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円教寺本堂摩尼殿(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影)
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円教寺(えんきょうじ)は兵庫県姫路市書写山に位置する天台宗の寺院です。山号は書写山で、「書写山円教寺」と通称されています。康保3年(966)に性空(しょうくう)が書写山に入山して、寛和2年(986)に花山法皇が参詣して御願寺となりました。「聖の住所」といわれ、後醍醐天皇をはじめ貴顕の参拝が多く、「播州六箇寺」の筆頭寺院とされ、西国三十三所第27番札所として民衆の信仰を集めました。幾度も火災に遭いましたが、中世以来の建造物が多く残り、大講堂・食堂・常行堂・鐘楼・金剛堂・塔頭寿量院は国の重要文化財に指定されています。
書写山上人性空
性空(917〜1007)は東京(京都市左京区)の人である。父は橘善根で、母は源氏である。母は性空を産む以前より難産が続いたたため、性空を身ごもった時にはひそかに堕胎しようとしばしば毒薬を飲んだものの、効き目はなく性空が産まれ、また難産ではなく眠るかのようにしてつつがなく産まれたのであった。性空は産まれた時に左手を握っており、拳を開いてみると、中に一針を握っていたから、父母はこれをあやしんだ(『朝野群載』巻第2、文筆中、伝、書写山上人伝)。
幼い時、乳母が性空を抱いて方丈に宿泊したが、乳母が目覚めて性空を探してみると、いなくなっていた。乳母は驚いて探してみると宅の北墻の辺にいたので重ねてあやしんだ。幼稚の時より、生き物を殺さず、人々と交わらなかった。人となりは閑雅で、篤く仏法を信じた。出家を志していたものの、父母は許さなかった(『朝野群載』巻第2、文筆中、伝、書写山上人伝)。
10歳の時に師に就いて、法華経8巻を読んだ。27歳の時に元服して、後年母にしたがって日向国に赴き、36歳にして遂に出家した。霧島山に籠って法華経を読誦(どくじゅ。声に出して読むこと)し、日夜余念がなかった。後に霧島山を去り、さらに筑前国背振山に移住した(『朝野群載』巻第2、文筆中、伝、書写山上人伝)。
39歳の時に法華経を暗誦することができるようになった。山中に人なく、清爽である時、10余歳の児童らが同座して、ともに法華経を読んでいた。また老僧がいて、容貌は尋常ではなかった。老僧は一枚の書を性空に授けた。性空は左手でこれを握った。老僧が耳打ちして、「福報遍照法花、光蔵応正等覚。」といった。性空は心中これを不思議に思った(『朝野群載』巻第2、文筆中、伝、書写山上人伝)。
後に播磨国(兵庫県)餝磨郡書写山にいたって、一間の草庵を造って居住した。造りは雑で、材料の山木には皮がついており、薦(こも)を帷幕とし、紙を衣裳とした。山の獣とは心が通じ合い、馴れて(性空のもとに)自ら来るようになり、斎時(昼食)になるごとに、性空の周囲に群れ集り、性空は食を獣に分けて施した。性空の身にはノミやシラミがつかなかった。胸の皮膚には阿弥陀仏像の刺青があった。歴代の宰相・官吏、および当国(播磨国)や隣国、道俗男女や老少で性空に帰依しない者はいなかった。ある者は仏堂を建立して三昧を修し、おしなべてその大小、分にしたがって功徳を行ない、みな性空についてこれを修していた(『朝野群載』巻第2、文筆中、伝、書写山上人伝)。
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円教寺奥院開山堂(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影)
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円教寺に関する寺誌史料
円教寺は10世紀以来の長い歴史を有し、また中世寺院建築群が一同にまとまっているものであることから、円教寺の歴史を知ることは、すなわち日本仏教、とくに天台宗の流れを知る上で非常に重要である。ところが円教寺は度々火災に遭っており、そのため大寺でありながら極端に文書・記録に乏しく、古代・中世における円教寺の動向をつかむのを困難なものにしている。例えば古代はおろか中世文書すら微々たるものしか存在しておらず、寺院組織や寺領の管理をいかに行なっていたのか、知ることは困難である。
そのようななかで、『円教寺旧記』と題する1部6冊の記録が知られている。同書は『書写山旧記』とも称され、『続群書類従』第34輯や『大日本仏教全書』第117冊に収録されている。『円教寺旧記』は、『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝(悉地伝)』・『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事(延照記)』・『性空上人伝記遺続集』・『クン(てへん+君。UNI6314。&M012125;)拾集』・『新略記』・『播州円教寺記』の同形状の6冊で、いずれも龍象院前住持実雄による元禄3年(1690)の書写奥書を有する。
書写の経緯について実雄は、「快倫(1576〜?)師は事跡が湮没することを恐れて、本伝1巻・付録5巻を撰写して、この山(書写山)に備えたが、はからずも回禄(火災)に罹り、すでに無に帰してしまった。ここに越州村上(越後国村上藩)の榊原史君(政倫)が衆の求めに応じて、すなわち(政倫)の先祖が拾遺してかつて書写された本を謄写させて、遠くわが山(書写山)に寄こしてきた。史君(政倫)の功は大なるというべきである。余(実雄)は久しく患往追来して、いまだ繕写のいとまはなかったが、今や暇を茅亭に得ることができ、世間づきあいがようやく疎かとなり、よって拝誦のあまり、その全帙を写し終り、素志に充てたのである。後世これをみる者、また余の志をつぐのであれば、この記(にとって)不墜の幸いにほかならぬだろう。」と述べている(円教寺蔵理教房本『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝(悉地伝)』実雄書写奥書)。
快倫は円教寺の僧で、円教寺の歴史に強い関心を寄せ、『円教寺旧記』を成立させたほか、自身も『播州書写山円教寺古今略記』を編纂している。快倫本は焼失してしまったが、円教寺は前述の通り、旧主榊原家から写本を求め得ている。榊原家が『円教寺旧記』の写本を所蔵していたのは、榊原家が越後国村上に転封される以前は姫路藩主であり、円教寺は姫路藩領内に位置していたという事情によるのである。榊原家から円教寺に送られた写本は明治31年(1898)の宝庫焼失によって失われてしまった。そのため実雄書写本は円教寺の記録としてたびたび用いられてきた。
この実雄書写本は必ずしも良好な底本であるというわけではなかったが、『性空上人伝記遺続集』に限っていえば、南北朝時代をくだらない三千院本が発見されて『姫路市史』史料編1(姫路市市役所、1974年3月)に翻刻されるなど、史料の状態は改善がみられ、さらに昭和60年(1985)の兵庫県立歴史博物館による円教寺文化財の総合調査にて、新たに11冊の古記録の存在が確認され、うち6冊は『円教寺旧記』を構成する諸書の写本であり、これによって実雄本の欠失・錯簡を多く正すことができるようになった。これによって実雄本『円教寺旧記』のうち、『新略記』と『播州円教寺記』は異名同本であることが明らかとなり、また悉地伝の後半部分の一部が『播州円教寺記』に綴じ込まれていたことが明らかとなった(兵庫県立歴史博物館1985)。
『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝(悉地伝)』は性空の伝記で、『朝野群載』所載の「書写上人伝」よりもはるかに詳細な内容を持っている。本書は長保4年(1002)3月、花山法皇が書写山に二度目の御幸の際に性空の行状を筆録させ、仙洞の文庫に納めたが、性空示寂後の寛弘7年(1010)10月に円教寺に下賜されたものとされ、その後記事が追録されている。同様の経緯で記された「書写上人伝」と何故内容の相違が激しいかは不明であり、本書が実際に仙洞の文庫から下賜された記録であるかどうかは疑問符がつくものの、鎌倉時代末期の『性空上人伝記遺続集』にたびたび引用されていることから、少なくとも中世には成立していたようである。
『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事(延照記)』は、性空示寂後の後継者争いにおいて、延照側が相論において作成した寛弘7年(1010)9月10日付の起請、承久2年(1220)6月の講堂修造勧進帳などからなる。本書は初期の円教寺堂宇について多くの情報を提供する。
『性空上人伝記遺続集』は、書写山の僧昌詮によって正安2年(1300)8月に撰述された円教寺の記録である。悉地伝をはじめとした諸書を引用して、それに考証・注釈を行なっている。南北朝をくだらない写本の三千院本や、文安4年(1447)・永正14年(1517)の写本など、円教寺の記録としては比較的古写本に恵まれている。
『クン拾集』は、書名のクン拾集は落穂拾いの意味で、『性空上人伝記遺続集』以後の鎌倉末期から室町前期までの円教寺に関する記録を編集したものである。後醍醐天皇の書写山行幸を記録した「書写山行幸記」は本書に収録される。
『播州円教寺記』は「新略記」ともいい、寛永20年(1643)7月に快倫によって編纂された。本書は近世における円教寺史を語る上で欠くべからざる書となっている。
上記の史料はいずれも『兵庫県史 史料編中世4』に所載されており、本コンテンツでは同書によった。
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円教寺榊原家墓所(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影)
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円教寺の開創
話を性空の書写山参篭に戻すが、円教寺の正確な開創年代についてはっきりとしたことはわかっていない。『扶桑略記』によると、「性空聖人が書写山において堂を建て、円教寺と号した。丈六の釈迦仏像を造立し、供養講師は延暦寺の実因(958〜1013)であった。」(『扶桑略記』第27、永延2年同年条)とあるように、永延2年(988)に建立されたとしており、同年にすべての伽藍が整備されたかのような印象を受ける。
その一方で、円教寺の記録では、円教寺の開創年代に数段階の過程があったことを示している。「悉地伝」より円教寺の開創がどのように行なわれたのかをみてみよう。
性空が旅中、瑞雲が発生したので、性空は雲を見つつ遊行したが、播磨国飾万郡を通過しようとした時、雲が前に発生せず、退いて西をみれば州(播磨国)の中央の高峰にあったので、雲を追って入山し、念仏して経典を読んだところ、化人がたちまちやって来て性空に、「山の名は書写である。鷲頭(釈迦が法華経を説いた霊鷲山のこと)の土を分け、峰の名は一乗といい、鶏足(迦葉が弥勒の出世を待って入定した山)の雲を送るから、この山に踏み入れる者は菩提心をおこし、この峰に登る者は六情根を浄められる。この地には三吉の場所がある。山の中心に一ヶ所の勝地があり、応竜の気に満ちている。谷の尾を下り西を去ること10余町(1km)の地は清河が尾をうけている。この地の頭の左右に堂を建てれば、仏法繁昌の象(しるし)があり、釈迦三尊が壇に坐れば、福寿無比の象(しるし)があるだろう。」と告げた。講堂の地が今のその地である(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』悉地伝)。
また化人は、「ここより東に3町(300m)ばかり行けば、石灘が濡れていて、川の岸が粗からず乏しからざる地があり、巌が金剛水のように甘露に似て、奔流の上に生桜が一本ある。天人が常に降りて偈を唱えて礼拝して、「生木の如意輪を稽首し、よく有情の福寿の願を満たす。また往生極楽の願を満たすは、百千供胝心を念ずるところなり」と唱えている。唱えては礼拝し、空にのぼっては雲に隠れる。如意輪堂がまたその地である。」といった(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』悉地伝)。
また化人は、「ここより北に2町ばかり登れば、広からず狭からざる地がある。この地は七道に眼を懸けることができ、南海を麓にうけ、准胝観音はここに住み、閻魔はここに通うのである。」といった。性空は、「人はみな福寿を求めている。まず利生のために興隆しようとするにはどうすればいのか」と問いかけた。化人は答えて「この峰で待っていても、含珠が吐かれないなら、崇重の人が来るのを待つべきである。准胝の峰はまたこれがその地なのである。」といった(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』悉地伝)。
化人は続けて、「第一の地に立ってから南に行き西に去れば、丁字形の地がある。前には崇山をいだき、後ろには小山が聳えている。ここで首尾よければ、仏法の始終が持つべきの象(しるし)がある。坏飯山に二堂の半ばを造営すれば、行と学と共に食分がある。伏鬼山を見て一郷の間を隔てれば、山といい里といい、双方同じく魔障がない。前には大海を得て真をみること月のようである。後ろには山が重なっており清涼の風を聞ける。この地は天然の地形で仏陀の境界なのである。」といった。性空は涙を流して西の谷に庵を結び、坐禅して精神を澄まし、行は塵(俗世間)から遠ざかった。ここに播磨国の国司の藤原季孝が第一の半地に法華堂を造営し、調直僧の料として3合の米を充てた。寛和元年(985)、性空58歳の時のことであった(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』悉地伝)。
以上のように、『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』には性空の霊験説話が説かれているのであるが、性空が書写山に入山した経緯と、法華堂造立がともに記されていることから、性空が書写山に入山した年は法華堂を造立した寛和元年(985)に懸けられている。一方で『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』の撰述290年後の正安2年(1300)に、書写山の僧昌詮が『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』の遺漏を補う形で撰述した『性空上人伝記遺続集』には、入山説話を要領よくまとめた上で、以下のように記している。
性空はさまざまなところに遊行して、ようやく都に赴いた。瑞雲が発生したので、性空は雲を見つつ遊行したが、播磨国飾万郡を通過しようとした時、雲が前に発生せず、退いてみると西北の高峰に雲があったので、性空は雲を見て入山し、山の中心に到ると、人が出て来て、「山の名は書写である」と告げ、三つの吉のところを示した。それは講堂の地〔第一〕、如意堂の地〔第二〕、白山准胝峰〔第三〕であり、このほかの事を一つひとつ示した。時に康保3年(966)、性空57歳であった(『性空上人伝記遺続集』性空上人縁起并堂塔修造略図)。
このように『性空上人伝記遺続集』では、性空書写山入山の年を康保3年(966)としており、「悉地伝」とは19年もの差がある。どちらを円教寺の開創年とするか決定打がないが、他の史料によると、書写山には性空入山以前より極めて小規模ではあるものの堂宇が存在しており、2間の規模の草堂が落魄していたのを性空が檀越達にすすめて新たに「本堂」を造立したという。屋根は桧皮葺で、規模は3間4間(3間4面の誤りか。そうならば3間で庇が周囲4面につくことになり、現在の感覚でいえば5間になる)であり、礼堂の庇があった。綵色の高さ6尺(180cm)の千手観音像1体、金色の薬師像1体、不動明王像1体、高5尺(150cm)の聖観音像1体、同じく高5尺(150cm)の十一面観音像1体、白檀の薬師仏像1体、延命観音像1体、新造の仏菩薩像10余体、四天王像4体、頻頭盧1体、6寸(18cm)の金口鼓1面、磬1脚があったという(『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』本堂事)。ここに示される「本堂」というのは、現在の薬師堂のことで、薬師堂は延慶元年(1308)11月5日に焼失し、再建に着手されて元応元年(1319)11月27日に棟上されている。現在の薬師堂は一部の様式に元応の頃の造立を推測し得る部分があり、そのことから円教寺に現像する建造物としては最も古いものである。昭和53年(1978)に解体修理にともなう発掘調査によって土層より奈良時代の遺物が発掘されていることから、性空入山以前からも何らかの宗教的施設があったことは間違いなさそうである。
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円教寺薬師堂(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影)。現在の建物は元応元年(1319)の造立であるが、もとは本堂を呼ばれており、性空が入山する以前より書写山にあった建物を改築したものであるという。なお昭和53年(1978)に解体修理にともなう発掘調査によって、土層より奈良時代の遺物が発掘されている。
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性空と国司随身僧
性空が書写山に入った時、寺院と呼べるような建造物は、荒廃した草堂を除いては存在しておらず、「一間の草庵を造って居住した。造りは雑で、材料の山木には皮がついており、薦(こも)を帷幕とし、紙を衣裳とした。」(『朝野群載』巻第2、文筆中、伝、書写山上人伝)とあるように、当初は極めて質素かつ到底建造物とはいえないような場所に居住していた。
書写山にはじめて建造物が建立されたのは寛和元年(985)のことで、前述のように『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』に、「ここに国司の季孝朝臣が第一の半地に法華堂を造営し、調直僧の料として3合の米を充てた。寛和元年(985)、性空58歳の時のことであった」(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』悉地伝)とあり、播磨国司の藤原季孝(生没年不明)によって法華堂が建立され、「調直僧」の料として米3合が施入されたことがみえる。
法華堂が書写山に建立されるようになった経緯について、『性空上人伝記遺続集』によると、「寛和元年(985)、国司の季孝朝臣は一院を建立するため、持僧慶雲に建立すべき地を探させた。慶雲は当山(書写山)に登って初めて性空にまみえた。行儀尊重して、すなわち国府に帰りその子細を季孝に申し上げた。これによって国司は吉日の時を選んで、林の樹を掃除して、まず法花三昧堂を造立した。」(『性空上人伝記遺続集』法花堂国司季孝朝臣建立事、広縁起云)とある。このように国司藤原季孝は、持僧である慶雲(生没年不明)に堂宇を建立すべき地を探させているのである。ここにみえる慶雲は、天元3年(980)9月3日における延暦寺根本中堂供養の讃衆に「慶雲阿闍梨」とみえる天台宗の僧であるが(『叡岳要記』巻上、中堂供養)、慶雲のように国司に付随して国司の安穏を祈祷する僧を「国司随身僧」という。
国司随身僧は、『朝野群載』において、国司が私的に随身すれば政務の遂行に便がある、としてあげたもののなかに、「智僧・験者一両人」をあげている。「国の為に祈祷を致し、我の為に護持をなす。」といい、国司の護持僧と解される(『朝野群載』巻22、諸国雑事上、国務条々事)。
国司随身僧の代表的な例が『今昔物語集』にみえる清尋(静真・浄真とも。生没年不明)である。「清尋供奉も歳60ばかりなったところに、藤原知章(?〜1013)という人が伊予守になって国(伊予国(愛媛県)に下向することになったのだが、清尋供奉を事の縁があるため、祈りの師にしたいと言ったので、守(藤原知章)に伴って下向した。清尋供奉は国(伊予国)に行くと、別の房を新しく造って居住した。修法などもその部屋の内にて行わせたのである。守(藤原知章)がこの清尋を貴き者であるからとして、国人を宿直に差し遣わし、食物なども(宿直とは)別に(給仕を)行う人を定めて帰依したから、国の内の人も皆、清尋を敬うこと限りなかった。その房のあたりを(行く人がいたら清尋は)蝿を翔らせずして、清尋は人を追い罵った。」(『今昔物語集』巻第15、比叡山僧長増往生語第15)。このように藤原知章は新たに房を造営して、そこに清尋を住まわせている。また受領と僧侶の間は『朝野群載』に示されるように、あくまで個人的な関係によるものであって、その一国全体に関する修法を期待されているものではなく、さらに伊予守藤原知章が清尋(静真)を厚遇するのをみた国の内の人も、清尋を敬うこと限りなかったにもかかわらず、清尋の周辺にやって来た彼らを罵り追い出している。このように国司随身僧は、「国司」の安穏を祈祷するものであって、それを国全体に寄与するという意識は全く乏しかったことが窺える。
慶雲もまた国司随身僧の一人であるが、国分寺や在地の寺院とは無関係に住房を定めることができ、地方における寺院勢力とは一線を画す存在であった。その慶雲の推薦によって性空の住む書写山に法華堂が建立されたのであるが、法華堂建立は以後の書写山発展への一大転機となった。
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円教寺法華堂(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影)。法華堂は「法華三昧堂」といい、黎明期の円教寺における中心的施設であった。現在の建造物は江戸時代のもの。
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花山法皇の御幸と講堂の造立
法華堂の建立以後、書写山に多くの堂宇が建立されることとなるが、それは性空個人に対する帰依者が多かったことを意味する。性空の人となりについて、「出家以降、一日も半時も病の痛みなどなかった。一心に経を読むこと60年であった。性空は言葉少なく、高僧が重ねて客となり、対面して語るも、高僧が多言する中、性空は一・二言を答えるだけで顔を下にむいてあげず、考え事をしているかのようであった。」(『朝野群載』巻第2、文筆中、伝、書写山上人伝)と伝えられており、性空は頑健で、寡黙でありながらも人を惹きつける魅力があったことを示している。
性空帰依者のなかでも、最大の人物は寛和2年(986)にひそかに性空のもとを訪れ、結縁した花山法皇である。花山法皇は永観2年(984)に位についたが、寛和2年(986)6月22日、在位2年で突如退位・出家して花山寺に入った。その時若干19歳であった。寵愛した弘徽殿の女御を失い、悲嘆のあまり出家したともいうが(『栄花物語』巻第2、花山たづぬる中納言)、藤原兼家(929〜90)・道兼(965〜99)父子の策謀のため、道兼とともに出家するはずが、花山法皇一人のみ出家するはめに陥ってしまった説話は『大鏡』によって人口に膾炙している。
寛和2年(986)7月27日子刻(午後11時)、花山法皇一行は徒歩にて密かに茂利寺に御幸し、翌28日未刻(午後1時)ほどに書写山に登り、まず性空上人のもとに御座した。そこで花山法皇hは性空と結縁して勅語を下し、性空は合掌して勅を奉った。2更(午後9時から11時)性空は法華経1巻を合掌しながら暗誦した。文殊偈のところで読むのを止めて、経の文義の理を説いた。花山上皇も合掌して性空の読経を聞いていた。29日、花山法皇は歩行にて還御し、途中昌楽寺に立ち寄った。酉刻(午後5時)に浜前の津の西の江、英賀の河尻についた。国司が用意した御船に乗船した。一連の花山法皇の御幸にしたがった扈従の者は10〜20人ほどであった。播磨の国司であった藤原茂利は面瘡のため御前に参じなかったが、事を恐れたため白米100解を花山法皇に進上した。花山法皇は性空にこれを寄進して仏堂を造立し、御願寺として名を円教寺とした(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』華山太上法皇御幸当州書写山事)。
円教寺を御願寺とすることは性空が申請したものらしく、寛和2年(986)11月4日付の性空奏上によると、「施入された白米100石で金色釈迦牟尼如来像1体を造立しましたが、安置する堂宇がなかったため、国司藤原季孝の援助によって堂宇を造立しました。そこで寺号を「円教」とし、造立された尊像を敬いたいと考えています。院宣を在地国(播磨国)に下されて、円教寺をながく御願としたいのです。寺には8口(8人)の僧を置き、毎日それぞれ法花経1巻を転読させます(8人が1巻づつ読むと法華経8巻を読んだことになるから)。また毎年3月と9月のそれぞれ7ヶ日に別に斎会を設けて、法華経を講説します。ただし仏聖灯油供養などの料は、季孝が施入するところの田園地の利を宛てます。」(『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』勅願寺奏上)と述べている。なお永延元年(987)5月26日、勅願寺となすべきの旨の院宣が下された(『性空上人伝記遺続集』性空上人縁起并堂塔修造略図)。
この時建立されたのが講堂で、規模は3間4面(3間に1間の庇が周囲4面につくことで、現在の感覚で外観をみれば5間となる)であったが(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』悉地伝)、さらに屋根は桧皮葺で、礼堂の庇があったという(『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』講堂事)。内部には半丈六の金色の釈迦、5尺(150cm)の金色の普賢・文殊が安置され、これらは性空の弟子の感阿(生没年不明)が造立した(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』悉地伝)。大講堂に安置される釈迦如来坐像(像高138cm、一木造)は、内刳りされた一木造で、底部・脚部の具材の一部は後補であるものの、他は当初の材とみられている。像内背面には貞応3年(1224)9月の修理銘があり(「円教寺大講堂釈迦如来坐像像内背面墨書銘」)、また光背は享保17年(1732)につくられたものであり(「円教寺大講堂釈迦如来坐像光背裏墨書銘」)、台座も同時期のものとみられている。左脇侍の普賢菩薩像(像高155cm、一木造)と右脇侍の文殊菩薩像(像高155cm)は、ともに内刳りのない一木造である。
講堂内部には半丈六の釈迦仏像、普賢・文殊像のほか、金色の5尺(150cm)の聖観音像1体、3尺(90cm)で金色の千手観音像1体、5尺(150cm)の如意輪観音像1体、四天王像がそれぞれ1体(計4体)、金剛力士像1体、坐高3尺(30cm)の金色の弥勒像1体、5尺の賓頭盧1体が安置され、白蓋2枚、僧尭清(生没年不明)が施入した幡19流、出雲助の出雲時方(生没年不明)が施入した1尺2寸(36cm)の金鼓が1口、磬1脚、灯蓋3牧、金銅如意1枚、仏鉢、錫杖1枝があった(『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』講堂事)。
講堂建立の工事は1年かかり、翌永延元年(987)10月7日に落慶の供養が行なわれた。その日屈請した僧は、講師として実因僧都、読師として国分寺住僧である法盛(生没年不明)のほか、厳久律師(944〜1008)・院源阿闍梨(954〜1028)・安海(生没年不明)・清範(962〜99)・珍恵(生没年不明)・静照(?〜1003)であった(『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』講堂事)。その時女人が堂に入って仏に礼拝したが、たちまち地震が発生して五障(女性は「五障」があるとみなされていた)の跡を浄めてしまい、その地が破裂した跡はなお失われておらず、見る者は今(11世紀頃)にいたっても悲泣しない者はいなかったという(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』悉地伝)。
花山法皇は始めて性空に見えてから17年後の長保4年(1002)に、再度性空と結縁し、円教寺を参詣している。
長保4年(1002)3月5日、花山法皇は船にて飾磨津の湊に到着した。そこで使を播磨大掾の小野道忠(生没年不明)のもとに遣わして馬を求めたが、鞍が置かれていない馬2疋を使に付してよこしてきただけで、道忠自身は参上しなかった。そのため花山法皇は不機嫌となり、重ねて使を遣わしたが、使と道忠は旧友であったため、法皇の要請を強いることができなかった。その後播磨大掾の播磨延昌(生没年不明)のもとに使を遣わして馬を求めたところ、鞍を置いた馬10匹を進上し、また津の近辺の郡司らが馬4匹を進上したので、合計で馬は16匹になった。花山法皇に従う者は84人であった。申刻(午後3時)に出立し、ある時は乗馬し、ある時は歩行した。性空が日ごろ通宝山弥勒寺にいるということから、一行は弥勒寺をめざした。先導を行なったのは道忠と延昌の両人であり、その他の官人らは宣旨によって留め置かれた。この途中よりたちまち大雨が降ったが御馬は止まることなく、2更(午後9時から11時)になったため灯をかかげて行列の前後に消息を問いかけると、上も下も道俗もみな笠・簑・烏帽子を忘れ、鶉の衣(つぎはぎの衣)はことごとく雨水に濡れていた。亥刻ほどに弥勒寺に到着したが、みな坊々に火を焚いて湿衣を炙り乾かした。少したってから性空がやってきた。花山法皇と性空は互いに礼拝し、黙然として言葉を交わさなかったが、時間を経るにつれようやく小談した。この寺の行事僧の睿果(生没年不明)は夜中に食事を一行に給し、扈従する者は飲食した。6日も花山法皇一行は弥勒寺に留まった。播磨大掾の播磨延昌は、当郡の郡司の播磨頼成(生没年不明)に朝の御饌の事を命じた。急なことであったため備わっているとは言い難かったが、(彼の)懇志は自ら現われていた。その日の夕膳は播磨延昌が奉仕した(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』華山太上法皇御幸当州書写山事)。
なおこの日、花山法皇は性空の行状を問いかけて「書写山上人伝」を記させたが、この時地震があった。同伝中では「おそらくこれは異相なのであろう」と記している(『朝野群載』巻第2、文筆中、伝、書写山上人伝)。この時、飯室阿闍梨こと延源(生没年不明)が畳紙で性空の肖像を図している(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』聖者廟堂木像色紙文)。延源は障子の外よりひそかに性空の頭上からの形体を写していたが、この時地震があった。法皇は性空に地震がおきた理由を聞いてみると、「お供の中に人ではないものの形体を写している者がいるから」と答えた。法皇が聞いている間に、延源が性空の肖像を写していたことを申上すると、法皇は延源を御前に召して、性空の図を写させた(『性空上人伝記遺続集』花山法皇重臨幸当山事)。法皇は還御してから巨勢広貴(弘高、生没年不明)に性空の肖像を図絵させ、具平親王(964〜1009)に賛文を記させ、三蹟の一人藤原行成(972〜1027)に書させた(『権記』長保4年8月18日条)。また巨勢広貴が性空の肖像画を書写している時、像の右頬のところに筆を落としてしまい墨が付着してしまった。広貴が驚いて拭いたが墨は落ちず、色をつけて隠そうとしても隠れなかったため、不思議に思って法皇に奏上した。法皇は飛脚を遣わして性空に問い合わせてみると、性空は右頬にホクロがあると答えた上で、筆は自ら落ちたのであって、失錯ではないと答えたため、法皇はますます性空に対して敬重したという。この像は当初書写山の廟堂に懸けられていたが、後に宝庫に納められた(『性空上人伝記遺続集』花山法皇重臨幸当山事)。しかし明治31年(1898)の宝庫の火災によって焼失してしまい、同像を江戸時代に住吉絵所で書写された画像が円教寺に伝えられている。
7日、花山法皇一行は弥勒寺を離れて書写山円教寺に向った。花山法皇は円教寺に諷誦米20石を寄進した。導師となった聖珍には手作の布2端をお布施とした。なおこの時法皇は書写山から小さい松の木12本を引き抜いている。法皇は東の坂道より歩行して書写山を下りた。その時法皇は「この山参上の人はみな歩行すべきなり」という宣旨を下した。巳刻(午前9時)ほどに昌楽寺に到着した(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』華山太上法皇御幸当州書写山事)。この昌楽寺は安室郷里高岳の西の原に位置した草上寺の付近にあり、巨智大夫延昌(播磨延昌)が建立した寺院である。この寺は天人が他の木を交えず、木を接いだところはなく、一夜のうちに方4寸(12cm)の小箱の内に極楽の変相を造りあらわし、数十体の仏像・樹木・幡蓋を現出させたという伝説がある(『峰相記』)。未刻におよんで法皇は礼堂の南の縁に立ち、宣旨を下して、「監伊寺上座の豊昭(生没年不明)を仏前に召しなさい」といった。豊昭が参上すると、「小さい松の木を3本、この寺に植えなさい」といい、自ら指図して巽の方角に2本、坤の方角に1本に植えるべきであるとした。豊昭は宣旨を蒙って、手づから鋤をとって庭を堀り、宣旨のままに植えかためた。その後別当平公誠に宣旨を伝えて、「播磨延昌が建立した昌楽寺に松樹3本を植え置かせた。我れが密駕の際にたまたまこの寺に詣でてこれを植えたという由来を、後世に伝えなさい。もしこの松が枯れてしまったら、かの書写山の松を曳いてきて必ず植え替えさせ、さらに枯れたり萎えたりしないようにしなさい。」と述べた。その後法皇は堂の前に下り、地上に跪いて三段拝礼し、「南無大恩教主釈迦牟尼如来」といい、昌楽寺をあとにした。申刻(午後3時)、飾磨津の湊に到着し、船上にてその日の夕膳を食べた。播磨少掾の播磨延行(生没年不明)が奉仕したが、夕膳は豊富で備わっており、数多の飲食が浜頭に満ちた。扈従への饗応のもてなしは上から下の者まで及んでいた。少したってから法皇は播磨延昌を御前に召し、別当遠江介橘則光(生没年不明)を通して宣旨を伝え、「我れが書写山より曳かせた小松12本は、内裏に3本献上し、春宮坊に3本進上し、院に3本植えさせようと思っている。延昌の建立の寺にも植えさせた。性空上人のもとに参詣する際に、かの寺に詣でて植え置かせた由来を(延昌は)後代に伝えさせなさい。」といって延昌の労をねぎらった。延昌は宣旨を聞き、親ら勅語をいだいて、感涙すること連々として感腸断々たるものであった。8日寅時(午前3時)、船は出航して夕方には摂津国大河尻に到着し、9日の朝には河尻を出発して淀の津に到着、10日午後に院に帰着した(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』華山太上法皇御幸当州書写山事)。
花山法皇の再度の御幸後、性空に帰依する者が増え、寛弘2年(1005)5月3日に藤原公任(966〜1041)が播磨国の性空のもとにむかっており(『小右記』寛弘2年5月3日条)、翌4日には藤原道長(966〜1027)が自邸にて30口僧による千部仁王経供養を行なっているが、これは性空のすすめによるものであった(『小右記』寛弘2年5月4日条)。
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円教寺講堂(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影)
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諸堂宇の建立
円教寺の建造物は、性空生前より整備されていき、主要建造物は奥の院を除いて性空の存命中には概ね成立したといってよい。もちろん当時の建造物は一棟たりとも現存していないのであるが、建立当初とは規模・機能・呼称が変化しているものも少なくない。例えば、円教寺の本堂は現在では摩尼殿となっているが、それは近世に西国三十三所霊場として著名になってからのことで、中世まで本堂の機能は講堂が担っていた。さらに性空が書写山に入山した当初では、現在の薬師堂が本堂と呼称されていたようである。
現在本堂となっている摩尼殿は、性空在世中に如意輪堂(如意堂)として建立されたのが濫觴となっている。
天禄元年(970)如意堂を造立し、本尊は生木の如意輪であった。天人が毎日降下して桜を礼拝して七言の偈を唱え、生木の如意輪を礼拝した。化人がこれを示したので性空がこれを見ると、安鎮行者が仏像を刻んでいた。第一の切観音を如意坊に安置した〔手操如意輪と名づけた〕、安鎮は毘首(毘沙門)の化身である。その時性空は61歳であった(『性空上人伝記遺続集』性空上人縁起并堂塔修造略図)。
建立当初の規模は5間で4面に庇があり、木瓦葺であったといい(『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』如意輪堂事)、現在よりかなり小規模であるものの、それでも性空在世中においては円教寺最大規模の建造物であった。内部に居高1尺5寸(45cm)の桜木如意輪観音像1体、居高1尺余(30cm)の綵色不動尊1体、綵色3尺(90cm)の地蔵菩薩1体、同じく綵色3尺(90cm)の薬師像1体、同じく綵色3尺(90cm)の兜抜天像1体が安置されており、8寸(24cm)の金口1口、小金鼓1口があったという(『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』如意輪堂事)。
如意堂は5間4面(現在の感覚でいえば外観は7間)の堂であったが、礼堂・内陣が狭かったため、書写山一山の衆儀によって、7間4面の9間の規模に造替されることとなった。弘安2年(1279)4月15日に斧初、同6月14日に大床土代柱立、同3年(1280)8月16日に堂柱立、10月12日に棟上、同5年(1282)10月16日に一切経会のついでに供養が行なわれた。導師は三井寺の円審法印、読師は円教寺長吏覚秀であった(『性空上人伝記遺続集』如意堂九間造替事)。
延徳4年(1492)2月22日の亥半刻(午後10時)、真言堂から火災が発生し、延焼して本堂(如意輪堂)も焼失してしまい、本尊の桜木如意輪観音も取り出すことが出来ずに焼失してしまった(『新略記』如意輪堂炎上造立事)。明応元年(1492)12月12日に如意輪堂の再興勧進を認める綸旨が出され(「後土御門天皇綸旨案」宣秀卿御教書案)、明応3年(1494)4月18日に再建を行なった(『新略記』如意輪堂炎上造立事)。
この時に再建された建物は大正10年(1921)に焼失してしまい、現存する建造物自体は昭和8年(1933)に武田五一(1872〜1938)の設計により再建されたものであるが、
大講堂は前述したように、性空在世中の寛和2年(986)、花山法皇御幸の際の布施によって建立に着手され、永延元年(987)10月7日に落慶の供養が行なわれた。規模は3間4面(3間の周囲4面に1間の庇がめぐらされる。現在の感覚でいえば外観は5間)であった(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』悉地伝)、のちの記録によると屋根は桧皮葺で、礼堂の庇があったという(『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』講堂事)。大講堂が解体修理工事のため発掘調査が行なわれたが、出土の礎石の状態から、床は土間であったようであり、『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』講堂供養願文の記述から、寛和2年(986)の造営以前に仮堂のようなものがあったと推測されている(『重要文化財円教寺大講堂修理工事報告書』)。
大講堂が建立されて230年あまりたった承久2年(1220)6月10日に円教寺の講堂および仏堂を修造するための勧進帳が出されたから(『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』講堂)、この頃再建されたと思われる。そのわずか12年後の貞永元年(1232)に円教寺の俊源が3間4面一重(一階建)の堂を二重(外観を二階建風にすること)に造り替えており、同年10月4日に棟上、翌天福元年(1233)9月26日に醍醐寺の覚心によって供養が行なわれた(『性空上人伝記遺続集』講堂二階造替事)。この時の修造は他の記録や、発掘調査によって発見された焼土層や遺跡の上から考えて、現在の大講堂の規模とほぼ同じものであったとみられている(『重要文化財円教寺大講堂修理工事報告書』)。
その再建された大講堂も99年後の元徳3年(1331)3月5日未時(午後2時)、五重塔が雷火によって炎上し、類焼して講堂・食堂・常行堂・大経蔵の5宇が一気に焼失してしまった。書写山の衆徒は同月内に再建の上奏を行ない、同22日には早くも講堂再建の杣始めが実施され、同29日には手斧始め、翌年の元弘2年(1332)3月2日には棟上。6月には造営を完了し、8月10日には本尊を安置した(『クン拾集』当山堂塔炎焼事)。こうして大講堂は速やかに再建されたが、105年後の永享8年(1436)11月29日に焼失している(『鎮増私聞書』永享8年11月29日条)。現在の大講堂については、後述する。
講堂の正面に位置する常行堂は、成立年は不明であるが、性空在世中には成立していたらしい。屋根は桧皮葺で、規模は3間、庇が4面あり、内部には金色の3尺(90cm)の阿弥陀1体、金色の1尺5寸(45cm)の四摂菩薩がそれぞれ1体安置され、他に金銅の閼伽器1具、瓶2口、仏器茶碗4口、1尺(30cm)の金鼓1口、5寸(15cm)の磬1口、灯蓋1杖、花鬘代7枚があった(『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』常行堂事)。ここにみえる阿弥陀と四摂菩薩とは、念仏三昧法の本尊である宝冠阿弥陀如来と金剛法・金剛利・金剛因・金剛語の4菩薩で、坐像であるとみられている(兵庫県立歴史博物館1988)。その後第27世長吏の教厳房信覚(生没年不明)が修造を行ない、仏像を荘厳して柱の後戸に絵を描かせた。寛元元年(1243)10月15日に堂ならびに絵供養の導師として松尾証月上人こと慶政(1189〜1268)が屈請された。その時、衆徒は八軸(法華経)を暗誦できる2人を出し、如意堂において同じく読経させた、慶政は聴聞し感歎した。この児らは皆13歳であった。慶政は帰洛の後、錦の経袋を縫って2人の児に送った。2人の児は出家の後は、永舜(円浄坊)・静宗(周防坊)である(『性空上人伝記遺続集』常行堂修造事)。
88年後の元徳3年(1331)3月5日未時(午後2時)、五重塔が雷火によって炎上し、類焼して講堂・食堂・常行堂・大経蔵の5宇が一気に焼失してしまった。この直後、大講堂は再建に着手されて翌年には完成したのだが(『クン拾集』当山堂塔炎焼事)、常行堂がいつ再建されたのかはわかっていない。『クン拾集』の撰者は、「はたまたこの両年(1331〜32)の間、並べて常行堂の造営あるか。その故は、元弘2年(1332)行事の勝義房の本了房の時、一切経会また始め行わると見えたり。よって彼の堂の柱立等の月日・良辰、追ってこれを尋ぬべし。巨細の勘文・記録これ無し。」とあるように、詳細な記録がないため常行堂がいつ再建されたのかは不明であるものの、元弘2年(1332)には一切経会が行なわれていることから、常行堂は大講堂とあわせて再建されたものとみなしている(『クン拾集』当山堂塔炎焼事)。三堂焼失から17年後の貞和4年(1348)2月23日に三堂上棟の祝が行なわれ、常行堂は上棟の祝料として布5000疋、馬120疋を120人の僧侶が用意していることから(『クン拾集』当山堂塔炎焼事)、常行堂は少なくとも貞和4年(1348)までには再建が完了していたようである。この時再建された常行堂もまた、88年後の永享8年(1436)11月29日に焼失している(『鎮増私聞書』永享8年11月29日条)。現在の常行堂については、後述する。
食堂は、講堂と常行堂の間に位置しており、3宇で「コ」の字を形成し、この3宇で「みつの坊」と称される。もとは4間1面(4間の母屋の前方のみ庇を設けること。現在の感覚でいえば、外観は桁行4間のままで変化はないが、梁間は前方に1間張り出す)で、教興坊と号していた(『性空上人伝記遺続集』食堂造立十三間事)。食堂の解体修理工事に際して、昭和35年(1960)に地盤調査のため発掘調査が行なわれたが、平安時代後期に属する複弁の軒巴瓦が発掘されている(『重要文化財円教寺食堂護法堂修理工事報告書』)。
のちに俊源が寛元年中(1243〜47)に2階立の13間(12間)の規模に改め、三宝院と改名した。寛元3年(1245)11月3日に上棟された(『性空上人伝記遺続集』食堂造立十三間事)。三宝院の南には懸造(摩尼殿や清水寺本堂のように斜面に建てる建築様式)で3間の規模の小食堂があったが、その後いずれの時にか三宝院と小食堂をあわせて15間2階建の懸造に造り替え、さらに拡大させている(『クン拾集』当山堂塔炎焼事)。
この拡大された三宝院(食堂)は元徳3年(1331)3月5日未時(午後2時)、雷火による五重塔の炎上に際して類焼してしまった。暦応元年(1338)に再建工事が着手されたが、土を盛って谷を埋め、懸造をやめている(『クン拾集』当山堂塔炎焼事)。実際に発掘調査では、第一焼土層と第二焼土層があり、第一焼土層では現在の食堂の南側から礎石が検出されており、これらは現在地中に埋まっている西側にくだる急激な斜面から発見された。このことから元徳3年(1331)焼失以前の建造物は確かに懸造であったことが確認された。また第二焼土層は盛土をしており、現在と同規模であった。また礎石は第一焼土層の建造物よりも5間、北に移動している。貞和4年(1348)2月23日に三堂上棟の祝が行なわれ、食堂は上棟の祝料として布5000疋、馬120疋を120人の僧侶が用意していることから(『クン拾集』当山堂塔炎焼事)、食堂は少なくとも貞和4年(1348)までには再建が完了していたようである。この時再建された食堂もまた、88年後の永享8年(1436)11月29日に焼失している(『鎮増私聞書』永享8年11月29日条)。現在の食堂については、後述する。
また現存していないが、講堂・常行堂・食堂の地には多宝塔が建っていた。裳層が4面にあり高欄が付随していた。内部には五智如来5体、4面の扉には四天王八部衆が描かれていた。多宝塔は性空在世中に治部少丞の安倍有重が半ば建立していたが、後に大日院日照が供奉して造営が完了している(『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』多宝塔事)。もとは講堂の東南の角(現在の本多家廟がある場所)に位置していたが、文暦2年(1235)4月26日、俊源が如意堂の上に移し、多宝塔があった位置には五重塔を建立した。その71年後の嘉元3年(1305)正月20日巳時(午前9時)、見鏡房の出火が延焼して、多宝塔も焼失してしまった(『クン拾集』多宝塔造立事)。
五重塔は現存していないが、もとは講堂の東南の角(現在の本多家廟がある場所)に位置していた。九条道家(1193〜1252)の御願で、その娘で四条天皇の母である藻璧門院(1209〜33)の菩提を弔うために造立された。円教寺俊源の勧進によるものであった。文暦2年(1235)8月13日に棟上され、本尊の五智如来であった。建長2年(1250)10月29日に正信を導師として供養が行なわれた(『性空上人伝記遺続集』五重塔造立供養事)。元徳3年(1331)3月5日未時(午後2時)、五重塔が雷火によって焼失した(『クン拾集』当山堂塔炎焼事)。
貞和4年(1348)2月に再建に着手されたが、五重塔が建っていた地には、もとは多宝塔が建っており、雷で焼失したのは都合3度目であったため、建設場所を替えるようにとの議論が書写山内外で巻き起こった。衆議で決定することができず、鬮(くじ)を三度行なってみると、三度とも現在地を指し示した。そのため議論がやむこととなった。文和2年(1353)6月6日に心柱を建てた。延文2年(1357)4月9日午時(午前11時)。雷が造営中の五重塔の三重目の南方に直撃し、内部には番匠等がいて、心柱が少々破裂したものの、無事であった(『クン拾集』次五重塔婆造営事)。
応安3年(1370)11月、五重塔が完成して塔供養が行なわれることとなり、安居院良憲が塔供養の導師になることを以前より望んでいたので、書写山満山一致によって安居院良憲が導師と決定され、14日に供養が行なわれることになった。しかし播磨国守護の赤松氏に縁がある慈俊法印が導師になることを望んできた。書写山満山一致で安居院良憲が導師になることが決定していたので、書写山側は慈俊の要請を却下したが、慈俊は安居院流が代々妻帯の門流であることを非難して、「六根清浄の霊場」の塔供養導師に相応しくないと主張した。そのため書写山側は塔供養を26日に延期することとなった。安居院良憲は弁明の書簡を書写山に送って、安居院流の門流が祖師澄憲以来、天下の大導師であることを説明した。またこの騒動が朝廷にも聞こえ、朝廷は安居院良憲が導師をつとめるよう綸旨を下し、塔供養導師は安居院良憲が行なうこととなった(『クン拾集』五重塔婆并諸堂供養事)。
こうして再建された五重塔であるが、文明11年(1479)正月1日に雷のため焼失してしまった(『大乗院寺社雑事記』文明11年正月朔日条)。再建のため永正10年(1513)に勧進を催し、大永年間(1521〜28)頃に土台を造ったが、ついに再建されることはなかった(『新略記』東谷塔本塔炎上事)。
真言堂は、現在不動堂とよばれている堂がそれに該当するらしい。規模は1間4面(1間の母屋の周囲4面に1間の庇がつく。現代の感覚でいうならば、外観は3間にみえる)で、5尺(150cm)の不動明王1体、四大尊それぞれ1体、銅閼伽坏1具、火地2口、5寸(15cm)の金鼓1口があった。この真言堂は慶雲が寺物で建立したもので、尊像5体は5人の檀越が造営に携わった(『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』真言堂事)。真言堂は弘安6年(1283)に慈勝(?〜1298)が宝形造の唐堂に造替した。慈勝はこの真言堂の他、勧請神拝殿・白山拝殿・乙護法拝殿・御廟堂・五重塔上葺・大床を勧進して造営した。慈勝は若干寺物を用いて造営を行なったとはいえ、大概は私物で造営事業を行なったため、書写山は慈勝に帰服したという(『性空上人伝記遺続集』真言堂造替事)。
延徳4年(1492)2月22日の亥半刻(午後10時)に真言堂は焼失したが(『新略記』如意輪堂炎上造立事)、戦国の大乱が終息に向いつつあった天正年中(1573〜12)、石川伊賀守殿が西坂元の代官であった時、真言堂護摩供料および上人御精進供料として20石が田地にて寄付された。これを利用して真言堂が造立された後、不動・毘沙門二尊への護摩供養が、上旬・下旬怠らず、永代興隆するものであった。その後、姫路本塩町の大西甚左衛門尉(後に入道して法名を寿徳と号した)が、私財を用いて造替した。もとは東壇に不動、西壇に毘沙門、中間に茶湯があったのだが、上旬に不動、下旬に毘沙門護摩とし、一方の壇が空くこととなってしまった。そこで不動等五大尊ならび毘沙門を一所に安置し、一壇を造替させたのであった(『新略記』真言堂事)。
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円教寺食堂(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影)
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性空の示寂と後継者争い
寛弘3年(1006)正月1日、性空は大般若経書写の願をたてたが、これがならぬうちの翌寛弘4年(1007)3月9日に門弟に告げて、「生死の身は明日棄つべし」といったため、老若はこれを聞いて心は沈んで憂悔とした。10日未時(午後1時)に遂に定印を結んで西に向いて坐禅して示寂した(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』悉地伝)。翌11日に火葬し、卒都婆を建てて七々日(四十九日)の間、念仏三昧をして中断することはなかった。四十九日目に源審供奉が講師となって、性空が生前に立願していた大般若経書写の供養が行なわれた(『性空上人伝記遺続集』上人御入滅事)。
性空示寂後間もなく、性空の墓所として御廟堂(みみょうどう、開山堂)が造立された。造立内部には綵色木像の性空影像1体があり、これは延昭が行事僧となって、安鎮が造立したものであった。また性空影像1幀があり、これは花山法皇が御幸の際に性空の姿を写したもので、巨勢広貴が図絵し、中務卿具平親王が賛をし、藤原行成が書したものであった。これは御廟堂内に懸けられていた(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』聖者廟堂一宇)。弘安6年(1283)には慈勝によって御廟堂などの建物の勧進が行なわれたが(『性空上人伝記遺続集』真言堂造替事)、弘安9年(1286)8月20日夜半に御廟堂の雑舎から火が出て、御廟堂・乙若の本殿・拝殿が焼失してしまった。夜半の焼失であったため、御廟堂から安鎮作の性空木像を取り出すことができず、灰燼と化してしまった。ただし焼け残った像の中に瑠璃壺があり、衆徒がこれを見てみると、内部に性空の骨が入っていた。正応元年(1288)御廟堂を造立し、教忍が勧進し、仏師慶快法眼を請じて、絵像をもとに木像を造立した。瑠璃壺の骨はもとのように木像内に入れた(『性空上人伝記遺続集』御廟堂護法所等炎上并造立事)。現在の開山堂は、正面5間(12m)、側面6間(13m)の方形造の本瓦葺であり、懸造となっている。宝珠柱銘によって寛文5年(1665)に建立されたことが知られる。
平成10年(1998)円教寺塔頭仙岳院から、性空の木像が発見された。この性空上人坐像(像高89cm。木造寄木造)は後補で表面に赤茶色に塗られているが、13世紀にさかのぼる造立であるとみられている。像を安置する厨子内に享保19年(1734)の修理銘札があり、それによると、京都の仏師前田修理標好に修造させたところ、頭の中に瑠璃色の壺があり、開いてみてみると性空の骨が壺中に満ちていた。その壺を浄らかなところに移したとき、地の揺れを感じた。像の修理がなって、以前のように壺を頭の中におさめて、尊像の修理が落成したとある(奈良国立博物館他2008収録の岩田茂樹「円教寺開山堂の性空上人像」による)。また同像は奈良国立博物館のエックス線調査撮影にて、頭部に木箱に入っていたガラス製のつぼが発見された。つぼはリンゴに似た形で直径約11cm、高さ約20cm、木製らしい栓がしてあり、下から約3分の1まで、砕けた人骨のようなものが写っている(京都新聞2008年8月15日)。
性空示寂以前より、円教寺山内では人事にかかる紛糾があった。円教寺が寛和年間(985〜87)に興隆した時、住僧は数十人おり、それに従う童僕もまた多数いて、また田園を有する寺院であったから、別当を競望して門徒が諍論をおこす有様であったという。性空はこれらの騒動を抑えるため、円教寺の事のすべてを弟子の延照(1066〜?)に執行させることと決定した。長保3年(1001)8月20日、性空の弟子の延照と重算は連署して、円教寺の寺務は性空の弟子が執行するのみとして、「化来の僧」らの寺務執行を停止するよう要請した。これをうけて播磨介藤原信理(生没年不明)は、山の事すべてを延照に付属させ、他の者にはあずからしめなかった(『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』聖者門徒起請)。
数年後、性空は90歳を過ぎて老病に罹りがちになった。性空は自身が没して後の紛糾を抑えるため、寛弘4年(1007)正月20日、花山法皇に弟子僧の延照の門徒が相続して書写山円教寺の雑務を執行するよう奏請した。この奏請は同月22日に裁可された(『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』聖者門徒起請)。
長保3年(1001)8月1日に性空が示寂すると、円教寺の寺務を執行する行事職をめぐって、延照と義算が争うようになる。
義算は慶雲の弟子である。慶雲は、性空と同じく天台宗の僧であり、国司随身僧であったが、書写山に法華堂が造立されるとともに性空にしたがうようになる。慶雲はいわば性空の他の生粋の弟子ではなく、やや客分のような扱いであったらしい。性空のもとに僧円意なる者がやって来て子息2人の名簿を差し出して、この2人を性空に預けた。性空はこの2人を慶雲に付属させることにした。慶雲は兄の方を手元において学問をさせた。これが義算である。弟の方は聡明であったから京都にのぼらせ、当時碩学として有名であった慶祚(955〜1019)に文を学ばせた。これが源禅(生没年不明)で、のちに名僧として名を轟かせたという(『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』聖者門徒起請)。
義算は性空示寂後、鉢1具・釜1口をつくって寺物とした功課によって、行事職に自身が任ぜられるべきであるとの文書を公家に提出して訴えた(『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』聖者門徒起請)。この訴えが認められて、寛弘6年(1009)12月7日に義算に官苻を賜り、翌寛弘7年(1010)正月14日に義算は書写山に登山しようとしたが、妨害があったのか退去している。同月中に今度は延照が上洛して、奏状を提出した。延照を山門(比叡山)が擁護したため、4月28日に官苻が延照に下されることとなった(『性空上人伝記遺続集』当山行事寺務延照為始事、私云)。延照は義算が功績とした鉢と釜について、鉢は義算の師慶雲が寺倉の米12斛で買い取り施入したものであり、釜は義算が性空の使者として出雲守則俊朝臣の館に行ったとき、官人とともに鋳造して運送したものであって、いずれも義算の功績ではないとした。また院宣などによって円教寺は性空一門の寺院とされたことを引き合いにし、慶雲の弟子であっても性空の弟子ではない義算ではなく、性空の弟子である自身(延照)が行事職となるべきであると主張した。この主張は受け入れられて官苻が下され、改めて延照が円教寺の行事職となった(『播磨国飾磨郡円教寺縁起等事』聖者門徒起請)。
以後、円教寺の寺務を執行する一和尚を「行事職」と呼んだが、18世行事職の弁賀の時、後白河法皇の命によって行事職を「長吏」と呼ぶことになった(『書写山円教寺長吏記』)。
性空の弟子のなかには、円教寺にとどまらず、他の地に去って行を重ね、名僧として知られたものもいた。平願や高明がその代表格である。
平願は常に法華経を持し、さらに他業がなかった。深い山に籠って数年読経していたが、大風がたちまち吹いて房舎が顛倒し、平願は下敷きとなり、命を終えようとしていた。一心に法華経をよんで命が助かることを念じていると、神人がたちまちやって来て、倒れた房の中から平願を抜き出し、「お前は宿業のためこの災禍にあったのだ。妙法の力が身命を存させたのである。悔恨の心を生ぜず、よく法華経を持し、今宿業をつくせば来世は往生極楽するだろう」といった。平願は老いると衣鉢を捨てて仏事につとめ、法華経を書写し仏菩薩を図絵した。。広い河原にて仮舎を建て、無遮の法会(廟堂に財法二施を行ずる法会)を修した。また朝夕に講筵し、弥陀念仏および法華懺法を修した。平願は「もし感応があって極楽に生まれるのならば、今日の善根にその瑞を見るべし。」と誓願し、涙を揮って礼仏した。会が終わって人が去り、翌日行って見ると、法会の河原に白蓮の花が数百千も生じており、花が開いて香がただよっていた。見る者はみな賞嘆して「これ聖人往生の瑞相のみ」といった。平願はこれを見て随喜すること限りなく、老後も転経に暇がなかった。観念退かず、病悩なく西に向って合掌して没した(『大日本国法華経験記』巻上、沙門平願伝)。
高明は大宰府大山寺に住み、三衣一鉢のほか、ほかに資財というものがなく、念仏読経を業とした。ある時は博多の橋を造り、ある時は六角堂を建立し、また清水寺にて如法で法花経を書写し、書し終わってこれを井戸の中に埋め、「我れがもし成仏するならば、この井戸の水は温泉となる。将来の人は、これを符となせ」と誓った。臨終のとき、正念に安住して一心に念仏し、西に向いて遷化した。人々の夢の中にみな往生する相がみえた(『続本朝往生伝』砂門高明者伝)。
平願や高明のように、性空示寂後に円教寺を去った者もいたが、性空が持経者の代表格であったことから、そのため書写山に持経者が多く集まった。性空の読経は極めて速く、人が四・五枚読む間に、(法華経を)一部は誦み終わっていた(『今昔物語集』巻12、書写山性空聖人語第34)といい、これは常人の約28倍であった換算される(清水2007)。それと同様に性空の弟子も持経者や「能読」が多くあらわれた。
中世では読経の名人を「能読」と評価されていたが、円教寺長吏の中にも能読の僧がおり、歴代の円教寺長吏の補任記録である『書写山円教寺長吏記』によると、朝豪(46世)・幸尊(63世)・快意(64世)・円朝(70世)・承順(94世)・快永(99世)・秀仁(111世)・長盛(114世)・春昌(118世)・猷為(119世)と10人の僧が能読としてあげられている。彼らの活動は時には書写山の外にもおよび、円朝は「他山ノ経師範」であったという(『書写山円教寺長吏記』)。このような「能読」は後世、書写山において読みの芸能の基盤となり、中世には書写山流読経を形成し、「珍読様」と評され早歌に似ていたという武蔵国村岡流読経は。書写山流読経を継承したものであったという(『康富記』永享9年12月29日条。清水2007参照)。
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円教寺常行堂(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影)
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後白河法皇の書写山御幸
平安時代後期、法華経信仰の高まりとともに、観音霊場を順礼(巡礼)する修験者が登場した。この円教寺も西国三十三所の27番札所として名高いが、「三十三」の数も法華経普門品が説く観音の33の変化身にちなんでいる。
西国三十三所の史料上の初見は、11世紀後期に成立したとされる「行尊巡礼記」である。これによると園城寺の行尊(1055〜1135)は三十三所を150日かけて巡礼している。うち円教寺の如意輪堂に安置された観音像は、1尺6寸(48cm)であり、同所は14番札所となっている(『寺門高僧記』巻4、行尊大僧正法務伝、所引行尊巡礼記)、さらに応保元年(1161)以前に園城寺の覚忠(1118〜77)が行なった巡礼の記録とされる「覚忠三十三所巡礼記」によると、円教寺は15番札所であり、御堂は9間の南向で、本尊は丈六の如意輪観音、性空が願主であったとする(『寺門高僧記』巻6、覚忠大僧正法務伝、所引覚忠三十三所巡礼記)。また承元5年(1211)閏正月に「長谷寺僧正」の御本に基づいて観音菩薩をまつる三十三所の寺院を国別に書き上げた「観音三十三所日記」(高山寺文書)には「同(播磨国)/書写山 一尺六寸如意輪」とある。もっとも「行尊巡礼記」は古くから史料的価値について疑問点が提唱されており、また「覚忠三十三所巡礼記」も円教寺の如意堂を9間としているが、如意堂は弘安3年(1280)10月12日の上棟の時に、円教寺の衆議によってはじめて9間の規模に建て替えられたのであるから(『性空上人伝記遺続集』性空上人縁起并堂塔修造略図)、「覚忠三十三所巡礼記」は覚忠に仮託されて後代に記録されたのものである可能性は高い。いずれにしても観音信仰の高まりとともに円教寺が西国三十三所札所に組み込まれて、観音霊場となったことが窺える。そのようななかで、後白河法皇が書写山円教寺に御幸している。
後白河法皇と書写山のとの関係の端緒は不明である。だが後白河法皇は幼少より今様に傾倒し、今様の歌謡集『梁塵秘抄』を編纂したが、その『梁塵秘抄』内に書写山に関する歌謡がいくつか散見される。
「聖の住所は何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ。播磨なる、書写の山、出雲の。鰐淵や。日の御崎、南は。熊野の。那智とかや」(『梁塵秘抄』巻2、僧歌)
「聖の住所は何処何処ぞ、大峰葛城石の槌、箕面よ勝尾よ、播磨の書写の山、南は熊野の那智新宮」(『梁塵秘抄』巻2、僧歌)
「淡路はあな尊、北には播磨の書写を目守らへて、西には文殊師利、南は南海補陀落の山に対ひたり、東は難波の天王寺に、舎利まだおはします」(『梁塵秘抄』巻2、僧歌)
このように庶民信仰の中に書写山円教寺が「聖の住所」というイメージと、観音霊場というイメージが形成されていたことが窺える。後白河法皇自身も天台教学に精通しており、そのことが円教寺と後白河法皇を結びつける契機となった可能性があるが、円教寺が位置する播磨国は、院政期に隆盛を極めた平家一門と極めて密接な関係があった。鳥羽院の時に円教寺の一切経の残部がわずかに二千余巻(通常一切経は五千巻ほど)となってしまったため、宇治大閤(藤原忠通か)と播磨守平忠盛(1096〜1153)が六年かけて数千軸を書写し、経蔵にそなえたという(『クン拾集』当山一切經会始行事)。
後白河院政期の仁安3年(1168)9月23日、後白川院の御願によって平清盛が一切経一千余巻を施入し、円実法眼が法会を執行したという。その願文によると、「播州書写山講堂にとげて、供養の斎筵を展するところなり。ここに毎年今の月、かの宇治平等院に擬してこれを一切経会と号す。永年の勤めをなし、敢えて随失せざれ。仁安三年九月廿三日 沙弥清蓮敬白」とあったという(『性空上人伝記遺続集』当山自草創至今時仏事講演始行年記事)。ただしこの願文について、『性空上人伝記遺続集』の撰者である昌詮は「大政入道(清盛)の真筆であるというとは不審である。『平家物語』には“仁安三年十一月出家、法名静海”とあるが、願文では九月に(すでに法名に)なっている。また法名は清蓮とあって、不審である。追って詳しくすべきである」とのべているように、清盛と円教寺の一切経会との記事について疑念を述べている(『性空上人伝記遺続集』当山自草創至今時仏事講演始行年記事)。
後白河法皇が円教寺に御幸したのは承安4年(1174)のことであるが、同年3月16日に後白河法皇と建春門院(1142〜76)は平清盛の福原別業に向かい、19日を期して伊津岐島(厳島)に参詣している(『玉葉』承安4年3月16日条)。円教寺の参詣はその半月後であった。
後白河法皇は承安4年(1174)4月3日、円教寺に御幸した。書写山での御所は中院坊が定められた。法皇は7日間、如意堂に参篭した。閉ざされている如意輪観音の厨子を開くよう、勅定があった。草創以来、如意輪観音の厨子は開かれたことはなかったが、勅命により厨子は開かれ、法皇は本尊を拝見した。第19世の一和尚である慈勝坊慶兼(生没年不明)は命令によって仏前に参じた。法皇と慶兼の他は本尊を見ることはなかった。その時、法皇は慶兼の名を問うたため、慶兼は「一和尚某」と申し上げた。法皇は勅して、「お前は“長吏”とすべきである」といったため、これより以後は一和尚職を長吏と号した。これ以来、年預も行事と称したが、上代には一和尚を行事と号していた。後白河法皇は自筆の礼を如意堂の正面に打ち付けた(『性空上人伝記遺続集』後白河法皇当山幸駕事)。
また源頼朝(1147〜99)も播磨国書写山に深く帰依しており、再興を高階泰経(1130〜1201)を通じて奏達していたが、文治元年(1185)8月30日にも再度内々に沙汰している(『吾妻鏡』文治元年8月30日条)。
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円教寺本堂摩尼殿の東側面(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影) 。摩尼殿はかつて「如意堂」と呼ばれており、本尊の如意輪観音は西国三十三所のひとつとして参詣者を多く集めた。
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中世における書写山の動向
書写山は中世も多くの参詣者を集めた。時宗の開祖一遍もその一人である。
一遍(1239〜89)は弘安10年(1287)春、書写山に参詣した。一遍は性空を尊敬していたから、円教寺の本尊を拝みたいと思っていたが、円教寺の住僧から「久修練行の常住僧のほか余人すべてこれを拝したてまつることなし」とした上で、後白河法皇のみが拝んだだけであったと言われて拒絶されてしまった。そこで一遍は次の四匂の偈と和歌一首を作っている。
書写即是解脱山 書写は即ちこれ解脱の山
八葉妙法心蓮故 八葉妙法は心蓮の故に
性空即是涅槃聖 性空は即ちこれ涅槃の聖
六字宝号無生故 六字の宝号無生の故に
かきうつすやまはたかねの空に消えて ふでもおよばぬ月ぞすみける
円教寺の住僧は「この聖の事は他に異なり、所望黙止しがたし」と述べて、一遍が本尊を拝むことを許した。一遍は紙燭(照明の一種)を持って一人内陣に入り、本尊を拝んで落涙した。一遍は一夜行法して、翌朝に書写山を出るとき、春の雪が味わい深く降っていたため、「世にふればやがてきへゆくあはゆきの 身にしられたる春のそらかな」と詠んだ(『一遍聖絵』第9、第4段)。
播磨国出身の名僧の多くが円教寺にて出家している。禅僧になった者も多いが、その後も書写山と密接な関係を有する者もいた。
月船シン(王へん+〈深−さんずい〉。UNI741B。&M021049;)海(1231〜1308)は幼い時から出家することを求め、書写山にて剃髪し、その後受戒した。あらゆる経典に精通し、とくに密教に秀でていた。その後再度書写山に戻り、庵をつくり禅観をもって専門とした(『東福第八世法照禅師十乗坊行状』)。その後世良田の長楽寺・京都東福寺など遍歴を重ねて禅僧となったが、正安2年(1300)春頃に月船シン海は書写山に戻って書写山一山の衆徒に対して潅頂を行なった。潅頂を受ける受者80人を40人づつの二手にわけて隔日とし、講堂から舞台(常行堂に付属する向拝のような張り出し)をへて、列をひいて常行堂を道場とした。見物人達が堂の外に集まっていた(『峰相記』)。また円教寺塔頭正覚院の建立も、月船シン海と非常に深い関係があった。『クン拾集』よると、月船シン海の生まれは当国賀古郡の人で、年10歳ばかりの時、当山遍照院中門のあたりに捨て置かれ、坊主浄密坊静快が早朝に見つけた。以後扶持されることとなり、出家後は書写山を離れて故郷の当国(播磨国)都田寺住に行き、その後上野国に到った。黒衣を着て、数十年の間真言を学び、奥儀を極めた。世羅田(長楽寺)・東福寺両寺の長老となり、公家・武家の崇敬は並ぶ者がなかった。書写山に戻る宿願があり、遂にその願望を果たして、書写山に帰った。真言を弘通して、受法の弟子はその数がわからないほど多かった。正安3年(1301)3月晦日の頃、潅頂大法を行なわれた時、受者80人の内、増位寺の住侶は9人、そのほかは松尾・楽々山・松原別宮などの人々であった。この中から器量の人を選んで阿闍梨の職位に定め、その人を抜擢してこの宗旨の奥儀を授けた。京都に戻った後、潅頂具足ならびに一流聖教はすべて京都に発送したが、聖教はことごとく如意輪堂の蔵に納めた。詳細は「目録注文」の通りである。五宝鈴の中に谷阿闍梨皇慶(977〜1049)の鈴があった。月船シン海は徳治3年(1308)6月下旬に78歳で示寂した。詳細は「正覚院万陀羅供表白」にある。その後当山の遺弟らは了果禅師を大勧進に任命し、塔頭を建立して正覚院と名づけた。毎月26日に万陀羅(曼荼羅)供を行ない、この人数をもって、当山潅頂真言の先達に定めた。造立の年号月日はわからないが、了果は神岡金剛寺開山の仙光御房である。このことは持宝坊昌尊僧都の説である。この人は月船から受法した人で、上野にも度々下向したことがある(『クン拾集』正覚院造立事)。
大徳寺開山の宗峰妙超(1282〜1337)もまた播磨国出身ということもあり書写山と関係が深い。宗峰妙超の父母は書写山の如意輪観音に祈ったが、母が夢で、ある僧から手ずから白花の五葉が開いているのを与えられた夢を見、これによって妊娠がわかったという(『大徳開山興禅大灯高照正灯国師年譜』弘安5年条)。正応5年(1292)11歳のとき、書写山に登って戒信律師にしたがった(『大徳開山興禅大灯高照正灯国師年譜』正応5年条)。また東巌慧安(1225〜77)も若き頃は書写山にて出家しており(『東巌安禅師行実』)、播磨国における大寺として、播磨国出身で僧侶を目指す者達は、みな書写山で出家した。
円教寺内部において、諸堂造立に功があった者に、円教寺第34世長吏の俊源(生没年不明)がいる。播磨国賀古郡の出身で、源義経が一の谷の戦いにて道案内をした鷲尾庄司の末孫であったという。はじめは西法院に住み、のちに真覚坊に移ったから、俊源は真覚上人ともよばれた(『書写山円教寺長吏記』)。俊源者は「大興隆の人」と称され、講堂・五重塔・食堂の3宇はみな俊源が修造させたものであった。また講田80余丁を大小の仏事を興行するために寄進した。そのため性空以後の大興隆は俊源にしかずといわれた(『性空上人伝記遺続集』食堂造立十三間事)。
俊源の造立の成果をみてみると、貞永元年(1232)に講堂を二階建に造り替え、天福元年(1233)9月26日に供養を行なっている(『性空上人伝記遺続集』講堂二階造替事)。
五重塔は九条道家の御願であったが、勧進自体は俊源が行なって造立したもので(『性空上人伝記遺続集』五重塔造立供養事)、多宝塔を文暦2年(1235)4月26日に如意堂の上に移し(『性空上人伝記遺続集』講堂二階造替事)、五重塔を文暦2年(1235)8月13日に棟上、建長2年(1250)10月29日に正信を導師として供養が行なわれたが(『性空上人伝記遺続集』五重塔造立供養事)、この供養の時、一切経会の舞童を10人から16人に加増したのも俊源であった(『クン拾集』当山一切経会始行事)。
食堂はもとは4間の堂に過ぎなかったのだが、寛元年間(1243〜46)に二階建13間に改め、寛元3年(1245)11月3日に棟上された(『性空上人伝記遺続集』食堂造立十三間事)。
このように円教寺の造立において功績をあげた俊源であったが、俊源在生中、ほしいままに権門勢家の子息を弟子とし、寺領などを譲り置かれたため、俊源示寂後、書写山山上は煩多となり、円教寺の院主・別当職は円教寺の門徒がつくものであるのを俊源門徒が競望したため、円教寺から俊源門徒は追放され、そればかりではなく俊源の墳墓は放置され、追修・追善が行なわれなくなっていた。延文2年(1357)4月9日に再建中の五重塔に雷が落ちたため、俊源の霊魂が怨みであるとされた。そこで俊源の菩提を弔うため、11月13日に一日千部経の転経が行なわれた(『クン拾集』次五重塔婆造営事)。
なお永享4年(1432)8月には将軍足利義教が円教寺に参詣している(『鎮増私聞書』永享4年当年条)。
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円教寺講堂(右)と食堂(左)(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影)
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後醍醐天皇の書写山行幸
元弘の変で鎌倉幕府によって隠岐国に配流された後醍醐天皇は、名和長年(?〜1336)らの助力によって隠岐国より脱出し、伯耆国を行宮とした。その後新田義貞・足利高氏が鎌倉幕府を滅ぼしたため、京都に還御することとなった。その途上、後醍醐天皇は書写山円教寺に行幸した。
後醍醐天皇の書写山行幸は『太平記』書写山行幸事付新田注進事にも記されて比較的著名であるが、ここでは書写山の僧俊乗坊行春(1261〜1341)が記録した『書写山行幸記』によって記述してみよう。なお『書写山行幸記』は『クン拾集』に収録されている。
元弘3年(1333)5月26日、後醍醐天皇は伯耆国より播磨国千本宿に到着し、書写山の衆徒や夏講の衆以下が出迎えのため参向した。(天皇一行は)みな兵具を帯びており、その数80余騎であった。また同日、京都より前関白近衛経忠(1302〜52)が天皇を迎えるため坂本に到着した。天皇は東坂本の和気大学入道邸を宿所した。同27日、天皇は千本宿を出発して、箸崎宿にて暫し休息した。この日午剋(午前11時)になって、先陣の軍兵が書写山に登り、申剋(午後3時)には天皇は西坂より書写山に行幸した。随行する者は、公卿の洞院実世(1308〜58)や武将の名和長年らで、出雲・伯耆・美作国などの軍兵がしたがった。天皇は前年再建されたばかりの大講堂を皇居とした。この日の夕方、天皇は薬・菓子を供御らに献じた。
翌28日、修乗房法印行春が先頭となって大講堂の内陣に参じ、ほかの宿老は何人か参会した。この時、勘解由次官藤原光守(生没年不明)より、円教寺の所領のうち闕所となっている地を報告するよう勅定があった。円教寺の人々は評定して、安室郷と余部荘の地頭職が闕所となっていることを報告した。さらに長吏以下15名の和尚の名前について勅問があったため報告したところ、円教寺長吏円明(第58世長吏乗明)と東岳院覚如房慈真(生没年不明)の二人を律師に任命すべきとの勅定があり、そのほかの者は京都にて選定されるとの旨が勅定された。天皇の供御が終わってから経による供養があった。導師は行春であった。天皇は布施として柳裏(裏柳。淡い黄緑色)の薄衣を出し、行春は右肩に薄衣をかけて退出した。
巳剋(午前9時)に天皇は如意堂に参詣したが、行春はこれに先んじて裏道から如意堂に参じた。天皇の輿を如意堂の外陣に入れて、正面の東向きに安置した。しばらくして後、天皇は輿から降りて御座の上に座り、正面を向いて着座した。まず御体投地を三度繰り返して礼拝し、本座に戻って着座した。近衛経忠は外陣の正面の東の間に着座した。行春は天皇に如意堂建立の由緒について申し述べた。のちに天皇は御帳を降りた。また本願上人(性空)の仏具・遺物などを献上し、このほか自愛の『菩提心論』1巻を献じた。天皇はこれを得て三返拝見した。また聖武天皇真筆の『金光明経』および丸子親王(麻呂子皇子。聖徳太子の異母弟)真筆の『称讃浄土経』など、それぞれ一返して披覧した。また天皇は本願上人(性空)の本尊と赤旃檀の五大尊像を拝んだ後、勅定して「この本尊をしばらく預けたてまつることができるか」と問うたのに対して行春は「かれこれ言うまでもありません」と返答した。そこで天皇は本尊を懐中に納めた。
また後白河法皇が承安4年(1174)に臨幸した際の香水がある所について、叡覧してはどうかと申し上げたところ、そうならば叡覧すべきとの勅定があった。天皇はただちに御座を立って内陣に入り、近衛経忠も同道した。長吏と行春はお共となり、脂燭(照明の一種)を燃やして灯をつけて仏壇の連子を開けた。天皇は冠を傾けて叡覧した。竹の杓を用いて自ら香水を汲み、左手に三度服用した。行春が「壮年の者に白髪が生える時、この水で洗うと験があります。おしなべて病を癒し、効能あらたかなのです」といったため、天皇は自身の髪に香水を塗った。天皇はしばらく仏壇の付近にいたが、その間本願上人(性空)が金剛薩タ(つちへん+垂。UNI57F5。&M005190;)から伝受された印明の事について質問をした。東円院有海律師(生没年不明)が返答したが、両者は小声で問答した。その後有海・行春は天皇の修法に関する問いに返答した。
その後、天皇と近衛経忠は外陳に出て、もとの座に着座した。勘解由次官藤原光守が安室郷御寄進の綸旨を衆徒に引き継ぐこととなり、行春はこれを受け取って一返披覧した後、衆徒の中に渡した。その後天皇から供養すべきの由を奉行を通じて申されたため、行春は礼盤に登って、経供養をした。天皇は輿を呼び寄せ、大衆は外陣にて管絃の還城楽を演奏し、曲が終らないうちに天皇の駕輿丁らが東南の間より輿を出し、天皇は還御して衆徒はお共した。天皇を乗せた輿は坂本を下った。行春は宿坊に帰って休息しようとしていたところ、天皇の再度入堂があり、急いで堂に参るようにとの催促があったため、とりあえず如意堂に参じたところ、輿4張が外陣の間に安置され、天皇は内陣に着座していた。行春は如意堂建立の由来を申し述べ、香水を献じた。天皇に従う扈徒の人はこれを受け取って、天皇に献じた。天皇は香水を輿の中にて受用した。天皇は旅路を急ぐため、すぐに下向してしまった。近衛経忠は西坂七曲より重ねて登山し、心静かに如意堂に入ったのだが、近衛経忠は増位寺で天皇に供奉することから逃れたかったためであったという。増位寺・法華寺に行幸するという先例はなかったので、天皇は近衛経忠にお共の必要はないということを宿房にて仰せつけられたが、しかしながら法華寺においては供奉するよう披露された。行春はこのことについて「文観(1278〜1357)が御祈祷僧であるためであろうか」と述べている。
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円教寺鐘楼(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影)
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永享の三之坊再建
山上に位置する円教寺の伽藍を構成する諸建造物のうち、最も中心的存在であるのが、「三之坊(みつのぼう)」である。この「三之坊」とは大講堂・食堂・常行堂のことで、これら3堂はコ字形に配列されている。これらの堂はいずれも永享8年(1436)の火災の後に再建された堂である。
永享8年(1436)11月29日夜半、西谷乗光坊より出火した火災は、三堂・経蔵もろとも焼失させてしまった(『鎮増私聞書』永享8年11月29日条)。「三堂」とは「三之坊」とも称された円教寺の大講堂・常行堂・食堂のことで、これら3宇は一挙に焼失してしまったのである。復旧はただちに着手され、翌永享9年(1437)正月19日には講堂のための柱が松原より購入されて坂本まで運送され(『鎮増私聞書』永享9年正月19日条)、8月7日には講堂再興の工事が開始された(『鎮増私聞書』永享9年8月7日条)。さらに11月14日には三堂の立柱が行なわれ(『鎮増私聞書』永享9年11月14日条)、12月27日には講堂の本尊を造営中の堂へ遷座させた(『鎮増私聞書』永享9年12月27日条)。このように工事が途中であったものの、本尊を引き入れて工事を続行している様子が窺える。その後永享10年(1438)4月28日卯刻(午前6時)に五重塔に落雷があったが、内陣の瓔珞の納戸を切り裂いたのみで大事にはいたらなかった(『鎮増私聞書』永享10年卯月28日条)。造営は意外と長引き、大講堂の柱に組物をのせる組物始めが行なわれたのは永享12年(1440)2月19日のことで、それが完了したのは2ヶ月後の4月26日巳刻(午前9時)のことであった(「円教寺大講堂木部銘下層北西隅繋肘木墨書」ほか)。
その後大講堂の工事は一旦中断されて、工事は常行堂に全力を傾注され、永享13年(1441)8月27日に常行堂の本尊を新造して常行堂に遷座し、この年より常行堂において常行三昧の行が再開されるようになった(『鎮増私聞書』永享13年8月27日条)。さらに享徳2年(1453)4月4日に棟上が行なわれ(「円教寺常行堂梁塚墨書銘」)、寛□2年(寛正2年、1461年か)4月29日には常行堂に付属する舞台の棟上が行なわれた(「円教寺常行堂舞台化粧棟木側面墨書銘」)。寛正2年癸未(「寛正2年」は1461年、「癸未」は1463年)4月□9日に中門が棟上された(「元禄四年写銘札裏書」)。
現在の常行堂の建物はこの時完成したものである。常行堂の正堂は桁行5間(15m)、梁間5間の一層入母屋造の本瓦葺の建造物であるが、3間四方の建造物に1間の向拝がついた形となっているため5間のようになっている。その北側に10間(28m)×2間(5m)の建造物が付属する。これは正堂に面している5間分を楽屋といい、屋根は正堂より葺き降ろしとなっている。正堂に面しておらず東に突き出ている残り5間分を中門といい、切妻造の屋根となっている。楽屋と中門のちょうど中央部分に北側に1間分つきでた部分を舞台と呼び、唐破風造の屋根をもつ。このような構成の仏堂は全国みても珍しく、中門は大講堂で行なわれる法要を拝観するための桟敷の機能をもっていたとみられている(多淵1999)。昭和37年(1962)から昭和40年(1965)にかけて解体修理工事が実施された。工事には国庫補助金・県費補助金・市費負担金・所有者負担金の総額5230万円(当時)を費やし、姫路市役所内観光課に重要文化財円教寺常行堂修理委員会事務局を設けて実施された。
大講堂も22年間の工事中断の後、寛正3年(1462)3月10日に上層の棟上が行なわれ、8月28日に完了した(「円教寺大講堂木部銘上層東妻扠首束墨書」ほか)。しかしながらこれで工事が完了したわけでなく、大講堂の瓦銘には永正10年(1513)をはじめとして、享禄2年(1529)・天文2年(1533)・天文14年(1545)・天文16年(1547)・天文21年(1552)・天文23年(1554)・天文24年(1555)・永禄2年(1559)・天正2年(1574)の瓦銘があることから、大講堂は断続的に造営・修理・瓦の葺替が行なわれていたことが確認される。
大講堂はさらに元和6年(1620)5月26日亥刻(午後9時)に長雨のため、上の瓦が落下して下の庇にあたり、ともに屋根が崩落・大破している(『播州円教寺記』三堂大破之事)。それより以前、円教寺は食堂の修理を姫路城主本多忠政(1575〜1631)に依頼していたが、講堂が大破したことをうけて、同年8月20日に忠政は書写山に登山した。三堂の破壊をみて驚愕した忠政は、翌元和8年(1622)に自身や一門・家中に修理費を奉加させた。修理工事は4月8日に着手され、9月25日に完了、10月27日に供養が行なわれた(『播州円教寺記』三堂大破之事)。その後元禄年間(1688〜1704)には上層の解体を含む大修理が行なわれており、元禄11年(1698)に杣始、元禄12年(1699)正月29日には釿始、同年9月27日に棟上し(「棟木墨書」)、翌年まで工事が続いた(「内陣床板合端墨書銘」)。このとき、内陣の床を広めて土間を狭め、土間は四半瓦敷に改められた。近代では昭和26年(1951)から昭和31年(1956)にかけて解体修理工事が行なわれた。工事には国庫補助金・県費補助金・市費負担金・所有者負担金の総額4665万円(当時)を費やし、兵庫県教育委員会が修理委員会を設けて実施された。現在の規模は桁行7間(19m)、梁間16間(16m)の重層入母屋造、本瓦葺である。
現在の食堂は、文化財建造物としては日本最大の二階建仏堂建築である。桁行15間(38m)、梁間4間(10m)におよび、入母屋造、本瓦葺である。食堂の完成年は不明であるが、北妻の扠首束下部に天文10年(1541)8月20日の墨書銘があり、北妻飾りの様子から、天文10年(1541)頃に大規模な修理があったとみられており、よってそれ以前にはある程度の状態になっていたとみられる。慶長12年(1607)5月7日午刻(午前11時)に大雨のため食堂の南西部分が大破したが、円教寺では修理に対処しきれず、姫路城主池田輝政(1565〜1613)に訴えた。池田輝政は家臣の中村主殿助を書写山に登山させて見聞させ、結果造営に助力するとの回答を円教寺側に通達したものの、ほどなく池田家は転封してしまった(『播州円教寺記』三堂大破之事)。大破から13年後の元和6年(1620)に今度は大講堂も大破したため、新城主本多忠政によって元和8年(1622)7月から9月にわたって南西の部分は材を取替えるほどの大規模修理工事が行なわれている(『播州円教寺記』三堂大破之事)。その後明暦2年(1656)、享保7年(1722)から享保11年(1726)、安永4年(1775)、享和元年(1801)に修理が行なわれている。
昭和35年(1960)から昭和38年(1963)にかけて、解体修理工事が実施された。工事実施にあたり姫路市役所内に重要文化財円教寺食堂修理委員会を設置し、国庫補助金・兵庫県費補助金・姫路市費補助金の交付によって、5000万円(当時)を費やした。この際に、再建以来未完成となっていた二階部分を板張りし、階段を設けて完成させているほか、板張りであった壁も、蔀戸を釣る穴があったことから、蔀戸に変更され、当初のプラン通りとなった。また後補の仏壇は撤去されている。
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解体修理工事(1958年)以前の円教寺食堂一階内部、北より(重要文化財円教寺食堂・護法堂修理委員会編『重要文化財円教寺食堂護法堂修理工事報告書』〈重要文化財円教寺食堂・護法堂修理委員会、1963年1月〉より部分転載)。解体修理工事以前は二階部分は未完成のままであり、修理工事にともなって二階部分がつくられた。この写真では二階部分がないため、一階から天井をみることができる。
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乙天・若天の二童子
本尊の左右に配される脇侍は、平安時代中期になると独立した尊像として信仰されるようになっていった。本尊の使者として救済にあたる脇侍は、浄土にある本尊の使者として穢土に降りたって、人々を救済するとみなされていた。やがて穢土にあって穢身を浄める童子が信仰をあつめ、護法童子信仰となったのである。また護法童子は特定の僧侶につきしたがい、身の回りの世話をする存在であり、僧侶を守護するばかりではなく、時には僧侶の使役を受け入れて人々の救済にあたるものであると考えられていた(小山2003)。
性空を守護する二童子もまた伝説化された。「悉地伝」に「乙丸は常に随い、数十里を遣わすも日内に帰来す。一事已上、その心を違えず。天の諸童子、以て給使と為すはそれこれのみ」とあり、また「若丸は昼夜給仕して離れず、これ鬼の類なり。人のために恐れあり。よって暇を賜う。抃(てす)り悲泣すといえども遂に以て許さず」とある(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』悉地伝)。このように性空を護持する二童子のうち、乙丸は「天の諸童子」、若丸は「鬼の類」と設定されていた。
性空と童子の説話は同じく「悉地伝」にも著わされる。性空が筑前国の背振山に移住して法華経を暗誦している時、10歳ほどの童子らが左右からやって来て同座し、共に法華経を読んだという。その容貌は奇偉であったが、音声は清雅であったという(『一乗妙行悉地菩薩性空上人伝』悉地伝)。『性空上人伝記遺続集』の撰者である昌詮は「同じく来座の二童子は、即ち乙・若の二童子か。如何。」と設問した上で、「この事は伝文、不分明なり。二義あるべきか。あるいは今の二童子、すなわち乙・若か。伝中にこのほか乙・若の来相をあげず。」とのべるが、「すなわち天諸童子は、すなわち今の童子にあたるなり。あるいは乙・若に非ざるか。今の童子は自然に来たるも、乙・若は勧請すれば来たると見るが故に、『聖霊講式』に乙・天の来相に「勧請」の言を載せる。かの式文に対して、これを思い合わすべし。」(『性空上人伝記遺続集』上人去霧嶋移背振山法花暗誦児童出現化人授記三種事)と、背振山の童子は乙天・若天ではないとのべている。
この乙丸・若丸の二童は、不動・多聞の二天であると考えられており、性空が大講堂を造立した際には木材を書写山に運搬したという説話がある(『クン拾集』当山堂塔炎焼事)。また長徳元年(995)冬頃、八徳(八葉寺)の寂心(慶滋保胤、933頃〜1002)が心に湯釜を願い求めたが、とくに言葉に出していうことはなかった。しかし性空は寂心の思いを知り、銅釜を乙天童子に載せ、送文を若天童子に持たせて、寂心に奉献したといい(『クン拾集』当山本願上人与八徳寂心上人念通事)、この釜は現在でも八葉寺に現存するという。後世にこの乙丸(乙護法)は叡山一上人に付属すると信じられ、「この乙護法、影の形にしたがうがごとく、常随守護の善神なり。」(『渓嵐拾葉集』書写性空上人護法事)とみなされ、信仰の対象となった。
ところで、性空と同時期の天台僧の阿闍梨皇慶(977〜1049)にも護法童子の説話がある。大江匡房(1041〜1111)が天台宗の阿闍梨皇慶(977〜1049)滅後60年後の天仁2年(1109)に撰述した皇慶の伝記である『谷阿闍梨伝』によると、夕暮れにある童子が皇慶のもとにやって来て「牛や馬のように仕えます」といった。皇慶がこれをみてみると、身体は肥え、首は稲のようであり、眼や雰囲気はほとんど鬼神の中の人であった。皇慶は「どこより来たるや」と問いかけると、童子は「多年、播磨国書写山の性空上人に仕えていました。かの山の下人が性空上人の昼食の上前を盗んでいました。忿満に堪えず、拳で下人を殴ると、その人はにわかに死んでしまいました。そのため性空上人に追放されてしまったのです」と答えた。皇慶は飲食を与えたが、童子は「印呪を加えられたものを、どうして受けることがありましょうか」と答えた。皇慶は童子が霊物であることを知った。遠所への使とした場合には速やかに目的を達成した。四・五日かかる道程であっても一瞬であった。空中で帷を洗い、竿棹(さお)を使わなかった。後に竃(かまど)のもとで養った。ある時同伴の暴虐の者達が交互に下人を殴った。順番まわってきて童子の番になったが、童子は固辞して「大事故になるでしょう」といったが、同伴の者はこれを強いること数回、やむなく童子がわずかに拳を下すと、下人は血を吐いてほとんど死ぬところであった。皇慶はそのため童子を追放した。童子は「背振山の地震は、堅牢地神がおこしたものです。私はこの事を見て、怪を慕ってやって来たのです」といった(『谷阿闍梨伝』)。このように書写山の性空に仕えていた異相の童子が皇慶にも仕えたという説話が知られるのである。
また皇慶が朝廷から咎められたとき、皇慶は「まさに乙丸を召すべし」といったという(『谷阿闍梨伝』)。ここではじめて皇慶に仕えた童子の名が乙丸であったことが判明するのであるが、この乙丸には制多伽童子的要素があると考えられている(小山2003)。
皇慶が朝廷から咎められた事件というのは、第27世天台座主慶命が長暦2年(1038)9月7日に示寂すると、智証派の門徒明尊大僧正が天台座主をのぞみ、慈覚派の僧侶3000人が大挙して関白藤原頼通の高倉第に押し寄せ、さらには大僧都教円(980〜1047)を人質とする事件が発生したが、この時、朝廷は大僧都頼寿(995〜1041)・少僧都良円(?〜1050)・阿闍梨皇慶を法家に召し仰せ、罪名を勘させたが(『扶桑略記』第28、長暦3年2月18日条)、この時皇慶は、遠所にいたににもかかわらず、朝廷から騒動を指揮するとみなされたことに対する皮肉を「まさに乙丸を召すべし」という形で現わしたと思われる。ところで大江匡房はこの文の傍注にて「童子の名なり。その祠、今なお西府の北山にあり。」と述べているように、乙丸の祠が大宰府の四王子山に祀られていたことを記している。これら乙丸・若丸の二童子の信仰について、背振山・書写山が関係することから、背振山か書写山がその淵源であるという説がある。やがて書写山に二童子を祀る祠が鎮座した。
弘安9年(1286)8月20日夜半に御廟堂の雑舎から火が出て、御廟堂・乙若の宝殿と拝殿を焼失している。翌年の弘安10年(1287)には両社御殿の再建工事が開始され、11月24日に柱立、同27日上棟とわずか7日間で再建工事が完了しているが、その理由は番匠を二番(二組)にわけて両社の神殿を造らせたためであった(『性空上人伝記遺続集』御廟堂護法所等炎上并造立事)。正応4年(1291)春には護法所の遷宮が実施された。人々が群がり、田楽・流鏑馬が行なわれ、「西国第一の見物」と称された(『峰相記』)。
現在の護法堂は、永禄2年(1559)8月3日に無量寿院長英が勧進したもので、造替の檀那は竜野湯浅長門守と内海弥三兵衛尉の二人である(「護法堂乙天社棟札」および「護法堂若天社棟札」)。両者はそれぞれ200貫文を施入した。乙天の像は性空の時に造られた像であったが、若天の像は戦乱で失われてしまった。そのため二階房涌出の毘沙門像を本地像として安置することとなった(『播州円教寺記』護法所造替事)。また拝殿は戦乱の後、天正年間(1573〜92)に禅院房実嘉が勧進して造立したものである(『播州円教寺記』護法所拝殿事)。
現在、円教寺の本堂摩尼殿および鎮守白山権現社では毎年正月18日より修正会(しゅしょうえ)が行なわれる。その結願として鬼追いが行なわれるが、鬼追いに登場する青鬼・赤鬼は、護法童子である乙丸(青鬼)・若丸(赤鬼)とされる。書写坂本(東坂本)の某家が承仕役として鬼追いの行事を取り仕切るが、同家は護法童子の子孫であるという伝承を持ち、近世では庄屋をつとめた。
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護法堂(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影)。性空が書写山にて修行中、いつも傍らで仕えた乙天護法童子と若天護法童子をまつる祠。室町時代末期の建築で、左が若天社、右が乙天社。
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書写山をめぐる伝説
性空には生前より多くの帰依者がいたことは前述したが、詩文や説話のなかにも性空や書写山についてみることができる。具平親王(964〜1009)も性空の評判を聞いて、自身が性空にあったことがないことを嘆き、性空について詠んだ詩文をもって結縁とした(『本朝麗藻』巻下、什聊結縁性空上人一首)。
ほかに和泉式部が性空に送った歌が『拾遺和歌集』に掲載されている。
性空上人のもとに、詠みて遣はしける 雅致女式部
暗より暗道にぞ入ぬべき遥に照せ山の葉の月
(『拾遺和歌集』巻第20、哀傷、第1342番歌)
この歌については、和泉式部の仏法に対する渇仰を示したものとして知られ、書写山に登ることを望んでいたものの、許されなかったということが「遥に照せ山の葉の月」にあらわされているとされる。この歌について、『古本説話集』では、和泉式部が詠んだ返答に、性空より袈裟が遣わされた。和泉式部が病で死ぬ時に、その袈裟を身につけたとする(『古本説話集』巻上、和泉式部歌事第7)。
ところが、後世になるとこの歌が拡大解釈されて、和泉式部が書写山に登った時に読んだ歌とされた。中世説話文学の集大成というべき『三国伝記』では、和泉式部が上東門院(藤原彰子、988〜1074)ら一行8人とともに書写山に登るも、性空が居留守を使ったため、和泉式部が例の歌を御坊の柱に書き付けて去り、それをみた性空が感じ入って一行を追いかけ、彼女らを教化したという(『三国伝記』巻8、性空上人上東門院女院相看事)。
さらには御伽草子『和泉式部』では、和泉式部が13歳で産んだ道命阿闍梨が成長して、母と知らずに一目惚れし、関係をもってしまうが、和泉式部がその出自を訊ねたために発覚。書写山へ登り、性空の弟子となり、61歳で悟った時に書写山の鎮守の柱に「くらきよりくらき闇路に生れきてさやかに照らせ山の端の月」と書き付けたとする。
これらのこともあって、円教寺の開山堂の近くに和泉式部歌塚と伝えられる天福元年(1233)銘の石造物があるが、これは歌塚ではなく、宝篋印塔の残闕であり、紀年銘付のものとしては日本で二番目に古い。
また性空には遊女との説話がある。源顕兼(1160〜1215)によって編纂された説話集『古事談』によると、性空は生身の普賢菩薩を見たいと祈請していたが、夢のお告げで神崎(現尼崎市神崎川右岸の遊里)の遊女の長者を見るべしとあったため、神崎の遊女の長者のもとに行ってみた。遊女の長者は鼓を打って「周防室積の中なるみたら井に風はふかねどもささらなみたつ」と唄った。その時性空は奇異の思いがして、眼を閉じて合掌してみると、普賢菩薩の容貌があらわれ、六牙の象に乗り、眉間から光を出して道俗の人を照らし、「実相無漏の大海に、五塵六欲の風邪は吹かねども、随縁真如の波たたぬときなし」と説いていた。性空が感涙して眼を開けてみると、普賢菩薩は遊女の長者の姿のままで、やはり「周防〜」を唄っていたが、再度眼を閉じると、また普賢菩薩の形になった。これを繰り返すこと数回、性空は敬礼して涕泣しながら帰っていった。その時遊女の長者は席をたって、裏道から性空を追いかけて「口外してはなりません」といい、言い終わるや死んでしまった。その時には異香が周辺を舞っていた(『古事談』巻第3、遊女菩薩第96段)。この説話は後世他の説話集にも記され、舞台を神崎ではなく、江口とするものもある。
また事実ではないが、書写山で弁慶が修行し、一騒動から全山を炎につつませる事件を引き起こしたという説話がある。
弁慶が阿波国(徳島県)から播磨国の書写山に参り、性空上人の像を拝んだが、退去するところを一夏書写山に籠ろうと決心した。一夏が過ぎて7月下旬に学頭に暇乞いしようと行ってみると、児や大衆が酒盛していたため、弁慶は障子一間立てている場所で昼寝をした。そこを信濃坊戒円なる者が、弁慶の顔に墨で落書きをし、周囲の者は大笑いした。弁慶は起きたが何故周囲の者が笑っているのか理解できず、水面で顔を映してみると、顔に落書きが書かれていた。このことによって講堂では僉議が行なわれたが、それでも信濃坊戒円との紛争は解決せず、弁慶は信濃坊戒円を襲撃した。薙刀を振り回す弁慶に対抗しようと、信濃坊戒円は燃えさし持ったが、弁慶は信濃坊戒円の太股をつかんで講堂の軒の上1丈1尺(3m30cm)に投げると、信濃坊戒円は屋根をころころと転がり落ち、雨落ちの石たたきに落ちた。落ちた信濃坊戒円を弁慶は取押さえて踏みつけ、腕を踏み折り、肋骨二枚を砕いた。信濃坊戒円が持っていた燃えさしが、講堂の軒にはさまれ、折から風が谷より吹上げたため、講堂の軒に吹きつけて炎上し、講堂・廊下・多宝塔・文殊堂・五重塔に吹きつけて、一宇も残さず54箇所を焼失した。弁慶は「現在仏法の仇となるべし咎をだに犯しつる上は、まして大衆の坊々は、助け置きて何にかせん」と思って、西坂本に走り下り、松明に火を付けて、軒を並べていた坊の一つひとつに火をつけて、谷から嶺まで焼き打ちにしていった。弁慶は京に上り、大雨大風の日に長直垂に赤袴を着け、夜更け人が寝静まった時、院の御所の築地に上り、恐しげなる声で、「あら浅まし、如何なる不思議にてか候やらん、性空上人の手づから自ら建て給ひし書写の山、昨日の旦大衆と修行者との口論によりて、堂塔五十四箇所、三百坊、一時に煙となりぬ」と叫んで、消えていった。院の御所では何故書写山は焼けたのか、早馬を立てて御尋ねがあり、罪科の者を召し出すよう命令を受けた。書写山側は「修行者では武蔵坊、衆徒では戒円」と申し上げたため、信濃坊戒円は召し出されたが、糾問が厳しかったため、とても生きて帰れないと思った信濃坊戒円は、日頃憎いと思う者を共犯として11人白状した。信濃坊戒円は責め殺され、11人もみな斬られた(『義経記』巻3、書写山炎上の事)。
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伝和泉式部歌碑供養塔(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影)
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書写山の塔頭@
書写山の塔頭は鎌倉時代では90坊、最盛期には170余坊あったとされ、近世期には「十四院」と通称されるように、14院の塔頭が存在した。その14院は、宝地院・安養院・西方院・妙覚院・十妙院・松寿院・妙光院・仙岳院・西城院・十地院・普賢院・大輪院・桜樹院・瑞光院である。現存する塔頭は十妙院・寿量院・仙岳院・妙光院・瑞光院、および事務所となっている本坊などわずかである。
塔頭のうち、最初期にあたるものとして、理教院があげられる。
理教院は二位法眼範性(生没年不明)が造立したものである。範性は朱明女院(修明門院・藤原重子、1182〜1264)の兄、左大臣藤原範季(1130〜1205)の子であった。兄の藤原範資(生没年不明)が播磨国の受領となったとき、西坂本に建物を建てた。また山上に堂を建て坊を造った。この坊跡は理教院の下地である。堂を理教院と号した。当時の如法経の場所はここであった。建保5年(1217)4月3日に供養し、導師は中納言法印忠快(1162〜1227)であった(『性空上人伝記遺続集』理教院供養事)。さらに理教院では長日如法経供養が行なわれていた。この長日如法経供養は宝治3年(1249)に後嵯峨法皇の御願によって始まったものである。その院宣で長日如法経の書写の用途料として播磨国余戸郷が寄進された(『性空上人伝記遺続集』当山自草創至今時仏事講演始行年記事)。長日如法経の実態は不明であるが、「長日」にわたって如法経供養、すなわち法華経を書写して埋納する供養法が行なわれていたといい、「不断写経」とも称され、「天下諸寺無比」であったともいうから、法華経を絶やすことなく書写するというものであったらしい。また理教院には談義所なる施設があり、第59世円教寺長吏の行春(1261〜1341)によって理教院談義所の天台大師像が造り替えられている(『クン拾集』常行堂本尊奉造替事)。
書写山が羽柴秀吉によって占領される以前では少しも怠ることはなかったが、その後年月を経るにつれ堂が破損してきたという。なお理教院には板葺の堂・天台大師談義所・五社宮があった。理教院は赤松広秀(1562〜1600)が造替しようと慶長5年(1600)春に古堂を壊し、禅院房実嘉が勧進を行なったが、同年秋の関ヶ原の戦いにて赤松家は滅亡してしまい、そのため解体していた古堂はなくなってしまい、如法経はついに断絶してしまった。理教院にて同じく実施されていた天台大師の法演は本堂(如意輪堂)にて行なわれることとなった(『播州円教寺記』理教院之事)。
普賢院の開創年は不明であるが、『鎮増私聞書』によると、応永12年(1405)11月24日に「普賢院開山」の実盛が示寂したというから(『鎮増私聞書』応永12年11月24日条)、14世紀後期から15世紀初にかけて建立されたものであろう。この普賢院は中世に講経談義が盛んであったことが、中世の天台僧で終生教化の旅にあけくれた鎮増(1375〜1460)の記録である『鎮増私聞書』にみることができる。
鎮増は応永31年(1424)4月5日に書写山の普賢院において法花経談義に参加した。法華経談義とは、法華経を俗人に平易に説くことで、普賢院の前住盛チン(王へん+〈深−さんずい〉。UNI741B。&M021049;)(?〜1422)は法華経談義を行なうのは3回目、鎮増は始めてであった。法華経談義は5月10日に結願した。翌応永32年(1425)3月12日に普賢院において仁王経談義が実施され、普賢院の坊主が行事祈祷を行ない、また4月8日には普賢院にて授戒が行なわれている。5月8日には『大日経』住心品の文字談義が行なわれた。鎮増は一旦書写山を離れたが、9月12日には再度書写山に登り、祈祷のため普賢院に翌年秋まで滞在した。
鎮増の書写山との関わりの端緒は、師の慈伝(1319〜1401)が72歳になって都での活動が難しくなり、より西方浄刹に近い書写山に鎮増とともに移ったことにはじまる。慈伝はかつて書写山の蓮花坊に居住していたことがあった。慈伝は書写山女人登山禁制を宿望としており、応永5年(1398)頃に公儀にうかがい、院宣・御教書・前守護の遵行を得て、同年9月20日に性空の廟前にて院宣・御教書を読み上げて女院登山を停止した(『鎮増私聞書』応永5年条)。鎮増は永享11年(1439)3月10日に鎮増は書写山への女人登山禁止の申状を作成して、師の宿望を形にのこしている(「本願上人菩薩号并女人停止申状案文写」円教寺文書)。
普賢院は近世には書写山十四院に数えられ、円教寺内では重きをなしたが、明治40年(1907)に円教寺が修理費捻出のため明石長林寺に売却して廃絶した。長林寺は戦災のため焼失し、普賢院の建造物はなくなってしまったが、「三之坊」から西に120mほど離れた場所にある金剛堂は、普賢院の持仏堂と伝えられる。
金剛堂は、桁行3間(4.8m)、梁間3間(4.8m)で、入母屋造の本瓦葺の建造物であるが、もとは本瓦葺ではなく、桧皮葺であったらしい。木部墨書によると、天文13年(1544)3月3日に十地坊実祐(1515〜91)の差配によって立柱、4月11日に棟上され、当初は開山堂金剛薩タ(土へん+垂。UNI57F5。&M005190;)院と呼称されていた(「円教寺金剛堂東妻板内部墨書」)。金剛堂の鬼瓦は、天文17年(1548)6月に三木住人瓦大工の橘弥六(当年21歳)・三木住人橘亀千代(18歳)が右側一つずつ、大工神左衛門国次(49歳)が左側二つの鬼瓦を造っていることから、天文17年(1548)6月以降間もなく完成したらしい(「円教寺金剛堂鬼瓦銘」)。なお鬼瓦の上に乗られた鯱は年代の確認できる鯱としては日本最古のものである(多淵1999)。金剛堂の内部は、現在鏡天井に仏画が描かれているが、もとは格天井であった。また現在食堂に安置される木造金剛薩タ(土へん+垂。UNI57F5。&M005190;)坐像(像高36.5cm。寄木造、玉眼)は、延文4年(1359)8月に大仏師康俊作によって造立された優作で、もとは金剛堂に安置されていたものである。
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円教寺金剛堂(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影) 。金剛堂は、円教寺塔頭普賢院の持仏堂であったと伝えられる。天文14年(1544)の建造。
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書写山の塔頭A
寿量院は、書写山の塔頭の一つで、中院坊の後の姿とされる。中院坊は承安4年(1174)4月3日に後白河法皇が円教寺に御幸した際、御所に定められた場所であるが、寺記によると、延昭が長元元年(1028)に創建したとされる。それを永禄元年(1558)に長英が中興して無量寿院と改めたという。開山堂の棟札や護法堂の墨書には天文17年(1548)に長英が新地を開発して無量寿院の開山となったことが知られる。天和元年(1681)に永尚が再興して寿量院と改めたという(多淵1999)。
現在の建物は押入舞良戸内側の墨書から、天和年間(1681〜84)に焼失したものを、貞享元年(1684)から元禄末年(1704)にかけて造立されたことが知られる(多淵1999)。
建物は桁行16間半(29m)、梁間東面9間半(21m)、梁間西面6間半(15m)で、大屋根は入母屋段違である。東南部分に切妻造の中門が突き出しており、また中央客間正面には蔀戸が釣られているなど、中世の書院造の塔頭建築の遺制を残しているが、唐破風の玄関の細部などには近世的要素がしめている。修理工事は天保14年(1843)から弘化3年(1846)、明治2年(1869)、昭和41年(1966)に実施されている。建造物は重要文化財に指定されている(多淵1999)。
十妙院は、永禄元年(1558)に十地坊に院号を許して十妙院としたというが(「正親町天皇綸旨案」古文書纂)、別の史料には翌永禄2年(1559)に十地坊を十地院としたとあるから(『兵庫県指定重要有形文化財円教寺塔頭十妙院修理工事報告書』1995年所引。以下『十妙院修理報告書』と略す)、史料上に混乱がみられる。十妙院は永禄12年(1569)に赤松義祐の安堵状(円教寺文書)があることから、16世紀後半にはすでに成立していた。慶長20年(1615)正月8日に十妙院は仏乗院を末院とし(「仏乗院請書」書写山円教寺塔頭十妙院文書)、寛永20年(1643)12月7日には仏乗院が所有していた宝光坊の屋敷を寄進された(「仏乗院宝光坊屋敷寄進の事」書写山円教寺塔頭十妙院文書)。
現在の建造物は江戸時代初期のもので、貞享4年(1687)鬼瓦銘や、仏間北面板壁裏面に元禄4年(1691)6月の墨書があることから、この頃に建造されたとみられている。建造物は南向きで、方丈と庫裏の機能を併せ持った書院造風であり、方丈の上座敷・座敷・広間に面した襖には狩野永納(1631〜97)筆になる「四季山水図」「果実図」「五柳帰荘図」「文王呂尚図」「白梅鴛鴦図」「老松小禽図」「錦鶏鳥図」が描かれ、その奥に位置する客室・仏間の格式を高めている。
さらには表門は享保9年(1724)に造立されたと弘化4年(1847)の棟札に記されているものの(「唐門棟札」。『十妙院修理報告書』所引)、懸魚に「庚戌年」の墨跡があることから(表門懸魚墨跡。『十妙院修理報告書』所引)、表門の建立は享保15年(1730)か寛政2年(1790)の建立とみられている。
十妙院の本尊は千手観音立像(木造金泥塗。像高130cm。江戸時代)であり、脇侍に勝軍地蔵、毘沙門天がある。この千手観音はもとは岡本房に安置されていたものとされる。岡本房は赤松満祐(1381〜1441)が再建した円教寺の塔頭であり、千手観音は寛保3年(1743)に成立した『書写山十妙院本尊千手尊略記』に次のような説話が記載される。
将軍足利義教は、播磨国ほか五国の守護大名赤松満祐の所領を没収して、寵愛する赤松持貞に与えようとした。満祐は出家して播磨国に戻って城山に籠り、長子の教康は白幡城に籠った。将軍は不愉快となった。満祐の娘は幕府に仕えていたが、その謀議を聞いて親孝行をしたいと思い、ひそかに手紙で「世態(世相)は岌々としてほとんど白刃をふむがごとし」としたためたが、将軍邸の奥深くに給仕する身であって、手紙を送るすべはなく、父の所に送るべき手紙が手違いから将軍足利義教の手に渡ってしまった。将軍は大いに怒り、娘を呼び寄せて刀を出して、「お前は「世態白刃を踏むがごとし」といったが、お前がこれをふめ」といった。娘は拒否することなく、剣に伏せて死んだ。時に永享11年(1439)、わずか16歳であった。満祐は深く憐れんで、千手大悲尊(千手観音)を造り、容貌や身長は娘と同じようにし、岡本坊の構堂に安置し、寺産として500石を寄進して娘の冥福を祈った。天正7年(1579)、岡本坊は正親町天皇によって「岡松院」の号を賜った(『書写山十妙院本尊千手尊略記』岡松院千手尊略記)。実祐は十妙院を中興して、永禄元年(1558)に正親町天皇より「十妙院」の院号を賜ることに成功し、また天正16年(1588)6月21日には後陽成天皇の勅により千手無礙大悲尊法を修したこともあって、十妙院に千手尊像を安置したいと考えていたが、果たすことはできなかった。やがて岡松院の等身千手観音像を得て、十妙院に安置することができたという(『書写山十妙院本尊千手尊略記』附録)。岡松院の千手観音像が十妙院に移されたのは『書写山十妙院本尊千手尊略記』が成立した寛保3年(1743)をさほど溯らない時期とみられている。
十妙院の現在の建造物はたびたび修理され、寛政元年(1789)には持仏堂が(「仏間仏壇下敷居墨書」『十妙院修理報告書』所引)、天明3年(1783)には台所普請が実施されたが(「板戸裏側墨書」。『十妙院修理報告書』所引)、長年無住の期間が続いたため、腐蝕や、瓦の凍害のため雨漏が生じ、昭和50年代には覆屋が建造されて保護がはかられたものの、屋根瓦が崩れ落ち、天井が落下し、建物自体が傾くなど甚大な破損がみられた。そのため平成4年(1992)10月から平成7年(1995)9月にかけて3億3500万円を費やして解体修理が行なわれた。
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円教寺塔頭十妙院(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影)
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近世以降の円教寺
元亀2年(1571)9月、比叡山延暦寺は織田信長による焼討ちを受けた。延暦寺から同じく天台宗である円教寺に対して、信長の悪行を訴え、山門復興への協力要請が行なわれている(「円教寺長吏実祐筆記」円教寺文書)。
織田信長の西国攻撃のため羽柴秀吉を遣わしたが、この時円教寺は1000石の兵糧米を献じた他、様々な配慮を行ない、円教寺の破却を免れようとした。しかしながら三木の別所氏が敵対したため、書写山が陣所となることになってしまった。天正6年(1578)3月6日に羽柴軍が書写山に入ったが、老若上下が方々に馳散し、坊舎仏閣が一時に破損した。同年8月に羽柴軍が退去して衆徒が書写山に戻ったが(『新略記』当寺一乱之事)。帰山の衆の堪忍分として寺領は坂本にわずか500石のみとどめられることとなってしまった(「羽柴秀吉書状写」書写山十妙院文書)。
江戸時代には日光門跡支配下で朱印高833石が認められており、末寺は18ヶ寺あった(『寺院本末帳11(天台宗10)』〈『江戸時代寺院本末帳集成』上936頁上段〉)。また末寺には如意輪寺・文利寺・宝聚寺・円蔵寺・観音寺・安養寺・阿弥陀寺・法界寺・仏性寺・昌楽寺・護願寺・正覚寺・日明寺・補陀落寺・今念寺・弥勒寺・定願寺が書き上げられた(『寺院本末帳11(天台宗10)』〈『江戸時代寺院本末帳集成』上939頁下段〜940頁上段〉)。
仁王門は姫路甚兵□ほかによって、寛文4年(1664)に建立されている。桁行4間(7.5m)、梁間2間(4.4m)の三棟造で、三間一戸八脚門である。屋根は切妻造の本瓦葺である。姫路の町人の志方屋某の建立で建造されたもので、一人の町人によって父親の菩提を弔うために寄進されたものである。そのため経費のかかる装飾彫刻は比較的少ない(多淵1999)。
一方で、本堂の如意輪堂(摩尼殿)が大破したため、宝暦元年(1751)12月に江戸表に対して、国中を勧進する許可を求めたものの許可されず、播磨国姫路領のみにての勧進が許された(「柴田左門等連署奉書写」円教寺仙岳院文書)。このように幕藩体制内では領域を越える勧進は制限され、大規模な勧進は過去の遺物となりつつあった。
明治の廃仏毀釈の際に、女人入山の禁をとかれ、書写山の衰亡が激しくなっていった。その中で、寿量院・妙光院・妙覚院・仙岳院の住持達はそのまま寺住し続けたが、他の塔頭では帰農する者、商売に失敗する者が続出した。修理がおぼつかないため、西方院・金山院・十地院・金輪院・大輪院・真乗院・宝地院・龍象院・花ノ坊・奥ノ坊・経堂・念仏堂・大鐘庵の13棟は解体され、そのうち真乗院の古材を用いて摩尼殿を建替え、松寿院は末寺如意輪寺の火災のため、如意輪寺に転用された(『書写山年中行記』。橋本2002所引)。
現在の円教寺は書写山ロープウェイによって参詣しやすくなり、古建築も解体修理工事によって整備され、多くの人が訪れるが、そのようななかでも静寂さが失われない勝地である。
[参考文献]
・柳田國男『女性と民間伝承』(岡書院、1932年。ただし筑摩書房『柳田國男全集』第6集、1998年10月による)
・獅子王円信「谷阿闍梨皇慶の密教について」(『日本仏教学会年報』21、1956年)
・重要文化財円教寺大講堂修理工事事務所編『重要文化財円教寺大講堂修理工事報告書』(重要文化財円教寺大講堂修理委員会、1956年)
・重要文化財円教寺金剛堂修理工事事務所編『重要文化財円教寺金剛堂修理工事報告書』(重要文化財円教寺金剛堂修理委員会、1959年)
・重要文化財円教寺食堂・護法堂修理委員会編『重要文化財円教寺食堂護法堂修理工事報告書』(重要文化財円教寺食堂・護法堂修理委員会、1963年1月)
・重要文化財円教寺常行堂修理委員会編『重要文化財円教寺常行堂修理工事報告書』(重要文化財円教寺常行堂修理委員会、1965年12月)
・大島建彦『お伽草子と民間文芸』(岩崎美術社、1967年2月)
・林雅彦「中世における性空上人説話について」(『中世文学』17、1972年)
・井上光貞・大曾根章介校注『日本思想大系7 往生傳 法華驗記』(岩波書店、1974年9月)
・『兵庫県の近世社寺建築ー兵庫県近世社寺建築緊急調査報告書ー』(兵庫県教育委員会、1980年3月)
・西口順子「いわゆる「国衙の寺」について」(千葉乗隆博士還暦記念会編『日本の社会と宗教』同朋舎出版、1981年)
・『-1000年の歴史を秘める-書写山円教寺』(兵庫県立歴史博物館、1986年3月)
・『兵庫県立歴史博物館総合調査報告書V 書写山円教寺』(兵庫県立歴史博物館、1988年3月)
・『兵庫県史 史料編 中世4』(兵庫県、1989年3月)
・浅野清編『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』(中央公論美術出版、1990年2月)
・文化財建造物保存技術協会編『兵庫県指定重要有形文化財円教寺塔頭十妙院修理工事報告書』(円教寺・姫路市、1995年)
・『兵庫県の民俗芸能−民俗芸能レッドデータブック−』(兵庫県教育委員会、1997年3月)
・多淵敏樹「円教寺」(『姫路市史 第15巻下 別編 文化財編2』姫路市、1999年3月)
・『姫路市史第11巻下 史料編 近世3』(姫路市、1999年3月)
・田中貴子『室町お坊さん物語』(講談社現代新書、1999年6月)
・齋藤圓眞「寂照をめぐって」(『天台学報』44、2001年度)
・橋本政良「書写山円教寺の歴史と環境-信仰の霊場・憩いの山-」(橋本政良編『環境歴史学の視座』岩田書院、2002年1月)
・小山聡子『護法童子信仰の研究』(自照社出版、2003年10月)
・『姫路市史第8巻 史料編 古代中世1』(姫路市、2005年2月)
・清水眞澄『音声表現思想史の基礎的研究』(三弥井書店、2007年12月)
・奈良国立博物館・NHKプラネット近畿編『西国三十三所 観音霊場の祈りと美』(奈良国立博物館・名古屋市博物館他、2008年7月)
[参考サイトリンク]
・書写山圓教寺公式ホームページ
(http://www.shosha.or.jp/)
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円教寺仁王門(平成20年(2008)3月25日、管理人撮影)
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