広覚寺



安居院(京都市上京区前之町新ン町周辺)の西方寺(平成19年(2007)12月13日、管理人撮影)。「中古京師内外地図」によると、安居院の東南に広覚寺が位置していたという。 

 広覚寺(こうがくじ)はかつて京都安居院(京都市上京区前之町)に位置したとも、現在の妙蓮寺の寺地に位置したともいわれる禅寺で、京都十刹の一つでした。開山は智覚禅師(桑田道海)で、開基は不詳。山号は大明山。現在ではその正確な故地すら不明となっています。


開山桑田道海禅師

 広覚寺の開山は桑田道海(そうでんどうかい、?〜1309)であるが、その建立年・開基などはわかっていない(『扶桑五山記』2、十刹次第)

 桑田道海は播磨国(兵庫県)の出身で、最初は教部(禅宗以外の仏教のこと)を学んでいたが、禅僧の蘭渓道隆(1213〜78)の門下に属した。相模国(神奈川県)の東勝寺の住持となったが、ある時は隠れ、ある時は現われるといった奇行で知られた。また浄智寺・禅興寺の住持となったが、大抵寺内の衆の統率を怠り、ともすれば住持職を棄て去るほどであった。晩年には亀山庵に隠遁し、延慶2年(1309)正月8日に示寂した。荼毘にふして舎利100余粒が得られた。(舎利の)大きさは豆のようなものが数粒、小さいものは粟(あわ)のようであった。門弟は建長寺の西来庵の側に塔(葬)した(『元亨釈書』巻第8、浄禅3之3、禅興寺道海伝)


鎌倉浄智寺仏殿の曇華殿(平成17年(2005)1月17日、B氏撮影) 

十刹寺院としての広覚寺

 広覚寺は至徳3年(1386)には京師十刹第7位となっている(『竜宝山大徳禅寺志』第1冊、編年略記、至徳3年丙寅条)

 広覚寺は中世を通じてその実態が明らかではなく、また明確な終焉時期もわかっていない。永享10年(1438)11月7日、広覚寺の廃壊についての事を問い合わせするよう、将軍足利義教(1394〜1441)は蔭凉軒主季瓊真蘂(1401〜69)に対して命じており(『蔭涼軒日録』永享10年11月7日条)、同月8日には広覚寺の訴状が披露されているが(『蔭涼軒日録』永享10年11月8日条)、この時すでに広覚寺に衰退の直中にあったことが知られる。また寺領についても、長禄4年(1460)6月に広覚寺領越前国柚尾・宅良の年貢が無沙汰となっている(『蔭涼軒日録』長禄4年6月17日条)

 応仁の乱に際して、広覚寺の位置する安居院一帯は戦火にさらされているから(『応仁記』巻下、洛中大焼けの事)、この時焼失したようである。慶長元年(1596)11月19日に雲甫宗悦が太閤豊臣秀吉御判の公帖によって広覚寺住持となっているから(『鹿苑院公文帳(十刹位次簿)』広覚寺項)、寺院としては存在していたようであるが、その時点で広覚寺がどこに存在していて、いつ如何なる要因によって廃寺となったか不明である。

 広覚寺の位置する安居院を含めた上御霊堀川付近は、日蓮宗系寺院が軒を重ねているが、現在の妙蓮寺の寺地は広覚寺の址に建てられたという(『京都坊目誌』上京第四学区之部)



[参考文献]
・今枝愛真『中世禅宗史の研究』(東京大学出版会、1970年8月)
・玉村竹二『五山禅僧伝記集成』(講談社、1983年5月)
・葉貫磨哉『中世禅林成立史の研究』(吉川弘文館、1993年2月)


妙蓮寺境内(平成19年(2007)12月13日、管理人撮影)。『京都坊目誌』上京第四学区之部では広覚寺の位置は今の妙蓮寺の地に当るとしている。妙蓮寺は天正15年(1587)に現在地に移転してきた。 



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