安国寺(山城国)



四条大宮(京都市中京区錦大宮)付近(平成19年(2007)12月13日、管理人撮影)。「中古京師内外地図」によると、現在の四条大宮の北西に安国寺が位置していたという。 

 安国寺は、かつて京都四条街大宮西に位置した禅寺で、京都十刹の一つです。現在では多くの京都十刹寺院と同じく廃寺となってしまいました。安国寺は当初は「北禅寺」と称されており、開山は大同妙テツ(吉+吉。UNI5586。&M003908;)で、開基は足利直義です。のちに無徳至孝が中興開山、細川顕氏が中興開基となりました。山号は神鶏山。ちなみに京都府綾部市にある安国寺は「丹波国安国寺」で、これも十刹に列せられたことがあるので、両者は混同されることがあります。


開山大同妙テツと「近来の権勢僧妙吉」

 大同妙テツ(?〜1366)は陸奥国の人で、高峰顕日(1241〜1316)のもとに参禅し、京都の北禅寺に住んで第一世となった。将軍の命によって京都の真如寺・鎌倉の浄智寺に遷った。浄智寺に正印庵を営んで隠遁した。示寂に臨んで、「末後の一句、牢関を透過す。金鎚影動し、宝剣光りて寒し。」の偈を書き残した(『延宝伝灯録』巻第19、相州浄智大同妙テツ禅師伝)。詩を好んだらしく、年未詳であるが重陽(9月9日)の時に天境霊致(1291〜1381)らと会し、大同妙テツの詩の韻に続けて天境霊致も詩を詠んでいる(『無規矩』坤、詩)
 年次は不明だが大同妙テツは北禅寺を開創している。この北禅寺こそがのちの安国寺である(『扶桑五山記』2、日本諸寺位次、十刹位次)。北禅寺は足利直義(1306〜52)を開基として賀茂社の境内に建立された(『大都安国禅寺尊勝幢記』)

 大同妙テツの伝は、上記ほどのものでしかないが、足利直義の帰依を受けた禅僧に「妙吉」なる人物がいる。『太平記』では彼が観応の擾乱の遠因となったようにあらわされる。『鎌倉大草紙』所引太平記批判記では大同妙テツと妙吉が同一人物であるとあるとみなすが、実際に大同妙テツと妙吉が同一人物であるかどうか、『鎌倉大草紙』以降の論者によって見解が異なるが、現在では大同妙テツと妙吉が同一人物であるとする見解はほとんど支持されていない。ただしよく両者は同一として語られることが多いので、妙吉についても述べておこう。

 妙吉は『太平記』にて詳細に描写される。『太平記』中で、浄土寺の忠円僧正は大塔宮の怨霊に対して妙吉のことを、「又夢窓ノ法眷ニ妙吉侍者ト云僧アリ。道行共ニ不足シテ、我程ノ学解ノ人ナシト思ヘリ。」(『太平記』巻第25、宮方怨霊会六本杉事)と述べているように、いかにも手厳しい評価をしている。

 足利尊氏の弟足利直義は、夢窓疎石(1275〜1351)の弟子となっていたが、その様子を羨望した妙吉は足利直義に接近し、足利直義も妙吉に帰依することとなった。やがて一条堀川村雲の反橋(一条戻橋)に寺院(のちの大休寺か)を建立し、直義は開基となった。足利直義が幕府の実権を掌握していたということもあって、この寺には禅僧のみならず、山門・寺門といった天台宗僧侶、奉行や群衆が集まっていた(『太平記』巻第26、妙吉侍者事)
 このように万人が妙吉を崇敬する中で、高師直(?〜1351)・師泰(?〜1351)兄弟は妙吉を軽蔑していた。高師直・師泰兄弟は、鎌倉期からの足利氏の執事家を代々務める高氏の人で、四条畷の合戦にて南朝側を撃破したため名声があがり、幕府内で対立者が多かった。高師直・師泰兄弟と対立していた上杉重能(?〜1349)・畠山直宗(?〜1349)は、妙吉が足利直義の帰依を受けながらも高師直・師泰兄弟に軽蔑されていることをみて、妙吉と結託するようになり、妙吉は法話の中で中国の故事を引用して足利直義に高師直・師泰兄弟を讒言した(『太平記』巻第26、妙吉侍者事、付秦始皇帝事)
 このように足利直義は高師直・師泰兄弟に対して、妙吉の讒言のみならず、上杉重能・畠山直宗からも讒言を吹き込まれたこともあって、兄尊氏には知らせることなく高師直・師泰兄弟を誅殺しようとしたが、高師直・師泰兄弟は密告者によって危難を免れた(『太平記』巻第27、左兵衛督欲誅師直事)。高師直は南朝の楠木勢との戦闘のため河内国(大阪府)に駐在していたが、貞和5年(1349)8月12日、5万騎ともいわれる大軍を率いて入京した。足利直義は驚いて兄尊氏邸に逃れたところ、翌13日に高師直の大軍は尊氏宅を包囲した。高師直は足利直義らの引き渡しを求めて恫喝したが、かえって主君尊氏に「累代の家人に囲まれて下手人を乞われて出す例があろうか。よしよし天下の嘲りに身を替えて討死してやろうではないか。」と断言されてしまったため、尊氏の調停に応じて、直義の政務停止・上杉重能・畠山直宗の遠流を条件に高師直は尊氏邸を解囲して撤兵した。翌朝妙吉を捕縛しようと追手が妙吉を捜索したものの、妙吉はいち早く逐電し、財産を方々に運び去ってしまった(『太平記』巻第27、御所囲事)。のちに上杉重能・畠山直宗両名は殺害されているが、室町時代中後期にかけて成立した『太平記』の注釈書である『太平記評判』によると、高師直は妙吉を捕縛して六条河原にて斬首に処そうと多くの人を差し遣わしたが、いち早く逐電してしまったため、使いは虚しく戻ってくるばかりであった。5日過ぎたころ、丹波(京都府中部)の松室清介という者が妙吉を探し出し、捕縛しようとしたところ、妙吉は自害してしまった。その首を持ってきたところ、高師直は喜び、首を獄門に懸けたという(『太平記評判』巻第27下、御所囲事)

 この一連の騒動について、洞院公賢(1291〜1360)の日記『園太暦』で妙吉の前後の動向をみてみると、「世間では“近頃武衛(足利直義)は禅僧妙吉を仰ぎ信じて沙汰を申している”といっていた」(『園太暦』貞和5年閏6月2日条)、「近来の権勢僧妙吉は、3日晩に城(京都)から逃亡し、八幡に参篭したとも、美作国(岡山県北部)に下向したともいわれたが、直義のために(直義の養子である)足利直冬のもとに使いとして備後国に向っているとも聞いた」(『園太暦』貞和5年閏6月3日条)、「(8月14日に高師直の軍勢が足利尊氏の邸宅を包囲した後)妙吉は逐電した。」(『園太暦』貞和5年8月14日条)とみえる。


一条戻橋から見た竪富田一帯(平成19年(2007)12月13日、管理人撮影)。この一条戻橋から竪富田(京都市上京区竪富田町)にかけて南北2町(200m)、東西1町(100m)は村雲大休寺の故地である。同寺は応仁元年(1467)5月26日に焼失して以降、ついに再建されることはなかった。 

中興開山無徳至孝

 大同妙テツによって建立された北禅寺は、中興開山無徳至孝(むとくしこう、1284〜1363)によって安国寺と改名されることとなる。

 無徳至孝は後世「東福四哲」に数えられる東福寺派の大人物である。越前国平葺の人で、俗姓は藤原氏。無徳至孝は学問を志して京都に入り、東福寺の無為昭元(1244〜1311)のもとで出家した。しかし無為昭元の左右に侍る者達は皆頭角をあらわす者達ばかりであったため、無徳至孝はある日発憤して関東に下向し、多くの学校を遍歴すること3年、経典や学問を修めて、もっとも易道に優れていた(『東福廿三世無徳和尚行実』)

 徳治元年(1306)虎関師錬(1278〜1346)が東福寺の蔵主(ぞうす。禅寺の大衆の閲蔵看経をつかさどる)を司り、秉払(ひんぽつ。法座を開き、払子を持ちながら説法すること)することとなった。無徳至孝はこれを伝聞して憤然として、「錬兄(虎関師錬)は宗門の頚敵である。天下の誰があえてその鋒にかかることがあろうか」といって上京して東福寺に到着した。その時、師の無為昭元は方丈に端居していたが、無徳至孝はクツや笠を脱がずにただちに方丈に詣でようとした。無為昭元は無徳至孝の行動が威儀に適っていなかったため、入室を許可しなかった。虎関師錬が秉払の日となったが、はたして無徳至孝は衆から進み出て禅を問い、虎関師錬を難詰し、応酬の語は100回に及ばんとした。無為昭元は両者の応酬が長引いたため、長らく起立している者達をおもんばかって、無徳至孝をおして衆に戻した。この日の問答は永らく語り伝えられることとなった(『東福廿三世無徳和尚行実』)

 応長元年(1311)5月16日、無為昭元は相模国(神奈川県)の宝満寺にて示寂した。荼毘にふした後、骨を収めようとしたところ、灰の中に舎利が見出され、諸徒は感歎した。しかし無徳至孝は直言して、「方々で舎利が出現したと言い触らす者がいるが、容易に聞き入れてはならない。私が親ら真偽を決しよう」というや鉄槌を取り出して舎利を打撃したところ、1粒は鉄槌をへこませたが、2粒は飛散して所在が知れなくなった(『東福廿三世無徳和尚行実』)
 無徳至孝の師無為昭元には、はじめ諡号がなかったが、正中3年(1326年)3月、「智海」の2字を賜ることとなった。諸徒は喜びに満ちたが、無徳至孝はこの2字の前に更に「大」字を加えることを主張した。後醍醐天皇は3字の諡号に難色を示したが、中国における「大法眼禅師」諡号の例を根拠とし、嘉暦4年(1329)、遂に無為昭元に「大智海禅師」の諡号を賜った(『東福廿三世無徳和尚行実』)

 元弘元年(1321)、無徳至孝は南禅寺にいたが、竺仙梵僊(1292〜1348)が住持となるや首座となった。にわかに光厳天皇の勅使がやって来て、無徳至孝に秉払させ、光厳天皇が行幸して聴聞することとなった。その当日朝に大雪が降って、曙鐘の音が積雪によって響かず沈むばかりだった。竺仙梵僊は堂を出て衆にかえりみて「雪をどうしようか」といったが、無徳至孝は「珍しいことではないか」といったため、予定通り秉払を実施することとなり、秉払に光厳天皇や儀仗が列するなかで陞座(しんぞ。住持などが説法を行う建物である法堂の須弥壇に上って説法すること)した(『東福廿三世無徳和尚行実』)

 康永元年(1342)、無徳至孝は城北の北禅寺に住んだ。足利直義は日本各国に安国寺・利生塔を建立・設置していったが、京都においては北禅寺をこれに指定し、北禅寺を改名して安国寺とし、十刹に列した上で、無徳至孝を請いて改遷開山として敬った(『東福廿三世無徳和尚行実』)。北禅寺が安国寺となる際には開基を細川顕氏(?〜1352)とし、寺地を四条街北大宮の西に移した(『大都安国禅寺尊勝幢記』)。貞和2年(1346)3月22日には足利尊氏・直義兄弟が安国寺に詣でた後に細川顕氏邸に赴いている(『賢俊僧正日記』貞和2年3月22日条)

 無徳至孝は綸旨によって東福寺の住持となり、住持を辞めてからは要請に応じて讃岐国(香川県)に行き、長興寺の落慶導師となった。その後南禅寺住持に請われ、辞退したものの、結局南禅寺の住持となった。貞治2年(1363)正月11日に示寂した。享年80歳(『東福廿三世無徳和尚行実』)


東福寺方丈より通天橋をみる(平成17年(2005)5月28日、管理人撮影) 

安国寺・利生塔の建立

 康永元年(1342)に北禅寺が山城国安国寺となったことは前述したが、足利尊氏・直義兄弟は暦応元年(1338)頃から貞和年間(1345〜50)までの10年間にかけて日本全国66ヶ国2島にそれぞれ一寺一塔を設け、寺を安国寺、塔を利生塔とした。これら安国寺・利生塔には既存の寺院が用いられることが多く、安国寺には諸国に禅宗を伝播させて幕府の威信を宣揚する、利生塔には旧仏教側に塔を建立することによって懐柔を試みる、という側面があった。そのため利生塔には八坂法観寺・久米田寺・下野薬師寺・讃岐善通寺といった比較的著名な寺院も指定された。安国寺の設置自体は建武5年(1338)頃からすすめられたとみられている。

 この安国寺・利生塔の設立目的としては、元弘年間(1331〜33)以来の戦死者を敵味方区別なく慰霊し、天下泰平を祈ることを目的としていた。とくにこの政策を強力に推進したのは直義で、幕府成立当初の宗教政策の多くは直義が実施していた。康永3年(1344)7月23日に幕府より一寺一塔の通号を勅願とし、寺は安国、塔は利生とするよう奏請があったが(『園太暦』康永3年7月25日条)、塔号に先例がなかったため宮中では意見が紛糾して容易に決定されなかった。しかし結局は幕府の奏請通りとなり、康永4年(1345)2月6日、光厳上皇の院宣によって各国寺塔に対して、寺を安国寺、塔を利生塔とした(「足利直義御教書」鎌倉市立図書館文書)。安国寺・利生塔には日本全国に寺院を建立することによって、幕府に守護統制を円滑にすすめるという側面もあったが、直義の失脚によって意義が失われ、安国寺設立意義がはやくも3代将軍足利義満の頃には忘れ去られるようになってしまい、安国寺は五山制度に組み込まれることとなる。山城国安国寺もまた例外ではなく、暦応4年(1341)に十刹に列せらた。


「八坂の塔」こと法観寺五重塔(平成19年(2007)12月17日、管理人撮影)。法観寺五重塔は山城国利生塔に設定された。現在の塔は永享12年(1440)再建。 

安国寺尊勝幢と唐僧義空

 ある時一僧侶が桂川の浜に六角の石幢を見出した。僧侶はそのことを天竜寺の夢窓疎石に報告したところ、夢窓疎石は興味をもった。夢窓疎石は石幢を磨き洗って解読を試みたところ、石幢には尊勝陀羅尼経が刻まれていた。そのため夢窓疎石は「尊勝幢」と名づけた。字画の大半は解読が難しかったが、「雕造沙門安国」の6字は非常に鮮明であった。これはすなわち檀林皇后がかつて恵萼を唐に遣わし、斉安国師(生没年不明)は門人義空(生没年不明)に命じて日本に入国させ、禅宗を広めた際に安国寺を建立してここに居住したものである。この「尊勝幢」は雕造の工の技術や字体は優れており、ともに唐人の手になったものであり、義空がつくらせたものであったと考えられた。さかのぼって考察してみると、義空の来朝は大中元年(847)であるから、すでに600余年(「500余年」の誤り)が経過していたことになる。まことに本朝(日本)禅宗のはじまりである。夢窓疎石が翻然として「この幢を安国寺に秘蔵させよう」と考え、安国寺に送ってきた。そのため多くの人々は「和尚(無徳至孝)は思うに義空の再世であろう」と考えた。そして送られてきた幢は安国寺の西南の隅に安置し、庵を建てて「法幢」と名づけ、無徳至孝の塔所とした(『大都安国禅寺尊勝幢記』・『東福廿三世無徳和尚行実』)

 ここにみえる「義空」とは、日本に南宗禅を最初に伝えた禅僧である。一般的には日本に禅宗を伝えたのは明庵栄西(1141〜1215)であると理解されているが、それ以前からも禅宗は日本に伝播している。禅宗の中国における初祖は達磨であるが、5祖弘忍(601〜74)には神秀(606?〜706)・慧能(638〜713)という2人の有力な法嗣がおり、以降禅宗は神秀の北宗禅と慧能の南宗禅に二分することとなる。当初、北宗禅は神秀が則天武后の庇護を受けたこともあって勢力を拡大したが、やがて衰えて断絶し、現在の禅宗は慧能の南宗禅の後裔となっている。日本では道昭(629〜700)が最初に禅を伝えたが、その実態はよくわかっていない。唐で北宗禅が流行したように、日本における確実な禅宗の初伝は北宗禅であり、伝播者は天平13年(741)に来日した道セン(王へん+睿。UNI74BF。&M021311;)(703〜60)である。道センは行表に相伝し、行表は最澄に相伝したため(『内証仏法相承和血脈譜』)、天台宗には北宗禅が伝播することとなり、以降円仁など最澄の門弟達にも禅を兼学して伝播する者が現われた。もう一方の南宗禅を最初に伝えたのが義空である。

 義空は唐国の人である。杭州塩官鎮国海昌院の斉安国師につかえて、室中の推薦によって上首となった。恵萼(慧萼。生没年不明)が入唐して法をもとめた。皇太后橘氏(檀林皇后橘嘉智子、786〜850)は唐地の禅化をしたい、金や書簡を恵萼に委ねて有道の尊宿を招聘しようとした。恵萼は杭州の霊池院に到って斉安国師のもとに参じて、面会して皇太后の書簡を手渡した。斉安国師は感嗟してこれを納めた。恵萼は「我が国は信根純熟して教法が非常に盛んです。しかし最上である禅宗はいまだに伝わっていません。願わくは師の一枝の仏法を得て、わが土宗門(日本の禅宗)の根底とすることは、またよろしいのではないでしょうか」といった。斉安国師は義空をもってその要請に充てた。義空は便ち恵萼とともに渡海して大宰府に到着した。恵萼は先んじて奏上したところ、勅によって義空を迎えて東寺の西院に住まわせた。皇太后は檀林寺を建立して義空を住まわせ、時々道を問うた。官僚も指導を受ける者が多かった。恵萼は再度入唐して蘇州開元寺の僧契元(生没年不明)に要請して、この事を記録して美玉に刻み、「日本国首伝禅宗記」と題して、船で送ってきた。故老が伝えるところによると、碑は羅城門の側に建っていたが、門が倒れたため碑もまた砕けてしまい、今では東寺講堂の東南の隅にみえるだけである(『元亨釈書』巻第6、浄禅3之1、唐国義空伝)。その後義空は日本滞在数年にして唐の檀越が書簡で招聘したたため、唐に戻ってしまったという(『延宝伝灯録』巻第1、洛西檀林寺義空伝)。そのため義空の消息はほとんど伝わらないが、空海の書簡を編集した『高野雑筆集』に、なぜか義空宛の書簡が18通掲載されており、義空の数少ない事績を窺い知ることができる。

 虎関師錬が僧伝の『元亨釈書』編纂の際、義空の伝記を記すのにともなって史料を蒐集するのであるが、義空に関する史料は乏しかったようである。そこで虎関師錬は東寺講堂の東南の隅にあったという「日本国首伝禅宗記」の文を求めたが、得ることができなかったので、元応元年(1319)、東寺に行って自ら模印した。その碑は破壊されてわずか4片あるのみであり、大きいものは2尺(60cm)、小さいものは1尺(30cm)にみたなかった。額の左右には蟠竜があった。頭や角は完存していなかったものの、鱗甲は燦然としていた。その文の残欠のみでは読むことは難しかったが、その字画で残っているものは非常に鮮明であった。妙筆ではなかったとはいえすこぶる楷正であった。虎関師錬は4片の拓本をとって帰り、これを上にしたり下にしたり、左に右に並べること100回ばかりにして、やや解読ができるほどであった(『元亨釈書』巻第6、浄禅3之1、唐国義空伝、賛)。このように義空に関する史料が極端に少ないなかで、夢窓疎石が桂川の浜にて発見された「尊勝幢」を義空に関連づけたことは、慧眼という他はない。というのも、安祥寺には「仏頂尊勝陀羅尼石塔一基〔唐〕 恵萼大法師所建」があったといい(「安祥寺伽藍縁起資財帳」〈平安遺文164〉)、その尊称陀羅尼石塔の石柱部分が安祥寺より発見されている。この石塔は唐のものとみられ、同様のものが中国西安(旧長安)の青龍寺跡からも発見されており、円仁が会昌4年(844)に「天下の尊勝石幢や僧の墓塔などは、勅によってすべて破壊されてしまった」(『入唐求法巡礼行記』巻第4、会昌4年7月15日条)と記録しているように、唐を吹き荒れた会昌の排仏において、破壊されるはずの石幢を恵萼が日本に持ち運び、安祥寺に安置したものとみられる。安国寺の「尊勝幢」も現存していないため詳細は不明であるものの、おそらくは安祥寺の尊称陀羅尼石塔のようなものであったと思われる。


東寺講堂(平成19年(2007)12月13日、管理人撮影)。現在の東寺講堂は延徳3年(1491)の再建であるが、文禄の大地震で顛倒したため、慶長3年(1598)に修理された。虎関師錬のみたという石碑は現存していない。 

安国寺の盛衰

 安国寺は暦応4年(1341)8月23日の評定、ならびに同5年(1342)4月23日の重沙汰によって、十刹の第9位に列せられた(『扶桑五山記』2、十刹次第)。その後2代将軍足利義詮(1330〜67)の時代には第7位に昇格、3代将軍足利義満の時代になってからの康暦2年(1380)には第8位となっている(『扶桑五山記』2、十刹次第)。至徳3年(1386)には京師十刹第6位となり(『竜宝山大徳禅寺志』第1冊、編年略記、至徳3年丙寅条)、以降十刹として定着した。安国寺は五山十刹の官院として十方住持制(住持を多くの宗派からもとめる)をとっていたから、名僧が多く住持となっている。友山士偲(1302〜70)が観応3年(1352)に安国寺の住持となっているように(『友山和尚伝』)、中興開山無徳至孝を出した東福寺派からの住持が多かったが、得翁□永(生没年不明)のような曹洞宗禅僧も安国寺住持となっている(『重続日域洞上諸祖伝』巻第2、皇徳寺得翁永禅師伝)

 応安6年(1373)3月2日には安国寺の鐘が安国寺都監寺聖訓の勧進によって鋳造され、安国寺の住持である海雲□恵は中巌円月(1300〜75)に銘文の撰を求めている(『東海一オウ集』銘、安国寺鐘銘)

 明徳2年(1391)の「明徳の乱」で山名満幸(?〜1395)に呼応して挙兵した叔父山名氏清(1344〜91)は、同年12月30日の京都での戦闘に際して、一時期四条大宮の法華堂と安国寺の両所に陣をかまえている(『明徳記』中)

 安国寺は不羈奔放・風狂破戒の行動で知られる大徳寺派の禅僧一休宗純(1394〜1481)が幼少期を過した寺院として有名であり、アニメ「一休さん」では安国寺を舞台としている。彼は応永6年(1399)、6歳の時、京安国寺長老の象外集鑑(生没年不明)に投じて、童子役となっているが、象外集鑑より「周建」と名づけられた(『東海一休和尚年譜』応永6年己卯条)

 長禄元年(1457)10月に安国寺領丹後阿部村が守護に遵行(所領を認知すること)されなかったが(『蔭涼軒日録』長禄3年10月24日条)、翌月には守護が遵行に応じている(『蔭涼軒日録』長禄3年11月23日条)。寛正4年(1463)12月には安国寺の衆僧が「公事」を争論している(『蔭涼軒日録』寛正4年12月22日条)

 安国寺は応仁の乱によって焼失したが、かろうじて1宇が再建された。しかし壁が周囲になかったため、毎夜のように強盗が押し入り、ある時は衆僧の衣をはぎ取り、ある時は戸や障子を持ち去り、茶の湯道具にいたっては皆取り出されてしまっていた。もう盗むものがないので、それ以降の強盗は屋宅を取り壊そうとしていた。そのため文明19年(1487)5月24日、衆僧はこの1宇を四条烏丸南頬に移転したいと、一衆連署して訴訟した。その状を将軍が見ると、あっさりと移転が許可された(『蔭涼軒日録』文明19年5月24日条)。さらに延徳2年(1490)閏8月18日には移転前の土地である四条坊門南頬櫛笥大宮の間の地の東西1町(109m)、南北半町(54m)の土地をを100貫文にて売却して、造営の事を厳重に申し付けるよう要請し、受け入れられて奉書が作成された(『蔭涼軒日録』延徳2年閏8月26日条)。翌延徳3年(1491)に安徳寺の敷地を本能寺が購入している(『蔭凉軒日録』延徳3年11月23日条)

 本能寺の南に安徳寺の敷地4ヶ町あったが、この地は貸し出されて大馬場となっていた。明応2年(1493)5月23日、地子(賃貸料)について折衝しようと、借主は安国寺住持の所在を探すため、使者を蔭凉軒主亀泉集証(1424〜93)のもとに派遣して事情を聞いたが、亀泉集証は、「安国寺の住持や寺官たちは本院である東福寺法幢院(宝幢院)に退いています。この院(法幢院)を訪れて事情を説明すべきでしょう」と答えた。そこで亀泉集証は(仲立ちして)使者を法幢院に派遣したが、法幢院側は、「誰も対処することができません。評議して安国寺に申すべきでしょう。外護の事は安富筑後守が担当しており、諸事は彼が差配しています。だから安国寺の敷地の事は、安富筑後守から「細屋倉」へ申し付ける(のがよいでしょう。だから)安富筑後守の方へ届け出て、事情を説明すべきです。」と返答した(『蔭涼軒日録』明応2年5月23日条)。翌24日には安富筑後守のもとに事情が説明され(『蔭涼軒日録』明応2年5月24日条)、26日には安国寺敷地の事は請状がととのえられて落着し、安国寺寺家側も承諾した(『蔭涼軒日録』明応2年5月26日条)。このように安国寺は衰退のため、安国寺の住持や寺官といった主要な者達は東福寺法幢院へ移っており、安国寺の経営把握を全く行なうことが出来ないこと、また安国寺自体には「細屋倉」なる者が残って賃貸契約事業を行なっていることがみえる。

 このように15世紀末には安国寺は有名無実と化しているが、完全に安国寺が廃寺となった時期はわかっていない。



[参考文献]
・『大日本史料』第6編之12(東京帝国大学、1913年3月)
・橋本進吉「慧蕚和尚年譜」(『大日本仏教全書 遊方伝叢書第4』1922年6月)
・白石虎月編纂『東福寺誌』(大本山東福寺、1930年)
・田山方南編『禅林墨蹟』(禅林墨蹟刊行会、1955年)
・佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中央公論社、1969年10月)
・今枝愛真『中世禅宗史の研究』(東京大学出版会、1970年8月)
・玉村竹二『日本禅宗史研究論集』下之2(1981年1月)
・高木シン元「唐僧義空の来朝をめぐる諸問題」(『高野山大学論叢』16、1981年2月)
・玉村竹二『五山禅僧伝記集成』(講談社、1983年5月)
・今泉淑夫校注『一休和尚年譜1(東洋文庫641)』(平凡社、1998年9月)


「中古京師内外地図」(今泉定介・増訂故実叢書編輯部編『故実叢書12 中古京師内外地図他』〈吉川弘文館、1929年〉より一部転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。四条大宮の西北に安国寺がみえる。 



「京都十刹」に戻る
「本朝寺塔記」に戻る
「とっぷぺ〜じ」に戻る