神応寺跡



神応寺跡の石垣(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

 神応寺(じんのうじ)は沖縄県那覇市字繁多川に位置(外部リンク)した真言宗寺院です。山号は姑射山。識名宮の別当寺で、識名宮の東側に隣接していました。識名宮は「尸棄那権現」「姑射山権現」とも表記され、熊野神とみられています。神応寺は成化年間(1465〜87)に熙山周雍によって建立され、当初は臨済宗寺院でしたが、康熙10年(1671)頼昌によって真言宗寺院となりました。沖縄戦で焼失して廃寺となり。現在では跡地に公民館・図書館が建てられていますが、石垣などが残されています。


識名宮

 開基の縁起については明らかでない。熊野神と見られる。石窟は霊地である。上から垂れる石体は、下化衆生の相をあらわし、下からあがる巌根は、上求菩提と覚えるところである。熊野の本体は水精石と伝えられているが、石窟におられるのは依正不二の粧である。仏殿に安置する本尊は阿弥陀如来である。これは本地仏として崇められているわけではないが、自然の符合であり、本宮証誠権現とすべきであろう(『琉球神道記』巻第5、尸棄那権現事)

 昔は宮殿は洞窟の中に建立されていたが、洞窟の中は水滴が滴り、雨があがった時でさえ、常に乾くことはなかった。そのため神殿の修理は頻繁に行なわれていた。神応寺住持の覚遍は修理が頻繁にあって費用がかかることを恐れて、洞窟の外に建立することを王府に申し出、国王の許可を得た。康熙19年(1680)、造営を開始し、完成した(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、姑射山神応寺、姑射山大權現並寺縁起之事)。このように社が建立される以前は、琉球石灰岩でできた洞窟が祭祀対象となっており、現在でも洞窟内は神社の聖域となっている。

 沖縄戦で焼失する以前の識名宮は、2段の石段のある門があり、門から一直線に13m北に行くと、拝殿跡があった。拝殿跡は基壇が7m42cm×5m90cmの規模で残存しており、この基壇から3m92cmで、3段の石段を設けた基壇があり、この上に本殿が鎮座していた。本殿は3間社流造、本瓦葺で、桁行3間(3m69cm)、梁間2間(2m42cm)で、正面は両開の扉ではなく、窓のように上部のみ開口部を設け、吊板戸を懸けており、蔀戸式となっていた。戦前の本殿の屋根には榕樹の根が軒を貫いていたが(田辺・巌谷1937)、本殿は沖縄戦で焼失している。


沖縄戦焼失以前の識名宮本殿(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉19頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)



識名宮拝殿(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)



識名宮本殿後の洞窟(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

神応寺

 神応寺の開創について袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』によると、姑射山神応寺は開基年代は不詳であり、社堂はある時期に建立されたとみられる。本尊は千手観音・阿弥陀如来であるとする(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、姑射山神応寺、神応寺)

 このように「開基不詳」となっているが、『琉球国由来記』によると、開山は熙山周雍(生没年不明)であり(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、姑射山神応寺、神応寺、住持次第)、成化年間(1465〜87)の建立であるという(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、禅窟変密門事)。この熙山周雍は中国浙江省出身の禅僧で、円覚寺第5世住持であり(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、甲乙住持事)、弘治9年(1496)4月には円覚寺の鐘に撰文している。また円覚寺にあった「円覚精舎草創記」の石碑は弘治11年(1498)8月に天界寺住持の熙山周雍が撰したというから(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、立石碑併石橋事)、弘治11年(1498)8月の時点で天界寺住持を勤めていたことが知られる。

 しかしながら成化年間(1465〜87)に神応寺の開山となった人物、さらに景泰年間(1450〜57)に安国寺の住持となった人物(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、太平山安国寺、太平山安国寺記)が弘治11年(1498)に天界寺の住持になるには、よほど長生きしたのか、あるいは若い時に中国から琉球に渡ったため、渡来僧という珍しさから若年ながら開山にたてられたということも考えられなくはないが、そもそも別人であるとか、年代が異なる、といった開山説話自体に何らか齟齬があると考える方が自然であろう。実際に平成12年(2000)度・平成13年(2001)度に実施された発掘調査報告書によると、遺物の検出の上限は16世紀後半というから(軒平瓦)、『琉球国由来記』が想定している15世紀中・後期とするには年代的に無理があろう。

 神応寺は昔、禅宗の寺院であったが、尚貞王(位1669〜1709)の時、護国寺住持の頼昌法印が薩摩に遍歴していた時、大臣羽地王子朝秀(向象賢;1617〜75)にあって、「日本では社宮はみな密乗(密教)である」と主張していた。頼昌法印が護国寺住持となるや、康熙10年(1671)王府に奏上して真言宗の寺院とした(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、姑射山神応寺、神応寺)。神応寺が建立された地は琉球石灰岩が発達した地であり、神応寺はその琉球石灰岩の上に建立された。発掘調査では本堂跡の岩盤の右側には削平痕があり、琉球石灰岩を削って本堂を構築していたことが確認された。また石垣で構築される正門には3段の石階段があり、そこから10mほどで本堂正面に接続する。

 神応寺の本堂は桁行8間、梁間5間、単層寄棟造、本瓦葺で、建物自体は南面する。前面と左右3面の1間分は庇で縁側となり、南側中央1間は石段を設けて玄関となっている。内部は6室にわかれ、いずれも畳敷となり、中央前面1間は仏壇を飾っており、その他の空間は客殿となって住職の居住用に使用された。柱はいずれも角材を用いており、縁側と鴨居上の欄干部分の外側はすべて竪板を張り、強い風雨に備えている。神応寺本堂の建築は琉球における寺院建築の一様式であり、戦前の調査によると、護国寺を除いた真言宗寺院のすべて、安国寺天王寺(ただし屋根は入母屋造)・祥雲寺がこの形式に属していた(田辺・巌谷1937)

 神応寺には景泰7年(1456)銘をもつ旧相国寺の鐘が掛けられていた。この鐘はすでに失われていて、銘文を直接見ることはできないが、拓本によると、「庚寅(1410)生まれの尚泰久王が、仏法を王の身に現し、大いなる慈悲をはかって、新たに洪鐘(梵鐘)を鋳造し、本州(琉球)の相国禅寺に寄捨し、上は王位が長久となることを祝(いの)り、下はあらゆるの衆生の救済を願うものである。命をはずかしめて本寺(相国寺)二世渓隠安潜叟は銘をつくった」とある(「相国禅寺洪鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)。この鐘はのちに神応寺の鐘となり、沖縄戦で失われた。相国寺の鐘が神応寺の鐘となった事情については明らかではないが、のちの成化5年(1469)尚徳王(位1461〜69)によって相国寺の梵鐘がさらに1口鋳造されているから、それを相国寺に納める代わりに、尚泰久王の時代に建立された神応寺に梵鐘が移されたものとみられる。ちなみに神応寺の付近には、尚真王の治世下で三司官をつとめた沢岻親方の墓がある。

 歴代住持は、臨済宗寺院であった時の開山煕山和尚から、明宗・一閑・雪庭・閃空・雲山・太伝と続いていたが、密宗(真言宗)開山の覚遍和尚以来、盛海・頼聖・頼長・頼峰・頼英・覚照と続いた(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、姑射山神応寺、神応寺、住持次第)

 神応寺には菜園地があり、畠1畝のほか、宮の西には御穀泉があり、坊主川と名づけられていた(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、姑射山神応寺、神応寺、菜園地)。神応寺の知行石は乾隆元年(1736)の段階で12石となっており(『寺社座御規模』)、同年に黄衣僧で神応寺の住持をへて老年となった者は、毎月米1斗3升5合を給付し、その従僕には雑穀9升を給付するとされた(『球陽』巻之11、尚敬王16年条)。このとき、同じ規定を有した寺院は、円覚寺法堂・崇元寺慈眼院万寿寺神徳寺聖元であり、神応寺がこれら寺院と同じく、第二級の寺院とみなされ、第一級寺院である円覚寺・天王寺・天界寺・護国寺・臨海寺とは明確に区別されていたことが知られる。

 琉球処分後、30年を経た明治43年(1910)に秩禄処分が行なわれた。この時神応寺は給与総額は583円44銭、うち国債証券額は550円で、国債証券の利子は年5分利で、給与総額の中50円未満は現金で支払われ、証券の利子によって運営されることになった。また本土同様に神仏分離が行なわれ、神応寺と識名宮は分離された。識名宮の境内地は301坪、国債証券額が450円とされた(島尻1980)

 神応寺は昭和20年(1945)4月からの沖縄戦によって焼失した。神応寺の最期については明らかではなく、住職上運天弘延とその家族は沖縄戦で戦死した。戦後、隣接する識名宮は再建されたが、神応寺は戦後は再建されることなく、神宮の住職金城大雅が兼務住職となっていた(名幸1968)

 神応寺跡はグランドに整地され、老人会などがグランドゴルフなどで使用していた。那覇市立図書館・公民館の建設工事に伴って、平成12年(2000)度・平成13年(2001)年度の2ヶ年にわたって那覇市教育委員会によって発掘調査が行なわれた。発掘調査によって白磁・青磁の香炉片、タイ産陶器の合子(詳細は不明だが、写真や図版を見る限りでは16世紀頃の宋胡禄にもみえる)、独鈷杵、銅製椀が発掘され、また工事中に青銅製の歓喜天像が発見・採取されている。発掘調査後も工事計画の変更は行なわれず、記録保存のみで跡地は消失したが、石垣・正門跡地は現地保存された。


[参考文献]
・田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』(座右宝刊行会、1937年10月)
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・島尻勝太郎『近世沖縄の社会と宗教』(三一書房、1980年7月)
・『金石文 歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会、1985年)
・『神応寺跡 繁多川公民館・図書館建設工事に伴う緊急発掘調査報告書』(那覇市教育委員会、2006年)


沖縄戦焼失以前の神応寺(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉40頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)



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