西来院



西来院(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 西来院(さいらいいん)は沖縄県那覇市首里赤田町1丁目に位置(外部リンク)する臨済宗妙心寺派の寺院です。開山は菊隠宗意。山号は達磨峰、寺号は達磨寺。万暦年間(1573〜1619)に菊隠宗意によって建立されたとされていますが、実際には建立時期はそれ以前に溯り、観音菩薩を本尊とする寺院でした。当初は沖縄県那覇市儀保町1丁目に位置(外部リンク)していましたが、明治時代に現在地に移転。沖縄戦で焼失しましたが、再建されました。現在は那覇十二支巡り(テラマーイ)、水子供養などで民間信仰を集めています。


開山菊隠宗意

 菊隠宗意(?〜1620)は琉球の人である。幼い時から出家の志があり、円覚寺住持洞観和尚にしたがって剃髪して僧となった。その後日本に遊学し、五山の禅寺に登った(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、達磨峰西来院、達磨峰西来禅院記)。菊隠宗意は参禅して道を学ぶこと10余年に及んでいる(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、達磨峰西来院、達磨峰西来禅院記)
 その間、笑嶺宗キン(ごんべん+斤。UNI8A22。&M035271;)(1490〜1568)に従い(『欠伸稿』龍、偈頌)、前堂首座(座元)にまで登ったが(『半泥稿』偈頌)、結局笑嶺宗キンの法を嗣ぐことはなかった。その後笑嶺宗キンの法嗣である古渓宗陳(1532〜97)より嗣法し、「菊隠」の道号を受けた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、達磨峰西来院、達磨峰西来禅院記)。菊隠宗意は日本留学によって古渓宗陳の法嗣となり、大徳寺の法系を琉球に伝えた。
 もっとも琉球における大徳寺僧との接触は15世紀後期にまで溯る可能性があるとみられている。大徳寺古岳宗亘(1465〜1548)の語録『スイ(ひとがしら+土。UNI738D。&M053003;)チョウ(くさかんむり+召。UNI82D5。&M030779;)コウ(高+木。UNI69CD。&M015299;)』よると、自珎宗宝が琉球で没し、その子が親の自珎宗宝の肖像画を古岳宗亘のもとに携え、賛文を求めている(『スイチョウコウ』巻3、偈頌、宗宝禅門肖像)。これについて、自珎宗宝が大徳寺派の系字「宗」を有していることから、古岳宗亘かそれ以前の大徳寺派禅僧への参禅者と考えられている。さらに大徳寺派僧と琉球の関係は、琉球で海外貿易に従事している俗人や、俗人の女性、琉球国官人の参禅者にも及んでいた(伊藤2002)

 菊隠宗意は琉球に戻ったが、万暦21年(1593)に紋船(あやふに。対薩摩外交船で、島津家の家督継承の祝儀のために派遣された)のため、薩摩・京都に赴いているが、この時「天王寺の菊隠長老」とあるように、天王寺の住持であったことが知られる(蔡澤本『(琉薩)中山世譜』巻之1、尚寧王、万暦21年条)。その後円覚寺住持となり(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、甲乙住持事)、万暦25年(1597)9月には「浦添城の前の碑」を撰述した(「浦添城の前の碑」『金石文 歴史資料調査報告書X』)。円覚寺の住持は長きに渡ったが、のち山川村千手院の地を選んで閑居した(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、達磨峰西来院、達磨峰西来禅院記)

 万暦37年(1609)尚寧王(位1589〜1620)の治世下、薩摩が琉球に侵攻し、兵船が来航したが、その多さは知ることが出来ないほどであった。もし戦えば国をあげて皆殺しにされるとみられた。国王と大臣は協議して和睦をすることにした。誰を使者として行かせるかということになると、琉球の人にはこの時みな日本語に通ずる者がおらず、どうしようもなかった。菊隠宗意を使者とすれば、必ず和睦の事は通じるとみられた。菊隠宗意は「私は老衰して、ただ岩谷に居住している者です。願わくは身を全うさせてください」といったが、時は危急であったから、国王は再度菊隠宗意を召し寄せた。菊隠宗意はつつしんで恐れを抱いて、やむを得ず詔に応じ、まず国恩に報いるため、急いで小舟に乗って今帰仁に到り、降伏しようとした。薩摩の軍兵は艦首に槍を横にし、白刃を抜き、鉄砲を持って火を放とうとした。しかし菊隠宗意は危急を顧みず、方便でようやく薩摩船に近づき、将に対面して和睦の交渉を行った。菊隠宗意は首里に戻って復命し、翌日那覇に行き、薩摩の将に降伏の意を伝えた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、達磨峰西来院、達磨峰西来禅院記)

 尚寧王は隣国好盟を結ぶため、ただちに薩摩に渡った。菊隠宗意もまた詔があったから随行した。菊隠宗意はかつて日本に行った時、薩摩藩主島津家久に対面していたから、双方は顔見知りであったから随行者に選ばれたのであった。尚寧王は薩摩藩主の命によって江戸に行き、その旅は艱難であったが、菊隠宗意は朝夕心を尽くした。3年後の万暦39年(1611)に帰国した(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、達磨峰西来院、達磨峰西来禅院記)


西来院の建立

 琉球の危難に対する功績によって菊隠宗意は土地を賜り、西来院を建立し、知行高800斛を授かり、開山第一祖となった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、達磨峰西来院、達磨峰西来禅院記)。もっとも、万暦31年(1603)から3年間琉球に滞在した袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』に観音菩薩を安置する寺院として西来院をあげており(『琉球神道記』巻第4、観世音菩薩道場)、また同じく袋中良定の『琉球往来』にも、「正舎前住西来和尚、諱菊陰」とあり(『琉球往来』)、正覚山円覚寺の前住職である菊隠宗意は、「西来和尚」と称されており、西来院は菊隠宗意の院号であったことが知られる。

 菊隠宗意は日本に通暁していたことから、僧であるにもかかわらず国命によって加判役の職となり、大里の県を領有した。位は国王の弟に相当し、琉陽国師の号を賜った(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、達磨峰西来院、達磨峰西来禅院記)。加判役とは三司官とも呼ばれ、文字通り定員3名とする琉球における宰相職であった。菊隠宗意の三司官就任は薩摩の圧力によるものであったという。

 菊隠宗意は老いのため三司官を辞職し、隠居した。尚寧王は隠居寺の料として知行高400斛を与えた。万暦48年(1620)8月27日、菊隠宗意は示寂した(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、達磨峰西来院、達磨峰西来禅院記)。菊隠宗意の墓は現在も西来院に現存する(「菊隠大和尚墓碑」『金石文 歴史資料調査報告書X』)

 菊隠宗意が示寂した時、弟子の喝伝玄好は修行のため日本にいて、西来院の住持となることはできなかった。琉球国より帰国命令が出たが、その間は一周和尚が西来寺の監司となっていた。後喝伝玄好は梁南禅棟(妙心寺派;生没年不明)の法を継いで、天啓6年(1626)帰国して円覚寺住持となり、崇禎4年(1631)10月13日に示寂した(「菊隠大和尚墓碑」『金石文 歴史資料調査報告書X』)

 喝伝玄好には弟子がおらず、そのため西来院は官寺となった。その後康熙3年(1664)寺はほとんど荒廃したため、菊隠宗意国師の親戚や受業した俗人の者たちは協議して、尚質王(位1648〜68)に奏上した。尚質王は当住の大淳長老に詔して、「この寺は尋常の寺ではない。忠国功民の菊隠国師の開基終焉の地である。廃壊すべきではない。今より直弟子のために隠居所とし、知行高50斛、長々子孫に賜う」といい、御朱印を蒙った。再興のため材木・細工は官が出費したが、そのほかは自らの衣鉢余資から抽出し、完成させた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、達磨峰西来院、達磨峰西来禅院記)。太淳は石垣島の桃林寺住持を務めたことがある人物である(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、南海山桃林寺、当寺住持次第)

 西来院歴代住持は以下の通り。
開山菊隠宗意・喝伝和尚・装雲和尚・古山和尚・松屋和尚・春耕和尚・太淳和尚・湛然和尚・開道和尚(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、達磨峰西来院、住持次第)

 西来院は円覚寺の末寺であった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、末寺事)。当初官寺格であったが、その後官寺として扱われなくなり、明治6年(1873)の大蔵省の調査では、西来院は禅宗の寺院で、官寺には列せられておらず(「琉球藩雑記」『沖縄県史』14)、役知米も受けていなかったから、秩禄処分に際しては支給されることはなかった。

 西来院は当初儀保村に位置し(『琉球国旧記』巻之7、寺社、達磨峰西来院)、「首里古絵図」によると、現在の沖縄県那覇市儀保町1丁目に該当(外部リンク)する。明治6年(1873)に金城村に位置し、その後現在地に移転した。沖縄戦で焼失したが、1971年に再建された。

 なお現在、西来院境内前庭には「妙法蓮華経全部碑」が鎮座する。この碑文は丙申、すなわち乾隆41年(1776)に「前住円覚当山二世古関太本」が法華経を書写して埋め、建立した経塚碑とみられる。古関太本は龍福寺の住持であったことがあり、乾隆25年(1760)には龍福寺の山号を補陀洛山と改めることに尽力した(『球陽』巻之15、尚穆王9年条)。この石碑によると、古関太本は過去に他郷を遍歴すること8年、師が老いたため戻り、師が遷化したため再度遍歴に出た。その後円覚寺法堂住持に任ぜられ、次に住持(円覚寺か)となった。42歳の時隠居し、小院の建立を許されたため、師を勧請開山としたという(「妙法蓮華経全部碑」『金石文 歴史資料調査報告書X』)。このように西来院とは全く関係のない寺院建立の経緯が示されている。西来院が現在位置する地は那覇市首里赤田町1丁目には、「首里古絵図」によると慈雲庵・臥雲軒・松沙庵・牟尼庵といった小院が建立されていた。「首里古絵図」は1700年代初頭の首里の状況が示された絵図であり、この「妙法蓮華経全部碑」に示される小院が建立されるよりも1・2世代前のことであるから、必ずしも穏当ではないが、西来院が位置した地には小院が複数あり、これらの小院が西来院のように官寺の住持となった僧の隠居寺の様相を呈していたことが知られる。


[参考文献]
・東恩納寛惇『南島風土記』(沖縄文化協会、1950年9月)
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・『金石文 歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会、1985年)
・沖縄県教育委員会文化課琉球国絵図史料集編集委員会編『琉球国絵図史料集第三集-天保絵図・首里古地図及び関連資料-』(榕樹社、1994年3月)
・伊藤幸司『中世日本の外交と禅宗』(吉川弘文館、2002年2月)
・竹貫元勝『古溪宗陳-千利休参禅の師、その生涯-』(淡交社、2006年3月)
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)
・上里隆史『琉日戦争一六〇九-島津氏の琉球侵攻-』(ボーダーインク、2009年12月)





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