神宮寺



神宮寺山門(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

 神宮寺(じんぐうじ)は沖縄県宜野湾市普天間1-27-11に位置(外部リンク)する東寺真言宗の寺院です。山号は普天満山(ふてんまんざん)。本尊は聖観音菩薩。別名を普天間寺(ふてぃまぬてぃら)といいます。「神宮寺」という寺号の通り、普天満宮の別当寺です。普天満宮は「普天満山大権現」「普天満山三所大権現」「普天間権現」とも称され、洞窟内に本殿がある沖縄特有の構造を有していました。神宮寺・普天満宮ともども沖縄戦とその後の混乱で失われましたが、戦後再建されました。


普天満宮

 この普天満宮は洞窟の中にあり、その中には「八箇霊跡」なるものがあった。それらは白鶴岩・明王石・獅子座・龍臥石・神亀岩・鷹居石・洞羊岩・大悲石と称され、いずれも洞窟内の霊石とみなされた(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、普間山神宮寺、普天満山三所大権現縁起)

 18世紀の俗説によると、普天間の洞窟は、もとは土民らが農具を置くため場所であったが、年月がへて、何者かが焼物の観音像1体を洞窟内の石壇に安置し、これより近隣の人は信仰して祈願したといわれていた(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、普間山神宮寺、普天満山三所大権現縁起)。この本地仏は阿弥陀・薬師・正観音とされ(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、普間山神宮寺、普天満山三所大権現縁起)。また袋中良定(1552〜1639)はその著『琉球神道記』の中で「熊野那智の滝であるとみられ、東には滝があり、その水霊である。」(『琉球神道記』巻第5、普天間権現事)と述べており、観音信仰と関連して、普天満宮が熊野の勧請とみなしていた。

 ある時、安谷屋村に夫婦がいた。その名前は伝わっていない。農業に励んでいたが、毎年不作で、税の貢納に事欠き、それだけではなく家も貧しかったから、悩んでいてもどうすることもできなかった。そのため妻は夫に「私の身を売り、未進の貢物を公庫に納めて下さい。昼夜、主人の日課の暇に紡績に勤めます。あなたは精力的に耕作して下さい。もし天の恵みがあれば、お互い渡世の安全な時、また夫婦の不朽の契を結びましょう」といった。涙を流して二人は別れた。後に妻は髪を切って市場で売り、その金で花を買って普天間観音に参詣すること3・4年に及んだ。9月に参詣した夜、今の鳥居のあたりで、忽然と一人の老翁に会った。神が化けた者であると疑って、驚いて歩行することができず、退去しようとした。老翁は「驚き怪しむな。これから行って仏を参詣するから、一時、私の物を預りなさい」といった。妻は「私は人の奴婢で、早々に帰らなければなりません」といって断ったが、強引に預けられたため、やむを得ずこれを預かった。老人は去ったが、戻ってこなかった。時間がたってどうすることもできず、まず参詣してから帰ろうとすると、道に老人の姿は見えなかった。そのため彼の預り物を首里に持参して帰ったが、翌日の夜、また参詣するも前夜の老人には会わなかった。そのことが二・三度におよんだが、老人に会うことを祈願して家に帰った。その夜に「お前に預物を与えよう」と夢を見、目覚めたが、意味がわからなかった。また次の夜も参詣して、願って「昨夜の夢をみましたが、私にはわかりませんでした。願うところは、今正しく霊夢を授けて下さい」といった。その夜また前夜と変わることなく夢の告げがあり、明白であった。そこで疑問が解け、預物を開封してみると、それはまさに黄金であった。その金は身代金に余りがあるほどであった。しかし今、暇を乞うと、主人に奴婢がいなくなってしまうため、さらに2年勤めることとなり、後にようやく念願を果たすことができ、身代金を支払って夫の家に戻った。よって結願のために石厨子を造り、観音像を安置した。その後家は豊かになった。遠近の人々はあまねく奇特の霊応を聞いて、参詣するものが群をなすほどであった(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、普間山神宮寺、普天満山三所大権現縁起)

 道光25年(1845)、国王は普天間宮に拝謁する際、はじめて龍福寺に到り、香を焚き礼を行なった(『球陽』巻之21、尚育王11年条)
 


沖縄戦以前の普天間宮拝殿(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉22頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)



普天満宮鳥居と拝殿(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

航海安全の神

 沖縄戦以前の普天満宮の本殿は、鍾乳洞の内部に鎮座していた。これは金武宮と並んで琉球の神社においては特殊形式となっていた。戦前の拝殿は、桁行4間、梁間3間、単層、切妻造、本瓦葺であり、前面・左右は竪板張目板打であった。この竪板は、もとからあったものではなく、当初は吹抜となっており、中央に仕切りがあるのみのシンプルなものであった。

 沖縄戦以前、本殿は鍾乳洞内に鎮座していた。本殿は一間社流造、本瓦葺で、三方に廻縁を廻らし、脇障子を設けていた。本瓦葺や細部の意匠は琉球式であったが、一間社流造という建築様式自体は日本風であったから、他の琉球八社に比べて新しい建築であった。本殿左右には一灯籠があり、道光10年(1830)銘と、文化元年(1804)銘のものがあった(田辺・巌谷1937)

 このうち文化元年(1804)銘の灯籠銘であるが、「奉寄進 亀喜丸海上安全/山川之肥後平助/鹿児島之岸尾吉左衛門」とあり、さらに「奉寄進 船頭浜崎弥七/御船松保丸」(「普天満宮寄進灯籠銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)とあるように、薩摩の船頭が寄進している。薩摩の船は琉球を往復しており、航海の安全を願って寄進したことが知られる。このように普天満宮が航海安全の神として尊崇を集めていたことが確認できる。それに関する説話として、現在の由緒書には次のように書かれている。

「昔、首里の桃原というところに、世にも美しいひとりの乙女が住んでいた。優しく気品に満ちたその容姿が人々の評判となって首里はもとより、島の津々浦々まで噂となっていた。しかし不思議なことに誰ひとりその乙女を見た人はいなかった。いつも家にこもりきりで機織りにせいをだし、外出もせず他人には決してその実しい顔を見せなかった。神秘的な噂に憧れて、村の若者達は乙女に熱い想いを寄せていた。
 ある夕方、乙女は少し疲れてまどろむうち、夢とも現ともなく荒波にもまれた父と兄が、目の前で溺れそうになっている情景がありありと見えた。数日前、父と兄や船子たちを乗せた船は、大勢の人に見送られ出帆していったのだった。乙女は驚いて父と兄を必死で助けようとしたが、片手で兄を抱き、父の方へ手を伸ばした瞬間、部屋に入ってきた母にわが名を呼ばれてハッと我に返った乙女は、父を掴んでいた手を思わず放してしまった。幾日か過ぎて、遭難の悲報とともに兄は奇跡的に生還したが、父はとうとう還ってこなかった。
 乙女の妹は既に嫁いでいたが、ある日、夫が「お前の姉様は大そう美人だと噂が高いが、誰にも顔を見せないそうだね。私は義理の弟だから他人ではない。一目でいいからぜひ会わせてくれないか。」と頼みました。しばらく考えた妹は「姉はきっと会うのを断わるでしょう。でも方法がひとつあります。私が姉様の部屋にいってあいさつをしますから、そのとき何気なく覗きなさい。決して中に入ってはいけませんよ。」と答えた。
 乙女はいつものように機織りの支度をしていたが、その美しい顔に何となく愁いが見える。神様が夢で自分に難破を知らせて下さったのに、父や船子たちを救うことができなかった悲しさが、乙女の心の糸車に幾重にも巻きついて放れなかった。旅人や漁師の平安をひたすら神に祈り続ける毎日であった。
「姉様しばらくでございます!」
妹の声に振り向いた乙女は、障子の陰から妹の夫が覗いているのを見つけた。その途端に乙女は逃げるように家をとびだし、末吉の森を抜け山を越え飛ぶように普天満の丘に向かう乙女に、風は舞い樹々はぎわめき、乙女の踏んだ草はひら草(オオバコ)になってなびき伏した。乙女は次第に清らかな神々しい姿に変わり、普天満の鍾乳洞に吸い込まれるように入って行った。
 そして、もう再び乙女の姿を見た人はなく、現身の姿を消した乙女は、普天満宮の永遠の女神となられたのである。」(「普天満宮略記(由緒書)」普天満女神の由来)

 このように、父・兄の航海安全を願う乙女が、女神となるという説話であるが、このような説話の原型は、天后(天妃)信仰の説話に酷似する。天后信仰とは媽祖(まそ)信仰とも呼ばれ、道教と仏教が集合した神を祀る信仰である。中国沿岸部に多く信仰を集め、琉球にも流入して下天妃宮・上天妃宮が建立されている。
 天妃の名は林黙といい、建隆元年(960年)に官吏の娘として生まれた。父と兄が海上にて暴風雨に遭った時、天妃は家で機織りをしており、眠っていたが、手や足を動かしていた。母が急に呼んだため、目覚めて「お父さんは無事でしたが、兄は没しました」と泣いた。しばらくして報告があったが、その通りであった。28歳の時、天界に去ったという(『天后顕聖録』上より、抜粋)
 天后信仰にみえる説話と普天満宮の説話は極めて酷似していることが知られるが、天后信仰と普天満宮の信仰がいつ結びつけられることになったかは不明である。明治時代に成立した『八社縁起由来』には、『琉球国由来記』などにみえる奴婢となった夫婦が、普天間観音の霊験によって奴婢の身から脱する説話が記されているものの、天后信仰に近い説話は記されていない。

 しかしながら、前述した文政元年(1818)の石灯籠のように、普天満宮が船乗りに航海安全の神として信仰を集めたことは歴然としている。天后信仰の航海安全にまつわる信仰と、海と関連する観音の信仰が習合した結果なのかもしれない。


沖縄戦以前の普天間宮本殿(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉22頁より転載。同書はパブリックドメインとなっている)



普天満宮奥宮(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)

神宮寺

 神宮寺の開創年代は不詳であるが、神社と同時期に建立されたともいう(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、普間山神宮寺、神宮寺)。開山や住持は何世たったか不明であるが(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、普間山神宮寺、住持次第)、寺伝によると天順3年(1459)に尚泰久王(位1454〜60)の勅願により住民の祈願所として建立されたとも、中城グスクの護佐丸が勝連の阿摩和利に攻められ落城した際に、グスクの資材を普天間に輸送し、彼の菩提を弔う寺院が建立されたともいう。

 崇禎年間(1628〜44)以降の歴代住持は以下の通り。盛雄和尚・頼秀・頼盛・頼意・頼看・尊盛・頼意・頼充・頼賢・頼実法印・頼聖・頼秀・頼忠・尊恵・盛春・盛住・頼寿・頼盛・盛満・覚遍・照山(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、普間山神宮寺、住持次第)。神宮寺は護国寺の末寺であった(『三国名勝図絵』巻之4、薩摩鹿児島郡、鹿児島之3、仏寺之1、経囲山宝成就寺大乗院、琉球国真言寺符牒)

 神宮寺の知行石は乾隆元年(1736)の段階で12石であった(『寺社座御規模』)

 琉球処分後、30年を経た明治43年(1910)に秩禄処分が行なわれた。この時神宮寺は給与総額は583円44銭、うち国債証券額は550円であった。また本土同様に神仏分離が行なわれ、普天満宮の境内地は233坪(山林6歩3反)、国債証券額が450円とされた(島尻1980)

 神宮寺は沖縄戦で焼失したが、寺地は元の場所に再建された。ハワイや南米の県人会を中心に復興資金が届けられ、1953年に本堂と庫裡を再建。その後老朽化により平成9年(1997)に本堂・庫裏が再建されたhttp://w1.nirai.ne.jp/jinguji/engi.html。なお戦後の神宮寺住職金城大雅は神応寺の住職一家が戦争で全滅していたため、同寺の住職を兼任していたが、同寺はついに再建されることはなかった(名幸1968)

 一方の普天満宮は、焼失こそしなかったのものの、敷地は米軍に接収されてしまった。この間、本殿や拝殿は朽ちて、近隣の住民によって解体され、具材は資材・燃料とするため持ち去られてしまった。戦後の復興に際して、本殿が鎮座していた洞穴は奥宮(おくのみや)とし、洞穴の手前に本殿が建造されることになる(宮司談)。戦時中は当時の社掌が御神体とともに糸満に避難、戦後は具志川村(現うるま市)田場に仮宮を造って祀り、普天間の境内地が米軍より解放されると1949年、もとの本殿に遷座した。さらに1953年にはハワイの県人会の後援により戦後の本殿・社務所の復興が始まった。1968年12月30日、洞穴の手前に本殿が竣工した。この社殿は老朽化・白蟻被害によって平成16年(2004)に総合的な御社殿造営計画が開始され、平成17年(2005)には本殿・拝殿・儀式殿・参集殿が竣工、平成19年(2007)11月19日には社務所が竣工した(「普天満宮略記(由緒書)」)


[参考文献]
・田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』(座右宝刊行会、1937年10月)
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・『金石文 歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会、1985年)
・横田隆志「国立公文書館本『天后顕聖録』(上)-翻刻と解説-」(『文化学年報』25、2006年3月)
・横田隆志「国立公文書館本『天后顕聖録』(下)-翻刻と解説-」(『文化学年報』27、2007年3月)
・「普天満宮略記(由緒書)」(普天満宮、刊行年次不明)


[参考サイトリンク]
普天満山 神宮寺 公式サイト
http://w1.nirai.ne.jp/jinguji/


沖縄戦焼失以前の神宮寺(『写真集沖縄 失われた文化財と風俗』〈那覇出版社、1984年9月〉97頁より転載)



神宮寺本堂(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)



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