津貴久書状案」島津家文書1107〈『大日本古文書 島津家文書之2』242頁〉)
 また万暦9年(1581)にも天界寺の修翁和尚を薩摩に派遣している(蔡澤本『(琉薩)中山世譜』巻之1、尚永王、万暦9年条)。大徳寺春屋宗園(1529〜1611)の語録『一黙稿』にも、「球陽天界寺主盟修翁善公」の弟子の宗智首座が、師の修翁の道号偈を春屋宗園に求めている(『一黙稿』乾、道号)。この修翁は後に円覚寺住持となった修翁智善のことである(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、甲乙住持事)。このように、天界寺の住持が使僧として薩摩に派遣されていることが確認され、禅僧を外交に用いる当時の通例の中に、天界寺僧が組み込まれていたことが確認できる。

 尚徳王が大宝殿(仏殿)を建立し、金鐘を鋳造してから百年後、建立された堂宇は火災によってすべて灰燼と化してしまった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、妙高山天界寺、妙高山天界禅寺記)。この焼失年次であるが、天啓5年(1625)の46年前に再建が行なわれているから(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、妙高山天界寺、妙高山天界禅寺記)、万暦7年(1579)以前のことである。

 万暦年間(1573〜1619)初頭に丈室(方丈)・厨司(庫裏)が再建されたが、以前として大雄宝殿(仏殿)などの堂宇は、荒草の中に埋没していた。それから46年、天啓5年(1625)に丈室を修造するついでに新たに大殿(仏殿)を再建、また順治年間(1644〜61)に丈室(方丈)1棟を修造した。順治11年(1654)には大門を修復した(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、妙高山天界寺、妙高山天界禅寺記)

 康熙34年(1695)住持の了道は国王に対して丈室・厨司を新たに建て直すことを願い出た。その奏上によると、大門の左右には白石を削って獅子・牡丹が彫り込まれており、彩色され、さらに木造の仁王像を安置したという。しかし年月が過ぎて門は朽ち、像も廃された。康熙17年(1678)に門は修造されたものの、古像のあとに新像が安置されることはなかった。そこで石像を薩摩(鹿児島)より屈請し、翌年(1696)5月に住持の蟠山が開眼供養した(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、妙高山天界寺、妙高山天界禅寺記)。康熙37年(1698)天界寺の門の内の仁王木像が虫害のため朽損したため修復することは不可能であったため、新たに仁王像2像を請来して建立した(『遺老説伝』巻2、尚貞王30年条)

 このように記録上から17世紀後半に天界寺が再建されたことが知られるが、実際に発掘調査の際に同時代の地層から本堂跡・溝・土坑が検出されている。この時期の工事で区画自体がかなり造成整理されていた。

 前述の通り、天啓5年(1625)に仏殿、すなわち本堂が再建されているが、この本堂はゆるやかな斜面を基壇周辺にそって削りだしており、基壇の平均高は35cmほどであった。「首里古地図」によると、本堂は山門の南西に位置しているが、山門から本堂まではL字形の参道によって連結されている。さらに本堂跡は周辺をとりかこむ石列が確認されている。

 本堂の背後、すなわち東側にも建物跡が検出されている。この建物跡は『琉球国由来記』に記録される万暦年間(1573〜1619)初頭に再建された丈室・厨司であろう。発掘調査によると、建物跡には3間(5.5m)×4間(7.4m)の母屋と、連結する3間(5.6m)×2間(3.5m)の家屋からなっている。「首里古地図」によると、本堂の東側には連結した堂宇があり、発掘調査の母屋と家屋がそれに該当するとみられ、すなわちこれが丈室(方丈)と厨司(庫裏)の跡であろう。なお「首里古絵図」(沖縄県立図書館のウェブサイトのコンテンツ「収蔵資料」内の「首里古地図」より天界寺http://www.library.pref.okinawa.jp/okilib/syuzou/syurikochizu/tenkaiji.htmlには描かれていないが、発掘調査によって本堂と丈室(方丈)・厨司(庫裏)を連結する参道が検出されいる。  


天界寺跡の石垣(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

宗廟としての天界寺

 天界寺には開創以来、井戸を掘って水を求めていたが、二百年にもわたってついに泉を得ることができなかった。康熙36年(1697)住持の了道が術者をして泉のありかを視させた。術者は「ここを100尺(30m)掘れば必ずや清泉があるでしょう」といった。そのため公府に訴え出て、地を掘って石を砕き、そこばくの深さに到ると、はたして甘泉を得た。旱(ひでり)にあうと、ただ一寺が飲むだけのものとはせず、東の家や西隣にも、渇きを癒すに充分であった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、妙高山天界寺、妙高山天界禅寺記)。天界寺の井戸は現存する。

 天界寺の住持は開山渓隠安潜和尚以降不詳であったが、『琉球国由来記』が編纂された康熙52年(1713)から遡ること80年ほどの間に就任した住持は以下の通りである。
 分外和尚・一周和尚・春甫和尚・修月和尚・明宗和尚・霊道和尚・春叔和尚・心源和尚・松屋和尚・雄岳和尚・乾叟和尚・春嶺和尚・心了和尚・久山和尚・太伝和尚・達全和尚・説三和尚・石峰和尚・際外和尚・湛然和尚・叟山和尚・蘭田和尚・徳叟和尚・了道和尚・蟠山和尚・康岳和尚・東峰和尚・覚翁和尚・江外和尚(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、妙高山天界寺、当山住持次第)

 末寺には安国寺慈眼院・大悲院・普門院・慈照庵・寿福庵があった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、妙高山天界寺、末寺)


 天界寺は第一尚氏王統に関連する寺院であったため、第二尚氏王統時代当初は王廟としての位置づけではなかったらしい。『球陽』によると、万暦33年(1605)に尚寧王(位1589〜1620)が祭祀すべき貴戚の者を請じて天界寺に安置したという。これが天界寺を廟所としたはじまりであった(『球陽』巻之4、尚寧王17年条)
 尚稷(生没年不明)・尚懿(?〜1584)・尚久(1560〜1620)はいずれも国王の父で、王位につかなかったものであるが、彼らの神主(位牌)は、先王と尊称していたため、崇元寺の廟に安置されていた。康熙38年(1699)、唐栄(くにんだ)の儒者が、三神主の王爵を除いて、改めて安置することを題奏した。王はその意見を受け容れて、尚稷・尚久の神主は天王寺に、尚懿の神主は天界寺に安置した(『球陽』巻之10、尚敬王7年条)

 雍正11年(1733)、天王寺および天界寺の廟内に、先王・妃・太子・太子妃の神主(位牌)が安置されていた。しかし手狭となったため、これらの神主を屏主(当主より5世を経過した祖先達)を合祀して、一位牌にまとめることとした(『球陽』巻之11、尚敬王13年条)

 翌雍正12年(1734)には天王寺・天界寺の廟内に安置された屏主に対して、正月・7月の間、その屏主ごとに各一饌(饌ごとに計12椀)を設け、その屏主に奉献した(『球陽』巻之11、尚敬王14年条)。同年、尚敬王(位1721〜52)は三廟(崇元寺・天王寺・天界寺)に行幸した。それまでは、住僧が香を焼き礼を行ってから国王を迎えていたが、この年よりまず国王が廟に行幸して、後で住僧が香を焼き礼を行うことに改定した(『球陽』巻之11、尚敬王14年条)。また寺院への出資が減額されたのに伴って、必要最小限の礼法を維持するための処置も行なっている。これまで国王が正月・7月に円覚寺・天王寺・天界寺に謁する時、各寺の僧は正月には御嘉例を出し、7月には立御菓を出すことが恒例となっていたが、雍正13年(1735)に住僧側から出すことを禁じて、公司から御佳例・立御菓を献することとした(『球陽』巻之13、尚敬王23年条)

 毎年7月7日に国王が円覚寺・天王寺・天界寺に行幸して、先王の神主(位牌)を礼拝していが、乾隆2年(1737)から7月14日に国王が百官を率いて円覚寺・天王寺・天界寺に行幸し、翌日15日に王妃もまた同所に拝謁することとし、7日の拝礼を廃止した(『球陽』巻之12、尚敬王17年条)。また除夜および冬至の1日前には、法司官らが国王の命令によって、先んじて天界寺に到って、礼の予行練習を行なっており、唐栄(くにんだ)の士官らは礼の予行練習が終わるや、みな天界寺に宿泊する通例となっていたが、この年から当日朝に礼の予行練習を行なうのみとし、天界寺に宿泊することを廃止した(『球陽』巻之12、尚敬王17年条)

 乾隆6年(1741)に正月・7月に国王が三寺(円覚寺・天王寺・天界寺)に行幸して香を行なう時、階下にて音楽を演奏することを廃止した(『球陽』巻之13、尚敬王21年条)

 天界寺には破損しているものの、錫製の燭台があり、18〜19世紀に中国で製造されたものとみられている。円柱底部に「界」字の墨書があり、天界寺で用いられた燭台と考えられている。


 天界寺は琉球処分後、一時は役知行30石に相当する79円74銭8厘を官給された。これは他の廃藩置県と同様に、官寺となっていたために旧高に換算して支給されたものであったが、明治16年(1883)には円覚寺・天王寺・崇元寺・龍福寺とともに旧尚王家の菩提所であるため、支給を停止する願いが出され、翌明治17年(1884)にはその許可が出され、一切の俸禄・営繕費を停止された。そのため衰え、明治年間のうちに廃寺となった。
 天界寺は廃寺の後、明治末期まではある程度残存していたらしいが、大正から戦前にかけて、記念運動場や尚家の果汁園・三殿内が建てられた。三殿内は天界寺の廃寺以降に建立された宗教施設であり、首里城の三御嶽が統合されて三殿内が建てられ、神女(ノロ)屋敷が存在していた。この三殿内は沖縄戦で破壊された。発掘調査によって礎石根固礫・炊事屋敷石敷・屋敷縁石・便所跡が検出された。

 天界寺の跡地は沖縄戦において、第32軍の司令部があった首里城に近いことから徹底した砲撃が米軍によって実施されており、周辺の破壊は凄まじいものがあった。戦後にはいち早く木造家屋が建てられている。旧天界寺の井戸は平成5年(1993)8月10日那覇市の指定文化財となっている。その後平成11年(1999)から那覇市教育委員会・沖縄県立埋蔵文化財センターによって天界寺跡の発掘調査が実施された。発掘終了後は駐車場の工事が予定通り行なわれ、天界寺の跡は破壊された。今天界寺を偲ぶものとしては、一部の石垣と井戸のみである。


[参考文献]
・『金石文 歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会、1985年)
・那覇市教育委員会文化財課編『天界寺跡(那覇市文化財調査報告書第42集)』(那覇市教育委員会、1999年3月)
・那覇市教育委員会文化財課『天界寺跡(那覇市文化財調査報告書第43集)』(那覇市教育委員会、 2000年3月)
・『天界寺跡1(沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書第2集)』(沖縄県立埋蔵文化財センター、2001年3月)
・『天界寺跡2(沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書第八集)』(沖縄県立埋蔵文化財センター、2002年3月)
・(財)沖縄県文化振興会公文書管理部史料編纂室編『『明実録』の琉球史料』(沖縄県文化振興会、2003年3月)
・『沖縄の金工品関係資料調査報告書』(沖縄県教育委員会、2008年)


天界寺のカー(井戸)(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)



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