|
頂峰院(ちょうぶいん)はかつて沖縄県那覇市泊付近に位置した真言宗寺院です。開山は頼賢。本尊は薬師如来。この寺院について詳細なことはほとんどわかっていません。
東光寺薬師如来と頂峰院
頂峰院の本尊は薬師如来であるが、頂峰院の由緒の大半はこの薬師如来に費やされる。
天順年間(1457〜64)に那覇の東南の海中に、夜な夜な照らし輝く12の霊光があった。先王尚泰久王は城中にてこれを見て、不思議なことだと思った。これを占わせたところ、占師は「薬師如来の霊光です。薬師は12の眷属がいて、そのため12の霊光が輝いているのです。これは奇瑞です」と奏上した。ある時漁師がこの渚で網引漁をしていると、石像の薬師如来がかかった。そこで漁師は奏上した。王の叡慮のため、一宇の堂を構えて安置し、寺を造営して東光寺と号した。それ以降霊光は止み、貴賎も老いも若いも崇敬し、霊験があったという(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、頂峰院薬師如来)。
この東光寺の開山は禅僧であったといい、この時公寺であったのか、いつ密教寺院となったのか、また私寺となったのか、記録がないためわかっていないという(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、頂峰院薬師如来)。また東光寺には天順3年(1459)3月銘の梵鐘があったというが(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、頂峰院薬師如来)、現存していない。
東光寺に覚遍座主が住寺した康熙11年(1672)に、寺地を俗家に売却し、若狭町松尾の麓の地を賜って堂宇を建立した。寺院が造営される前に覚遍が入滅してしまい、しかも弟子がいなかったから、康熙21年(1682)頼賢和尚が同法であることによって、王府に奏上して、薬師如来を頂峰院に移した(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、頂峰院薬師如来)。
頂峰院の開山は頼賢で、建立年はわかっていない。あるいはもとは頼賢が住する私寺であったのが、東光寺の廃絶とともに薬師如来が頂峰院に移座されたことから、公寺の資格を得たのかも知れない。
この頼賢は、神宮寺の住持(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、普間山神宮寺、住持次第)、護国寺の住持を務めた人物で(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、住持次第)、康熙36年(1697)には日秀建立の大日如来堂を護国寺付近に移転したのも頼賢が護国寺住持であった時であった(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、住持次第)。頂峰院は 護国寺住持の隠居寺のようなものであったらしく、康熙52年(1713)の段階で頂峰院の現住(住持)であった頼峰は、前護国寺、すなわち護国寺前住持であったことが知られる(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、末社)。
頂峰院は泊村に位置していた(『琉球国旧記』巻之7、寺社、頂峰院薬師如来)。乾隆59年(1794)に漂着した朝鮮人を天久に一時居留させ、4月3日には奉行平田孫太郎らが彼らを見舞っている。この時安里矼(崇元寺橋)から泊前道の真栄田子屋敷の東表、本頂峰院前の道を通過して天久に到っているが、このことから頂峰院は崇元寺橋から天久の間に位置していたこと、また「本頂峰院前」とあることから、乾隆59年(1794)の段階ですでに廃寺となっていたことが知られる(『琉球王国評定所文書』1)。
|
|
|
|
|