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上天妃宮跡(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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大安寺は、明国の柴山(生没年不明)が開基となって宣徳5年(1430)に建立した寺院です。景泰7年(1456)には鐘が鋳造されるなど、尊崇されましたが、いつ頃か廃寺となってしまい、現在ではその跡地ですら定かではありません。
内官柴山
柴山は、明国の人で、内官である。内官とは明における役所で宦官がつく十二監のひとつ内官監の職にある者のことを差す。内官監は、その長官として太監が1人おり、総理・管理・僉書・典簿・掌司・写字・監工の職にわかれており、他に木・石・瓦・土・塔材・東行・西行・油漆・婚礼・火薬といった宮中における造作や、米塩庫・営造庫・皇壇庫や、国家が造営した宮室・陵墓の管理を行う、いわば宮中の最奥のことを司る役職であった(『明史』巻74、志第50、職官3、宦官)。
宦官は洪武17年(1384)2月には外の事を預かることを禁じられていたが、太宗永楽帝が宦官の手助けがあって靖康の変に勝利し、帝位につくことができたため、永楽帝代以降、明代を通じて宦官は皇帝に重用されることになる。外の政治を行う官僚とことなって、宮中の庶務を行う宦官は、皇帝の独裁権力の忠実な補佐役となり、それは同時に皇帝独裁の手足となり、転じて皇帝の意を受けて政治の表舞台に立つこととなり、そのため後漢・唐代とならんで、明代は宦官の弊害が大きかった王朝として知られるようになる。内官は外交にも携わるようになり、その代表例が大航海で知られる鄭和である。
柴山は洪熙元年(1425)2月、中山王尚思紹王の薨去にともなう尚巴志王の冊封のため、琉球に使者として派遣されたのをはじめとして(『明実録』洪熙元年2月辛丑条)、以後4度使節として琉球を訪れている。
翌宣徳元年(1426)6月21日には宣宗宣徳帝から尚巴志王にあて、皮弁冠服を給賜するとともに、銅銭を琉球に持ち込み、それをもって生漆・磨刀石(砥石)の購入を依頼する勅諭が交付されているが、この時赴いたのも柴山であった(『歴代宝案』1-01-07)。柴山ら明使一行は、翌宣徳2年(1427)6月6日に琉球に到着したが、明側がもとめた磨刀石(砥石)の第六様(研磨度数)は琉球で産出していたものの、それ以外は産出していなかったため、琉球側では船に明から持ち込まれた銅銭200万文を搭載して隣国(日本)の産出地にむかったものの、隣国は戦争状態のため通行できる状況ではなかった。そのため、生漆270斤(銭229,000貫400文)と第五様の磨刀石3,855斤(銭53,300文)を購入し、まずは欽差内官柴山の来船に積み込み、そのほかの銅銭1.717,300文は続いて後日、再度購入ができるようになった時に用いることを述べている(『歴代宝案』1-16-08)。
なお宣徳3年(1428)に尚巴志王は国門を建立して、門の扁額を「中山」としたが、この「中山」の二字は内官柴山がたてまつったものを額としたものであるという(蔡温本『中山世譜』巻4、尚巴志王、紀、宣徳3年本年条)。
宣徳帝は宣徳3年(1428)10月13日付で、尚巴志王宛の勅諭を発布し、再度内官柴山と、内使阮漸を遣して、国王・王妃に品物を賜っており(『歴代宝案』1-01-09)、また同日付で、以前に柴山らがもたらした銅銭で、生漆などを購入するよう求めている(『歴代宝案』1-01-08)。宣徳5年(1430)8月7日に欽差内官柴山・内使阮漸らが琉球に到着して、宣徳帝の勅諭を奉呈し、銅銭の残金で生漆などを購入するよう促した(『歴代宝案』1-12-08)。
大安寺の建立
柴山が琉球に三度目に訪れた年である宣徳5年(1430)、柴山は大安寺を建立している。大安寺建立の経緯は柴山らが立てた「大安禅寺碑記(柴山碑記)」に記されている。
宣徳5年(1430)、正使柴山は命を奉って遠く東夷(琉球)に至った。東夷(琉球)の地はビン(もんがまえ+虫。UNI95A9。&M041315;)南(福建)を離れること数万余里であり、舟で行くこと日をかさねて、山岸が(水平線を)わけることがなかった。波の音が鳴り、蛟龍は万丈もの高さの波をわかせ、巨鱗は水神の水をはるようにうねり、風や波は上下して、雪のような塩をまき、藍色の水がひるがえる。不幸にしてもはや記すことはできない。天風はひとたび煙霧となっては、たちまち潮となって身に受けてしまう。波がさかまく音は、宇宙を揺るがせた。三軍とて心は驚きあわて、仏を呼び天を号した。しばらくして、たちまち神光があり、大きいことはまるで星斗(北斗星)のようであり、高いことは檣(マスト)の上であり、明々と照明し、まるで慰めているようであった。その後人の心はみな喜び、それぞれが、「これは竜天の庇で、神仏の光だ。どうしてこのようなことがおこったのか。これはみな我が公(柴山)が仏を崇拝して善を好み、忠孝にしてまごころがあることによるのだろう」といった。波は静かになり、天の川が照らすところで見てみれば、南北の峰が見え、風は順風となって、朝が終わる前に岸に到着した。
(琉球に到着してから)職務の暇の間に、登っては丘陵を、降りては崖や谷を調査し、風水最上の地で、仏の御光を安奉する場所を選び、危急からたすけてくれた恵みに報いることを願った。そこで海岸の南の地で、山は環状にとりまき、水は深く、道がうねり、林は茂みとなり、四方をかえりみれば清らかで、非常に双林(釈迦涅槃の沙羅双樹)の景色に似た地を手に入れた。ついに山をひらいて地面とし、水を引いて池とし、建物を建て、囲いのある建築を造った。中に九蓮の座をつくり、金容たる仏を、南方の火徳の前に安置した。石を重ねて泉を引き、井戸を後ろに掘った。有道の僧に命じて寺院を取り締まらせた。内には花弁をならべ、外には椿や松を広め、遠くは山光をも併呑した。この寺の建設は、相伝して万世に無窮であることは、理由があることなのだ。この寺を建てた者は誰なのか。それは天朝(明)の欽命正使の柴公(柴山)である(『重修使琉球録』巻下、詩文、大安禅寺碑記)。
このように、琉球への渡海の途中、暴風雨に遭って奇跡的に生存した柴山一行は、海岸の南の地で風水のよい地を選んで仏寺を建立したことが知られる。さらに柴山は寺の建立目的を、一つは恩育の勤めをたすけ、もう一つは諸夷の善を化すためであるとしている(『重修使琉球録』巻下、詩文、千仏霊閣碑記)。
柴山らが琉球に渡海した目的は、明が以前琉球に依頼した生漆などを、前回渡していた銅銭の残金で購入するよう促すためであった。ところが、琉球側は明の依頼を果たそうと、銅銭の残金1.717,300文で再度隣国(日本)の産出地に向かい、生漆および磨刀石を購入し、船に満載して琉球に戻ろうとしたものの、琉球の海上の小島の由魯奴(与論島)にて、ときに宣徳5年(1430)12月22日、暴風雨のため難破して頭目人(船長)以下70余名が溺死し、そのほか数人が水に浮かんで漂着する事態となった。そのため銅銭の1.717,300文にて購入した生漆および磨刀石はことごとく海中に没してしまった。そのため琉球で採取可能であった磨刀石と、琉球にあった屏風を、欽差内官柴山・内使阮漸らの来船3隻に搭載して弁済した(『歴代宝案』1-12-08)。
宣徳7年(1432)正月26日、宣徳帝は尚巴志王に宛てた勅諭を発布しているが、それによると、琉球に使節として派遣された内官柴山らが「王(尚巴志王)は、よく天道を敬いしたがい、うやうやしく朝廷に仕えており、つぶさに王の誠意を見ました」と好意的に報告したため、宣徳帝は尚巴志王と王妃に給賜するとともに、琉球側が弁済として送った品物を、明側が銅銭2,000貫で購入することとし、同時に失った銅銭170余万貫についてはこれ以上詮索しないこととした(『歴代宝案』1-01-12)。また宣徳帝は同日付で尚巴志王に宛て勅諭を発布している。それによると、琉球が日本と境を接して、交易を行っていることから、内官柴山らを遣わして琉球に赴かせ、琉球に日本と明の交流の仲介を要請した。柴山らに宣徳帝から日本国王(足利義持)への勅書を与え、もし日本からの返使が来た場合は、内官柴山らの船に同乗させて明に赴かせるよう求めた(『歴代宝案』1-01-11)。
柴山は4度目の琉球上陸を果たし、宣徳8年(1433)6月22日に勅諭を開読した(『歴代宝案』1-01-10)。
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『中山伝信録』天使館図。画面右上にした天妃宮、左下に旧天使館がみえる。
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千仏霊閣の建造と天妃宮の重修
宣徳8年(1433)の柴山の琉球行きは、前回とは異なって日夜海洋にあったにもかかわらず、前回のような暴風雨にあわず、安全の内に航海した。さらにある夜には神光が見え、ある朝には瑞気があった。これを天地竜神が護りたすけたものとみた柴山らは、琉球に着くや弘仁普済の宮を重修し、泉を引き井戸を掘り、宮の南に大安千仏霊閣を鼎造した。宝閣が完成後の8月には白竜が高く昇るという瑞兆があったという。そこで柴山は同年11月2日に碑文「千仏霊閣記」を記した(『重修使琉球録』巻下、詩文、千仏霊閣記)。
ここにみえるように、宣徳8年(1433)に千仏霊閣なるものを建立したことが知られるが、それ以前の宣徳5年(1430)には大安寺を建立していた。前述したように、大安寺は暴風雨からの奇跡的生還を感謝して建立した寺院であるが、今回の千仏霊閣の建立は、航海がつつがなく終わったことへの感謝の念からの建立であった。この千仏霊閣の建立の際、同時に「弘仁普済の宮を重修」している。「弘仁普済」とは、天妃の尊号の省略形である。
天妃は明の太祖洪武帝の時には「昭孝純正孚済感応聖妃」の尊号をもって封じられ、成祖永楽帝の時には「護国庇民妙霊昭応弘仁普済天妃」の尊号をもって封じられている。すなわち「弘仁普済」とは天妃の長大な号を一部であり、のちに荘烈帝の時には「天仙聖母青霊普化碧霞元君」とさらに長い尊号をもって封じられている。すなわち柴山らは天妃宮を重修(修築)しているのである。
琉球には天妃宮が二廟あり、先に完成した下天妃宮は唐栄と那覇の境界に位置しており、現在の那覇市東町の西消防署の付近にあたる。後に完成した上天妃宮は唐栄村(くにんだ)に位置しており、現在の那覇市久米1丁目の天妃小学校がその跡地であり、石門が現存している。
この天妃宮は永楽22年(1424)に尚巴志王が臣下に命じて下天妃廟を創建したのが始まりである(蔡温本『中山世譜』巻4、尚巴志王、紀、永楽22年本年条)。『琉球国旧記』の記すところによると、下天妃廟の廟内には一枚の板があって、その板には「永楽二十二年造」の7字が書かれていたとある(『琉球国旧記』巻之1、唐栄記、下天妃廟)。
上天妃宮の建立時期について、詳細はわかっていないが、蔡温は『中山世譜』の中で、天尊廟はビン人らが琉球に移住したときに創建しており、上天妃廟と龍王殿はこの時に建立されたのではないかと推測しており(蔡温本『中山世譜』巻4、尚巴志王、紀、永楽22年本年条)、また『琉球国旧記』では宣徳年間(1426〜35)から正統年間(1436〜49)の間に建てられたと推測するが(『琉球国旧記』巻之1、唐栄記、上天妃廟)、いずれにせよ正確な史料に基づいての考察ではないから、結局建立年代の詳細は不明というしかない。
また龍王殿はもとは三重城(みいぐしく)に位置していたが、年月をへて唐栄(久米村)に移し、その場所は上天妃廟の前であったという(蔡温本『中山世譜』巻4、尚巴志王、紀、永楽22年本年条)。三重城は海上に浮かぶ小城で、中国冊封使から「北砲台」と呼ばれた。この海上に浮かぶ三重城は、那覇と堤防でつながっており、堤防を渡って臨海寺・中三重城(なかみいぐしく)を経由して行くことができた。龍王殿がもとあった場所は『琉球国旧記』では三重城ではなく、三重城と臨海寺の中間に位置した中三重城であり、中三重城には昔宮殿を創建し、その中に龍王を祭っていたが、海岸に近く、風雨に破壊された。また村落から離れているため盗人に壊され、しばしば修理を重ねたものの、その労にたえなかったため、上天妃宮の前に移したという(『琉球国旧記』巻之1、那覇記、中三重城)。
このように、柴山が重修した「天妃宮」は、下天妃宮なのか、上天妃宮なのか不明であるが、永楽22年(1424)に建立された下天妃宮の方が、柴山が重修した「天妃宮」である可能性が高いだろう。
下天妃宮と上天妃宮は、双方とも景泰7年(1456)には尚泰久王による梵鐘の鋳造に際して、鐘を鋳造されている。下天妃宮の鐘は上天妃宮が廃廟となった後、神像などとともに天尊廟に移され、沖縄戦後に天尊廟の焼け跡から下天妃宮の鐘が発見された。現在は沖縄県立博物館に保管されている。一方の上天妃宮の鐘は現在では失われている。双方の鐘銘の内、下天妃宮は「本州の天妃宮」、上天妃宮は「本州の上天妃宮」と表記されており、少なくとも景泰7年(1456)の段階では単に「天妃宮」といえば下天妃宮をさしていたようであり、ともすれば遡って柴山の時代の「天妃宮」とは、下天妃宮をさしていたとみられる。なお永楽22年(1424)に建立された下天妃宮が、わずか11年後の宣徳8年(1433)に重修される可能性は低いとみて、建立年が不明である上天妃宮を柴山が重修した天妃宮とみる説があるが、沖縄の高温多湿で台風が直撃する環境からみれば、10年で重修される可能性は否定できないであろう。
これらの文脈でみてみると、天妃宮を重修するとともに井戸を掘り、宮の南に大安千仏霊閣を「鼎造」した、とあり、すなわち天妃宮を頂点として、井戸と大安千仏閣が鼎足のように三角形を構成するように配置されたことがみてとれる。また千仏霊閣は「大安千仏霊閣」と表記されるように、大安寺の付属建造物として建立されたもののようで、その実態は内部に千体の仏像を安置する仏塔ないしは仏閣であったと思われる。
「大安禅寺碑記」には「海岸の南の地」(『重修使琉球録』巻下、詩文、大安禅寺碑記)とあることから、東恩納寛惇(1882〜1963)は『楊氏仲地通事系譜』所載の墓地の竿図を引用して、護国寺の東、広厳寺の西に寄棟造で上に宝珠を載せた建物が描かれており、そこに「海南之寺」とあることから、前述の「海岸の南の地」がこれに該当し、これを大安寺の後の姿とみなした(東恩納1950)。また大安寺は後に廃寺となっているが、大安寺の鐘が後に護国寺に移されていること、護国寺の別号の「安禅寺」が「大安禅寺」の略称であるとみて、大安寺が廃寺となった後に日秀が護国寺を大安寺の跡地に造営したという説がある(葉貫1976)。
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沖縄戦焼失前の天妃宮内部(『世界美術全集』21〈平凡社、1929年2月〉67頁より転載)
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柴山の退場
明が宣徳8年(1433)に、日本を朝貢させるのを目的として柴山を琉球に派遣し、柴山は琉球で天妃宮の重修し、千仏霊閣を大安寺に建立したことを前述した。
明が日本と交流するため、琉球を仲立ちとする予定で柴山が派遣されたのだが、ここで事件が発生する。
宣徳8年(1433)付の尚巴志王が明の礼部に宛てた咨文によると、琉球側は、日本への使節派遣の準備を行い、使者南米結制・通事(通訳)李敬をはじめとして計70人を選抜し、米などの食料を各船に分乗させ、宣徳9年(1434)5月1日を期して、柴山の船3隻とともに日本に向けて出発することに決定していた。ところが柴山は日本に行かず、帰国したいと言ったため、琉球側は、帰国のための南風はないから、帰国はしばらく待つよう、柴山を慰撫していた。尚巴志王が山北(沖縄北部)に行って海神を祭っている間、琉球で登用されていた僧の受林正棋が、彼の奴婢の八志羅(八郎)の妻と関係を持ったため、八志羅に殺害されるという事件が発生した。八志羅は逃亡して柴山の駅(宿所)内に逃げたが、柴山はこれを匿い、同年6月24日に柴山らは八志羅(八郎)を乗せて出航し、琉球を去ってしまった(『歴代宝案』1-12-13)。
翌宣徳10年(1435)3月15日付の宣徳帝の勅諭を発布しているが、それによると、被告人ともいうべき日本人の八郎(八志羅)が証言しており、「日本国の僧受林正棋とともに琉球船に乗って交易し、日本の国書を持参して内官柴山に与えましたが、尚巴志王はこれを知って怒り、受林正棋を殺害しました。八郎は驚き恐れ、柴山のところに脱走し救いを求めました。柴山は連れだって来京しました」といったが、宣徳王は、尚巴志王がうやうやしく朝廷(明)に仕え、貢物を納めては、いまだかつて欠かしたことがなかったため、かえって八郎の言うところは信がおけないとし、琉球が派遣した通事李敬を召還して尋問したところ、李敬は「八郎は凶暴にして理なし」と答え、尚巴志王の述べるところと合致していたため、宣徳帝は怒り、法司に柴山の罪を裁かせ、八郎を錦衣衛(近衛軍)に処刑させた(『歴代宝案』1-01-13)。このように柴山および八郎と、琉球の間に対立する主張があったことが知られるが、宣徳帝は琉球の主張を認めて柴山を処罰し、八郎を処刑した。琉球の主張が真実のものであったか不明であり、また八郎が主張するように日本の国書を柴山に手渡したためおこった事件なのか、いずれにせよ、真相は当時の明・琉球・日本の政治・貿易等がからんだものと推測されている(那覇市史1-4、1986)。これ以降、柴山が琉球に来ることは二度となかった。
景泰7年(1456)に大安寺の鐘が鋳造されている。尚泰久王代には多くの鐘が鋳造されており、その数は23口におよぶ。これらの大半は尚泰久王の命によって相国寺住持の渓隠安潜が撰文したものであり、銘文の内容は識語などを除いて大同小異となっている。その銘文によると、「庚寅(1410)生まれの尚泰久王が、仏法を王の身に現し、大いなる慈悲をはかって、新たに洪鐘(梵鐘)を鋳造し、本州(琉球)の大安禅寺に寄捨し、上は王位が長久となることを祝(いの)り、下はあらゆるの衆生の救済を願うものである。命をはずかしめて相国寺の渓隠安潜が銘をつくった」とあり、さらに「住持 、これを証す」(「旧大安禅寺洪鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)とあるように、尚泰久王が普門寺の鐘の建立を命じ、相国寺の渓隠安潜が銘文を作成し、大安寺の住持が真正のものであることを証明したものであるが、住持の名の部分は空白となっていて不明である。この鐘は後に護国寺に移され、同寺に安置されていたが、ペリーが琉球に来航した時、アメリカに寄贈され、現在はアメリカのアナポリス海軍兵学校に現存する。戦後この鐘の複製が琉球大学に送られたり、鐘自体が一時帰国したこともある。
その後、大安寺は廃寺となっているが、その時期は不明である。袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』に大安寺が記載されていないことから、少なくとも17世紀初頭以前には廃寺となっていたことが確認される。
[参考文献]
・東恩納寛惇『南島風土記』(沖縄文化協会、1950年9月)
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・葉貫磨哉「琉球の仏教」(中村元他編『アジア仏教史 中国編W 東アジア諸地域の仏教〈漢字文化圏の国々〉』佼成出版社、1976年3月)
・『那覇市史 資料編第1巻4 歴代宝案第1集抄』(那覇市役所、1986年3月)
・原田禹雄「思紹と尚巴志の冊封」(『がじゅまる通信』15、1998年7月)
・原田禹雄『郭汝霖 重編使琉球録』(榕樹書林、200年10月)
・『金石文 歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会)
・(財)沖縄県文化振興会公文書管理部史料編纂室編『『明実録』の琉球史料(二)』(沖縄県文化振興会、2003年3月)
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)
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『楊氏仲地通事系譜』所載の墓地の竿図にみえる「海南之寺」(東恩納寛惇『南島風土記』〈沖縄文化協会、1950年9月〉389頁より一部転載)。東恩納寛惇はここにみえる「海南之寺」を大安寺とみなした。
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