円堂院跡



仁和寺境内の研修道場。円堂院跡に建設された(平成19年(2007)9月9日、管理人撮影)

 円堂院とは、仁和寺にかつて存在した院家(いんげ)です。
 院家とは寺内に設けられた僧侶が住む小寺院のことで、とくに出自の高い僧侶が居住したところです。禅宗でいうところの塔頭を連想すればわかりやすいかもしれません。院家は本寺と異なる独自の本尊・建造物・寺宝を有して、師資相承(ししそうじょう、師匠から弟子へ代々伝えること)されていきました。そのため教学・法流の中心地ともなり、それぞれ独自の教学・文化が発展していきました。仁和寺には最盛期には70ともいわれる院家が林立していました。
 円堂院は院家の中でも仁和寺南御室(廃絶)についで最も古い歴史を誇っており、御室に対する念誦堂の意味をもっていたといいます。また宇多天皇の御願寺としての役割も果たしていました。現在では廃絶して仁和寺境内の御室会館の西、霊宝館の南に位置する研修道場(写真上)の下に眠っています。


円堂院の建立

 円堂院は、昌泰2年(899)宇多上皇の勅願によって、供養が行なわれた。この時、益信を供養御導師として供養され、曼荼羅供色衆50人が参集し、また宇多上皇も御幸した(『北院御室拾要集』交談事)。しかし円堂院はもともとは大内山にあり、後に仁和寺に移転したという(『仁和寺諸堂記』円堂院)

 延喜4年(904)3月26日、宇多法皇は仁和寺円堂にて初めて斎会を設けた(『日本紀略』後篇1、延喜4年3月26日条)。この日、僧100口を請用し、仁和寺内の地に八角堂1宇を建立したという(『扶桑略記』第23、延喜4年3月26日条)。この日、楽所藤原仲平が楽工を率いて滝口の木蘭の樹の下に立ち、乱声(らんじょう。舞楽の前奏として、あるいは舞人の登場・退場の際に奏される曲)を奏でた。最初に定国朝臣の子が舞陵王を舞った。左大臣藤原時平は殿を下りて楽人の座に着き、その後再度殿に上った。その後、有穂朝臣の子が納蘇利を奏でた。左大臣藤原時平はこの2童子が昇殿をゆるされるよう、天皇に請願した。左大臣藤原時平は2人の父(定国・有穂)に仰せて、殿の庭にて拝舞させた。左大臣も同じく庭の中にて拝舞し、さらに仰せて太鼓を階段の前に推させて、自ら太鼓を打った。そのほかの王卿は庭の中に下りて侍った。終わって大臣・納言らは互いに遊楽を鼓舞した。参議以上は身分に応じて禄を下賜した。内蔵穀倉院に仰せて、それぞれ僧50人に供させ、また100僧に度者それぞれ1人を賜った(『西宮記』巻20、臨時8、臨時宴遊、臨時楽)。なおこの時の願文は紀長谷雄(845〜912)が作成した(『本朝文集』巻第32、仁和寺円堂供養願文)。この月中に宇多法皇は南御室に移御している(『仁和寺御伝』)

 延喜5年(905)3月26日に再度円堂院供養が行われており(『本要記』円堂院、古徳記云)、翌延喜6年(906)には仁和寺円堂院に醍醐天皇が行幸している(『扶桑略記』第23、延喜7年正月3日庚辰条)

 天慶2年(939)3月27日に宇多法皇皇子の式部卿敦実親王(893〜967)が仁和寺の内の八角堂(円堂)を改造して供養した(『日本紀略』後篇2、天慶2年3月27日己巳条)。同年4月2日には仁和寺円堂会が実施され、童が舞い、朱雀天皇が御覧した。式部卿敦実親王は召喚により天皇のもとに参り侍った。親王・公卿・楽人らには身分に応じて禄を賜った(『貞信公記』天慶2年4月2日条)。この仁和寺円堂供養に際しては春鴬囀・散手・皇ショウ(鹿+章。UNI9E9E。&M047688;)・太平楽・陵王・納蘇利が演奏された(『体源抄』第11巻ノ本、大法会ノ事)。真言法会に音楽が演奏されるのは仁和寺円堂会が初例であったらしく、承徳2年(1098)10月20日の祇園の塔供養に際して仁和寺円堂院供養の例によって音楽を演奏するなど後世に参照された(『中右記』承徳2年10月20日条)


声明業

 昌泰3年(900)11月29日、仁和寺円堂院分に声明業の年分度者1人が設置された。これは仁和寺別当の観賢(853〜925)の奏上によるものであった。観賢は奏上の中で、仁和寺が天台摩訶止観業と真言毘盧遮那経業の2人の年分度者を給せられていることを述べた上で、「声明というものは、五明(五明の「明」は知識・学問の意味。声明は言語学・文法学)の一つで、諸仏の教えはこれをもととしています。名をあきらかにし義をあらわすのは唯だこの(声明)業にあります。いうまでもなく、梵字を習って真言の義を習得するのに声明の精微でなければ、誰がよくその(真言)宗を詳かにすることができましょうか。望み請願するところは、件(声明業年分度者)を1人加え給せられ、ながく円堂院としたい。そうすれば遮那・止観(の業)は今まで通り仁和の聖霊(光孝天皇)をたすけ奉り、声明梵文が新たに禅定の法儀(宇多法皇)を祈り奉りましょう。(声明業の年分度者の)学生が習学すべき(科目)は『孔雀経』3巻・『大仏頂真言』・『大随求真言』・『仏頂尊勝真言』・『悉曇字母』で、この内『孔雀経』は読経し、そのほかの真言はみな暗誦させるべきです。ただその練学の人を選んで試験を課し、言上します」と奏上した(『類聚三代格』巻第2、昌泰3年11月29日官符)

 奏上者の観賢は、延喜10年(910)に東寺に御影供を創始し(『東寺長者補任』巻第1,延喜10年条)、同18年(918)・21年(921)には空海に諡号を賜らんことを奏請している(『高野大師御広伝』下)ことからも知られるように、祖師空海に対する尊崇が深く、真言宗において空海への回帰を目指したことが窺える。観賢が仁和寺円堂院の年分度者として設置を請願した声明業は、空海が承和2年(835)正月23日に真言宗年分度者を請願した際(いわゆる三業度人官符)に、年分度者の1つに加えたものであり、習学経典として『梵字真言大仏頂』・『随求等陀羅尼』をあげている(『類聚三代格』巻第2、承和2年正月23日官符)。声明業について、真言声明の発現は空海とみて、声明業はインドにおける五明中のものと同じく広義のものであり、単に音韻梵曲のみを研究するものではない(大山1930)という慎重な意見と、『文鏡秘府論』と関連づけて四声・音韻の研究とする意見(岩谷1932)がある。実際に空海が三業度人官苻で奏上した習学経典や、空海の著作である『声字実相義』をみるかぎりでは、仏教音楽としての声明と、三業度人官苻や円堂院年分度者の声明業とは別個のものであったようである。しかし円堂院と音韻学・声明は必ずしも無関係ではなく、円堂院の寛朝(916〜98)は真言宗における仏教音楽としての声明の大成者の一人であり、また「円堂点」というヲコト点(漢文訓読に用いる点形・棒形・鍵形の記号)も円堂院ゆかりのものであるから、円堂院における声明業が音韻学・声明の発展に寄与したとみてよいだろう。


宮内庁治定宇多天皇大内山陵(平成19年(2007)9月15日、管理人撮影)

円堂三僧

 仁和寺は宇多法皇の御願寺として建立された寺院であるが、円堂院は宇多法皇の住房であった南御室の念誦堂という位置づけであった。そのため円堂院は寺院に准ずるものとして、寺院組織が整備された。古代の寺院は一般的に上座・寺主・都維那の「三綱」によって差配されるものであったが、仁和寺の院家である円堂院では三綱ではなく、「三僧」という名称の役職があり、3人の僧がその役職にあった。

 円堂院にて三僧が設置された年代は不明であるが、延長8年(930)5月28日、円堂三僧寛空が『金剛頂瑜伽修習毘遮那三摩地法』を講義している(『金剛頂瑜伽修習毘遮那三摩地法池上御点本』1巻奥書、近江石山寺本〈『平安遺文』題跋編109〉)ことから、この頃までに三僧が設置されたものとみられる。

 寛空(884〜972)は、香隆寺僧正とも蓮台寺僧正とも称される。俗姓は文室氏で左京の出身であったというが、河内国出身という説もある。神日(?〜916)の弟子となり、宇多法皇の潅頂弟子、後には観賢より受法して潅頂弟子となった。宇多法皇は寛空に円堂院と南御室を附属させた。延長8年(930)4月9日に東寺に入寺した(『東寺長者補任』巻第1、天禄元年条)。康保4年(967)に寛空は弟子の寛朝に円堂院・南院・御室の3所の別当を譲っており(『野沢血脈集』巻第3、第14寛朝)、天禄2年(971)2月に寛空は東寺長者・法務・円堂三僧を辞退している(『御室相承記』1、寛空僧正伝)。翌天禄3年(972)2月6日に示寂した。享年89歳(『東寺長者補任』巻第1、天禄元年条)

 円堂三僧は寛空のほか、寛空の同時代には平遍・寛忠がおり(『仁和寺御室御物実録』識語)、寛和2年(986)の円融院の東大寺受戒の扈従に円堂三僧として済信(954〜1030)の名がみえている(『円融院御受戒記』寛和2年3月21日条)。また寛意(1054〜1101)は寛治6年(1092)4月3日に円堂・観音院・青蓮寺の3ヶ寺の譲文を覚行法親王(1091〜1153)に進上しているが(『御室相承記』3、中御室、被譲円堂観音院青蓮寺等事)、寛意は円堂三僧であった(『血脈類集記』第4、寛意僧都潅頂弟子、裏書、寛意事)

 円堂院には円堂三僧のほか、別当・検校といった職名があったようである。康保4年(967)に寛朝が寛空より円堂院・南院・御室の三所の別当を譲られており(『野沢血脈集』巻第3、第14寛朝)、久安5年(1149)3月8日に覚性法親王(1129〜69)が円堂院・観音院の検校に補されている(『御室相承記』5、紫金台寺御室)。これらは三僧の上位職であったようであるが、常置職であったかどうかを含めて実態は不明である。


寛空像(『三国祖師影』蓮台寺) 『大正新修大蔵経 図像部10』(大正新修大蔵経刊行会、1934年5月)より転載。同書はパブリックドメインとなっている。 

仁和寺宝蔵

 承平元年(931)7月19日、宇多法皇は御室にて崩じた。その9日前の7月10日に御室仮所より宝蔵に宇多法皇所蔵の宝物が納められた。その時の実録帳は紛失してしまったが、天暦4年(950)11月10日に宝蔵を実検して再度実録帳を3通作成し、実録帳は寺家・円堂院・観音院西室に収められた。もし宝蔵を開ける場合は加署の人が必ず会合して、寺家の別当および三綱・円堂三僧が実検することとし、実録帳と収められた宝物を照らし合わせることとし、もし1人でも集まらまなかった場合はたやすく開かないこととした(『仁和寺御室御物実録』識語)
 このように仁和寺伽藍内には宝蔵があったことが知られるが、円堂院内にはほかにも経典を納める経蔵があった。また円堂院にあった宝蔵のほか、円堂院の西にも号蔵が1棟あった。円堂院の宝蔵には宇多法皇遺愛の品が納められていたが、この宝蔵を開く際には円堂三僧の立合いが必要であった。円堂院外に位置した宝蔵には舎利会舞楽装束などが納められた。

 承暦4年(1080)、関白藤原師実(1042〜1101)は「仁和寺宮(性信)のもとより、『仁和寺の庫倉および円堂経蔵が破壊してから年久しく雨漏りがするようになっている。この年来、上東門院の御使が(宝蔵)を開いたが、院がいらっしゃらなくなったら、誰が(宝蔵)を開くのか。汝が(宝蔵)を開いて欲しい』といってきた。固辞するべきか、これをどのようにすればよいか」と、源経信(1016〜97)に諮問した。源経信は、「この事は辞退すべきではありませんし、また望んでいると申してもいけません。彼の寺の三宝(性信)の御心は知ることが難しいからです。」と答えた。藤原師実は「そうであるのなら(むしろ)開くべきであろう」といった。その後公事が重なって(宝蔵を開くことを)引き延ばしていった。師実はさらに(宝蔵を開くべき)日次を主計助道言に諮問したところ、道言は「20日がもっとも吉です」といった。そこで8月20日に仁和寺の宝蔵を開けることが決定された。藤原師実は源経信に宝蔵に参会するように命じた。そこで源経信は仁和寺の宮(性信)の御房に参着したが、性信は、「倉の下に向かうべきなのではあるが、老爛の身のため(宝蔵に)昇ることは憚られる。だから僧都と一緒に向いなさい」といった。仁和寺の宝蔵ではあらかじめ縄柱を結んでいた。まず南倉を開き、カギのハコと宝倉目録(実録帳)を取り出した。呉楽の面形10ばかりを取り出した。行禅僧都(1027〜82)は、「この目録の中に道風(小野道風)の書があり、菅家(菅原道真)が御名字を加えられた(とある)のだが、すでに紛失していまったのだろうか」といった。板を北倉の橋に結び、源経信は橋から北倉に登った。倉の上には雨漏りの跡があった。源経信は宝物を取り出しては目録と点検したが、あったりなかったりという有様であった。暑気は堪えがたく、チリやホコリは甚しかったため、相談して倉をおり、倉の前に畳を敷き、厨子を取り出して検分した。日が暮れると雨がすこぶる降ったため、(宝物を)南倉に取り入れ、僧正と経信が封をした。円堂経蔵に赴き、鎰(かぎ)のありかを尋ねたところ、すでに知る人はなかった。御倉の鎰(かぎ)で開けてはどうかという提案があったため、試しに開けてみると開くことができた。中にはただ法文1巻・俗書1巻があっただけであったので、閉じさせて封をした(『帥記』承暦4年8月20日庚戌条)。同年閏8月4日には源経信は大江匡房より円堂院書目録を借覧している(『帥記』承暦4年閏8月4日癸亥条)

 永保元年(1081)11月8日にも宝蔵の実検が行われ、源経信は目録によって点検を行なっているが、9日には円堂院の宝蔵を実検し、書倉を開かせて法文・俗書を取り出したところ、あるものは多く朽ち損い、あるものは多く紛失していた(『帥記』永保元年11月8日庚寅条・9日辛酉条)

 康和4年(1102)4月18日にも円堂院経蔵は修理されている(『御室相承記』3、中御室、円堂御経蔵修理事)。大治3年(1128)2月21日には宝蔵が開かれて実検された(『御室相承記』4、高野御室、同宝蔵事)。仁平元年(1151)閏4月6日、宝蔵修理のため、宝物を円堂院経蔵に安置し、7月28日に宝物を返納された(『御室相承記』4、高野御室、同宝蔵事)

 安元元年(1175)11月12日、後白河法皇50歳の御賀に用いる煎茶具を取り出すため、仁和寺円堂院宝蔵が実検される。御賀に煎茶具を用いることは康和年間(1099〜04)の鳥羽院の御賀の先例によるものであったが、鳥羽院の御物の中から煎茶具が紛失してしまったため、煎茶具の本様を求めるため延喜年間(901〜23)の煎茶具を取り出すこととなった。公卿達が集まって相議し、宝蔵目録を披見して評定した結果、丙御厨子の内から少々取り出すこととなった。しかし公卿の中には結縁のため宝蔵に納められている迦葉尊者の杖や行基菩薩(668〜749)の袈裟を取り出したがっていた者がいた。そこで取り出したみると行基菩薩の袈裟は黒漆のハコに納められていたが朽損が甚しかった。これは上卿が結縁のためといって、少々破り取って懐に納めていたためであり、今回も公卿2人が破り取ってしまった。また婆羅門僧正(菩提僊那、704〜60)の剣があった。この剣の形は杖のようであった。刃は氷のようであり、年月がへているにもかかわらず、光り輝きが失われていなかった。この剣には半紙が結び付けられており「杖記」と記されていた。その状には「この杖は婆羅門僧正の持来なり。行基菩薩相伝してこれを得たり。その後、壱延僧正(803〜67)伝え得て、以て遍昭僧正(816〜90)に相送る。ここに件の僧正の門徒由性僧都(842〜915)、延喜15年(915)2月10日、沙門僕所に申送す」とあった(『禅中記』安元元年11月12日条)

 これら宝蔵・経蔵は仁和寺全山焼失(1468)によって、宝物もろとも失われてしまったようであるが、それでも仁和寺には現在に伝わる名宝が多い。現在の経蔵は江戸時代に再建されたものである。


仁和寺経蔵(平成19年(2007)9月15日、管理人撮影。参考までに…。) 

円堂院の壁画

 円堂院は「円堂」と称されているが、実際に円形でなく八角形であり、発掘調査からも八角形であったことが確認されている。寺院に関連する堂宇のなかで八角堂というものは希有の存在ではあるものの、近代のものを含めると日本では45宇が検出されている。古代日本における代表的な八角堂建築として、法隆寺夢殿・栄山寺八角円堂があり、八角形の墳丘をもつ古墳(天武・持統合葬陵)や難波宮大極殿院八角殿といった寺院建築以外も数えられる。この「八」という数字について、日本において聖数八の観念があり、そこから「聖」なる場所としてうけとめられたという説がある(堅田1979)

 『三僧記類聚』2、円堂図事によると、円堂院の中央には壇が設けられており、成身会三形が安置されていたことが確認される。また円堂院の鎮守は北は八幡・賀茂・松尾、南は平野・北野が鎮座していたという(『本要記』円堂院、裏書、円堂鎮守)

 円堂院では壁画が描かれており、『三僧記類聚』2、円堂図事によると、北東には竜智・竜猛、南東に金剛智・不空、南西に善無畏・一行、北西に恵果・法全といった真言祖師の像が描かれていたことが知られる。本図では堂の内側に像を壁画としているように描かれている。なお『本寺堂院記』によると、これら真言祖師の像は上側で障子となっている外側に描かれていたとし、上側で障子となっている内側には弘法大師・実恵・真雅・真然・真済・真紹・宗叡・聖宝といった日本の真言名僧が描かれていたという。また腰壁となっている下側には達磨・恵可・僧サン(王+粲。UNI7CB2。&M021270;)・道信・弘忍・慧能といった禅宗祖師や、行基・鑑真といった日本の名僧が描かれていたとある(『本寺堂院記』円堂院、裏書、障子)。また仁和寺円堂に法勝寺建立(1077落慶)の時、愛染明王像が安置されている(『阿婆縛抄』巻第105、愛染王、先蹤)。これが仁和寺円堂の愛染明王(下図)である。

 円堂院の建造物は現存していないため、これら壁画の様相は不明であるが、東寺の五大尊・十二天像は円堂院壁画を写したものである。大治2年(1127)3月15日に東寺の宝蔵が炎上した際、収蔵されていた宮中真言院の五大尊・十二天像が焼失してしまった。そこで東寺長者勝覚僧正(1057〜1129)は覚仁に五大尊・十二天を描くことを命じたが、覚仁は無力であるといったため、。勝覚は助力することを約束した。そこで図様は何にするのか相談したところ、かつて小野経蔵に大師(空海)様の十二天・五大尊があり、今では宇治平等院の経蔵にあるため、宇治殿(藤原忠実)に申し出て、それを書写することができた。ヘリは不明であったため錦とした。しかし鳥羽上皇が「疎荒」であると聞いて、源雅兼に覚仁を召喚させて叱責した。覚仁は一々陳情した結果、過失がないことが認められ、再度五大尊・十二天を描くことを命じられたが、今度は御堂(覚法法親王)に申請して仁和寺円堂の後壁を書写するよう指示された。そのため美作法眼を伴って3日の間に写し取った。その後、法にしたがって彩色し錦の端をすてて公家に奉った。前後2度とも納めたのであったが、一度目の功で威儀師に補せられた一方、今回の功では給されることはなかった(『東宝記』第2、仏宝中、宝厳律師記云、真言院十二天五大尊事)。この時写された五大尊・十二天は現存して東寺に伝わっており、うち十二天は京都国立博物館所蔵となっている。

 元永2年(1119)4月13日に仁和寺が焼失するも、円堂院は焼失を免れている。この時のこったのが、円堂院・経蔵・南御室・四面門・惣社・大湯屋にしかすぎなかった。この時、火は延焼して円堂院経蔵に迫っていたが、経蔵の雑人の中に「蘭波の術」を伝える者がいたため消すことができた。さいわいにも諸堂の仏像・宝蔵の御物はすべて取り出すことができたため、取り出した宝物は円堂院の経蔵に納められた。また円堂院の金剛界曼陀羅は火事の際運び出されて破損してしまったので、修理されることとなった(『長秋記』元永2年4月14日条)


仁和寺円堂像(『別尊雑記』巻第35、愛染王、仁和寺円堂像) 『大正新修大蔵経』図像3より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている。 

円堂院の成典

 円堂院は真言宗寺院として東寺潅頂会をはじめとした多くの法会に僧が招集されている。万寿4年(1027)9月26日、翌10月4日の東寺潅頂会の讃衆に円堂院雅裕が招集され(「潅頂会讃衆請定」『東寺百合文書』カ函1)、長元3年(1030)11月9日、同月15日の東寺潅頂会に円堂院の僧が招集された(「東寺潅頂会讃衆廻請」『教王護国寺文書』3)。長元5年(1032)10月8日、同月12日の潅頂会の讃衆にも円堂院の僧が招集され(「結縁潅頂会請定」『東寺文書』六芸之部楽乙-9-1)、長元8年(1035)10月8日、同月17日の潅頂会の讃衆に円堂院の僧が招集され(「潅頂会讃衆請定」『東寺百合文書』よ函1)、長暦2年(1038)10月27日、翌月2日の東寺結縁潅頂会に円堂院の僧が招集された(「潅頂会讃衆請定案」『東寺百合文書』ニ函2)、その2年後にも長暦4年(1040)10月7日、翌月15日の東寺潅頂会に円堂院等の僧が招集されている(「結縁潅頂会讃衆請定」『東寺文書』六芸之部楽乙-9-3)

 東寺潅頂会のみならず、宮中真言院後七日御修法にも円堂院の僧が招集されている。長暦4年(1040)正月4日、後七日御修法の結番の二番に円堂院の成典が定められる(「後七日御修法結番廻請」『東寺文書』六芸之部楽乙-8-1)


 成典は、真言宗の僧侶で円堂僧正と称される。正暦5年(994)阿闍梨となり、長徳4年(998)12月9日に東寺入寺、寛仁3年(1019)10月20日に権律師任じられる(『東寺長者補任』巻第1、寛徳元年条)

 成典には幾つかの説話によって知られている。それらには円堂院に関連するものもある。

 今は昔、仁和寺に成典僧正という人がいた。俗性は藤原氏。広沢の寛朝大僧正を師として、真言の蜜法を受学した。年来、行法を怠ることなく、僧正までなりあがった人であった。その人は仁和寺に行って居住していた。同じく仁和寺の内の辰巳の角(南東)に円堂という寺があった。その寺には天狗がいて、人はとても恐れていた。しかしこの僧正、夜にその堂にただ一人の仏前に居て、行法を修していた。そこに、堂の戸の迫から、頭に帽子を着けた尼がやってきたので、僧正は「夜にどんな尼がここにやってきたのであろうか」と思っていたところに、尼が急に入って来て、僧正の傍に置いてあった三衣のハコを取って、逃げていってしまったので、僧正は追いかけていった。尼は堂の後戸より出て、後ろに高い槻木があったので登っていった。僧正はこれを見上げて加持したところ、尼は加持されて堪えられず、木の端より土に落ちたから、僧正は寄っていって三衣のハコを奪い返した。僧正は暫くして引きあげたが、僧正が奪い取った箱を尼は三衣のハコの片端を引き破って、取って逃げ去ってしまった。その尼が登った木は今もある。その尼は尼天狗というと語り伝えたるとかや(『今昔物語集』巻第20、本朝付仏法、仁和寺成典僧正値尼天狗語第5)

 僧正仁海(951〜1046)は、弘法大師が入定し、現世に必ず弘法大師の分身がいるはずであるから、その人に会ってみたいと長年思っていた。すると弘法大師が夢に「成典僧正の左の足裏にホクロがある。すなわち我が身である」と告げた夢をみた。後に仁和寺に到って成典に謁した。まず足の裏をみてみると、はたしてホクロがあった。仁海は庭におりて(成典に)礼拝した。成典は大いに驚いて、彼もまた庭におりた。仁海は夢の旨を告げて互いに談話した(『真言伝』巻第5、僧正寛空伝)

 成典は長暦元年(1037)5月25日に御持僧(護持僧)の労のため72烟を封ぜられ(興福寺本『僧綱補任』第3、長暦元年条)、長暦2年(1038)9月7日に権僧正となり(興福寺本『僧綱補任』第3、長暦2年条)、寛徳元年(1044)10月24日に87歳で示寂した(『東寺長者補任』巻第1、寛徳元年条)


仁和寺境内より山門(南側)をみる。左側奥(南東)に円堂院が位置していた(平成19年(2007)9月15日、管理人撮影)

円堂院の廃絶

 長治元年(1104)3月24日、覚行法親王の尊勝寺における結縁潅頂の勧賞として、仁和寺円堂院に阿闍梨5口を寄せられ(『殿暦』長治元年3月24日条)、仁安4年(1169)2月13日にも円堂院に阿闍梨1口を置かれた(『御室相承記』5、紫金台寺御室、被申阿闍梨事)。このように円堂院に次第に僧が増えていったが、仁和寺の門跡化もあって、南御室の念誦堂という位置づけであった円堂院の存在感は急速に失われていくこととなる。

 治承3年(1179)4月、道法法親王(1166〜1214)の出家に際して円堂院に髪を納めているが(『本要記』円堂院、阿闍梨事、裏書)、暦仁元年(1238)6月23日に法助法親王(1227〜84)が北院で出家した際に髪を円堂に納めた(『葉黄記』暦仁元年6月23日条)のを最後に史料上から姿を消してしまう。承道法親王(1408〜53)が応永26年(1419)7月26日に出家した際、円堂院が形跡もなかったため、やむなく髪を本寺御影堂の御帳内に納めているが(『仁和寺御伝(顕証本)』法金剛院御室、応永26年条所引、後常瑜伽院御室日記逸文)、このように室町時代初期には円堂院は廃寺となっており、形跡すら残っていなかったことが知られる。仁和寺は応仁の乱に際して全山炎上し(1468)、この時仁和寺にあった院家の大半が廃滅してしまい、仁和寺が寛永年間(1624〜1644)に再興された後も、院家の多くは再興されることはなかった。江戸時代に円堂院跡は仁和寺子院の真光院の敷地内にあったが、円堂院の跡地が残存していたようである。円堂院跡地の規模は東西50間、南北30間ほどであり、円堂の土台が一辺10間あまりであった。また瑠璃の瓦が円堂院跡に散在していたという(『本要記』円堂院、裏書)。円堂院跡地にあった真光院もまた、明治になってから堂宇頽廃のため仁和寺へ合併されてしまった。大正14年(1925)には円堂院跡から純金の合子、銀の合子、白磁の合子、越州窯の青磁の合子二点が発見されている。これらは円堂院の地鎮具と考えられており、重要文化財に指定された。昭和37年(1962)2月に発掘調査が実施され、円堂院の遺跡が確認された。



[参考文献]
・大山公淳『声明の歴史及び音律』(大雄閣、1930年6月)
・岩原諦信『南山進流声明の研究』(藤井書店、1932年6月)
・杉山信三『院の御所と御堂 -院家建築の研究』(奈良国立文化財研究所、1962年3月)
・堀池春峰「弘法大師と南都仏教」(『弘法大師研究』1978年3月)
・小山冨士夫『陶磁大系36青磁』(平凡社、1978年4月)
・堅田修「八角堂考」(大谷大学国史会『論集日本人の生活と信仰』同朋舎出版、1979年12月)
・福山敏夫『寺院建築の研究』下(中央公論美術出版、1983年3月)
・石田尚豊「空海請来目録をめぐって」(『青山史学』7、1983年)
・京都市埋蔵文化財研究所編『京都市埋蔵文化財研究所調査報告』第9冊(京都市埋蔵文化財研究所、1990年6月)
・総本山仁和寺・京都国立博物館監修『仁和寺大観』(法蔵館、1990年)
・武内孝善「三業度人の制をめぐる一・二の問題」(『高野山大学論文集』高野山大学、1996年9月)
・『東寺の五大尊十二天』(東寺宝物館、1997年)
・田島公「婆羅門僧正(菩提僊那)の剣」(薗田香融編『日本古代社会の史的展開』塙書房、1999年3月)
・古藤真平「仁和寺の伽藍と諸院家(上)」(『仁和寺研究』1、1999年)


仁和寺本堂(平成19年(2007)9月15日、管理人撮影。参考までに…。) 



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