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補陀落寺はかつて京都市左京区静市静原町のクダラコージ山(標高613m)に位置(外部リンク)した山岳寺院で、明燈寺を天徳3年(959)に延昌が補陀落寺と改め、その後応和2年(962)に村上天皇の御願寺となりました。今は廃寺となっています。この補陀落寺は「補陀洛寺」「補多楽寺」「普陀洛寺」とも表記されます。
8月19日に補陀落寺跡に行って参りました。道順は下記の文献(梶川1990)によりました。
出町柳駅前発の京都バス34系統に乗り、静原学校前バス停で降ります。出町柳駅前からだと50分ほどかかりますが、私は北大路堀川から乗ったので、おおよそ30分ほどでつきました。ちなみに34系統は40分に一本の割合でしか運行していないので、注意が必要です。あと帰り道は12時・16時には運行しておらず、日曜・祝日の運行ダイヤルもかなり違います。クダラコージ山付近までは自動車が通過できるので、もちろん自動車で行くこともできます。
静原小学校前が丁字路となっており、静原小学校の正門から細い道を北に1kmほど歩きます。
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静原小学校前の丁字路(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)
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静原小学校前から見たクダラコージ山遠景(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)
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1kmほど歩くと三叉路につきます。この付近を地元では「ダイモン」と呼んでいるそうで、補陀落寺の門(南門?)があったと考えられています。この三叉路を右に曲がります。
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静原のダイモン(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)
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三叉路を右に曲がると東俣川の浅瀬に出ます。自動車で来ているのならそのまま渡ることができますが、徒歩の場合は橋がないので、履き物を脱いで裸足で渡るのが無難でしょう。ちなみにここを渡った時は真夏でしたが、東俣川の水は非常に冷たかったので驚きました。
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東俣川の浅瀬(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)
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東俣川の浅瀬を渡ると、砂利道を道なりに500mほど進みます。途中(100mほど)にコテージが二軒ほどあります。この砂利道の左側に東俣川が並行して流れているのですが、東俣川を遡上する形で進みます。
この付近は格好の散歩道で、景色も美しく、東俣川のせせらぎの音を楽しみつつ歩くことができます。
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東俣川脇の山道(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)。この左側に東俣川が流れている。
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砂利道を500mほど進むと、東俣川の向こう側の木立の影に小屋がみえ、丸太が東俣川に架けられています。この丸太について文献には「谷川に丸太を架けただけの橋があるのですぐ分る」(梶川1990)と書かれていますが、写真をご覧になっておわかりのように、実際には渡ることができるようなシロモノではないので、結局履き物を脱いで裸足で渡るのが一番無難です。ちなみに帰りは写真の丸太の右側15mほどに木の板が途中まで架けられているので、ここから戻ることが可能です。もちろんここからは自動車では行くことができません。
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きん馬道の入口(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)
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東俣川を渡ると小屋の背後に山道があります。この山道を「きん馬道(きんまみち)」といい、補陀落寺跡があるクダラコージ山を登る山道です。
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きん馬道入口と山小屋(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)
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きん馬道の左手には谷川が流れています。きん馬道自体は「クダラコージ谷」と呼ばれる谷筋を谷川に沿って開削された山道で、北西の方角を指しています。最初のうちは歩きやすく、谷川のせせらぎを聴きながら気持ちよく歩くことができます。小屋から直線距離で400mほど、時間にすると15〜20分ほどで補陀落寺跡に到着します。
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きん馬道(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)
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きん馬道(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)
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きん馬道を歩いていると、自然岩が多く露呈しており、さらに山全体から水が染み出ているので、泥濘で非常に歩きにくくなります。途中谷川から水が消え、ただの枯川となりますが、谷川ではなく、山全体から水が染み出ています。
やがてきん馬道と並行になっていた谷川が左側にそれて消え、山全体から染み出ていた水も無くなったところからさらに100mほど歩くと右側30mほどのところに平坦地が見えます。この付近には歩行に困難を与えていた自然岩も消えています。この平坦地こそが補陀落寺跡です。
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きん馬道(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)
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下から見た補陀落寺跡(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)
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補陀落寺開創の延昌僧正
補陀落寺を開創したのは延昌(880〜964)である。延昌は加賀国(現石川県)の人である(『日本極楽往生記』延暦寺座主僧正延昌伝)。俗姓は江沼氏であるが(『大日本国法華経験記』巻上、延暦寺座主延昌僧正伝)、この江沼氏は石川氏と同氏で、建内宿祢の男の若子宿祢の後裔と伝えられる(『新撰姓氏録』第1帙、巻7、大和国皇別、江沼臣)。この江沼氏は奈良時代から平安時代初期にかけて、南加賀に勢力を得て、加賀国江沼郡の郡司となった氏族である。なお延昌の出自について他に錦氏説(興福寺本『僧綱補任』第2、天慶8年条)、槻本氏説(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、前紀)がある。
延昌は9歳の時始めて比叡山に登り、家を忘れて師にしたがい、道に服して志を守った(『門葉記』巻第134、寺院4、補多楽寺、天徳3年4月19日延昌敬白)。顕教・密教を兼学し、学を専らとするあまり分寸も惜しんだ(『日本極楽往生記』延暦寺座主僧正延昌伝)。受戒した以降は毎日法華経を転読し(『大日本国法華経験記』巻上、延暦寺座主延昌僧正伝)、毎夜尊勝陀羅尼を百遍読み、毎月15日には諸僧を屈請して阿弥陀仏の功徳を讃嘆する偈頌を唱え、それと同時に浄土の因縁・法花の奥義を対論させた(『日本極楽往生記』延暦寺座主僧正延昌伝)。延昌が浄土の因縁と法花の奥義を諸僧に対論させたことは、法華経に立脚する天台の止観と浄土教を会通させて発達した天台浄土教における一画期として評価されている(井上他1974)。
この延昌が歴史上に登場するのは延長3年(925)8月16日の僧正御修法始の一環でみえるのが最初である(『貞信公記』延長3年8月16日条)。さらに藤原忠平は延昌に命じて北山の修行者に施しを行なっているが(『貞信公記』延長9年3月24日条)、これについては後述する。
承平元年(931)5月9日には遍空・玄昭の替として延鑑・延昌を東寺に入れるよう議定があったが、玄昭の代については寺家の定申によるよう宣旨があった(『貞信公記』承平元年5月9日条)。承平5年(935)12月27日には法性寺阿闍梨となり、同寺最初の阿闍梨となった(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、裏書)。天慶2年(939)2月2日には阿闍梨延昌に度者1人を施すことについての記述があり(『貞信公記』天慶2年2月2日条)、3月23日には法性寺座主に補された(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、裏書)、同年8月3日には内御修法始に際だって覚恵・延昌を阿闍梨としており(『貞信公記』天慶2年8月3日条)、12月14日には内供奉十禅師に補された(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、裏書)。天慶8年(945)12月29日に権律師に補され(興福寺本『僧綱補任』第2、天慶8年条)、天慶9年(946)3月15日の内裏御修法始において延昌が再度阿闍梨となっている(『貞信公記』天慶9年3月15日条)。同年6月14日には内裏御修法において延昌が伴僧10口(人)を率いて修している(『貞信公記』天慶9年6月14日条)。さらに延昌は同年12月30日には天台座主に任じられており(『扶桑略記』第25、天慶9年12月30日条)、名実ともに比叡山のトップとなった。
延昌はさらに活動をみせ、天暦元年(947)7月12日に内裏御修法のため、阿闍梨を延昌とし、伴僧20人と決定されている(『貞信公記』天暦元年7月12日条)。天暦2年(948)には延暦寺西塔に大日院を建立した(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天暦2年条)。なお同年4月に聖(ヒジリ)として有名な空也が比叡山に登り、得度して戒壇院で受戒して「光勝」の名を得たが、この時師となったのが延昌である(『空也上人誄』・『六波羅蜜寺縁起』)。
天暦3年(949)正月14日に右大臣藤原師輔は父である関白太政大臣藤原忠平のために大威徳法を延昌に修させているが(『日本紀略』天暦3年正月14日戊午今日条)、効なく同年8月14日に薨去したため、同月18日の藤原忠平の葬儀に際して、延昌は呪願師となっている(前田家本『西宮記』巻12甲、臨時己、凶事、太政大臣薨事、裏書所引、吏部王記逸文、天暦3年8月18日条)。同年12月26日には権律師から2階を超えて権少僧都に補されており、これは4人抜の抜擢であった(興福寺本『僧綱補任』第2、天暦3年条)。さらに天暦5年(951)7月18日には大僧都に補されている(興福寺本『僧綱補任』第2、天暦5年条)。天暦6年(952)3月14日に朱雀太上天皇が病のため落飾入道したが、延昌が和上となって儀式を執り行っている(『吏部王記逸文』天暦6年3月14日〈『醍醐雑事記』〉)。天暦7年(953)2月20日夜から宮中の仁寿殿の東西の庇にて延昌と寛空がそれぞれ番僧20口(人)を率いて息災のための修法を行なっている(『扶桑略記』第25、天暦7年2月20日条)。天暦10年(956)12月28日には大僧都に補され、翌日の29日には法務を兼ねることとなったが、法務は辞退している(興福寺本『僧綱補任』第2、天暦10年条)。天暦11年(957)5月1日には延暦寺大講堂供養を行ない(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天暦11年5月11日条)、天徳2年(958)正月17日には僧正に補された(興福寺本『僧綱補任』第2、天暦10年条)。
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補陀落寺跡(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)
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清原深養父と明燈寺
延昌が補陀落寺建立する以前からこの地には寺院があったという。この地は「山城国愛宕郡志津原里常嘗山中」とあるように(『門葉記』巻第134、寺院4、補多楽寺、応和3年4月17日官苻)、古くから志津原(静原)の里と呼ばれており、現在クダラコージ山と呼ばれる山は「常嘗山」となっていた。
延昌は若い頃に幽閑のところをたずね歩き、山北の山にいたって一道場を得た。その名を明燈寺といい、人の住んでいる気配はなく、鳥すらもまれに通る頂であった(『門葉記』巻第134、寺院4、補多楽寺、天徳3年4月19日延昌敬白)。この明燈寺について詳細は明らかではないが、歌人歌仙清原深養父(生没年不明)の住んだ薮里であるといわれている。
清原深養父は平安時代中期の歌人で、清少納言の曾祖父にあたる。『古今和歌集』に入選した「夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづくに 月宿るらむ」(『古今和歌集』巻3、夏歌、第166番歌)は、後に小倉百人一首の第36番歌となって人口に膾炙している。清原深養父は豊前介清原房則の子で、生年も没年もともに不明であるが、延喜8年(908)正月に内匠允に補され、延長元年(923)6月22日に内蔵大允に補された。延長8年(930)11月22日に従五位下に叙されている(『古今和歌集目録』庶人、清原深養父)。このように清原深養父は高官となることもなかったから、どのようにして寺院建立の財を築いたのか不明であるが、祖父・父はいずれも受領となっており、その蓄財などがあったのかもしれない。
この清原深養父と補陀落寺および明燈寺との関係も明らかではなく、平安時代に溯る史料にはほとんど姿をみせることはない。鎌倉時代初期に成立した『平家物語』では、補陀落寺は清原深養父の創建であるとしている。鎌倉・南北朝時代の天台僧で歌人の慶運(?〜1369頃)は、補陀落寺の地は「薮里」とも「養父里」とも呼ばれており、古文書での記載方法はまちまちであるものの、旧本の多くは「養父」字を書いていると述べている。さらに慶運自身が先年より補陀落寺八講に長年参勤しており、ある時早く来てしまい他の講衆を待っている間、堂中を巡見したところ、棟木に書付があり、「年月日清原深養父造」と書いてあったという。年号などは忘れてしまい、字は不分明であったが、古来の口伝と符合したと述べている(『門葉記』巻第134、寺院4、補多楽寺、歌人慶運法印云)。この清原深養父が明燈寺に居を構えて隠遁していたのか、あるいは功徳を積むために単に造立の願主となっただけであったのか不明であるが、後世八代集が回顧されて『古今和歌集』の編者の一人とみなされた(事実ではない)清原深養父に注目が集まると、清原深養父が実際に補陀落寺(つまり明燈寺)に隠遁したと考えられるようになり、後世、頓阿(1289〜1372)の歌学書『井蛙抄』・元政(1623〜68)の『扶桑隠逸伝』にそれらの見解が受け継がれることとなる。いずれにせよ明燈寺は延昌が訪れた時にはすでに無住の状態であった。
この明燈寺に延昌はしばらく住んでいたようであるが、その後承平年間(931〜38)に藤原忠平は延昌を法性寺に住させたから、延昌はこの地をしばらく忘れてしまったかのようであったという。その後天慶年間(938〜47)暇をみて尋ねてみると、棟宇は朽ちて見えず、いばらを排除して探してみると、壁は崩れて残っていなかった。そこで天慶8年(945)に「草を以て花堂を創り」、日をたたずして完成した(『門葉記』巻第134、寺院4、補多楽寺、天徳3年4月19日延昌敬白)。このように延昌がしばらく尋ねることをしなかったため明燈寺は荒廃し、壁は崩れてしまっていたという。そこで「草を以て花堂を創」ったというが、慶運(1293〜99)が棟木に「年月日清原深養父造」の書付をみたということから(『門葉記』巻第134、寺院4、補多楽寺、歌人慶運法印云)、明燈寺時代の建物を解体したのではなく、修理であったらしい。また「花堂」とみえるが、これは草が転じて花となったという比喩表現であるから、「花堂」という名の堂があったわけではない。
延昌は尊像を彫刻し、8尺(210cm)の十一面観音像を造り、また不動尊像・毘沙門天王をそれぞれ1体造り、そのほかに多数の尊像を造った。そこで旧号を改めて補多楽寺とした。これは観音を主としたからである(『門葉記』巻第134、寺院4、補多楽寺、天徳3年4月19日延昌敬白)。「補陀落(ふだらく)」とはサンスクリット語のPotalakaに相当する音写語であって、観音菩薩が住むとされた伝説上の山のことである。法華経の観世音菩薩普門品では観音の威神力を詳説しており、のちに観音経として独立した信仰を集めることとなる。延昌は受戒した以降毎日法華経を転読し(『大日本国法華経験記』巻上、延暦寺座主延昌僧正伝)、毎月15日には諸僧を屈請して浄土の因縁・法花の奥義を対論させているように(『日本極楽往生記』延暦寺座主僧正延昌伝)、天台僧として法華経信仰を実践した人物であった。
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補陀落寺跡の石仏(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)
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補陀落寺の開創
天徳3年(959)4月29日、延昌僧正が補多楽寺にて供養を行なった。請僧100口(人)、僧綱20人、凡僧80人であった(『扶桑略記』第26、天徳3年4月29日条)。この年をもって補陀落寺開創の年であるといえるが、総勢200人にも及ぶ盛大な法会が営まれていたことが知られる。
この法会には参加者のみならず、法会を聴聞する者も集まっていたらしい。その中に浄蔵がいたのであるが、以下の説話に法会の様子の一部が示される。
補陀落寺供養の日、浄蔵は法会を聴聞するため会場に到った。童子は来て告げるに「乗っていた馬が突然死にました」といった。浄蔵は「お前は卑しい者を去らせて戻って守りなさい。折柴で目を覆ってカラスがつつくのから防ぎなさい」といった。童子は命を受けて浄蔵が戻ってくるのを待っていた。法会が終わると浄蔵は帰ってきた。そこで死んだ馬に向って念誦加持すること108回、馬はたちまち蘇生し身を振るわせて立った。童子は秣(まぐさ)を飲ませた。これを見ていた者はつかみ合いをはじめて互いに譲ることができなくなってしまった。浄蔵はついに策(むち)をあげて庵に戻っったが、童子に命じて、「早く馬を牽いて門から出しなさい。業報は決定した」といった。童子が門外から出すと、果たして言うとおりに死んでしまった(『大法師浄蔵伝』)。
この説話には馬に乗って法会を聴聞に来る僧、その従者である童子、馬の周囲に集う者などが描写されている。それは事実かどうかはともかくとして、補陀落寺周辺の環境に対する人々の認識を窺わせる上で興味深い。
詳細は後述するが、『今昔物語集』にみえる補陀落寺開創説話には、延昌と念仏を修する餌取法師(殺生を生業とする僧侶)との間で生前契約されていた寺院建立を、餌取法師示寂後に延昌が村上天皇に奏上して果たしたものであるとする(『今昔物語集』巻第15、本朝付仏法、北山餌取法師往生語第27)。つまり補陀落寺は、餌取法師など蓄種屠殺に関わって賎民視された者たちとの関連性があると当時から考えられていたことを示している。そして補陀落寺は彼らを仏法によって救済される場として説話に用意された格好の舞台であった。
『今昔物語集』にみえる補陀落寺開創説話の中で、餌取法師は「阿弥陀の念仏を唱え行いたい」といい、小庵で念仏を行い、その小庵が後に補陀落寺になったことを記している。また延昌は尊勝陀羅尼法や熾盛光法などの天台密教系の法会に関して一大画期を築き上げた人物であるが、同時に延昌は天台浄土教史上画期となった人物でもあった。
例えば延昌は補陀落寺の他にも大日院を建立して御願寺としているが、この大日院の位置づけは天変除災のため熾盛光法を朝廷祈願によって延昌が修する場であるという、極めて明確な位置づけを持っていた。そのため大日院は特定の目的の法会、すなわち天変除災のみにおいて行なう専門道場以外の存在ではなかったのであり、記録上でも天変除災を行なう時のみ姿を現している。
それに対して、補陀落寺はその存在理由は全く明らかではなく、御願寺となったのも延昌の申請があったからにすぎない。補陀落寺自体、建立される以前より餌取法師のような修行者の存在があってこそ補陀落寺開創に踏み切れたものであり、延昌が一から自身で築き上げたものではなかった。
延昌と補陀落寺周辺の関わりは、補陀落寺開創の28年前まで溯る。延長9年(931)3月24日、藤原忠平は延昌に命じて北山の修行者に施しを行なっているが(『貞信公記』延長9年3月24日条)、「北山」は補陀落寺が位置する静原周辺も含んでいる。北山には御願寺である興隆寺があったが、この記述からは特定の寺院ではなく、山中に篭もって修行する者たちを指しているとみてよい。すなわち延昌と補陀落寺開創の関わりは、彼ら修行者たちを媒体としたものであった。
応和2年(962)4月17日延昌の申請により宣旨を蒙り、補多楽寺は御願寺となった(『日本紀略』応和2年4月17日条)。
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補陀落寺跡の礎石(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)。中央の石が礎石で、上部(こちらを向く)が円形になっていることが確認できる。
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御願寺としての補陀落寺
応和2年(962)4月17日延昌の申請により宣旨を蒙り、補陀落寺は御願寺となった(『日本紀略』応和2年4月17日条)。
延昌の申請は3月29日に実施されているが、その中で補陀落寺は「天台山(比叡山)は隣で、王舎城(平安京)は遠から」ざる場所であるとし(『門葉記』巻第134、寺院4、補多楽寺、応和3年4月17日官苻)、地勢的に優れていることを強調している。さらに建立目的は「鎮護国家のため」としていたためか、補陀落寺の寺号に改める以前の天暦元年(947)には村上天皇の綸言を受けていたという(『門葉記』巻第134、寺院4、補多楽寺、応和3年4月17日官苻)。綸言ののちは昼夜三時に諸尊真言を持念し、朝暮の2度に三種の般若を転読した。延昌は御願寺した際には四海を回向して、宝祚(天皇の寿命)を祈ることを目的とした(『門葉記』巻第134、寺院4、補多楽寺、応和3年4月17日官苻)。またその他にも涅槃経1部38巻を書写しており、天慶5年(942)以来16年間、孟夏(5月)に涅槃経を講じていたことを延昌は敬白にて述べている(『門葉記』巻第134、寺院4、補多楽寺、天徳3年4月19日延昌敬白)。
このように補陀落寺は御願寺として認可を受けたが、その所管は延暦寺西塔平等坊にあったという(『門葉記』巻第134、寺院4、補多楽寺、天徳3年4月19日延昌敬白)。西塔平等坊は延昌が延暦寺上で常住していた坊舎であった。
なお御願寺には『新儀式』によると4パターンの分類があるのだが、以下に示してみると、@天皇・皇后・太上皇の御願によって建立される場合、A貴族が建立した寺院に御願堂を建立することによって御願寺とする場合、B僧侶の奏請によるもの、C貴族の私寺をもって奏請する場合、となっている。その中で補陀落寺は建立経緯からいえばBに該当しそうであるが、『新儀式』においてはCに分類されている(『新儀式』巻第5、臨時下、造御願寺事)。このことは延昌の奏請のみが御願寺となった理由ではないことが示唆されているかのようで、興味深い。
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補陀落寺跡(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)
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延昌の修法と示寂
延昌は補陀落寺建立後さらに朝廷に重きをなし、高齢であったにもかかわらず、多くの修法を行なって、ますます信認を受けた。この時期僧綱の中で朝廷の修法を延昌とともに行なった人物に真言宗の寛空(884〜972)がいる。延昌と寛空の関係は良好で、応和元年(961)9月に村上天皇の御前で空海の名に関する見解を寛空が述べた際、補論をつけくわえており、そのことが道理にかなっていたという(『大師御行状集記』御名多条第103)。
天徳2年(958)正月6日、この日より始めて大日院において熾盛光法・不動法の両壇の法を衆した。また大般若経を転読させ、7日間に限って天変を消すためである。蔵人修理亮平珍材が事の次第を仰せて、兼ねて度者1人を賜った(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天徳2年正月6日条)。
同年2月21日には大日院にて熾盛光法を50日間に限って修法させた。これも天変を消すためであった(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天徳2年2月21日条)。この効果がなかったのかさらに4月10日には継続して大日院にて熾盛光法を50日間に限って修し、前とあわせて計100日間天変を消すための修法を行なった(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、天徳2年4月10日条)。
さらに天徳4年(960)7月29日にも大日院にて延昌に7日に限って熾盛光法を修させているが、これも天変を除くためであった(『扶桑略記』第26、天徳4年7月29日丁卯条)。同年(960)9月22日夜に延昌は宮中仁寿殿において熾盛光法を修している。これは天変を除くためであった(『扶桑略記』第26、天徳4年9月22日己未条)。しかし翌日夜に内裏が焼失したため、24日に延昌は天皇の命により左近衛府大将曹司にて修法・読経を行なっている(『扶桑略記』第26、天徳4年9月24日条)。同年12月17日にも比叡山惣持院にて延昌は20口(人)の伴僧を率いて熾盛光法を修している(『村上天皇宸記逸文』天徳4年12月17日条〈『柳原家記録』131所引〉)。
応和元年(961)正月8日、朝廷の命により、比叡山にて延昌は不動法を修している(『村上天皇宸記逸文』応和元年正月8日条〈『柳原家記録』131所引〉)。3月9日には延暦寺法華三昧堂にて延昌は無量寿決定王如来法を7日間修している(『扶桑略記』第26、応和元年3月9日壬寅条)。9月15日も法華三昧堂で無量寿決定王如来法・熾盛光法を修している(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、応和元年9月15日条)。
応和2年(962)10月9日夜から宮中仁寿殿にて延昌は20口(人)を率いて不動法を修している(『村上天皇宸記逸文』応和2年10月9日条〈『柳原家記録』131所引〉)。同年には延昌が盗賊のため殴打される事件が起こっている(『西宮記』臨時1、裏書、僧綱召事)。応和3年(963)2月11日、大日院にて僧正延昌は伴僧20口(人)を率いて熾盛光法を行なった(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、応和2年11月11日条)。
応和3年(963)9月12日、すでに84歳になっていた延昌は朝廷に弟子僧を遣わして、辞表を申し出た。しかし朝廷は許さなかった(『西宮記』臨時1、裏書、返僧綱表)。12月24日に延昌は最期の時が近いことを悟り、門弟に命じて三七日間(21日間)不断念仏を修させた(『日本極楽往生記』延暦寺座主僧正延昌伝)。翌応和4年(964)正月15日、延昌は入滅した。85歳だった(『日本紀略』応和4年正月15日条)。延昌は平生常に「命が終るときに先んじて、三七日(21日間)の不断念仏を修したいと思う。その結願の日こそが、私の入滅の時なのだ」といっていた。往年夢に四位の朝服を着た人がいて、格好は非常に雅やかであった。延昌に語って「もし極楽に生まれたいと思うなら、一切衆生のために法華経百部を書写しなさい」といった。延昌は衣鉢を捨ててまで書写・供養した。示寂の日延昌は沐浴して浄衣を着、本尊の像に願って「年老いて命が終わろうとしています。夕方には必ず相迎して下さい」といった。言い終わるや右脇にして臥せ、枕前に阿弥陀・尊勝の両像を安置した。糸を仏の手に結んで、自分の手に繋げた。その示寂の様子は普段から言っていた通りであった(『日本極楽往生記』延暦寺座主僧正延昌伝)。
延昌示寂の15年後の天元2年(979)8月28日、勅によって延昌に「慈念僧正」の諡号を賜った(『扶桑略記』第27、天元2年8月28日条)。
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補陀落寺跡から見たクダラコージ谷(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)。下にも寺院跡を示す平坦地がいくつかみえる。
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『今昔物語集』にみえる補陀落寺建立説話
前述通り、『今昔物語集』には補陀落寺開創説話が記載されている。この説話は平安時代後期における補陀落寺の認識について窺い知ることができ、興味深い。
比叡山の西塔に延昌僧正という人がいたが、いまだ下臈で修行している時、京の北山の奥に一人で行ったところ、大原山の戌亥の方角に向って奥深い山を通過したところ、「人里がある」と思って行ったところ、人里は見えなかったが、西の谷の方角にわずかに煙を見つけた。「人のあり所なのか」と喜んで歩いて行くと、近くに寄って見れば、一つの小さい家があった。寄って人を呼んでみる、一人の女が出て来た。僧を見て「これはどなたですか」と問いかけてきたから、「修行者ですが山で迷ってしまいました。今夜ばかり宿めて下さい」と答えた。女性は延昌を家の中に入れた。延昌が入ってみると柴を積んで置いてあった。延昌はその上に座った。しばらくたって外から人が入ってきた。見ると年老いた法師が物を荷って持って来て、放り投げて奥の方へ入っていった。女が出てきて、その結んである荷物をほどき、刀で小さく切り鍋に入れて煮た。その香りは臭き事限りなかった。よく煮た後、取りあげて切って、これを法師と女の二人で食べた。その後、小さい鍋に水を汲み入れて、下に大きい木を三筋ばかり差し合せて火を燃したた。この女は法師の妻であったから、妻夫が寝た。「はやばや、馬・牛の肉を取り、持ってきて食べていたのか。あさましいことだ、餌取(殺生を生業とする餌取法師)の家にでも来たのであろうか」と怖ろしく思って、寄り臥して夜を明そうと思っていた。
後夜になった頃に法師が起きて湧かした湯を頭に汲んではかけて沐浴し、その後に別に置いた衣を取って着て、家を出ていった。延昌はあやしいと思ってひそかに出て、法師の行くところをついて行くと、後の方に小さい庵があり、それに入っていった。延昌がひそかに立ち聞きしていると、この法師は火をつけて前に灯を付け、香に火を置いた。「早く仏の御前に居て、阿弥陀の念仏を唱え行いたい」といった。延昌はこれを聞いて、あさましき者と思っていたのに、この行いはとても哀れに貴く思った。
夜明けになり離れる時に、行を終わって庵を出る法師と延昌があった。「賎人と思っていたが、このような行いをなさるとはどういうことですか」といった。餌取の法師は「私はあさましき身の者です。ここにいる女は私の年来の妻です。また食べる物とてなければ、餌取が取り残した馬・牛の肉を取って来て、それで命を養っているにすぎません。しかし念仏を唱えるより外に勤める事はないもので、年来になりました。死ぬ時は必ず告げにまります。また私が死んだ後にはこの場所に寺を建立してください。その代わり今日この地を譲ります」と誓いをした。修行者(延昌)はそこを出て方々に修行し、比叡山の西塔の房に戻った。
その後、年月積み重なり、修行者であった延昌も年月を経る間に、この餌取と誓った事など皆忘れて西塔の房にいたが、3月の晦日に夢に、西の方から微妙の音楽が空に聞えてきて、しばらくすると房前に近付いてきて、房の戸を叩いた。「誰がこの房の戸を叩くのか」と問えば、「先年に北山にて誓った事です。今この界を去って極楽の迎えを得て参りました。そのことを告げるために、誓ったことでしがので、わざと参って申し上げるのです」と答え、西を指して音楽が去って、「出て会おう」と思っったところで夢が覚めた。驚きあやしんで、夜が明けた後、弟子の僧を呼んで、例の北山を教えて遣わして見させた。弟子僧がその所に行ってみると、妻一人が泣いていた。妻は「我が夫は今夜の夜半に貴く念仏を唱えて逝きました」といった。弟子はこれを聞いて戻ってその事を師の延昌に申し上げた。延昌はこれを聞き涙を流して貴ぶこと限りなかった。その後延昌僧正が村上天皇にこの事を申し上げて、そこに寺を建立した。補陀落寺と名付けた。そうとなればこれを聞いた人は皆「食によって往生の妨げとはならない。ただ念仏によって極楽には行けるのだ」と知った。延昌僧正もまたその後、念仏を唱えて善根を修して極楽往生をしたと語り伝えられている(『今昔物語集』巻第15、本朝付仏法、北山餌取法師往生語第27)。
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補陀落寺跡(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)
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補陀落寺の廃寺
補陀落寺が位置するクダラコージ山は、その中腹には山から水が染み出しており、泥濘が多い場所であるにもかかわらず、その100mほど上部に位置する補陀落寺跡がある主要部分は水の影響を受けず、さらに平坦面が現在でも良好に残っている。山名の「クダラコージ」は「ふだらくじ」が訛伝したものとみられている。
補陀落寺跡の主要部分は谷川より100mほど登ったところにあるが、水は年中困ることがなかったのかもしれない。補陀落寺の開創説話の一つに、延昌が補陀落寺に住んだ時、寺に水が乏しかったから、延昌は尊勝陀羅尼を唱えたところ、たちまち冷泉がほとばしって湧いたというものがある(『元亨釈書』巻第9、感進4之1、延暦寺延昌伝)。
奥州平泉の毛越寺の吉祥堂の本仏は補陀落寺の本尊を模したものである。この観音は生身であると伝えられており、厳重な霊像であったから、さらに丈六(230m)の観音像を造立して、その内にこの本仏を納めていた(『吾妻鏡』文治5年9月27日条、毛越寺事)。
補陀落寺は『平家物語』の終章「大原御幸」において後白河法皇が御幸した地として描かれる。文治2年(1186)春に後白河法皇は建礼門院の大原の閑居を訪れようと、公卿6人、殿上人8人、北面武士若干名とともに鞍馬を通過して清原深養父の補陀落寺、小野の皇太后宮の旧跡を叡覧して、その後大原の寂光院の建礼門院のもとに御幸したという(『平家物語』潅頂巻、大原御幸)。
補陀落寺跡では遺物が表採取されており、土師器・須恵器・緑釉陶器・灰釉陶器・輸入陶磁器・瓦・釘はいずれも平安時代のものであった。土師器は10世紀から12世紀頃、灰釉陶器(椀の破片)は10世紀から11世紀頃のものである。瓦は平安時代後期のものであるから、12世紀頃に伽藍の整備か堂宇の修理が行なわれた可能性が指摘されている(梶川1990)。
しかしながら補陀落寺は南北朝時代に天台僧慶運(?〜1369頃)が補陀落寺八講に参勤したという記述を最後として史料上からその姿を消してしまう(『門葉記』巻第134、寺院4、補多楽寺、歌人慶運法印云)。このことから南北朝時代に廃寺となってしまったらしい。
近世には補陀落寺跡を訪れる人が何人かおり、記録に残している。元政(1623〜68)が訪れた時、静原の村から半里(2km)ばかりに一山があり、古い柏が一株あって、大きさは10囲ほどであった。村翁が指して「これが補陀落寺の遺址だ」といった(『扶桑隠逸伝』巻中、清原深養父伝)。また黒川道祐(?〜1691)は「今は堂が絶えてしまい、礎石が所々に残っている」と記述している(『雍州府志』巻1、寺院門、補陀落寺)。
『山州名跡志』(1702〜11)に補陀落寺は静原の北端から5町ばかり寅の方角の山間であり、谷を2町(218m)ばかりである。地元では「堂谷」という。大きな岩があって景色をなしており、その地の傍らに古い石の塔婆が1つある。地元民は「この4面の地中に壺4つある」といっている(『山州名跡志』巻之6、普陀洛寺)。
現在補陀落寺の名は旧跡から3kmほどくだった静市市原町の小野寺が「如意山補陀落寺」として継承している。
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補陀落寺跡付近に散乱する石(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)
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[参考文献]
・西口順子「平安時代初期寺院の考察-御願寺を中心に-」(『史窓』28、1970年。のち『平安時代の寺院と民衆』〈法藏館、2004年9月〉所収)
・井上光貞・大曾根章介校注『日本思想大系7往生伝・法華験記』(岩波書店、1974年9月)
・梶川敏夫「京都静原の補陀落寺跡-平安時代創建の山岳寺院跡-」(『古代文化』42-3、1990年)
・古代学協会編『平安京提要』(角川書店、1994年6月)
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小野寺(平成21年(2009)8月19日、管理人撮影)
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