普門寺



東福寺常楽庵普門院客殿(平成19年(2007)12月31日、管理人撮影) 

 普門寺(ふもんじ)は、東福寺常楽庵の西方低地に位置した寺院です。京都十刹の一つで、開山は円爾。山号は凌霄山。東福寺の建立に先立って寛元4年(1246)成立し、建立当初は「普門院」と称されました。室町時代に寺号となり、十刹に列せられましたが、後には東福寺の事実上の末寺となりました。現在は廃寺となってしまいましたが、名称は東福寺常楽庵の客殿・庫裏・塔司寮に継承されています。


開山円爾弁円と普門院の建立

 普門寺は寛元4年(1246)、大相国九条道家(1193〜1252)が東福寺建立に先立って普門院を開堂し、円爾(えんに、1202〜80)に住まわせたのが嚆矢である(『元亨釈書』巻第7、浄禅3之2、慧日山弁円伝)。九条道家は東大寺・興福寺を併せた規模の寺院を建立する志を懐いており、嘉禎2年(1236)に寺号を両寺より一字づつとって「東福寺」とすることとした。しかし両寺に匹敵する規模ということもあって東福寺は容易に完成せず、工事の進捗は思うようにはいかなかった。東福寺の開山には円爾を招聘したが、東福寺が完成しておらず、円爾が住まわせる寺院が必要となり、普門院が建立されることとなったのである。

 建長2年(1250)11月の九条道家の処分状によると、普門院は観音堂と称され、「普門院」というのは観音堂の号であった。本堂は3間4面で、快慶作で長谷寺形仏の3尺の十一面観音1体、康慶作の等身の毘沙門天像1体と1尺6寸の吉祥天善弐子童子像1体を安置していた。ほかに桧皮葺33間の三面廻廊と僧堂1宇、庫裏1宇、方丈1宇、湯屋1宇、四足門1宇があった。普門院の本堂は故覚縁が建立したものの、造りおわる前に示寂してしまった。この堂が東福寺境内に位置していたため、九条道家に奉られたものであった。九条道家は円爾を普門院に住まわせ、この普門院を東福寺の別院とした上で、讃岐国飯田郷を普門院の所領として宛て置いた(「沙弥行恵家領処分状案」東福寺文書9)。また年未詳であるが円爾の記録するところによると、普門院の本堂は3間4面の観音堂で、3尺の十一面観音1体、等身の毘沙門天像1体、童子像1体、地蔵菩薩像1体を安置していた。ほかに33間の三面廻廊と桧皮葺の中門、木瓦葺の四脚門1宇、7間の仮僧堂1宇、東司1宇、方丈2宇、雑舎2宇、5間の行者堂1宇、木瓦葺の中門1宇、車宿1宇、経蔵1宇、印板屋1宇、雑庫2宇があった。普門院の所領として、円爾が『宗鏡録』講義の謝礼として近衛兼経(1210〜59)より寄進された西七条侍従池田があった(「円爾普門院造作院領等記録」東福寺文書20)

 正嘉2年(1258)12月6日には近衛(岡屋)兼経が普門院の仏餉料を寄進している(「岡屋兼経普門院院領寄進状」東福寺文書527)。弘安3年(1280)3月20日には東福普門院領の山城国小塩荘(京都市西京区)が安堵されている(東福寺文書〈『東福寺誌』所引〉)。同年5月21日、円爾は普門院院主職を小師俊顕に附与し(「円爾普門院院主職譲状」東福寺文書15)、同日中に普門院の四至として、東は月輪殿堀路通、南は渓川、西は法性寺の堺、北は東北院の田端に限った上で、内外の典籍をこの四至より出すことを禁じ、また同門の者であっても怠ける者は止住させないことを定めた(「円爾普門院四至&M019876;示置文」東福寺文書16)

 同年6月3日には円爾は5ヶ条にわたる東福寺・普門院・常楽庵の規式を定めている(「円爾東福寺普門院常楽庵規式」東福寺文書18)
  @長老職は行・学が抜群の者を選び、外護大檀那に申し入れて定補する。
  A門弟は徒党を結び連署してはならない。
  B制戒を犯してはならない。
  C寺内に五辛を入れてはならない。
  Dみだりに礼節を乱す者がいた場合追放すべきである。

 同月6日に円爾は自身が請来した典籍数千巻の目録である『三教典籍目録』1巻を作成して普門院書庫に備えている(『元亨釈書』巻第7、浄禅3之2、慧日山弁円伝)。弘安8年(1285)8月12日に東福普門院領の周防国田布施村の地が安堵されている(一条家文書、『東福寺誌』所引)

 日蓮は建治2年(1276)「破良観等御書」において、「良観・道隆・悲願聖人等が極楽寺・建長寺・寿福寺・普門寺等を立て、叡山の円頓大戒を蔑如するが如し。」と批判しているが(『写本遺文』)、普門寺は鎌倉時代中期において代表的な禅寺という認識を受けていることがみてとれる。

 普門寺第2世となったのが無外爾然(?〜1318)である。無外爾然は京都の人で、幼くして円爾に参じて、大事了畢した。また入宋して高僧達を訪れ、帰国して円爾に付随した。執勤すること久しかった。円爾は臨終に託して、「正法眼蔵を爾然に付嘱する」といった。無外爾然は実相寺の開山となった。勅諡は応通禅師(『東福開山聖一国師年譜』・『延宝伝灯録』巻第10、参州瑞境山実相寺無外爾然禅師伝)。九度も東福寺の住持となるよう求められたが、そのたびに拝辞していた。文保2年(1318)11月12日に実相寺の丈室で示寂した(『聖一国師年譜註』〈『東福寺誌』所引〉)


正安元年(1299)2月30日注進の「法性寺御領山指図」(白石虎月編纂『東福寺誌』〈大本山東福寺、1930年〉1084頁より一部転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)。西側に普門院がみえる。 

室町時代の普門寺

 普門院は室町時代には「普門寺」と寺号を称した。康暦元年(1379)11月30日に東福寺は、普門寺の住持職のことは、本寺である東福寺がはかるべきであると幕府に訴えている(「東福寺訴状」東福寺文書55)。普門寺はもとは東福寺の別院として創められたものであるから、普門寺の住持職の任免権は東福寺が掌握したいと考えるのは当然の帰結であった。康暦2年(1380)に「準十刹」として十刹第14位に列せられているが(『扶桑五山記』2、十刹位次)、普門寺は十方住持制をとるべき十刹寺院にありながら、等持寺・臨川寺とともに度弟院寺院であることを特別に認められていたことから(『空華日用工夫略集』永徳2年5月7日条)、東福寺の訴えは聞き入れられたようである。五山制度下の寺院は基本的には法脈を問わず人材本位で住持を選任する十方住持制をとるのが原則であったが、十刹寺院のいくつかでは特定の法脈の禅僧のみが住持となる「度弟院(つちえん)」寺院があった。すなわち普門寺では聖一派(東福寺派)下のみが住持となることができたのである。普門寺が聖一派下の度弟院寺院となることによって、事実上の東福寺末寺となってしまっている。なお至徳3年(1386)には京師十刹第6位となっている(『竜宝山大徳禅寺志』第1冊、編年略記、至徳3年丙寅条)

 応永7年(1400)6月6日に普門院の管領権をめぐって九条家と争論があったが、足利義満が「一門の長」であるとして、足利義満が管領することとなった(東福寺文書〈『東福寺誌』所引〉)。「一門」とは三流、すなわち普門寺・東福寺の開基家である九条家、および九条家から分流した一条家・二条家の3家のことをさすのであるが、寺檀の管領をめぐって三家の争論がたびたび発生していた。


東福寺通天橋北側より西側の月下門をみる(平成19年(2007)12月31日、管理人撮影)。この地は普門寺の故地にあたり、月下門(鎌倉時代)は普門寺の遺構である。

普門寺の衰退と廃寺

 応仁の乱において、京洛の寺院がことごとく焼失するなかで、当初東福寺一帯は戦火の被害を最小限に食い止め、東福寺の光明峰寺が焼失しただけであった。しかし乱が激化していき文明2年(1470)冬に海蔵院をはじめとした東福寺塔頭が焼失している。

 延徳4年(1492)2月20日、普門寺法堂の売却についての事が蔭凉軒主亀泉集証(1424〜93)のもとに報告されている(『蔭涼軒日録』延徳4年2月20日条)。しかし5月23日には法堂売却の件について亀泉集証は寺家に返答を遣わしていたが、了庵桂悟(1425〜1514)にも達していた。その間いかなる事情によってか法堂売却は固く禁止されることとなった(『蔭涼軒日録』延徳4年5月23日条)。その法堂であるが9月14日に顛倒してしまっている(『蔭涼軒日録』延徳4年9月14日条)。永正元年(1504)6月の了庵桂悟賛・伝雪舟等揚(1420〜1506)画「東福寺伽藍図」(東福寺蔵)には常楽庵の西方に三門・仏殿・法堂を一直線に並べた入母屋造の3堂宇が描かれている。

 天文21年(1552)8月には普門寺の仏殿が210貫文にて売却されたほか、仏殿の礎石・長連床・棟札・障子・礼板が2貫文で、古樽が174文にて売却された。売却によって得た金額は12月26日に決済され、うち108貫145文は惣下行奉行衆へ、22貫979文は天文19年(1550)に本寺の東福寺からの借金の返済に、4貫500文は天文20年(1551)に東福寺からの借金の返済にあてられた(「凌霄山普門禅寺方丈造営簿」〈『東福寺誌』所引〉)

 普門院は明智光秀が白銀100枚の寄附を受け、諸堂を修理した。そのため光秀が敗死した後に普門寺に祀られ、寺では光秀を実叟光秀禅定門と諡した(「普門院位牌記」〈『東福寺誌』所引〉)。このことによって普門寺が少なくとも天正年間(1573〜92)まで存在していたことが知られるが、いつしか廃絶してしまっている。名称のみが東福寺常楽庵の客殿・庫裏・塔司寮に伝えられている。

 常楽庵は東福寺の開山塔頭で、東福寺塔頭中では別格の存在であり、東福寺の聖域となっている。このうち開山塔は常楽庵と呼ばれ、客殿・庫裏などは普門院と呼ばれている。常楽庵は文政2年(1819)3月4日にほぼ全焼したが、ただちに復旧に着手され、火災以前の模様に復するよう再建された。客殿は文政6年(1823)再建、入母屋造で梁行8間半、桁行10間の建造物である。庫裏は切妻造、塔司寮は切妻造である。客殿は平成9年(1997)12月3日に重要文化財に指定された。


[参考文献]
・白石虎月編纂『東福寺誌』(大本山東福寺、1930年)
・福山敏夫「東福寺月下門」(『MUSEUM』90、1958年9月)
・今枝愛真『中世禅宗史の研究』(東京大学出版会、1970年8月)
・京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会、1983年)


東福寺常楽庵開山堂(平成19年(2007)12月31日、管理人撮影) 



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