「十刹(じっさつ)」とは、中世における禅宗寺院の官による寺格統制制度のことで、「五山」の次の寺格を有し、「諸 山」の上の寺格をもっていました。「五山」が主として中央(京都・鎌倉)の禅寺に対してのみ設定されたのに対して、 「十刹」は京都・鎌倉に限らず、日本全国にわたってひろく設定されたということがその最大の特徴となっています。 五山十刹制度は、中国において禅宗の中心となっていった臨済宗が宮廷や士大夫との結びつきを深める中で、一 般社会の官僚制度が禅林内に導入されたもので、中国南宋の寧宗(在位1194〜1224)の時に成立したものです。 日本においては鎌倉時代末期に鎌倉浄妙寺・豊後万寿寺などが十刹に設定されたのが初見となっています。とく に室町幕府の樹立によって、十刹制度は発展を見、暦応4年(1341)・5年(1342)には鎌倉の禅寺4ヶ所・京都の禅 寺3ヶ寺・諸国の禅寺3ヶ寺が十刹に列せられました。この頃までは鎌倉の方が多かった十刹寺院も、その後足利義 満(1358〜1408)が恣意的に十刹の位次を決定し、とくに十刹を京都中心の座位とし、また夢窓派の寺院が増加し たことによって、康暦2年(1380)には十刹寺院の数が定数である「十」を超えた16ヶ寺にまで激増したのです。 「京都十刹」と称される京十刹は、至徳元年(1384)に設定され、また鎌倉の寺院は「関東十刹」として再編成され ました。現在「京都十刹」として知られる寺院は、この時に設定されたものです。以下が京都十刹のリストです。
その後十刹の寺院数は逐次増加をとげ、延徳4年(1492)までには46ヶ寺にものぼり、中世末には60数ヶ寺にまで 激増していったのです。また文安2年(1445)には大徳寺は綸旨による紫衣勅許の出世道場となって、五山制度とは 別個の寺格を有するようになったこともあって十刹から除かれ、後には龍翔寺が大徳寺に付属したため、「京十刹」 の位次は必ずしも安定みたというわけではありませんでした。時代が変遷して室町幕府が力を失い、幕府の庇護を 失った十刹寺院は中世の終焉とともに急速に衰退し、上記のリストのようにその多くが廃寺となってしまいました。 |