琉球十刹

 「十刹(じっさつ)」とは、禅宗寺院の官による寺格統制制度のことで、「五山」の次の寺格を有し、「諸山」の上の寺格をもった寺格の寺院をいう。もとは中国において官僚制度を模して成立したものであるが、日本では鎌倉十刹・京都十刹のほか、定数の十箇寺をこえて中世末期には60箇寺近くが十刹寺院に該当した。

 琉球における五山制度の詳細は不明であるが、正統3年(1438)に尚巴志王が礼部に宛てた咨文において、琉球報恩寺僧の天屋裔則の度牒を請うとともに、天屋裔則が「本国十刹内の報恩寺の僧官を授得し住持すること年久し」と述べており、琉球において十刹制度があったことが知られる。


極楽寺
 →「龍福寺」参照


報恩寺

 報恩寺は首里の汀志良次村に位置していたといわれ、建立時期は不明であるが、尚巴志王(位1422〜39)から明国の礼部に宛てた正統3年(1438)の咨文にみえることから、この頃までに建立されていたらしい。

 その咨文には、「僧侶裔則が願い出て述べるには、この度、国王の命により、朝貢使者として中国に赴くことになったので、願わくは中国に赴いた際に度牒を受けることを許可していただきたい、という。そこで裔則の事績を調べてみると、彼は道号を天屋といい、報恩寺の僧官として実に長年にわたり住職を勤め、修行も怠ることなく勤めてきている。それ故、彼の願いは理にかなっており、彼に度牒を給賜して帰国させてくれることを請う次第である。」(『歴代宝案』1-17-5。知名定寛『琉球仏教史の研究』54頁の訳文による)とある。

 この咨文から、@僧官の天屋裔則は国王の命によって朝貢使者となっており、僧が朝貢貿易に使者として関与していること、A琉球ではこの時点では度牒(得度証明書)を自国で発給するシステムとはなっていなかった、B「本国十刹」とあるように、琉球には他に10箇寺あった、ということが知られる。

 この天屋裔則は中国人か琉球僧か日本僧かのいずれかであると考えられている(知名2008)。さらに度牒を請うという意味から、Aでみたように度牒給付システムが琉球で構築されていなかったにもかかわらず、道号を有していることからみれば、中国での私度僧か、日本僧であるものの度牒を有していなかったかのいずれかに該当するであろう。

 「本国十刹」については他にみえないため詳細は不明であるが、「十刹」は禅宗寺院の官による寺格統制制度で、「五山」の次の寺格を有し、「諸山」の上の寺格をもっており、中国がその発祥で、日本にも五山制度が根付いた。琉球においては「五山」がみえないから、恐らくは中国ないしは日本の五山をその五山におき、自国の十刹をその下位に擬したものであろう。十刹は必ずしも10箇寺あるわけではないであろうが、他の十刹寺院をあてはめるなら、この時までに建立されていた極楽寺・大安寺が該当するかとみられ、さらに大聖寺・霊応寺・永福寺・大禅寺・永代院・竜翔寺・潮音寺・東光寺を残りの十刹寺院とみる見解がある(知名2008)

 報恩寺の本尊は釈迦如来で、鐘銘は景泰七丙子小春鋳とあったというから(『琉球国由来記』巻10、公私廃寺本尊併鐘事)、景泰7年(1456)の尚泰久王による梵鐘鋳造の際に、報恩寺の梵鐘も鋳造されたことが知られる。この梵鐘は報恩寺が廃寺となった後、石垣島の桃林寺に移されたが、昭和18年(1943)に供出され、現存していない。

 また恩叔宗沢は壮年の頃より仏事のため日本に留学し、禅寺を遍歴すること10余年にして琉球に戻ったが、以降万暦37年(1609)の薩摩による琉球侵攻まで報恩寺に住んでいた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、霊芝山建善寺、霊芝山建善禅寺記)。また袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』にも釈迦牟尼仏を安置する寺院として報恩寺をあげている(『琉球神道記』巻第4、奉安置釈迦牟尼仏道場)

 その後『琉球国由来記』の「公私廃寺本尊併鐘事」の条に報恩寺が記載されていることから、報恩寺は康熙52年(1713)の『琉球国由来記』編纂までに廃寺になったとみられている。

 報恩寺はその後再興されたらしく、『琉球国由来記』には円覚寺の末寺として報恩寺をあげている(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、末寺事)。また「首里古地図」には、首里の汀良良次村の北方中央に描かれており、現在の那覇市汀良町3丁目の首里中学校の北方50mほどの地点がそこに該当する。


[参考文献]
・東恩納寛惇『南島風土記』(沖縄文化協会、1950年9月)
・沖縄県教育委員会文化課琉球国絵図史料集編集委員会編『琉球国絵図史料集第三集-天保絵図・首里古地図及び関連資料-』(榕樹社、1994年3月)
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)


報恩寺跡(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

東光寺

 東光寺は、那覇市東町のかつての海中に位置しており、海岸から橋で地上と連結していた。『琉球国旧記』にその縁起が記されている。

 昔、那覇港に夜な夜なあやしげな光が天に達し、そのいろどりは波を照らした。人はみな、これを不思議とした。ある日、漁師が網を打って魚をとっていたが、網にたまたまひとつの石がかかった。よく見てみると、薬師の尊像であった。遂に、その海中に、土を盛り、地をひらき、この堂を創建して、その薬師を奉安した。そして、堤を築き、橋を架けて、往来できるようにした。その後、唐船堀を掘鑿したとき、その土で薬師堂の海を埋めたてて寺地とし、東光寺と名づけた。康熙11年(1672)壬子、住持の覚遍は、この堂を俗人に売却し、若狭町の松林の麓に地を選んで、堂宇を建立し、落成せぬうちに、覚遍がたまたま病気で遷化した。その夜、また、その薬師を奉じて、頂峰院に移したてまつった(『琉球国旧記』巻之1、那覇記、薬師堂〈原田2005の74頁より一部転載〉)

 このように、海から漁師が拾い上げた薬師如来像を本尊として、海中を埋め立てて東光寺を建立したが、住持の覚遍が堂を俗人に売却したため、薬師如来像は頂峰院に移したとある。東光寺の宗派については臨済宗寺院説があるが、東光寺最後の住持となった覚遍は護国寺の第25世住持であるから、真言宗の寺院である可能性もあろう。

 『琉球国由来記』に「同(鐘) 天順三己卯三月」とあるように(『琉球国由来記』巻10、公私廃寺本尊併鐘事)、景泰7年(1456)から開始された尚泰久王(位1454〜60)による各寺院の鐘鋳において、天順3年(1459)3月に東光寺の鐘も鋳造されたことが知られ、同時に建立は同年以前であることが知られる。

 明の冊封使の蕭崇業・謝杰『使琉球録』にも「東光寺月を待ちて至らず、雨を冒して帰る」と題して蕭崇業・謝杰の二詞がうたわれている。

 袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』に薬師如来を安置する寺院として東光寺をあげている(『琉球神道記』巻第4、薬師瑠璃光如来道場)。東光寺が廃寺になった時期はわかっていないが、康熙52年(1713)に編纂された『琉球国由来記』の「公私廃寺本尊併鐘事」の条に東光寺が記載されているから、少なくとも同年以前には廃寺となっていたことが確認される。東光寺最後の住持となった覚遍は、康熙52年(1713)の段階では生存しており、前述のように若狭町への移転を計画していたものの落成せぬうちに覚遍が病気で遷化してしまったため、廃寺となったとする記述は信がおきがたい。

[参考文献]
・原田禹雄『琉球国旧記』(榕樹書林、2005年7月)



大聖寺

 建立年も建立場所も一切不明である。『琉球国由来記』に「同(鐘) 景丙泰子三月」とあり(『琉球国由来記』巻10、公私廃寺本尊併鐘事)、「景丙泰子」を「景泰丙子」の誤りであると解釈すれば、景泰7年(1456)尚泰久王による各寺院の鐘鋳の際に、大聖寺の鐘も鋳造されたことが知られる。なお本寺を琉球における「十刹」の一寺とみる見解がある(知名2008)。大聖寺が廃寺になった時期はわかっていないが、康熙52年(1713)に編纂された『琉球国由来記』の「公私廃寺本尊併鐘事」の条に大聖寺が記載されているから、少なくとも同年以前には廃寺となっていたことが確認される。

[参考文献]
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)



永福寺

 開山・建立年も、建立場所もわかっていないが、景泰8年(1457)4月13日に永福寺の鐘が鋳造されており、これ以前の建立であることが知られる。すでに述べたように、尚泰久王代には多くの鐘が鋳造されており、その数は23口におよぶ。その銘文によると、「庚寅(1410)生まれの尚泰久王が、仏法を王の身に現し、大いなる慈悲をはかって、新たに洪鐘(梵鐘)を鋳造し、永福寺に寄捨し、上は王位が長久となることを祝(いの)り、下はあらゆるの衆生の救済を願うものである。命をはずかしめて相国寺の渓隠安潜が銘をつくった」とあり、さらに「住山比丘三省」(「永福寺洪鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)とあるように、尚泰久王が永福寺の鐘の建立を命じ、相国寺の渓隠安潜が銘文を作成し、永福寺住僧の三省が後記を記したものである。なおこの鐘は沖縄戦で失われて、近年まで現存しないと思われていたが、平成元年(1989)5月、米退役軍人ウイリアム・リー夫妻から沖縄に返還された。

 永福寺が廃寺になった時期はわかっていないが、また袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』に永福寺が記載されていないことから、少なくとも17世紀初頭以前には廃寺となっていたことが確認される。



大安寺
 →「大安寺」参照



永代院

 開山・建立年・建立場所など、一切不明である。『琉球国由来記』に「同(鐘) 天順二戊寅五月」とあるように(『琉球国由来記』巻10、公私廃寺本尊併鐘事)、景泰7年(1456)から開始された尚泰久王による各寺院の鐘鋳において、天順2年(1458)5月に永代院の鐘も鋳造されたことが知られ、同時に建立は同年以前であることが知られる。なお本寺を琉球における「十刹」の一寺とみる見解がある(知名2008)。永代院が廃寺になった時期はわかっていないが、また袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』に永代院が記載されていないことから、少なくとも17世紀初頭以前には廃寺となっていたことが確認される。

[参考文献]
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)



潮音寺

 建立年は不明である。建立場所について、『琉球国旧記』では、潮音寺の跡地に聖現寺が建立されたとするが(『琉球国旧記』巻之7、寺社、天久山三社並聖現寺)、『琉球神道記』に両寺とも記載されていることから、誤りとされる(名幸1968)。その一方で同じ『琉球国旧記』では以下の説話が伝えられる。

 「昔、泉崎(いじゅんざち)村に金氏の家があり、ある女性がいた。その名は伝えられていない。この女性は、常に僧を拝み、仏を重んじ、この寺(潮音寺)を創建して、日々に香をたき、お祈りをした。その人が亡くなると、寺はいくばくもなく廃寺となった。時に一人の僧がおり、この寺を泊村の北に移建し、あわせてその位牌を寺の中に安置した。名を聖現寺という。つまり今の天久寺である」(『琉球国旧記』巻之1、那覇記、潮音寺)。このように泉崎村(現の那覇市久茂地川左岸地区)に潮音寺が位置していたことが知られ、さらに一人の女性がこの寺の創建に大きく関わっていたことが記されている。この文の最後には潮音寺が廃寺となったため、寺を聖現寺に移築し、位牌も移したという。移したという位牌であるが、聖現寺が沖縄戦で焼失したため確認は不可能であるが、潮音寺のために鋳造された鐘が聖現寺に移されている。

 尚泰久王は各寺院の鐘を鋳造したが、その中には天順元年(1457)6月19日に鋳造された潮音寺の鐘も含まれている。その銘文によると、「庚寅(1410)生まれの尚泰久王が、仏法を王の身に現し、大いなる慈悲をはかって、新たに洪鐘(梵鐘)を鋳造し、本州(琉球)潮音寺に寄捨し、上は王位が長久となることを祝(いの)り、下はあらゆるの衆生の救済を願うものである。命をはずかしめて相国寺の渓隠安潜が銘をつくった」とあり、さらに「住持比丘以芳」(「潮音寺洪鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)とあるように、尚泰久王が潮音寺の鐘の建立を命じ、相国寺の渓隠安潜が銘文を作成し、潮音寺住持の以芳が後記を記したものである。この鐘はのちに聖現寺に移されたが(『琉球国由来記』巻11、天久山聖現寺、鐘銘)、戦災で失われて、現存していない。

 潮音寺を琉球における「十刹」の一寺とみる見解がある(知名2008)。また袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』に観音菩薩を安置する寺院として潮音寺をあげている(『琉球神道記』巻第4、観世音菩薩道場)

 潮音寺が廃寺になった時期はわかっていないが、康熙52年(1713)に編纂された『琉球国由来記』の「公私廃寺本尊併鐘事」の条に潮音寺が記載されているから、少なくとも同年以前には廃寺となっていたことが確認される。

[参考文献]
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)


那覇市久茂地川左岸地区(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)

大禅寺

 開山・建立年・建立場所など、一切不明である。『琉球国由来記』に「同(鐘) 景泰八丁丑四月」とあるように(『琉球国由来記』巻10、公私廃寺本尊併鐘事)、景泰7年(1456)から開始された尚泰久王(位1454〜60)による各寺院の鐘鋳において、景泰8年(1457)4月に大禅寺の鐘も鋳造されたことが知られる。このことから建立は景泰8年(1457)以前であることが知られる。なお本寺を琉球における「十刹」の一寺とみる見解がある(知名2008)

 大禅寺が廃寺になった時期はわかっていないが、また袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』に大禅寺が記載されていないことから、少なくとも17世紀初頭以前には廃寺となっていたことが確認される。

[参考文献]
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)



霊応寺

 開山・建立年・建立場所は一切不明である。山号は大華山。記録はほとんどなく、その実態は不明だが、景泰8年(1457)5月に霊応寺の鐘が鋳造されており、これ以前の建立であることが知られる。すでに述べたように、尚泰久王(位1454〜60)代には多くの鐘が鋳造されており、その数は23口におよぶ。その銘文によると、「庚寅(1410)生まれの尚泰久王が、ここに大いなる慈悲をはかって、新たに巨鐘を鋳造し、大華山霊応寺に寄捨し、上は王位が長久となることを祝(いの)り、下はあらゆるの衆生の救済を願うものである。命をはずかしめて相国寺の渓隠安潜が銘をつくった」とあり、さらに「当住持比丘琳盛これを誌す」(「旧霊応寺巨鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)とあるように、尚泰久王が霊応寺の鐘の建立を命じ、相国寺の渓隠安潜が銘文を作成し、霊応寺住持の住僧の琳盛が後記を記したものである。なおこの鐘は沖縄戦集結時、与那城村字平安座に米軍が駐屯した頃、どこから拾ってきたか、村に運ばれ「平和の鐘」として日夜ならされていたという。米軍引揚げにより、平安座中学校に保管され、さらに区長川端啓一氏が保管、昭和34年(1959)に沖縄県立博物館の所蔵となった(『金石文 歴史資料調査報告書X』)

 なお本寺を琉球における「十刹」の一寺とみる見解がある(知名2008)。霊応寺が廃寺になった時期は一切わかっていない。

[参考文献]
・『金石文 歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会、1985年)
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)



龍翔寺

 開山・建立年は不明。『琉球国由来記』に、今は俗家となり、那覇里主宿の隣家に位置したとある(『琉球国由来記』那覇由来記)。那覇里主宿は那覇市久米町1丁目の那覇郵便局に位置した那覇里主(なふぁさとぅぬし)の公邸である。那覇里主宿に隣接していたというから、龍翔寺は現在の那覇市東町の東町郵便局の付近に位置していたことが知られる。

 景泰8年(1457)6月14日に龍翔寺の鐘が鋳造されており、龍翔寺の建立はこれ以前であったことが知られる。すでにしつこく何度も述べてきたように、尚泰久王代には多くの鐘が鋳造されており、その数は23口におよぶ。龍翔寺の鐘の銘文によると、「庚寅(1410)生まれの尚泰久王が、仏法を王の身に現し、大いなる慈悲をはかって、新たに洪鐘(梵鐘)を鋳造し、龍翔寺に寄捨し、上は王位が長久となることを祝(いの)り、下はあらゆるの衆生の救済を願うものである。命をはずかしめて相国寺の渓隠安潜が銘をつくった」とあり、さらに「住持重宥」(「旧龍翔寺洪鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)とあるように、尚泰久王が龍翔寺の鐘の建立を命じ、相国寺の渓隠安潜が銘文を作成し、龍翔寺住持の重宥が後記を記したものである。この鐘は戦前、糸満の「さんてん毛」にかけられていたが、戦後糸満市立中央公民館の所蔵となっている。

 龍翔寺を琉球における「十刹」の一寺とみる見解がある(知名2008)。また琉球僧の鶴翁が京都建仁寺の月舟寿桂(?〜1533)を訪れて語るところによると、鶴翁の師の仙岩和尚は琉球の人で、語録があり、国(琉球)の龍翔寺に居していたという(『幻雲文集』鶴翁字銘并序)。この仙岩和尚(?〜1524)は円覚寺の住持であることから(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、甲乙住持事)、龍翔寺は円覚寺住持の隠居寺のような役割を果たしていたとみられ、16世紀には円覚寺の末寺として機能していたようである。その仙岩であるが、大永6年(1526)7月20日には京都聖寿寺にて「琉球円覚仙岩和尚大禅師」の三回忌が修されている(『鉄酸餡』下)。何故京都で琉球僧の三回忌が営まれたのか、詳細は不明であるが、仙岩和尚がもとは日本の僧で、東福寺派の僧であったため同派の拠点聖寿寺にて法会が営まれたのか、あるいは当時日本に滞在していた弟子の鶴翁が師を追悼して催したものなのかもしれない。

 袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』に観音菩薩を安置する寺院として龍翔寺をあげている(『琉球神道記』巻第4、観世音菩薩道場)

 康熙52年(1713)に編纂された『琉球国由来記』の「公私廃寺本尊併鐘事」の条に龍翔寺が記載されているから、同年以前に廃寺となっていたようであるが、乾隆21年(1756)の冊封使である周煌の『琉球国志略』には、「龍翔寺は天尊廟の東にあり。すこぶる宏曠(広く)で、また花や竹が多い」(『琉球国志略』巻7、祠廟寺院附、龍翔寺)と記しており、『琉球国由来記』に廃寺として記載された後も存続していたようであるが、この間の事情については定かではない。

 龍翔寺の位置についてであるが、冊封使の周煌の『琉球国志略』には「天尊廟の東」にあるとし、『琉球国由来記』では那覇里主宿の隣家に位置したというから、前者は現在の那覇市若狭町1丁目に、後者は現在の那覇市東町の東町郵便局付近にあたっており、双方は500mほど離れている。また後者は冊封使が滞在する天使館に目と鼻の先ほどの距離であるから、冊封使の周煌はむしろ天使館か下天妃宮を位置の基準点として記していたであろう。あるいは後者は、前者を再興したものなのか、あるいは全く別個のものでなのか、結局双方の龍翔寺の関係は定かではなく、天尊廟の東に位置したという龍翔寺がいつ廃寺となったのかもわかっていない。

[参考文献]
・東恩納寛惇『南島風土記』(沖縄文化協会、1950年9月)
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)



 なお『海東諸国記』(1471)の「琉球国之図」の原図を、元禄9年(1696)に書写したものとみなされる「琉球国図」(沖縄県立博物館蔵)には、「国聖寺 僧録」「慶禅寺」「法音寺」「護国寺」が描かれている。
 このうち「護国寺」は浦添グスク付近に描かれ、現在の護国寺とは別個の寺院とみられ、現在の護国寺は大安寺跡に日秀が創建した寺院であると考えられている。また「法音寺」は音から上記の報恩寺、「慶禅寺」は建善寺、僧録があったという「国聖寺」は「こくしょうじ」の音から、相国寺(しょうこくじ)の可能性が指摘される(渡辺美季「『琉球国図』に関する調査(於福岡)」PDFファイルwww.chikyu.ac.jp/sociosys/PDF/watanabe-repo-01.html


那覇市若狭町1丁目の那覇市東町の東町郵便局(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)



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