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神徳寺(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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神徳寺(じんとくじ)は沖縄県那覇市字安里38番地に位置(外部リンク)する真言宗寺院です。八幡宮の別当寺として建立され、建立年・開山はともに不明です。山号は高明山、本尊は不動明王。
八幡大菩薩@ 〜喜界島の攻防〜
「琉球八社」と称される琉球の官社は、大半が熊野社を祀る神社であるが、この八幡宮のみは名称の通り八幡神を祀る神社となっている。
八幡神は九州宇佐地方において発展し、奈良時代、大仏建立にあたって託宣があり、早くから神仏習合の要素を示していた。八幡神の名号は「護国霊験威力神通大自在王菩薩」といい、「八幡大菩薩」と通称された。貞観元年(859)に京都南方の男山に勧請された石清水八幡宮は、11世紀には伊勢神宮とならんで「二所宗廟」と称され、鎌倉に鶴岡八幡宮が建立されて以降、八幡神は日本を代表する有力な神となった。
もとより神功皇后の三韓征伐説話に付随して、応神天皇こそが八幡神と見なされ、八幡神は外敵調伏の神とされていた。例えば鎌倉時代に成立した『八幡愚童訓(甲本)』上によると、日本に襲来した外敵は、開化天皇48年に20万3千人、仲哀天皇の治世下には20万3千人、神功皇后の時代には3万8千人、応神天皇の治世下には25万人、欽明天皇の治世下には34余万人、敏達天皇の治世下、推古天皇の治世下には43万人、天智天皇元年には2万3千人、桓武天皇6年には40万人を数え、いずれも八幡神の加護によって追い返され、多くは滅亡したとする。
このように八幡神は外敵調伏の神として信仰を集めていた。琉球において八幡神が勧請されたのも、やはり琉球の対外戦争に関わっている。
琉球の領域拡大は尚巴志王(位1422〜39)による三山統一の段階で一段落していたが、海洋国家としての位置づけが明確になり、琉球が三角貿易によって隆盛すると、琉球と日本の境界にある奄美諸島に目を向けるようになる。
奄美諸島は東シナ海洋上に位置し、奄美大島と喜界島がその中心となっている。奄美諸島から北北東へ約380km行くと九州に到着し、南西へ約300km行くと沖縄本島に到着する。すなわち九州と沖縄の中間に位置していることになる。
奄美諸島の喜界島は、古代・中世の日本において日本の最南端の領域として認識されていたが、必ずしも律令国家の支配が及ぶところではなく、実態よりも認識としての領域であった。例えば『延喜式』入諸蕃使には、遣唐使の一行の中に「新羅・奄美等訳語」とあるように、朝鮮半島の新羅と奄美の言葉を通訳する者が乗船していたことが知られる。彼らの存在は新羅・奄美に漂着する時に備えてのものとみられるが、、奄美諸島も朝鮮半島同様、日本に対する異域として考えられていたことが知られる。
また源頼朝は、平家残党および源義経が貴海島に潜伏しているとの噂によって疑いを懐き、文治3年(1187)9月に鎮西(九州)に天野遠景(生没年不明)を下向させ、征伐を命じているが(『吾妻鏡』文治3年9月22日条)、翌年には摂関家より「三韓が降伏したというのは上古の事であって、末代である現在にいたっては人力が及ぶところではない。かの島の境は、日域はなはだ測りがたいものである」として反対が表明された(『吾妻鏡』文治4年2月21日条)。結局、天野遠景は貴賀井島(喜界島)に渡って合戦を行なって降伏させ、5月に鎌倉に言上している(『吾妻鏡』文治4年5月17日条)。摂関家が「日域はなはだ測りがたし」と述べているように、鎌倉時代においては日本と異域と見なされていたことが窺える。
一方琉球では三角貿易の都合上、喜界島の支配に極めて大きな関心を持ち、琉球の古歌集『おもろさうし』には、「一聞ゑ押笠 鳴響む押笠 やうら 押ちへ 使い 又喜界の浮島 喜界の盛い島 又浮島にかゝら 辺留笠利きやち…(名高く鳴り轟く押笠神女が、喜界の浮島、盛い島から船出します。浮島から辺留笠利へ…)」(『おもろさうし』第13、第868番歌〈外間守善校注『おもろさうし』下、岩波文庫、2000年11月、213〜14頁より一部転載〉)と歌われ、後略部分には喜界島から順に奄美諸島を巡って那覇に到達する航路が歌われていた。
景泰元年(1450)に朝鮮人が臥蛇島(トカラ列島)に漂着したが、この時琉球国王の弟の軍勢が「岐浦島」攻撃のため進駐していたといい(『端宗実録』巻6、端宗元年5月丁卯条)、この「岐浦島」は喜界島と見なされている。さらに景泰7年(1456)に琉球北方の仇弥島(久米島)に漂着した梁成らは、琉球の東に池蘇(喜界島)・吾時麻(奄美大島)の2島あり、琉球に降伏しなかった。吾時麻は15年前に攻撃すると帰順したが、池蘇は毎年攻撃しているにもかかわらず、服従しなかったという(『世祖実録』巻27、世祖8年2月辛巳条)。このように奄美大島は景泰元年(1450)の15年前、すなわち宣徳10年(1435)頃に琉球の攻撃を受け、服属していたという。この時期は尚巴志王の治世下にあたり、尚巴志王は三山統一後、軍勢を北に向けて奄美諸島征服をめざし、実際に奄美大島を支配下に置いたものの、東隣の喜界島はついに占領できなかったことが知られる。さらに琉球は喜界島の征服を企て、毎年出兵していたにもかかわらず、喜界島は容易には屈服しなかったことが窺える。
勝連の阿摩和利は『おもろさうし』に、「一勝連人が 船遣れ 船遣れど 貢 徳 大みや 直地 成ちへ みおやせ 又おと思いが 船遣れ(勝連人、おと思いの航海である。航海こそ貢物をもたらすのだ。徳之島、奄美大島を陸続きにして、領主様に奉れ。)」(『おもろさうし』第13、第867番歌〈外間守善校注『おもろさうし』下、岩波文庫、2000年11月、213頁より一部転載〉)と歌われるように、勝連の勢力は海を渡って徳之島・奄美大島に及んでおり、これらの島々からの貢物を獲得していたという。しかし勝連を地盤とした阿摩和利の勢力は尚泰久王(位1454〜60)によって滅ぼされ、その後の勝連と奄美大島の関係は不明となっている。
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沖縄戦焼失以前の八幡宮本殿(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉18頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)。
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八幡大菩薩A 〜武神信仰〜
琉球は奇界島(喜界島)に連年攻撃していたが、成功しなかった。琉球王国第6代国王の尚徳王(位1461〜69)は怒って、「ただ功が無いばかりか、かえって侮辱されている。自分で軍兵を率いて賊乱を平らげよう」といった(蔡温本『中山世譜』巻5、尚徳王、紀、成化2年条)。
この喜界島征服に際して、八幡大菩薩勧請の説話が付属している。
鬼界島(喜界島)を攻撃の門出に、城の麓に水鳥がいた。矢をつがえて誓って、「このたび我が兵が有利なら、この鳥はすみやかに射落とすだろう」といい、一矢を地に立てて、一矢を放つと、たちまちに射落とした。
出航して海路に小鐘が浮んでいた。船人が取ろうとすると去り、しかし船の傍を離れなかった。王はまた誓って「兵に利あるなら、この鐘が我が手に入るだろう。そうすれば帰国後に八幡大菩薩と崇めよう」といい、右手を出すと、片手で簡単に手に入った。喜んで神輿を造って内に入れ、供物を供えて祭礼を行なった。本意を遂げて帰国すると、矢を立てたところに社祠を建てた(『琉球神道記』巻第5、八幡大菩薩事)。このように、戦勝祈願と奇瑞によって八幡神が勧請されたことが知られる。
成化2年(1466)2月25日に尚徳王は2000余人の兵士は大船50隻に乗って那覇を出航し、28日に奇界島(喜界島)に到着した。賊兵は港口に柵を立てて砦を築き、矢や石を雨のように振らせてきたから、進むことができなかった。王は大いに怒り、軍兵を進攻させたが、かえって死者が無数に出る有様であった。王はいよいよ怒ったが、老臣一人が進み出て奏上するに、「賊兵は勇がありますが、智恵はありません。これを破るのにどうして難しいことがありましょうか。数日あれば、私が必ず賊を破る計略をしてみせましょう」といった。王はその言葉に従い、待つこと3月5日にいたった。霧雨がもうもうと降り、夜になると空は黒く、人が対面しても誰だかわからないほどであった。老臣は数百の兵士をそれぞれ小舟に乗せ、多くの松明を持たせ島の背後に行くと、賊兵は背後側に兵を割き、港口は老兵に守らせただけになってしまった。王は大いに喜び、急ぎ諸軍に命じて一斉に上陸させ、火を放って家を燒き、吶喊の声は天を振るわせた。賊兵は大いに驚き、魂はまるで体から離れたように、降伏する者が無数に出た。賊の首領は力尽き、誅殺された。王は別に酋長を立て、百姓を治めさせた。3月13日に帰国した(蔡温本『中山世譜』巻5、尚徳王、紀、成化2年条)。
さらに3月13日に帰国した際、泊の港に帰着したが、諸人男女が歓迎するなか、泊里主の夫人が一人海浜に出て清水を手水で王に捧げた。王は大いに喜び、「お前は何者だ」といい、答えて「泊里主の妻です。御船とおかみ(国王)がお出でてになったので、御船中には水も不自由であったかと思い、水を捧げました」と答えたから、王は歓喜してその水を用いた。その後、夫の泊里主とともに禁裏に召されて食饗を賜り、泊里主は泊地頭職に任じられ、夫人は大あむ職を賜り、神名としてしほばなつかさと名付けられた(『女官御双紙』中、泊の大あむ)。
このように、八幡宮は喜界島征服に関する記念碑的役割があり、長年にわたった喜界島を征服事業を完成させた尚徳王の功績を称揚する目的があった。喜界島征服にともなう泊の大あむ職の起源説話も、同じく尚徳王の功績称揚と、泊の大あむ職側による王権に深く関係することを主張することの利害一致があった。尚徳王の薨去にともなうクーデターによって、第一尚氏王統は滅亡し、第二尚氏王統が成立したが、八幡宮は喜界島征服事業の回想とともに鎮座し続けることになる。
戦前までの建造物は、桁行3間(5m81cm)、梁間2間(3m3cm)、入母屋造、本瓦葺で、向拝の深さ2m24cmに幅1m6cmの廻縁を附していた。また向拝前面には8段の石段を、向拝柱の中央間には9段の木階を附して正面椽に上る。向拝柱は面取角柱、本柱は円柱を用いていた(田辺・巌谷1937)。また戦前には荒れ果てて雑草・草木の中にはわずか本殿一棟しか残っていなかったが(田辺・巌谷1937)、琉球王国時代には末社として荒神堂があった(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、八幡大菩薩、末社)。本殿内部に神通の弓矢・甲冑・龍宮浮鐘を秘蔵していたといい(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、八幡大菩薩、勧請由来、梁棟文)、これらの弓矢・甲冑・鐘が尚徳王喜界島征服にまつわる説話の文物として安置されていた。
神徳寺
神徳寺は八幡宮の別当寺である。建立の時期について、「神徳寺はある時期に建立された。」(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、神徳寺、鐘)とあるのみであって、建立年代や開山についてはわかっていない。康熙52年(1713)の調査によると、神徳寺は開山以来、住持の歴代に関する記録が百余年にわたってなかったため、遠きをおって淵源をたずねて踏査したといっても、歴代を知ることはできない有様であったという(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、神徳寺、住持次第)。
しかしながら、八幡宮の前に「御穀田」と名づけられた田があり、「八幡坊主地」とも呼ばれており、農夫が毎春耕し、毎秋収穫し、収穫物は8月15日の祭祀のために用いられていたという(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、八幡大菩薩、御穀田)。このように、「八幡坊主地」と呼ばれた田畑があったことから、八幡宮には別当寺の僧侶が想起される所領があったことが確認されている。この田畑は御検地帳に詳細に記録されていたというから(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、八幡大菩薩、御穀田)、王権側から承認された田畑であり、翻ってみれば王権側から寄進・施入された田畑であると考えられる。さらに八幡宮の前には井戸があり、「御穀泉」と名づけられていた。これは尚徳王が神社(八幡宮)を建立後、祭祀に使用するために造られたというから(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、八幡大菩薩、御穀泉)、八幡宮が尚徳王によって勧請された段階より、八幡宮の祭祀環境の整備が行なわれていたことが確認できる。すなわち「八幡坊主地」もまた尚徳王によって寄進・施入された可能性があり、神徳寺の建立も尚徳王の時代であったとみられる。
神徳寺の本尊は不動明王であった。最初の本尊は、もとは中城の糸蒲の寺院の本尊として安置されていた。この寺院の寺号は伝わっていないが、真言宗の寺院であったと推測されている(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、神徳寺)。糸蒲の寺院は、霊堂が焼失したが、その瞬間、禁中(首里城)の漏刻門に飛来したといい、円覚寺の法堂に安置し、本尊として年月が経過した。神徳寺の住持頼聖が王府に奏上して、神徳寺の本尊となったが、康熙24年(1685)頼久和尚が護国寺の住職であった時、日護摩のために本尊を護国寺に移した。それ以後、神徳寺の本尊は中絶してしまった。そのため康熙40年(1701)、慧朗阿闍梨は神徳寺の住職となったが、王府に奏上して、新たに大聖不動尊を奉った(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、神徳寺)。
このように、神徳寺の本尊は糸満の寺・円覚寺法堂と転々として、一時神徳寺の本尊となったものの、後に護国寺に安置されたため、新たに造立・安置されたことが知られる。このことから、神徳寺は住持頼聖の奏上によって円覚寺法堂から不動尊を移座するまで、本尊らしきものがなかったか、あるいは何らかの原因で失われていたことが知られる。住持頼聖の奏上の時期は不明であるが、この頼聖は神応寺(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、姑射山神応寺、神応寺、住持次第)・神宮寺の住持も務めており(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、普間山神宮寺、神宮寺)、とくに崇禎年間(1628〜44)から康熙52年(1713)までの約70〜80年ほどの間の神宮寺住持21代のうち、11代目にあたることから、17世紀後半の住持であるとみられる。すなわち神徳寺に不動尊が移されてから、康熙24年(1685)に護国寺に移されるまで、神徳寺に不動尊があった時期は極めて短かったことが知られる。その後康熙40年(1701)までの16年間、本尊が安置されていなかったということは、神徳寺が本尊安置に値するとみなされないほど軽んじられていたことになり、この時期の別当寺の扱いが、他の官寺に比べると低く扱われていたことが知られる。実際、袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』には、八幡大菩薩をはじめとした神社や官寺は記載されているが、神徳寺をはじめとした真言宗の別当寺は記載されておらず、当時の別当寺に関する認識のほどが窺える。
神徳寺には本尊の他に脇立が2体あり、日本の仏師の作であった(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、神徳寺)。また無銘の鐘一口があった(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、神徳寺、鐘)。開山以来、住持の歴代は百余年にわたって記録がないため不明であるが、万暦年間(1573〜1620)からの住持の歴代は、以下の通り。
伝昌・良瑜・快盛・頼元・頼豊・頼意・盛秀・頼久・覚盛・頼聖・頼全・自覚・頼忠・快忠・慧朗・頼英・頼歓・覚照・活盛(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、神徳寺、住持次第)。
乾隆元年(1736)に、黄衣僧で、神徳寺・慈眼院・円覚寺法堂・崇元寺・神応寺・万寿寺・聖元寺の住持をへて老年となった者は、毎月米1斗3升5合を給付し、その従僕には雑穀9升を給付することとした。ただし黄衣僧であって住持にならなかった者は、黄衣僧本人のみ米1斗3升5合を給付し、その従僕には給付しなかった(『球陽』巻之11、尚敬王16年条)。また神徳寺の知行石は、康煕58年(1719)の段階で毎年米8石を支給されていた。これは4名の僧を養うことができた(『中山伝信録』巻5、僧禄)。さらに乾隆元年(1736)の段階で12石となっており(『寺社座御規模』)、官寺としては最低ランクに位置づけられていた。また乾隆年間(1736〜95)には真言僧の不足から神徳寺は無住寺となってしまっている(『那覇市史』琉球資料(上)54頁)。
琉球処分後、30年を経た明治43年(1910)に秩禄処分が行なわれた。この時神徳寺は給与総額は583円44銭、うち国債証券額は550円であった。また本土同様に神仏分離が行なわれ、八幡宮は境内地は337坪、国債証券額が450円とされた(島尻1980)。
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安里八幡宮(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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ホースショア
神徳寺・八幡宮はともに安里の小さな丘陵に位置していたが、この丘陵は沖縄戦において「ホースショア」と称され、昭和20年(1945)5月のシュガーローフの戦いにおいて重要な役割を果たした。
日本軍が立て篭もったシュガーローフは小さな丘陵であったが、この地は南下する米軍にとって、南西に那覇、東に首里を望むことができる要衝であり、米軍がここを占領した場合、日本軍第32軍司令部があった首里を側面から攻撃することができた。そのため日本軍の独立第15混成連隊とアメリカ第6海兵師団の間で激戦が繰り広げられた。シュガーローフ自体は小さな丘陵にすぎなかったが、東側のハーフムーン、南側のホースショアと連携して相互防衛を行なう一大防禦陣地を形成していた。神徳寺・八幡宮が位置したホースショアもまた日本軍が強力な陣地を構築しており、洞窟が蜂の巣状に掘られていた。ホースショアにおける最終局面で米軍が煙幕弾を撃ちこんだところ、周辺の5、6ヶ所の別の洞窟の入口から土ぼこりと煙があがり、丘の反対側斜面からも立ち上ったほどであったという(ハラス2007)。
当初米軍はシュガーローフのみを攻撃していたが、三ヶ所が連携した攻撃によりたびたび米軍は大損害をこうむって撃退されたことから、シュガーローフを占領したのみでは決着がつかないとみた米軍は、戦闘の焦点はをシュガーローフ本体から、その周辺の一斉占領へと推移させた。5月16日、第22海兵連隊第3大隊は、I中隊にシュガーローフを攻撃させ、L中隊がホースショアの外側に進出してシュガーローフ西側斜面・南側斜面に制圧射撃を実施することとなり、L中隊は1500(午後3時)過ぎに前進を開始したが、三方から攻撃を受けて身動きがとれなくなり、さらにその右側(西側)でL中隊を支援するはずであった第22海兵連隊第1大隊も崇元寺方向から機関銃射撃を受けて、この日の攻撃は失敗した。
18日に米軍はシュガーローフを占領した。第29海兵連隊第2大隊F中隊は、第22海兵連隊第3大隊の支援のもとホースショアの攻撃を実施したが、いまだ残存していたシュガーローフ南斜面の日本軍からの攻撃により、ホースショアの手前で頓挫。2300(午後11時)から日本軍の逆襲が開始され、激しい戦闘の末、米軍は撃退された。
20日の夜明けに、消耗した第22海兵連隊と、第4海兵連隊が交替し、第4海兵連隊はホースショアを攻撃した。火焔放射戦車と爆破班の攻撃のため、翌21日までに完全に無力化された。
沖縄戦によって、神徳寺・八幡宮はともに焼失し、神徳寺の住職仲尾次盛孝は戦死した(名幸1968)。戦後もとの場所に復興されて、現在にいたっている。
[参考文献]
・田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』(座右宝刊行会、1937年10月)
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・島尻勝太郎『近世沖縄の社会と宗教』(三一書房、1980年7月)
・石上英一編『日本の時代史30 歴史と素材』(吉川弘文館、2004年11月)
・ジェームス・H・ハラス著/猿渡青児訳『沖縄シュガーローフの戦い 米海兵隊地獄の7日間』(光人社、2007年3月)
・吉成直樹・福寛美『琉球王国誕生 奄美諸島史から』(森話社、2007年12月)
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)
・上里隆史「15〜17世紀における琉球那覇の海港都市と宗教」(『史学研究』260、2008年6月)
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シュガーローフ(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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