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相国寺
相国寺の建立年代は不明で、その位置や開山もわかっていないが、景泰7年(1456)に相国寺第2世住持渓隠安潜が琉球の多くの鐘の銘文を撰述しているから、この時期をさほど遡らない時期に建立されたとみられる。
すでに幾度も述べているが、尚泰久王(位1454〜60)は琉球史上もっとも仏教をあつく信仰した王であった。とくに鋳造した梵鐘は23口にもおよんでいるが、相国寺第2世住持の渓隠安潜はそのうち17口の銘文の撰者となっている。とはいっても、銘文の内容は17口とも大同小異であり、前文・寺院名・住持名のみが異なっているにすぎない。
このうち1口は、景泰7年(1456)銘をもつ相国寺の鐘である。相国寺の鐘はすでに失われていて、銘文を直接見ることはできないが、拓本によると、「庚寅(1410)生まれの尚泰久王が、仏法を王の身に現し、大いなる慈悲をはかって、新たに洪鐘(梵鐘)を鋳造し、本州(琉球)の相国禅寺に寄捨し、上は王位が長久となることを祝(いの)り、下はあらゆるの衆生の救済を願うものである。命をはずかしめて本寺(相国寺)二世渓隠安潜叟は銘をつくった」とある(「相国禅寺洪鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)。この鐘はのちに神応寺の鐘となり、沖縄戦で失われた。相国寺の鐘が神応寺の鐘となった事情については明らかではないが、のちの成化5年(1469)尚徳王(位1461〜69)によって相国寺の梵鐘がさらに1口鋳造されているから、それを相国寺に納める代わりに、尚泰久王の時代に建立された神応寺に梵鐘が移されたものとみられる。
前述したように、成化5年(1469)10月7日には新たに相国寺の梵鐘が鋳造されているが、銘文によると、この時の相国寺住持は引き続いて渓隠安潜であった(『琉球国由来記』巻10、妙高山天界寺、銅鐘二口)。
その後の相国寺について、詳細はわかっていない。なお『海東諸国記』(1471)の「琉球国之図」の原図を、元禄9年(1696)に書写したものとみなされる「琉球国図」には、「国聖寺 僧録」とあり、僧録があったという「国聖寺」は「こくしょうじ」の音から、「相国寺(しょうこくじ)」の可能性が指摘される(渡辺美季「『琉球国図』に関する調査(於福岡)」PDFファイルwww.chikyu.ac.jp/sociosys/PDF/watanabe-repo-01.html)。袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』に釈迦牟尼仏を安置する寺院として相国寺をあげているが(『琉球神道記』巻第4、奉安置釈迦牟尼仏道場)、その後『琉球国由来記』の「公私廃寺本尊併鐘事」の条に相国寺が記載されていることから、相国寺は康熙52年(1713)の『琉球国由来記』編纂までに廃寺になったとみられている。成化5年(1469)に鋳造された相国寺の鐘は天界寺に移されたが、天界寺の廃寺後は護国寺に移され、現在は金武観音寺に所在する。
[参考文献]
・『金石文 歴史資料調査報告書X』(沖縄県教育委員会、1985年)
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)
普門寺
普門寺は、建立場所は不詳であるが、景泰年間(1450〜57)、尚泰久王によって建立され、芥隠承琥が開山となった。この時広厳寺・天龍寺もまた創建されたという(蔡温本『中山世譜』巻5、尚泰久王、紀、景泰年間条)。芥隠承琥については、円覚寺のところで若干のべているから詳細は省略するが、一時に三寺の開山となった芥隠承琥が、いかに短期間で尚泰久王の信認を得たかが知られる。
建立場所は不明であるが、那覇の久米村には東門村・西門村・北門村・南門村があった。またの名を大門村といい、もと普門寺があったため、またの名を普門地といったというから(『中山伝信録』巻第4、琉球地図)、那覇市久茂地の付近に位置していたようである。
景泰7年(1456)には普門寺の鐘が鋳造されている。すでに述べたように、尚泰久王代には多くの鐘が鋳造されており、その数は23口におよぶ。普門寺の鐘は現在沖縄県立博物館の所蔵となっており、その銘文によると、「庚寅(1410)生まれの尚泰久王が、仏法を王の身に現し、大いなる慈悲をはかって、新たに洪鐘(梵鐘)を鋳造し、本州(琉球)の普門禅寺に寄捨し、上は王位が長久となることを祝(いの)り、下はあらゆるの衆生の救済を願うものである。命をはずかしめて相国寺の渓隠安潜が銘をつくった」とあり、さらに「開山承琥、これを証す」(「旧普門禅寺洪鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)とあるように、尚泰久王が普門寺の鐘の建立を命じ、相国寺の渓隠安潜が銘文を作成し、普門寺開山の芥隠承琥が真正のものであることを証明したものである。
その後の普門寺について知られる情報は少ないが、万暦8年(1580)に隣交のため琉球は普門寺和尚を薩摩に派遣している(蔡鐸本『(琉薩)中山世譜』巻之1、尚永王、万暦8年条)。また袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』に弥勒菩薩を安置する寺院として普門寺をあげているが、もとは観音で、「今」は弥勒であるという(『琉球神道記』巻第4、弥勒菩薩道場)。
普門寺が廃寺になった時期はわかっていないが、康熙52年(1713)に編纂された『琉球国由来記』の「公私廃寺本尊併鐘事」の条に普門寺が記載されているから、少なくとも同年以前には廃寺となっていたことが確認される。さらに康熙6年(1667)普門寺村に金正春が家を作り、雍正3年(1725)に普門寺村を久茂地村に改称した(『球陽』巻之6、尚質王20年条)というから、康熙6年(1667)以前のことかもしれない。
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天龍寺
天竜寺は、景泰年間(1450〜57)、尚泰久王(位1454〜60)によって建立され、芥隠承琥が開山となった。この時広厳寺・普門寺もまた創建されたという(蔡温本『中山世譜』巻5、尚泰久王、紀、景泰年間条)。概ね天龍寺は普門寺と同様、芥隠承琥が開山となって建立された寺院であるが、その後のたどった経緯も普門寺とかなり酷似する。
建立場所は不明であるが、浦添にあったという所伝が18世紀の段階にあったらしく、徐葆光『中山伝信録』にそのように記される(『中山伝信録』巻第4、紀遊、天王寺)。
景泰7年(1456)には天龍寺の鐘が鋳造されている。すでに述べたように、尚泰久王代には多くの鐘が鋳造されており、その数は23口におよぶ。天龍寺の鐘は、同寺廃寺後に天王寺に移管されており(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、福源山天王寺、鐘銘)、天王寺が廃寺となった後、安国寺の所管となった。戦時中の昭和19年(1944)に供出されたが、戦後島根県の弥勒寺にあったことが判明して昭和37年(1962)9月沖縄県に返還され、現在では沖縄県立博物館が所蔵している。その銘文によると、「庚寅(1410)生まれの尚泰久王が、大いなる慈悲をはかって、新たに巨鐘(梵鐘)を鋳造し、本寺天龍精舎に寄捨し、上は王位が長久となることを祝(いの)り、下はあらゆるの衆生の救済を願うものである。命をはずかしめて相国寺の渓隠安潜が銘をつくった」とあり、さらに「古林五世法孫、懐機沙門承琥、謹んで記す」(「旧天龍精舎洪鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)とあるように、尚泰久王が天龍寺の鐘の建立を命じ、相国寺の渓隠安潜が銘文を作成し、天龍寺開山の芥隠承琥が後記を記したものである。
弘治6年(1493)に尚円王(位1469〜76)が梵慶を使節として派遣したが、この時朝鮮国王の成宗に宛てた書簡によると、天龍寺が廃毀状態になっていたのを、再興したとある(『成宗実録』巻279、成宗24年6月戊辰条)。弘治6年(1493)の段階では、尚円王はすでに薨去しており、琉球国王は尚真王(位1477〜1526)であったが、この尚真王は琉球において、尚泰久王とならんで仏教を隆盛させた王であった。これによると、景泰年間(1450〜57)に建立された天龍寺は、わずか40年ほど後には廃毀状態になっていたことが確認され、それを琉球国が公費で修造を行ったことがみてとれる。
万暦13年(1585)隣交のため、天龍寺桃庵長老と孟氏安谷屋親雲上宗春が大坂に到っている(蔡鐸本『(琉薩)中山世譜』巻之1、尚永王、万暦13年条)。これは琉球が豊臣秀吉から対明交渉の仲介を求められていたことによるものであるが、このように天龍寺の僧を含めた禅僧は、当時の外交文書の通例であった漢文に通じていたことから、外交の表舞台に立っていたのである。天龍寺の桃庵長老は、円覚寺住持であった桃庵祖昌和尚(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、天徳山円覚寺附法堂、甲乙住持事)のこととみられ、円覚寺と天龍寺の間に何らかの本末関係があったと思われ、おそらくは天龍寺は円覚寺の末寺の位置付けであったとみられる。なお『琉球国由来記』では天龍寺のことを「本寺天龍寺」と記し(『琉球国由来記』巻10、公私廃寺本尊併鐘事)、一見天龍寺を頂点とする何らかの本末関係があったかにみえる。しかしこの「本寺」は、天龍寺の鐘銘の「本寺天龍精舎」(「旧天龍精舎洪鐘銘」『金石文 歴史資料調査報告書X』)という表現に基づいたものとみられ、ここでの「本寺」は「当寺」といった程度の意味であるから、天龍寺は円覚寺の末寺であったとみてよいだろう。
万暦20年(1592)に尚寧王(位1589〜1620)は天龍寺の僧を遣わして、日本に白金200両・蕉布などの物を送った。関白豊臣秀吉は琉球の北山(沖縄北部)を攻撃して兵を駐屯させようとしたが、この僧は秀吉の命令をあえて断らず、1塊ごとに重さ4両3銭の銀を400塊も報奨として与えられた。日本の使節とともに天龍寺の僧は琉球に戻ったが、尚寧王に面会しようとしたが許されず、しかも銀を失ってしまっていたから、自決してしまった。日本の使節は戻って秀吉に報告したが、秀吉は「北山を与えることを承諾しないなら、どうして銀を受けとったのか。毎年利を加えて銀4000両を算出せよ」といったため、尚寧王はやむを得ず賠償に応じた(『歴代宝案』1-07-04)。
また袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』に薬師如来を安置する寺院として天龍寺をあげている(『琉球神道記』巻第4、薬師瑠璃光如来道場)。
天龍寺が廃寺になった時期はわかっていないが、康熙52年(1713)に編纂された『琉球国由来記』の「公私廃寺本尊併鐘事」の条に天龍寺が記載されているから、少なくとも同年以前には廃寺となっていたことが確認される。
[参考文献]
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)
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浦添グスクからみた浦添(平成22年(2010)2月12日、管理人撮影)
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大徳寺
大徳寺は創建年は不明であるが、現在の那覇市東町に位置していた。この地はのちに木屋(ちや)とも木屋地(きやち)とも呼ばれており、俗に内辻とも称されていた(『琉球国由来記』巻8)。
この地に仏や神が祀られており、のち寺院が廃寺となると公有地となり、材木を集積し、官吏を置いて那覇の役所の修理などを行った(『琉球国旧記』巻之1、那覇記、木屋地)。
袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』に観音菩薩を安置する寺院として大徳寺をあげている(『琉球神道記』巻第4、観世音菩薩道場)。また大徳寺が廃寺になった時期はわかっていないが、康熙52年(1713)に編纂された『琉球国由来記』の「公私廃寺本尊併鐘事」の条に大徳寺が記載されているから、少なくとも同年以前には廃寺となっていたことが確認される。
慈恩寺
慈恩寺の建立年・開山・開創年代については不明であるが、『中山世譜』に「歴代の王は慈恩寺を廟としていたが、その廟は王城(首里城)に極めて近かった。」とあるから(蔡温本『中山世譜』巻六、尚円王、附記)、第一尚氏王統において、王家の廟所として建立されたことが知られる。
また尚徳王(位1461〜69)が薨去したあと、その親族が不定期に廟に入っては泣哭していたから、その声は王宮にまで聞こえてきた。そのため尚円王(位1469〜76)は泊村に地を選んで、改めて国廟を建てたという(蔡温本『中山世譜』巻六、尚円王、附記)。第一尚氏王統は、尚円王によって事実上簒奪されたに等しかったが、この記事から第一尚氏王統の縁者は尚円王によって皆殺しにされたのではなく、廟所である慈恩寺にて供養としての哭泣を行なっていたことが知られる。実際、第二尚氏王統の時代においても、第一尚氏王統の血統をひくと主張する家系が複数あったことが家譜などによって知られる。
第一尚氏王統が国廟として慈恩寺を建立したのに対して、第二尚氏王統が国廟として建立したのは崇元寺であった。そのため前述した記事などから、慈恩寺を第二尚氏王統が移して崇元寺としたとみる説があるが(葉貫1976)、後代『琉球神道記』において慈恩寺と崇元寺が別個の寺院として表記されているから、別の寺院とみるべきであろう。
袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』に観音菩薩を安置する寺院として慈恩寺をあげている(『琉球神道記』巻第4、観世音菩薩道場)。また慈恩寺が廃寺になった時期はわかっていないが、康熙52年(1713)に編纂された『琉球国由来記』の「公私廃寺本尊併鐘事」の条に慈恩寺が記載されているから、少なくとも同年以前には廃寺となっていたことが確認される。万暦37年(1609)の薩摩の琉球侵攻の際に焼き討ちにあった可能性を示唆する説もある(名幸1968)。慈恩寺に安置されていたとみられる第一尚氏王統の位牌であるが、清の冊封使汪楫が崇元寺の廟に入った時、秘かに位牌を写させており、その中に第一尚氏王統の位牌も含まれていることから(『中山沿革志』序)、慈恩寺廃寺後に崇元寺に安置されたらしい。
戦前、首里町池端町にあった世持橋であるが、順治18年(1661)7月に尚質王の命によって、慈恩寺橋を龍潭池の上に移架したのが起源であるといい(『琉球国旧記』巻之5、関梁、世持橋)、首里城下の龍潭池の排水用の水路の上に架けられていた。石造の欄干羽目の彫刻意匠は、勾欄は中国風の蓮池水禽図のうち、魚介を琉球風に翻案したもので、柱上には日本風の擬宝珠がつき、製作年代は円覚寺建立の弘治5年(1492)よりも古いものとみられており、第一尚氏王統の時代まで遡るものという(鎌倉1982)。この橋は沖縄戦において破壊されており、現存しない。
[参考文献]
・名幸芳章『沖縄仏教史』(護国寺、1968年9月)
・葉貫磨哉「琉球の仏教」(中村元他編『アジア仏教史 中国編W 東アジア諸地域の仏教〈漢字文化圏の国々〉』佼成出版社、1976年3月)
・鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝 (本文編)』(岩波書店、1982年10月)
・知名定寛『琉球仏教史の研究』(榕樹書林、2008年6月)
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沖縄戦破壊前の世持橋(田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』〈座右宝刊行会、1937年10月〉97頁より一部転載。本書はパブリック・ドメインとなっている)。もとは慈恩寺橋と呼ばれており、慈恩寺の付近に架けられていたが、その場所は不明である。日本における現存最古の石橋天女橋(1502)よりも古い石橋であったが、沖縄戦で破壊・消失した。
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高応寺
崇禎8年(1635)に尚豊王(位1621〜40)は高応寺の頼慶和尚を遣わして日本に到らしめ、垂跡の三神を求めた。その時、祝部として天願筑登之親雲上は頼慶和尚に従って鹿児島に赴き、佐藤権大夫に要請して神道一統を伝授された。頼慶和尚が帰国すると宮殿(波上宮)を再興しており、そのことは梁棟文(棟札)にみえるとある(『琉球国由来記』巻11、諸寺縁起、波上山護国寺、権現建社勧請之由来)。
仙江院
仙江院は臨済宗寺院で、天王寺の末寺であった(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、福源山天王寺、末寺)。この仙江院は際外宗実(1651〜?)の隠居寺であった。際外宗実は円覚寺住持で、円覚寺法堂の尊像を中国福建より請来している(『琉球国由来記』巻10、諸寺縁起、天徳山円覚寺、甲乙住持事)。その後「琉陽大和尚」と称していたといい、詩文をよくしたため、冊封使らに強い印象を残した(『中山伝信録』巻第4、紀遊、仙江院)。
清の冊封使の汪楫(1623〜89)はその著『使琉球雑録』において、「天王寺を出て右にゆき、荒れた小径にはいると、門のひさしがわびしげである。そこが仙江院である。院には土橋がかかっており、僧の宗実は詩ができる。(仙江院を)左にゆき、南に折れると、道の両側に低い垣があり、その垣の上には竹や木がぎっしりと繁り、道幅はせまく、うすぐらく、しんとしていて幽谷とちがわない」と記している(汪楫『使琉球雑録』巻2、疆域〈原田1997、80頁より転載〉)。
千手院
千手院はもとは西来院開山菊隠宗意の隠居寺で、円覚寺の住持ののち、山川村千手院の地を選んで閑居していた(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、達磨峰西来院、達磨峰西来禅院記)。喜安の私房も千手院の付近に位置していた(『喜安日記』)。千手観音菩薩を本尊としていた(『琉球国由来記』巻10、諸寺縁起、公私廃寺本尊併鐘事)。その後『琉球国由来記』の「公私廃寺本尊併鐘事」の条に千手院が記載されていることから(『琉球国由来記』巻10、諸寺縁起、公私廃寺本尊併鐘事)、康熙52年(1713)の『琉球国由来記』編纂までに廃寺になったとみられている。なお後に金武に位置していた千手院なる寺院があるが(『中山伝信録』巻第4、琉球地図、山北省、金武)、ここでの千手院との関係は不明である。
万松院
万松院は、臨済宗の寺院で、天王寺の南に位置していた(『中山伝信録』巻第4、紀遊、万松院)。現在の那覇市首里当蔵町2丁目にあたる。山号は岩頂山のち妙法山。
清の冊封使の汪楫(1623〜89)はその著『使琉球雑録』において、「(仙江院から)半里もゆかぬうちに、景色がひろがり、空がはればれとしたところに、万松院がある。院は高い岡に建てられていて、室は小さく粗末ではあるが、大そう気持のよい所である。住持は菊を何列も植えて、時間がくると水をやっているが、江南の篤農家にひけをとらない。階段の下には二本の松があって、地面から数寸はど立ちあがっているだけだが、縦横に二丈ばかり、自由に幹をくねらせて、まことに遊龍さながらである。ここの僧の不羈となのるものは、老いてはいるが詩作に努力することを好み、痩梅宗実と唱和している」(汪楫『使琉球雑録』巻2、疆域〈原田1997、80頁より転載〉)と記している。
その後不羈が示寂すると、弟子僧の徳叟は万松院に住し、いつの日から万松院は蓮華院と改められた。一方でもう一人の弟子僧の東峰元仁は名護嶽の山上に万松院を開いてそこに住んだという(『中山伝信録』巻第4、紀遊、万松院)。この東峰元仁は天王寺(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、福源山天王寺、当山住持次第)・天界寺(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、妙高山天界寺、当山住持次第)・安国寺(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、太平山安国寺、住持次第)・崇元寺(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、霊徳山崇元寺、当寺住持次第)の住持を務めた人物で、康熙45年(1706)10月には国頭村字奥間奥間原の「金剛山碑」を撰述している(「金剛山碑」『金石文 歴史資料調査報告書X』)。
建忠寺
建忠寺は、臨済宗の寺院で、建立年や位置は不明である。『琉球神道記』に阿弥陀如来を安置する寺院として建忠寺があげているが(『琉球神道記』巻第4、阿弥陀如来道場)、その後『琉球国由来記』の「公私廃寺本尊併鐘事」の条に建忠寺が記載されていることから(『琉球国由来記』巻10、諸寺縁起、公私廃寺本尊併鐘事)、建忠寺は康熙52年(1713)の『琉球国由来記』編纂までに廃寺になったとみられている。
妙厳寺
妙厳寺は、臨済宗の寺院で、建立年や位置は不明である。『琉球神道記』に地蔵菩薩を安置する寺院として妙厳寺があげている(『琉球神道記』巻第4、地蔵菩薩道場)。天正6年(1578)に天界寺僧の修翁と妙厳寺の住持僧らが薩摩に使節として赴いている(『元国事鞅掌史料』)。その後『琉球国由来記』の「公私廃寺本尊併鐘事」の条に妙厳寺が記載されていることから(『琉球国由来記』巻10、諸寺縁起、公私廃寺本尊併鐘事)、康熙52年(1713)の『琉球国由来記』編纂までに廃寺になったとみられている。
金福寺
金福寺は、臨済宗の寺院で、建立年や位置は不明である。『琉球神道記』に虚空蔵菩薩を安置する寺院として金福寺があげているが(『琉球神道記』巻第4、虚空蔵菩薩道場)、その後『琉球国由来記』の「公私廃寺本尊併鐘事」の条に金福寺が記載されていることから(『琉球国由来記』巻10、諸寺縁起、公私廃寺本尊併鐘事)、金福寺は康熙52年(1713)の『琉球国由来記』編纂までに廃寺になったとみられている。
広徳寺
広徳寺は、首里当蔵町2丁目にあった臨済宗寺院で、山号は天龍山。「首里古地図」には、首里城東側の蓮小堀の南側、円覚寺の東側に描かれている。袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』に薬師如来を安置する寺院として広徳院をあげているが(『琉球神道記』巻第4、薬師瑠璃光如来道場)、広徳寺のこととみられる。天王寺の末寺で(『琉球国由来記』巻10、諸寺旧記、福源山天王寺、末寺)、『中山伝信録』には「蓮華院の南にある。寺はまた、はなはだ小さい。花木が、なかなかきれいである。東の方を眺めると、山頂の林はうっそうとして、まるで深山のようである。僧の名は霊源、弟子の名は笑岩。すぐ近くに、建善寺がある。」と記される(『中山伝信録』巻7、寺院附、広徳寺〈原田禹雄訳注『徐葆光 中山伝信録』榕樹書林、1999年5月、363頁より一部転載〉)。康熙13年(1674)に尚弘毅(大里王子朝亮)は資財をなげうって広徳寺に堂を建立し、康熙33年(1694)には世子の尚純より「普護群生」を揮毫した額を賜った(『球陽』巻之7、尚貞王、康熙甲寅条)。また乾隆16年(1751)外間通事親雲上は江戸に赴く楽人らに楽を毎日広徳寺にて教授していたという(『梁姓家譜』)。
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広徳寺跡、円覚寺跡東側付近(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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福寿寺
福寿寺については創建年・開山・建立場所など詳細なことは不明。袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』に観音菩薩を安置する寺院として福寿寺をあげているのみで(『琉球神道記』巻第4、観世音菩薩道場)、福寿寺が廃寺になった時期についてもわかっていない。ただ康熙52年(1713)に編纂された『琉球国由来記』の「公私廃寺本尊併鐘事」の条に福寿寺が記載されているから、少なくとも同年以前には廃寺となっていたことが確認される。
楞伽寺
楞伽寺は那覇市東町に位置した寺院である。天使館の後ろに位置したという(『球陽』巻之9、尚貞王、附紀)。もとは官寺であったが、禅宗の僧が王府の命令を奉って住持となっていた。康熙年間(1662〜1722)の尚貞王(位1669〜1709)の御世に、乾叟長老に賜って、居住させた。のちに弟子の古道長老が俗人に売って、その寺を廃寺とした。茄氏慶留間筑登之の邸宅がその地であるという(『琉球国旧記』巻之1、那覇記、楞伽寺)。
袋中良定(1552〜1639)が撰述した『琉球神道記』に千手観音を安置する寺院として楞伽寺をあげている(『琉球神道記』巻第4、千手観音道場)。また楞伽寺が廃寺になった時期はわかっていないが、康熙52年(1713)に編纂された『琉球国由来記』の「公私廃寺本尊併鐘事」の条に楞伽寺が記載されているから、少なくとも同年以前には廃寺となっていたことが確認される。
糸蒲寺
糸蒲寺について、詳細はわかっていない。糸蒲(いとがま)は現在の中城村南上原周辺にあたる。
昔、仲城郡津覇村に一人の僧がいた。名は不明であるが、補陀落僧と呼ばれていた。彼は与喜屋祝女と親交があり、ある日偶々祝女の家を訪ねたところ、祝女は家に招き入れて茶をさし上げた。この時8歳の女子が薄裙をはだけて身体を露出し、僧の前で遊んでいたから、祝女は「どうして無礼をしてこの座にて遊ぶのか。すぐに駈け出て外に去りなさい」というと、女子は憤慨して父親に告げた。父親は疑って、「お前は悪僧と密通したのか。どうして娘を外に追い出したのか」と問いただした。祝女は、「私は今祝女で、神事を司っています。どうして人と密通するようなことがありましょうか。ただ幼娘の讒言だけ聞いて、罵り辱めて私を卑しんでいます。さらにどの面下げて人の世にいることができましょうか」といったが、罵りは絶えなかった。祝女は自分の乳を噛み切って死に、僧もはずかしめを受けるのを恐れ、自分の寺に戻り、ことごとく所持する黄金を津覇・糸蒲の嶽(うたき)中に埋蔵し、自身は櫃の中に入った。しばらくもしない内に寺では火災が発生し、小僧らはこれを見て急いで寺中に入り、櫃を担いで外に出たが、蓋を開けて櫃の中を見てみると、遺体はなく、ただ空櫃だけが残るだけであった(『遺老説伝』)。
この説話は神徳寺の本尊説話と繋がっており、神徳寺の最初の本尊は、もとは中城の糸蒲の本尊として安置されていた。この寺院の寺号は伝わっていないが、真言宗の寺院であったと推測されている(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、神徳寺)。このように、糸蒲の寺院の寺号は不明であり、宗派も真言宗の可能性があると見られていたが、それ以外は不明であったことが知られる。
糸蒲の寺院は、霊堂が焼失したが、その瞬間、禁中(首里城)の漏刻門に飛来したといい、円覚寺の法堂に安置し、本尊として年月が経過した。神徳寺の住持頼聖が王府に奏上して、神徳寺の本尊となった。しかし康熙24年(1685)、頼久和尚が護国寺の住職であった時、日護摩のために本尊を護国寺に移し、以後、神徳寺の本尊はなくなってしまった(『琉球国由来記』巻11、密門諸寺縁起、神徳寺)。
『琉球国由来記』を簡略化して漢文に書き改めた『琉球国旧記』(1731)では糸蒲の寺院のことを「糸蒲寺」とし、寺号のようにしてしまっている。もっとも『琉球国旧記』においても「寺名ならびに年紀、しかるに考し難きなり」とあり、寺号については留保している。
糸蒲は現在の中城村にあったとみられるが、同じ中城村には津覇のテラ・ギイスのテラ・安里のテラ(下参照)がある。いずれもビジュル信仰による石祠であり、祝女は関知せず、それ以外の村人によって祭祀されてきた。これらビジュル信仰の礼拝対象物は、いずれも湧出・漂着説話を有しており、糸蒲の寺院の本尊であったという不動明王もまた湧出説話に近いものである。これらの「テラ」と呼ばれる聖地が多いことについて、首里・那覇の寺院から出離した遁世僧・隠遁僧がこの地に庵を結んで修行した名残が、村人をして「寺」と呼ばしめるようになったと推測されている(知名2005)。
[参考文献]
・知名定寛「『琉球国旧記』が創った寺」(『がじゅまる通信』41〈榕樹書院『琉球国旧記』付報〉、2005年7月)
安里のテラ
安里のテラは、中城村字安里65番地に位置する祭祀施設で、地元では「ティラ」と称されている。
テラとは、霊石を祀る信仰であるビジュル信仰に由来するもので、ビジュルとは、ビンズル(賓頭盧)が訛ったものという。すなわちテラはビジュルを祀る石祠である。沖縄では御嶽の信仰がよく知られているが、御嶽は共同体の祭祀であるのに対して、テラは子授け、航海安全などの個人的願いを対象としている。このように御嶽と信仰領域が分かれていることからも、沖縄の信仰の多様性を知ることができる。さらに儒教・道教・仏教・神道だけではなく、近世以来の伝統的宗教建造物は、御嶽・神あしあげ・火の神・土帝君・テラ・殿・根屋・拝所といったように、かなり細分化することでき、しかも地域ごとに呼称が異なっていた。
安里のテラの草創起源について、『琉球国由来記』では以下の通りに記す。
屋宜村の百姓が、屋宜湊より漁に出たが、にわかに東風が強く吹いたため、安里の湊に舟を寄せ、浜に降りてしばらく寝ていた。すると土中より霊石が一つ出て、「我は権現である。掘り出して崇めなさい。その方の病は癒え、様々な願いが叶うだろう」という夢想があった。夢からさめて見てみると、夢の通り、霊石のようにみえる石があった。不思議に思い、占いをしてみると、「まさしく権現のお告げである。急いで掘り出して崇敬しなさい」とあった。よって掘り出してみると、霊石が3あった。一つは笑キヨ、一つは押明ガナシ、一つはイベヅカサといった。
その後、霊石が一つ、海中より浮んで来て、寄キヨラといった。宮を建立して一箇所に安置した。朝夕信仰したため、持病は癒え、家畜や子孫が繁栄した。男子は屋宜玉城の大屋子となり、繁栄して終わった。それから村中の人は安里権現と崇め、参詣していると伝えられている。その末孫、当間村・ニヨク宮城・同妹鍋がこの祭祀を司っている(『琉球国由来記』巻14、各処祭祀、中城間切、神社、安里村)。
このように、テラは軽石などの霊石を祀るものであり、また祭祀は建立者の子孫、しかも男性が司っていることが知られる。『琉球国由来記』には安里のテラの他に、ギイス寺、津覇の寺、和仁屋間の寺があり、いずれも霊石を祀ったビジュル信仰の祠であったことが知られる。安里のテラは航海安全、五穀豊穣、子宝神として崇められている。沖縄県の指定文化財・有形民俗文化財となっている。
安里のテラは、一見石造の母体の上に屋根が乗せられているようにみえるが、実際には木造で、寄棟造、平入の赤本瓦葺の屋根を、直径20cmの木柱10本で支えている。その外壁として厚さ70cmの海石の切石を積み、正面に入口を開いている。
[参考文献]
・『沖縄県の信仰に関する建造物(近世社寺建築緊急調査報告書)』(沖縄県教育委員会、1991年3月)
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安里のテラ(平成22年(2010)2月13日、管理人撮影)
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