長寿寺跡



長寿寺跡(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

 長寿寺(ちょうじゅじ)はかつて沖縄県那覇市松山2丁目に位置(外部リンク)した臨済宗寺院です。山号は壺宝山。本尊は薬師如来。御伊勢の寺(ういしぬてぃら)と方称されました。琉球第一尚氏王統の王相懐機が冊封使を迎えるための長虹堤の建設にあたって、霊験があったとされたことから天照大神の勧請とともに建立されました。開山は満叟。明治期に廃寺となりました。


王相懐機

 琉球王国第一尚氏王統において、政治・外交の第一線にて活躍したのが懐機(生没年不明)である。

 懐機は尚巴志王(位1422〜39)の治世下の宣徳年間(1426〜35)に王茂の後を受けて国相(宰相)に任ぜられた。当時の人は懐機を尊んで「国公」と称し(蔡温本『中山世譜』巻4、尚巴志王、紀、永楽20年条)、「道球国公」とも称していた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、額併聯事)。その後懐機は尚金福王(位1450〜53)の治世下まで4代20年にわたって国相の地位にあり、「王相」の肩書きで中国や南方諸国へ書を送った。その事績は広汎にわたっているが、懐機自身の経歴はほとんど不明であり、中国からの帰化人説や琉球人説など出自自体が明らかではない。

 永禄16年(1418)2月、琉球国中山王の思紹(位1406〜21)は、長史懐機を明に遣わして、方物を献上し(『成祖実録』永楽16年2月乙未条)、懐機は同年3月2日に成祖永楽帝による宴を賜っている(『成祖実録』永楽16年3月壬子条)。これが懐機の史料上での初見であるが、この時懐機は「長史」という地位にあったことが知られる。帰国した懐機は、尚巴志王の命によって、首里城の威容を増し、また遊息の地とするため、王城外の安国山に龍潭池を掘り、台を築き、松柏・花木等を植えており、宣徳2年(1427)にはそれを記念する石碑が建立された(「安国山樹華木之記」『金石文 歴史資料調査報告書X』)

 なおそれ以前の永楽9年(1411)には王相の子の懐徳と寨官(按司)の祖魯古が明に使いとして入国しているから(蔡温本『中山世譜』巻4、尚思紹王、紀、永楽9年条)、ここにみえる「王相」とは懐機の事であるとみれば、懐機の一族は琉球と明との交渉のプロフェッショナルとして任についていたことがうかがえる。

 宣徳3年(1428)10月13日には明の宣徳帝より王相懐機にあてて、毬紋宝相花紅の錦1匹・織金胸背獅子紅・暗細花緑・素青・素緑・素藍の紵糸それぞれ1匹が頒賜されており(『歴代宝案』1-43-05)、これが王相としての外交活動の史料上での初見である。

 前述したように、懐機は「王相」の肩書きで中国や南方諸国へ書を送っているが、中国明の冊封体制下にある国が、冊封された国王に代わって外交の主体性を有することは珍しい例であり、現に琉球では懐機のように「王相」という、いわば国王ではない者が外交を行うことは他に例がない。だからといって懐機が琉球の外交権を、国王に先行して行使していたわけではない。


龍潭(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)。龍潭は、懐機が尚巴志王の命で造った人工池で、写真右方には安国山が、左方奥には首里城がみえる。

王相懐機と旧港の交渉

 宣徳3年(1428)9月24日に尚巴志王は現在のインドネシア共和国に位置した三仏斉国(シュリー・ヴィジャヤ王国)の中心地である旧港(パレンバン)に対して、使者の円滑な通行を求めて執照を送っている。執照とは海外渡航船に給付される渡航証明書のことであるが、この執照が交付されたのは王相懐機の呈(下級の役所・官吏から上司に送る公文)によったものである。
 これより以前、旧港へ航海して磁器・通貨を交易しようとしていた実達魯が、現地の官吏から、正式な使節であることを証明する文書がない、という理由で通行を却下された。実達魯は告(下級から上級に提出される公文)を懐機に提出し、懐機は実達魯の告によって呈を作成し、前述のように国王に提出した。そこで尚巴志王は「義字七十七号」の字号船(中国皇帝から給された字号をもつ官船。字号で各船を識別する)を出し、半印勘合執照(勘合印の半分で、琉球の使節が正式ものであるかどうかを照合する証明書)を給して、使節を再送した(『歴代宝案』1-42-01)。

 つまり実達魯は現地で交易を行おうにも、琉球の使節であることを証明する文書がなかったため、その案件は、実達魯→懐機の順に上達されたが、問題が使節の正当性にあったから、国王が執照(証明書)を発行する必要があった。これは東アジア冊封体制下の国際秩序において、中国(明)皇帝が冊封した国王のみに許された字号船・半印勘合を使用することにおいて、これらを持参する使節の母国が、中国冊封体制下にある承認された国家であることを証明した。

 この尚巴志王の執照(渡航証明書)に伴って、王相懐機が旧港(パレンバン)管事官に宛て、使節派遣の円滑化をはかった書簡を同年(1428)10月5日付で発給している。これ以前の永楽19年(1421)、日本国の九州官の源道鎮(九州探題渋川道鎮)が、旧港の施主烈智孫が遣わした那弗答トウ(登+おおざと。UNI9127。&M039630;)子昌ら20余名を琉球に送って、旧港へ帰還させることを依頼してきたが、当時琉球と旧港との間には交流がなかったため、正使闍那結制が暹羅(シンラ)国(シャム国。現在のタイ王国で、アユタヤ王朝)に便乗させて転送させたが、以来彼らの音信がなかったため、懐機はその安否を問い合わせると同時に、実達魯の交易の便宜を依頼したのである(『歴代宝案』1-43-04)

 懐機が折衝しているのは旧港(パレンバン)の行政長官たる管事官である。旧港(パレンバン)の「旧港」字は、三仏斉国(シュリー・ヴィジャヤ王国)のように漢字を現地語による音韻表記したものではなく、中国人が何らかの意味をもって「旧港」と称したものであり、そのため華僑の頭目がこの地に統率したものとみられている。
 旧港自体は三仏斉国の後身である爪哇(ジャワ)が管轄していたが、洪武年間(1368〜98)に広東の人である陳祖義が家をあげてここに逃げ込み、頭目となって海賊化した。鄭和の大船団が永楽5年(1407)旧港に入港した時、施進卿なる広東出身者が陳祖義の横暴を訴えたため、鄭和はこれを攻撃し、陳祖義は敗れて斬刑に処された。一方の施進卿は明朝より官帯を賜り、旧港の宣慰使に任じられた(『瀛涯勝覧』旧港)
 応永15年(1408)11月18日に日本の若狭国小浜(現福井県小浜市)付近に南蛮船が漂着・座礁した。この船は「帝王御名亜烈進卿」の使者の乗船で、日本国王への進物・象一匹・黒山馬一夫記・クジャク二対を積載していたが、座礁のため破船したので、翌16年(1409)に船を新造し、同10月1日に出航した(『若狭国税所今富名領主代々次第』)。この「帝王御名亜烈進卿」こそ旧港宣慰使である施進卿のことであり、この使節はさらに九州に漂着、渋川道鎮の保護を受けて琉球・暹羅(シンラ)国を経由して旧港に戻ったのである。
 懐機はこの一件を旧港側に思い起こさせることによって、琉球と旧港の交易の円滑化をはかったのである。さらに書簡には「草字不宣」と書簡の末尾に「十分意を尽くせませんでしたが、お汲みとり下さい」という意味の常套句を配している(那覇市史)。つまり懐機の書簡は、東アジア冊封体制下の外交秩序におけるフォーマルな国書ではなく、担当官同士の業務円滑化をはかる私信のようなものであった。

 実達魯ら使節一行は無事旧港での任務をはたし、宣徳4年(1429)6月に琉球に帰国したが、このとき三仏斉国の宝安邦(パレンバン)の「本目娘」の使節が便乗して琉球に来航し、進物を送ってきた。宣徳5年(1430)10月18日、懐機は本目娘に宛てて琉球に使節を派遣したことのお礼の書簡を認め、正使達旦尼等を遣わすことと、交易の認可を要求している(『歴代宝案』1-43-09)。さらに同じく実達魯ら使節一行の船に三仏斉国が遣わした財賦察陽が便乗しており、琉球に箋文・礼物をもたらし、進物は懐機にも贈られた。琉球は使節の蔡陽泰(察陽)を送迎するため、正使歩馬結制らを旧港に遣わして同船させることとし、宣徳5年(1430)10月18日に懐機はその趣旨の書簡を三仏斉国旧港僧亜剌呉に認めた(『歴代宝案』1-43-08)

 旧港も宝安邦も、双方ともインドネシアのパレンバンのことである。旧港を治めていた大頭目の施進卿であるが、本人が死んだ後、位は子に伝わらず、その娘の施二姐が大頭目となり、一切の賞罰や進退は前のとおりであったという(『瀛涯勝覧』旧港)。つまり先に懐機が使節を送った旧港の施進卿が死ぬと、娘の施二姐が大頭目になったという。この「施二姐」という名から、彼女は施進卿の次女で、少なくとももう一人の娘がいたとみられている。そのため本目娘が施二姐、僧亜剌呉はもう一人の娘であるとみられている(小葉田1939)。使節は宣徳5年(1430)12月11日に宝林邦(パレンバン)に到着し、翌6年(1431)2月3日、本頭娘は懐機に宛てて礼物の奉献についての書簡を認めている(『歴代宝案』1-43-10)。また同日俾那智(頭目)の施氏大娘仔から懐機に宛てた表敬および礼物の奉献についての書簡が認められている(『歴代宝案』1-43-11)。この「本頭娘」も「施氏大娘仔」も、前述した施進卿の二人の娘である。


長寿寺跡(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

明と懐機

 再び明との関係を見てみると、宣徳7年(1432)正月26日には明の宣宗宣徳帝から「琉球国王相懐機」に粧花絨錦連勝宝相花紅1匹と、紵糸の織金胸背獅子紅・素紅・素緑・素青を1匹ずつ頒賜している(『歴代宝案』1-43-12)。また宣徳8年(1433)6月に欽差内官柴山・内使阮漸が明の皇帝の勅諭をもって琉球に到ったが、国王尚巴志王には綵幣を、王相懐機には絨錦紵糸を頒賜した。その謝礼のため琉球では使者南米結制らを派遣し、表文1通と国王からの貢物を明に運送したが、その際に王相懐機から明皇帝に宛てた貢物として、金箔綵色屏風2扇・金包結束虎豹皮銀竹長刀2把・金鍍銀結束銀腰刀2把などを送っている(『歴代宝案』1-16-22)。さらに正統元年(1436)9月24日に尚巴志王が明朝の礼部に宛てた咨文によると、同年閏6月11日、英宗正統帝は中山王尚巴志に綵幣を頒賜しており、その中から王相懐機に綵幣を賜うよう命じている。これを受けて尚巴志王は懐機に綵幣を分け与えたが、尚巴志王が謝礼の品を送るのとは別に、王相懐機は香500斤・沙魚皮1000張を自弁した。この時琉球は貢納のための積荷を船3隻に分乗させて出帆したのだが、このうち1隻の義字号船は、王相懐機が自弁した香500斤・沙魚皮1000張を積載していた(『歴代宝案』1-17-01)

 正統元年(1436)に尚巴志王と王相懐機は明の竜虎山の天師府に宛てて進物を奉献している(『歴代宝案』1-43-14)
 天師府とは、道教を全真教と勢力を二分する天一教の教主のことである。天一教は後漢の張陵の五斗米道に起源があり、三代目の張魯は師君と称して漢中に自立し、曹操に降伏するまで宗教勢力を現出させた。降伏後、張魯の子孫は歴代竜虎山の上清宮を根拠として「天師」を称し、五斗米道は天師道と改称された。元代に天師道は天一教と改称され、全真教が弾圧されたのと対照的に、天一教は優遇されることになる。元末には大真人に封ぜられ、三山の符録を司り、江南の道教を支配するのが例となっていた。明代には太祖洪武帝のときから密接に帝室に結びつき、代々の天師は宮中に召されていた。懐機が書簡を送った時に天師の地位にあったのは第45代張九陽(1387〜1444)である。この張九陽は先代張冲虚の嫡孫であり、やはり明室とつよい結びつきがあったことが、歴代天師の伝記である『漢天師世家』に記される(『漢天師世家』巻之4。正統道蔵1066冊)

 この天師府からは正統3年(1438)夏に符録(符讖。道教で未来のことを予言する文書、ないしは護符の類)を賜下されたが、さらに同年11月10日には科録(免状)の給賜を願う書簡を認めており(『歴代宝案』1-43-18)、同日付で尚巴志王と王相懐機から天師府にあてた進献礼物の目録が作成されている(『歴代宝案』1-43-19)

 正統4年(1439)に王相懐機は天師府大人に宛てて、尚巴志王の訃報を報せ、尚忠王(位1440〜44)へ科禄の加授を請う書簡を認めている(『歴代宝案』1-43-20)。さらにこの書簡の別幅と思われるのが、同年付の王相懐機から天師府に宛てた香花の奉献についての書簡である(『歴代宝案』1-43-21)
 尚巴志王は『中山世譜』によると、正統4年(1439)4月20日に薨去したといい、そのため天師府大人に使を遣わして、明国の尚忠王王位継承の速やかなる承認への段取りをつけようとしたようであるが、この書簡は結局、記されただけで実際に発送されなかったらしい。というのも、『歴代宝案』にみえる正統6年(1441)7月6日付の明国に宛てた尚忠王の襲封を乞う咨文によると、尚巴志王の薨去は正統6年(1441)4月26日のこととしており(『歴代宝案』1-17-11)、何らかの事情があって意図的に薨去年を遅らせて報告しているからである。

 懐機は尚忠王の時代も引き続いて国相の位にあったが(蔡温本『中山世譜』巻5、尚忠王、紀、正統5年条)、その後外交の表舞台に立つことは極端に少なくなった。最後の外交活動は、正統5年(1440)10月4日付の王相懐機から旧港宝林邦の施氏大娘に宛てた、貿易についての書簡であり(『歴代宝案』1-43-23)、以後外交の表舞台から完全に姿を消す。


再建された那覇孔子廟(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

長虹堤の創建

 懐機は尚忠王の薨去後、子の尚思達王(位1445〜49)の代でも国相の地位にあり(蔡温本『中山世譜』巻5、尚思達王、紀)、尚思達王の薨去後に即位した尚金福王(位1450〜53)の代にも国相として仕えた。

 景泰2年(1451)に尚金福王は明国に使を遣して冊封を要請したが、この時まで主要港の位置する那覇は沖縄本島との間に海が隔たっており、往来に不便であった。王は国相懐機に命じて長虹堤を建造させた(蔡温本『中山世譜』巻5、尚金福王、紀、景泰2年条)

 尚金福王は尚巴志王の子であったが、甥の尚思達王の薨去を受けて即位した。在位4年ほどに過ぎなかった甥の治世のあとを叔父が継ぐという、一見不可解な出来事に、明から何らかの嫌疑がかかるのを恐れたのか、あるいは何らかの負い目があったのか、即位してから景泰2年(1451)までの2年間に5度も使節を明に派遣したにもかかわらず、尚思達王の薨去を明側に知らせず秘匿していた。また尚金福王は尚思達王在世中より「王叔」という肩書で外交を展開しており、正統13年(1448)には明の英宗正統帝に奉呈しており、同年英宗正統帝から王・王妃とともに王叔にも下賜品があった(蔡温本『中山世譜』巻5、尚思達王、紀、正統13年条)

 尚金福王には明国より正統な中山王(琉球国王)であることの承認を得る必要があり、先王の論祭と尚金福王の冊封のために琉球に来る使節を盛大にもてなす必要があった。

 この長虹堤については、『琉球国由来記』に次のような記載がある。同書では懐機ではなく「国公道球」としているが、「道球」は前述した通り、懐機の称号の一つである。なお蔡温本『中山世譜』では景泰2年(1451)としているが、同書では翌景泰3年(1452)のこととする。

 景泰3年(1452)、勅使の陳・董が渡海してやって来た。ここに国中の舟を集めて、船橋を架けて迎えようとした。そこで国王は国公に詔して、「何か考えがあるか。道を陸にして両勅使を迎えるか」と聞いた。国公は身をかがめて、「これは仏神の力でなければ、どうして人力の及ぶところでしょうか」といい、天照大神に祈って、「一七日(7日間)の間、首里を往復する湾江が、潮が引き涸れて海底がみえるようなるなら、即座に土石を運び、石の橋梁を架け、勅使を迎え、国事を封じて、国家を泰山の安泰へと落着させたい」といい、東方に向かって二夜三昼祈った。翌日、引き潮でもないのに海底が出た。ここに上は公卿大夫から、下は士農工商まで、昼夜間断なく山を掘って洞窟を鑿岩し、日を経ないうちに積み集め、築きあげた。安里村から若狭町村までの道の橋が7日間で完成し、勅使を迎えて国王は封じられた。まことにこれは仏神の力であるから、旧願にかえらんとして、私宅の新地を神社として創建し、天照大神を勧請して香花を獻上した。それだけではなく、自宅を寺院とし、満叟和尚を開山始祖とし、壺宝山長寿禅寺と号した。本尊は東方薬師如来を安置した。これもまた東方の日本国大鎮守天照大神に準じたものとみなされた。その後国公は私宅を町の端の村の天山に造営して居住した。しかしながら不幸にして今子孫は滅亡してしまい、これまた人の口伝であって、是否を知ることはできず、考察することはできない。文献が不足しているからである(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、壺宝山長寿寺、壺宝山長寿禅寺記)

 この史料によると、
  @冊封使のために長虹橋を建造した。
  A建造時に潮が引くという奇跡があった。
  Bそのため天照大神を祭る神社を勧請した。
  C国相(懐機)の自宅を寺院(長寿寺)とした。
  D国相は私邸を町の端の村の「天山」に造営した。
  E国相の子孫は断絶し、記録がないため詳細は不明。
ということが知られる。
 まず@の長虹橋であるが、清の冊封使として琉球を訪れた徐葆光の記述によると、「廟(孔子廟)から東に行くこと数百歩、北に曲がれば長虹堤である。堤の長さは2里ばかりにわたり、下に水門を7箇所つくって潮を通している。(堤のかたわらに小石の山がある。名を七星山という。七石が砂田の中に離れて立っている)。堤をすぎて北に曲がれば安里橋となる」(『中山伝信録』巻第2、封舟到港)とある。長虹堤は長寿寺を基点としてほぼ真西に進み、美栄橋付近から沖映大通りに進み、さらに久茂地川南岸30mほど南の道を東北東に進み、崇元寺手前の安里橋に抜ける約500mほどの直線上の地点が長虹堤に該当し、現在では埋め立てられて跡形すらない。

 長虹堤を建造した時の冊封使は、『中山世譜』(蔡鐸本)によると、正使は陳謨、副使は董守宏となっており、『琉球国由来記』でも「陳・董」と記されているが、中国側の記録である『明実録』によると正使は喬毅、副使は童守宏となっている。『中山世譜』の記述は郭汝霖の『重編使琉球録』の記述を引用したための誤りである(原田1998)

 尚金福王の冊封は無事に終了したが、長虹堤を建造したことと、冊封の成否がどのように関係したのかは史料上に見いだすことはできない。しかしながら、その後も長虹堤は冊封使を迎えるための幹線道となり、日本でも長虹堤を想像で描いた浮世絵が出るほどの知名度があった。


周煌『琉球国志略』首巻、図絵、長虹秋霽(原田禹雄訳注『周煌 琉球国志略』〈榕樹書林、2003年6月〉80・81頁より一部抜粋の上、左右頁を結合した)

懐機没後の長寿寺

 長寿寺の開山は満叟和尚なる僧侶であるが、この人物について詳細はわかっていない。日本から渡来した禅僧という説があり、天照大神勧請もそれに起因するという(葉貫1976)

 懐機は長寿寺建立の後、町の端の村の「天山」に私邸を造営して居住している(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、壺宝山長寿寺、壺宝山長寿禅寺記)。この「天山」は現那覇市首里池端町の天山とみられ、この天山は尚巴志の陵墓があり、第二尚氏王統時代には北谷御殿の墓所となった「天齎山」がそれであるとみられている(東恩納1950)

 第一尚氏王統の5代にわたって国相であった懐機だが、その没年はわかっていない。尚金福王のあとに即位した尚泰久王(位1454〜60)の時代の国相は「名氏不伝」とあり、国相についた人物の名は不明であるが、懐機ではないことを示唆している。
 懐機は尚金福王治世下から尚泰久王治世下へと移り変わる途中のいずれの時期かに没しているようである。ところで尚泰久王が景泰5年(1454)2月に明に遣わした報によると、「長兄金福が没して、次兄布里と兄の子志魯が争い、府庫を焼き、双方とも傷つきともに倒れました。賜っていた鍍金の銀印もまた毀壊してしまいました。国中の臣民が臣(尚泰久)を推して権(かり)に国事を摂らせました。」(『英宗実録』景泰5年2月己亥条)とあり、尚金福王の薨去後に王位継承に関わる内紛があり、王宮が焼失したばかりではなく、王位をねらった双方ともが共倒れしたことが知られる。この内紛の中に懐機の死を見い出すのは、いささかうがちすぎであろうか。

 なお懐機の位牌が、なぜか円覚寺方丈の壇上に祀られており、位牌には「当寺開基檀那、道球国公懐機也」とあったという(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、額併聯事)。『琉球国由来記』の編者は、天龍寺にあった位牌であったと推測しているが、天龍寺は懐機没後の景泰年間(1450〜57)に建立された寺院であるから(蔡温本『中山世譜』巻5、尚泰久王、紀、景泰年間条)、「当寺開基檀那」の、「当寺」を懐機没後の景泰年間(1450〜57)に建立された天龍寺とみることは難しく、長寿寺やあるいは他の寺院から移されたものとみられる。


 内紛から王位についた尚泰久王であるが、琉球史上もっとも仏教をあつく信仰した王であった。とくに鋳造した梵鐘は23口にもおよんでいる。そのうちの1口に長寿寺の鐘も含まれており、景泰7年(1456)9月23日に撰文された銘によると、撰者は相国寺住持の渓隠安潜で、庚寅(1410)生まれの尚泰久王が、上は王位の長久なること祝(いの)り、下は衆生の救済を願い、新たに巨鐘を鋳造して長寿寺に寄進する、という意味である。尚泰久王が鋳造した23口の鐘のうち、17口に渓隠安潜が撰文しているが、内容はこれと大同小異であり、寺院名や住持のみが異なっている。長寿寺の場合は、住持は秀乙とあるが(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、壺宝山長寿寺、壺宝山長寿禅寺記)、この秀乙を長寿寺初代住持の満叟の弟子とみる説がある(葉貫1976)

 梵鐘が尚泰久王によって鋳造されたように、仏や天照大神への供物も、月々王庫から出され、また神社や寺の修補が必要な時も公儀が普請したといい、住僧もまた国王の綸旨を受けて住持となったという(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、壺宝山長寿寺、壺宝山長寿禅寺記)。このように長寿寺は懐機が建立した私寺という扱いはとられず、官寺扱いとなっている。長寿寺の建立は、琉球において創建年代が確定できる寺院(伝承も含む)としては、極楽寺護国寺大安寺についで古く、建立自体が琉球王府による何らかの支援があったものとみられる。

 景泰年間(1450〜57)から康熙年間(1662〜1722)までの200余年の間、住持の歴代は不明である。17世紀に啓山長老が住持となったが、尚貞王(位1669〜1709)の治世下の康熙8年(1669)、啓山長老の隠居所である池上院が御用地となったため、長寿寺を啓山長老に永代賜わった。以来客殿・庫理などを再興した。啓山長老が示寂した後、啓山長老の一門の諸老宿の僧らが奏上して、前長寿寺住持で中興をした啓山和尚の位牌を立てた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、壺宝山長寿寺、壺宝山長寿禅寺記)。長寿寺は覚寺の末寺に位置付けられている(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、末寺事)

 また神社は往古から今(『琉球国由来記』が編纂された康熙52年〈1713〉)まで、公儀が普請してきた。毎年正月の朔日(1日)・15日に社参の儀式があった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、壺宝山長寿寺、壺宝山長寿禅寺記)。また古来、正月1日と15日になるごとに、国王は必ず進香を長寿寺・円覚寺・崇元寺・広厳寺に行なってきたが、雍正7年(1729)にいたってこれを廃止した。乾隆26年(1761)に旧例に復した(『球陽』巻之15、尚穆王12年条)

 その後長寿寺は官寺として扱われず、あくまで私寺とみなされていた。明治6年(1873)の大蔵省の調査でも、禅宗寺院として長寿寺があげられているが(「琉球藩雑記」)、私寺としての扱いであった。その後明治時代のうちに廃寺となり、現在では見る影もない。


[参考文献]
・小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』(日本評論社、1939年9月)
・東恩納寛惇『南島風土記』(沖縄文化協会、1950年9月)
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・葉貫磨哉「琉球の仏教」(中村元他編『アジア仏教史 中国編W 東アジア諸地域の仏教〈漢字文化圏の国々〉』佼成出版社、1976年3月)
・窪徳忠『中国文化と南島』(第一書房、1981年11月)
・窪徳忠『沖縄の習俗と信仰』(東京大学東洋文化研究所、1974年3月)
・窪徳忠『道教史』(山川出版社、1977年8月)
・『金石文 歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会、1985年)
・『那覇市史 資料編第1巻4 歴代宝案第1集抄』(那覇市役所、1986年3月)
・沖縄県教育委員会文化課琉球国絵図史料集編集委員会編『琉球国絵図史料集第三集-天保絵図・首里古地図及び関連資料-』(榕樹社、1994年3月)
・原田禹雄「思紹と尚巴志の冊封」(『がじゅまる通信』15、1998年7月)
・小川博『中国人の南方見聞録-瀛涯勝覧-』(吉川弘文館、1998年9月)
・(財)沖縄県文化振興会公文書管理部史料編纂室編『『明実録』の琉球史料』(沖縄県文化振興会、2003年3月)


沖縄戦破壊以前の美栄橋(『写真集沖縄 失われた文化財と風俗』〈那覇出版社、1984年9月〉145頁より転載)。長虹堤は長寿寺を基点し、美栄橋がその中央にあたった。



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