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臨海寺(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)
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臨海寺(りんかいじ)は沖縄県那覇市曙町1丁目に位置(外部リンク)する臨済宗妙心寺派の寺院です。開山・建立年代は不明ですが、沖宮の別当寺で、少なくとも15世紀からあったと考えられています。もとは那覇通堂町の海岸に橋で結ばれた島の上に位置(外部リンク)し、防波堤のように海に突き出ていました。明治になって開発が進んで埋め立てらていったため、臨海寺は垣花町(外部リンク)に、沖宮は首里の安里八幡宮の隣に移転(外部リンク)しましたが、沖縄戦で焼失。臨海寺は現在地に、沖宮は那覇市奥武山町の奥武山公園内に移転(外部リンク)・再建されました。
沖宮
沖宮の建立年代などの詳細は明らかではないが、本地仏は阿弥陀・薬師・十一面観音であり、熊野神と伝えられていた(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、沖山臨海寺)。
袋中良定(1552〜1639)は、この神について、源為朝(1139〜70頃)がこの国を統治していた時、熊野神が鬼神降伏の神であったため、念願あって建立したと考えていた(『琉球神道記』巻第5、洋ノ権現事)。源為朝は平安時代末期の武将である。保元の乱に敗れて伊豆大島へ配流となり、さらに追討を受けて自害したが、後世琉球に渡来し、その子舜天が琉球の初代国王となったとされる。このように袋中良定は琉球建国神話の時期を沖宮勧請の時期と見なしていたことが知られる。
この沖宮と臨海寺は、かつて那覇市通堂町に位置していた。この地は現在は埋め立てられて見る影もないが、かつては浮島と呼ばれた那覇の南の西側の海に突き出た堤防と島からなる場所に位置していた。その最西端には三重城(みいぐしく)があり、堤防によって浮島(那覇)と繋がっていた。その途中に中城(なかぐしく)があり、さらに浮島側に行くと沖宮と臨海寺が海に浮かんでいた。四方を海に囲まれた沖宮・臨海寺は、海に携わる者達の尊崇を集めた。
中国に渡る官船は、航海無事を祈り、薩摩を往還する船は、ともに神楽を奏で、諸国の出入する船で尊信しない者はおらず、旅客するものは貴賎問わず、願い望まない者はなかったという(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、沖山臨海寺、沖山三所大権現縁起)。
昔、那覇の津(みなと)に光気があり、風雨霜雪が照り輝いた。国王は城中からこれを御覧になって「奇瑞かな、奇妙かな」といい、勅して漁師にこれをすくい取らせた。これは枯木であったが、尋常の木ではなかった。本当に蓬莱の霊木であったことを知った。次の夜、水面を見れば、光気はなかった。この枯木は不思議な霊験があるのだろう。そこで地を選んで霊社を建てた。そうすれば神殿の美しさや神威の荘厳がますます新たになるだろう。俗に語り伝えるところによると、臨海湖楽院の御本尊は、薬師如来ならびに日光菩薩・月光菩薩の御三体である。ただし石像の由来は詳らかではなく、遠い昔をたずねてみれば、社堂はある時期に建立されたのであろう(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、沖山臨海寺、沖山三所大権現縁起)。
このように、沖宮・臨海寺の建立年代はともに不明であり、順治12年(1655)に創建され、康熙20年(1681)に板葺から瓦葺に改められたという縁起もあったというが(汪楫『使琉球雑録』巻2、疆域、臨海寺)、実際には天順3年(1459)の一品権現(沖宮)の鐘が鋳造されていることから、15世紀にはすでに現存していた。さらに日秀(1503〜77)が開創したという説話もあった(『開山日秀上人行状記』)。
沖縄戦で焼失する以前の沖宮の本殿は、三間社流造、本瓦葺で、日本本土の様式と琉球の様式の折衷となっており、小規模ながらも無雑作と悠長さが調和した建築は、日本本土における奈良・平安期の建築に比せられる雄大な面影があると評された(田辺・巌谷1937)。また形式手法は室町時代中期の特徴を持っていたことから、創建のまま残っていたものとみなされ、昭和13年(1938)国宝に指定された。また宮古島の三所大権現は沖宮の末社であり、万暦39年(1611)正月に建立された(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、沖山臨海寺、末社)。
天順3年(1459)3月15日に一品権現の鐘が鋳造されており、沖宮の建立はこれ以前であったことが知られる。尚泰久王(位1454〜60)代には多くの鐘が鋳造されており、その数は23口におよぶが、一品権現の鐘はその一環で鋳造されたものである。これらの鐘の銘文は、尚泰久王が相国寺住持の渓隠安潜(生没年不明)に作文させたもので、銘文の内容は大同小異であるものの、この鐘の銘文のみ、王の誕生年が庚寅(1410)ではなく、「癸酉(1393・1453)」になっている。その理由は定かではない。
銘文には「癸酉年生まれの王が、仏法を王の身に現し、大いなる慈悲をはかって、新たに洪鐘(梵鐘)を鋳造し、本州(琉球)一品権現に寄捨し、上は王位が長久となることを祝(いの)り、下はあらゆるの衆生の救済を願うものである。命をはずかしめて相国寺の渓隠安潜が銘をつくった」とある(「旧一品権現洪鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)。この鐘は現在沖縄県立博物館の所蔵となっている。
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周煌『琉球国志略』首巻、図絵、臨海潮声(原田禹雄訳注『周煌 琉球国志略』〈榕樹書林、2003年6月〉72・73頁より一部抜粋の上、左右頁を結合した)
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三重城(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)。ロワジールホテルの裏手(西側)に三重城は位置する。現在は周囲が埋め立てられているが、西側は海に面している。臨海寺はこの東側に位置しており、現在のロワジールホテルから通堂町にかけてがそれに該当する。
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臨海寺と異国人
四方を海に囲まれた臨海寺は、その地勢的位置から、外国人の逗留場所として用いられることがあった。嘉靖年間(1522〜66)に琉球に滞在した日本僧日秀は、一時臨海寺に留め置かれていた(『日秀上人縁起』〈鹿児島県隼人町日秀神社蔵〉根井2001所収)。
嘉慶21年(1816)には英国軍艦2隻が琉球に来航し、那覇に碇泊した。9月23日には臨海寺にて琉球側主催の饗宴が開かれた。臨海寺の様子を英艦ライラ号の艦長ベイジル・ホール (Basil Hall, 1788〜1844) は以下のように記している。
「上陸地点から約一五〇ヤード〔一四〇メートル〕進み、寺院の門に着いた。例の高官が門外の玉砂利を盛りあげた舗道に立って待ちうけていた。彼は奥間に代ってマクスウェル艦長に付き添って階段をのぼり寺院の中へ招じ入れた。寺院は左右の側面の一部が開け放ってあるうえ深いヴェランダがついているので、内部はうす暗く、涼しかった。見事な漆塗りの大きな卓と、飾りのついた二つの椅子がわれわれのために用意してあった。高官は卓の一方の端に坐り、マクスウェル艦長をその左にかけさせた。」(ベイジル・ホール著/春名徹訳『朝鮮・琉球航海記』〈岩波文庫、1986年7月〉135-136頁)
続けてベイジル・ホールは臨海寺と僧侶について以下のように記す。
「宴会が行われた部屋は最初のうち左と右の二面が開けてあるだけだったが、のちになって、溝の上を滑るように工夫してある他の二面の仕切り〔襖〕が取り外された。つまりこの仕切りによって、臨機応変に部屋の大きさが変えられるのである。
私たちのうしろ側の仕切りを取り外すと、その外観からしてなんとも異様な数人の人物があらわれた。これは坊主(ボウズ)すなわち聖職者であった。頭と顔を剃り、素足である。短かめの他の人人の衣服ほどゆるやかでない衣服を身につけている。腰には帯もせず、袍衣は脇につけた細いつけ紐をむすんでいるだけである。
肩からは鼓手がかけるベルトのような刺繍をした帯あるいは紐をさげている〔袈裟のこと〕。衣服の色はまちまちで、あるものは黒、あるものは黄、あるいは濃い紫であった。
この人々は小心で忍耐づよく、おとなしそうにみえたが、しじゅう追従めかした微笑や、ぞっとするような不快な表情をうかべていた。
彼らは背が低く、概して不健康にみえた。程度の差こそあれ、皆、腰が曲っており、その態度には優雅さの片鱗も認められない。これほど下劣な連中がいようとは思いもよらないことであった。
僧侶たちと一緒に、数人の少年がいた。彼らはうんざりするほど瓜二つだったので、われわれはその子供にちがいないと思った。だがこれは少年たちが僧侶と同じような衣服を着ていることから生じた誤解であった。なぜなら僧侶は厳格な独身生活を守っているのであるから。
とはいうものの聖職者にたいする一般的な尊敬の習慣と、寺院に来ている客としての配慮から、最初、われわれは、僧侶たちに丁寧な態度をとった。しかし、首長たちの目には、途方もなく馬鹿げたことと映ったのであろう。われわれが僧侶にお辞儀をしていると、彼らはこれ以上、僧侶には関心をもたないでくれるよう求めた。彼らは尊敬すべき階級ではなく、もっとも低い階級のものとみなされている。軽蔑されているのでなければ、他のあらゆる階層の人々から無視されているといってよい。」(ベイジル・ホール著/春名徹訳『朝鮮・琉球航海記』〈岩波文庫、1986年7月〉140-141頁)
このベイジル・ホールの記述により、臨海寺の僧侶が無気力で琉球社会から孤絶しているとみなされ、琉球仏教が衰退している史料とみなされている。実際に康煕53年(1714)には琉球の僧侶が薩摩に赴いた時に、8ヶ月を期限として真言宗の僧は高野山に、禅僧は妙心寺に拝謁する慣例が禁止されており(『遺老説伝』巻3、尚敬王2年条)、それまで冊封使録などでは琉球僧侶の漢詩が優れていると評されたが、その後はついにその高評価を得ることはなかった。
その後、臨海寺は道光26年(1846)に渡琉したベッテルハイム(Bernard Jean Bettelheim 1811〜70)の一時的な居留地となったが、のちに護国寺に移動した。
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明治40年(1907)以前の臨海寺(『写真集沖縄 失われた文化財と風俗』〈那覇出版社、1984年9月〉84頁より転載)
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寺領と移転
臨海寺の開山から歴代の住持は、百余年にわたって記録がないため、何世を歴たかを知ることはできない。万暦年間(1573〜1620)の歴代住持は次の通りである。頼雄・盛伝・秀意・頼慶・頼盛・頼意・頼宥・尊盛・頼意・頼久・盛海・頼真・頼峰・快忠・頼雄法印・覚遍・頼英。康熙52年(1713)の住職頼英は第17世にあたる(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、沖山臨海寺、住持次第)。
臨海寺には寺領として、「大タウ原」なる場所(小禄間切俵間村名寄帳の内)に畑2畝10歩(231平方メートル)と、畑3畝20歩(363平方メートル)があった(『琉球国由来記』巻11、沖山臨海寺、菜園地)。臨海寺の知行石は、康煕58年(1719)の段階で毎年米24石を支給されており(『中山伝信録』巻5、僧禄)、さらに乾隆元年(1736)の段階で30石となっていた(『寺社座御規模』)。乾隆元年(1736)紫衣僧で、円覚寺・天王寺・天界寺・護国寺・臨海寺の住持をへて老年となった者は、毎月米1斗3升5合を給付し、その従僧1人には米9升、従僕1人には雑穀9升を給付した。紫衣僧で、これらの寺院の住持となっていない者は、従僧の給付を行なわないが、その他はみな同様であった(旧来は住持となっていない紫衣僧でも、従僧に給付していた)(『球陽』巻之11、尚敬王16年条)。このように臨海寺は紫衣僧が住持を務める寺院であり、琉球においてはトップクラスの寺格を有する5箇寺の一つであり、真言宗寺院においては本寺である護国寺とともに頂点にあった。
琉球処分後、30年を経た明治43年(1910)に秩禄処分が行なわれた。この時臨海寺は給与総額は1,482円52銭、うち国債証券額は1,450円であった。国債証券の利子は年5分利で、給与総額の中50円未満は現金で支払われた。また本土同様に神仏分離が行なわれ、臨海寺と沖宮は分離され、沖宮は境内地は276坪、国債証券額が600円とされた(島尻1980)。さらに明治41年(1908)には那覇港築港にともなう周囲の埋立が進んだため、臨海寺は垣花町に、沖宮は島尻郡真和志村字安里(現、那覇市字安里)の八幡宮の隣に移転した。沖宮の本殿は昭和13年(1938)7月4日に国宝に指定された。
沖縄戦にて臨海寺・沖宮は焼失。戦後臨海寺はもとの用地が米軍に接収されていたため現在地に移転・再建された。沖宮は1961年に通堂町に仮遷座、昭和50年(1975)8月現在地に遷座した。
[参考文献]
・田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』(座右宝刊行会、1937年10月)
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・島尻勝太郎『近世沖縄の社会と宗教』(三一書房、1980年7月)
・『写真集沖縄 失われた文化財と風俗』(那覇出版社、1984年9月)
・『金石文 歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会、1985年)
・ベイジル・ホール著/春名徹訳『朝鮮・琉球航海記』(岩波文庫、1986年7月)
・根井浄『補陀落渡海史』(法蔵館、2001年11月)
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)
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☆後記☆
ベイジル・ホールの有名な臨海寺僧の記述ですが、これらは琉球仏教の衰退を示す史料として盛んに引用されています。
しかし実際に臨海寺僧の立場になってみれば、自身の住する寺院が得体の知れない異人との饗宴場とされてしまい、またその居留地になる可能性もあったのですから、その言動がベイジル・ホールから見れば怪しいものにみえたのかもしれません。
また琉球の官吏からみれば、饗宴場に僧侶がいるのはひどく場違いなものであったのかもしれませんが、臨海寺僧にとっては自身が住持する寺院ですから、そこにいるのは当然であり、先行きの不安がつい阿諛となってしまったのかもしれません。
あるいはベイジル・ホールらにとっては異教徒の祭司であり、一種の先入観があったのかもしれません。
換言すれば、この史料は三者三様の立場を示すものであって、必ずしも琉球仏教の衰退を示す史料として用いるのは、必ずしも穏当でない可能性があります。
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沖縄戦焼失以前の沖宮本殿(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉17頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)。
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沖宮(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)
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