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かげまるくんです。
…単に眠いだけで、にらみつけているわけではありません。
よいお年を〜。
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実家のかげまるくんです。
久しぶりです。妹の座布団がかげまるくんのベットになっていました。
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冬の噴火湾。父の車に乗り、函館から室蘭へ向かう途中にて。
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両親と函館の昭和温泉に行きました。
外観はただの銭湯ですが、京都の「温泉」とは違って歴とした温泉なのです。
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飛行機で千歳空港に降り立ち、そのまま葬儀会場の函館に急行列車で向かいました。
写真は駅弁のカニそぼろ。
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明日、北海道に帰るので、今年の日記はこれで終りです。
来年は兎年なので、ウサビッチのプーチンです。
良いお年を〜│。・_・。)ノ
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来年は兎年なので、近くのコンビニ老村で買ってみました。
ゼリーが入っているのですが、中身は半分も入っていません。
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今朝、私の外祖父が亡くなったそうです。
葬儀のため葬儀会場である函館行の飛行機をとろうとしたのですが、時期が時期だけに満席です。
やむを得ず、明後日すでに予約済みとなっている千歳行の飛行機に乗って、千歳から函館まで電車で行こうかと思っています。
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このまま帰るのも癪だったので、石清水八幡宮に行ってみました。
ケーブルカーに乗らずに表参道から歩いて行きました。
裏参道から歩いて帰ろうとすると、かっぷるが
「裏参道だって。こんなところ歩く人なんかいるわけないのに」
と御高説を述べられていました。
すでに暗く、しかも足元には落ち葉が被さっているため滑りやすく、危険だったのですが、歩いてみると、後ろからカツカツと足音が迫ってきます。
少し怖かったのですが、足音の正体は若い女性のヒールの音。
…ヒールで下山かい! ( ゚o゚)ノ
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正法寺を拝観しようと、八幡市に行ってきました。
…閉まってたけど。(〃^∇^)ノ
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常連の銭湯「明治湯」には写真のような額が掲げられています。
最初来たとき、「禄を以て…、読めない〜」と思ってはいたのですが、そのまま数年疑問はほったらかし。
ところで最近、京都の銭湯を紹介するサイト「お風呂屋さん的京都案内」にて、明治湯が紹介されていて、
「浴室側には書の額も掛かっているのですが、これが「禄を以て・・・」またもや読めません!」
http://www004.upp.so-net.ne.jp/ofuroyasan-teki/nishijin3.html
とあるので、解読してみようと、番台のおばちゃんに聞いてみると、
「以裸謝意」
だそうです。
私「裸を以て意(おもい)を謝す…?」
おばちゃん「そんなのとちゃう! 素直にそのまま音読してみぃ」
私「…」
おばちゃん「わからへんのかい」
おばちゃん「いらっしゃい」
私 ( ゚Д゚)ポカーン
ちなみに書いた人は「廬山人」とあったので、
私「北大路魯山人ですか?」
おばちゃん「そんな偉い人とちゃう。廬山寺通に住んでるおじいさんだから“廬山人”」
だそうです。
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仕事で堀川烏丸付近にいたのですが、お昼にマクドナルドを食べると、牛肉が苦手な私はちと具合悪くなりました。
そこで昼休みを利用して腹ごなし、と京都御所を散歩したところ、秋の拝観が実施されていました。
写真は紫宸殿。
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朝出勤すると、突然奈良出張を命じられました。
そこで車に乗って高速で奈良に行って来ました。
写真は頭塔。
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次は真珠庵です。
大徳寺といえば一休さんが有名で、真珠庵はその一休が建立した塔頭なのです。
ところで近世の真珠庵の歴代住職は、大徳寺住持になれない真珠庵派の僧侶がなっていました。『正統世譜』や『大徳寺歴代住持世譜』に書かれている真珠庵住持は、みな大徳寺の他の禅僧とは一線を画す人達でした。(大徳寺の住持は北派・南派・関山派が就任していた。主として北派・南派が中心で、関山派はおまけみたいなもの。さらに真珠庵派は住持にすらなれない人達)
そのため、しょぼい塔頭だろうと思っていたのですが…。
京都秋季非公開文化財特別拝観の中で、800円が同列に扱えないほどの素晴らしいところでした。
ただ、あらいぐまに破壊された屏風が破壊されたまま展示していましたが…。
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今日は京都秋季非公開文化財特別拝観が最終日だったので、近所の大徳寺聚光院に行ってきました。
写真は方丈。
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神戸に二日間出張に行ってきました。
出張先で二日ともお弁当が出たのですが、何故か異常にまずかったので、ホテルの1,000円バイキングを食べてました。(^^;)
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比叡山山頂からみた京都市街は何やら怪しげな雰囲気があります。
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日曜日の代休で比叡山に登ってきました。
写真は比叡山の紅葉。
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京都秋季非公開文化財特別拝観で妙蓮寺の寺務所が公開されているので行ってきました。
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閑院宮邸の庭にある石塔。
御苑内で仏教的な物があるのは珍しいのではないのでしょうか?
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京都御苑内の白雲神社。
バイクがあったり散らかっていたりと、ちょっと生活臭があります。
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今日は日曜日なのにもかかわらず仕事だったのですが、業務が京都御所の付近でしたので、お昼休みに京都御所を散歩してみました。
まずは京都御苑内の宗像神社の境内。
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ところで、水火天神社は鳥居が公園に面しているのですが、同じく公園に門を面している寺院に大応寺があります。
大応寺は、悲田院の跡地ともいわれており、山号は大金剛山といい、当初は天台真言兼学でした。後に臨済宗相国寺派となりました。
応仁の乱後荒廃し、正保2年(1645)に泉涌寺境内に悲田院として再建されましたが、名跡を惜しんで旧地に復帰。さらに大応寺となりました。
檀越に古筆鑑定家の古筆了佐がいたといい、かつては彼が寄進した古筆切があったといいますが、すべて散佚しています。また古田織部が祀ったという稲荷社の祠を鎮守としています。
参考文献;
・『京都坊目誌』
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ついでに水火天神社に行きました。
水火天神社は延長5年(927)に神託によって悲田院の鎮守として勧請されたといい、伝説によると神託があり、洪水を防ぎ、大雨を止めるためこの名があるそうです。
参考文献;
・『京都坊目誌』
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今、京都秋季非公開文化財特別拝観で慈受院が公開されているので行ってきました。
感想は書きません。
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今、京都国立博物館で「高僧と袈裟」展をやっているので、見に行ってきました。
智者大師から最澄へとわたった袈裟をはじめとして、中国・日本仏教史上の大物が着用した袈裟がずらりと陳列されています。このようなマニアックな展覧会は「古写経」展以来かもしれません。
こう聞くと、さぞ観覧者が多かろうかに聞えますが、実際に文化の日だというのにスッカスカ。一方の奈良国立博物館の「正倉院」展は150分待ちの行列だったそうです。
↑これを聞いたら京博の担当者は泣くだろうな…。(´・ω・`)
ところで「袈裟なんてどのように研究するんだろう」と興味津々だったのですが、顕微鏡をつかって実際の織り方を見ていたようです。まず一般の人には無理ですね。
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先週はかなり忙しくて参っていましたが、今日は休みだったので、京都国立博物館に行って来ました。
ところで、京都三条の檀王法林寺の前を通りかかると、賑やかな音楽と「沖縄県人会」の垂れ幕があったので、何事かと覗いてみると、お寺の境内で沢山の人がエイサーを躍っていました。
檀王法林寺の開山の袋中(1552〜1639)は50歳代の時に琉球(沖縄)に渡り、そこで浄土宗を広めるため、念仏歌を琉球の民衆に教えました。『琉球神道記』『琉球往来』など琉球文献を撰述したほか、国王尚寧王の信認を得ましたが、やがて袋中は日本本土に帰ったため、袋中が広めようとした浄土教は忘れ去られてしまいました。やがてが薩摩の琉球侵攻によって尚寧王は虜囚のみとなり、日本本土に連れて行かれましたが、尚寧王は袋中に見事な琉球漆器を贈呈、現在も檀王法林寺に所蔵されています。
ところで袋中が教えた浄土教は琉球で忘れ去られてしまいましたが、念仏歌のみはなまって「ニンブチャー」となり、のちに「エイサー」として定着、現在まで続いています。そのエイサーが袋中が開創した檀王法林寺で躍られていたのです。
4世紀後まで続く袋中と琉球の交流に、一人心にほっとするものがありました。
[参考文献]
・知名定寛『沖縄宗教史の研究』
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前日に引き続いて名古屋出張で、今日京都に戻りました。
写真は新幹線ホームで食べたきしめん。テレビで紹介されるほど有名だそうです。
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名古屋出張です。
若宮八幡宮が綺麗になっていました。
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午前中だけ新幹線で名古屋に出張で行きました。
今日は一旦京都に戻ってきましたが、明日から泊まりがけでまた名古屋に出張です。
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最近繋がれていない猫ラッキーちゃんのアップ写真。
一見平静にみえますが、近づいてみるとかなりドキドキしているようです。
怖がらせてごめんなさい。ゴメン(-人-;)
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坂本から比叡山に登ってきました。報告はこちら。
ところで坂本を少し散策したのですが、なかなか風情のあるところです。
石垣が多く、のんびりした風景なので、山がなかったら沖縄かと思ってしまうかもしれません。
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船岡温泉前の名物・繋がれている猫ラッキーちゃん。
最近繋がれておらず、放し飼いにされていますが、看板の下で無防備にお昼寝しています。
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比叡山に行って来ました。
八瀬八幡宮から歩いて八町坂を通り、北谷(道がないので崖を漕いでのぼった)から黒谷まで一旦抜けて、再び八町坂に戻る。そこから縦断して松尾坂から帰ってきました。報告はこちら。
…えっ、建物?
青龍寺以外、一つもみていません(^^;)
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問題:何の写真でしょうか?
答えは平安神宮近くの疏水を撮影したのですが、天地が逆になっています。
つまり、上下が逆になり、空が下、水が上に位置しているのです。
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最終日は杭州の西湖に行きました。風光明媚で美しいところです。報告はこちら「4日目 西湖」
帰りの飛行機は上海国際空港から離陸したのですが、日本の飛行機(ANA)だからか、管制塔に2時間近く足止めされる嫌がらせをされていたようです。
…おかげで帰国後、せっかく予約した関空特急はるかには間に合いませんでした。
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三日目は普陀山の法雨寺・慧済寺をめぐって、普陀山を離島。一路杭州に向かいました。
報告はこちら「3日目 普陀山→杭州」
そういえば、中国の車の運転は、日本の基準からみればかなり乱暴なのですが、大抵の車にあてはまる運転法則としては、
@基本ハイビーム
Aタクシーすらあおる凶悪バス
B方向指示器はただの飾り
C道は絶対に譲らない
D合間があれば事故覚悟で割り込む
E車間距離はぶつかる直前まで接近せよ!
F交差点は左右確認なしで突っ込む
G曲がる時は反対車線走行をしてもよい
H事故当事者同士は警官の前で殴り合い
といったところで、乗ってる方としてはかなり怖かったものです。
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中国旅行二日目は寧波の天童寺・阿育王寺の後、舟山列島から普陀山に行きました。
写真は天童寺。
報告はこちら「2日目 寧波→普陀山」
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3泊4日で中国にツアーで行ってきました。
この日は終戦記念日で、中国では戦勝記念日になるはずですが、中国のテレビは一日中土石流災害の救援ニュースしかやっていませんでした。
写真は関空でのパンダ飛行機。
報告はこちら(1日目 上海→寧波)。
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太秦温泉に行って来ました。
ここに来たのははじめてですが、なかなかキレイでいいところです。
残念なのは、私が住んでいる紫野よりも終業時間が早いこと。
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本隆寺の祖師堂です。
明暦年間(1655〜58)に建立されたといいますが、実際には18世紀のものだそうです。
桁行3間、梁行6間の寄棟造の建物ですが、一重裳階があるため、少し印象が違ってみえます。
この祖師堂も、本堂と同様に享保15年(1730)の西陣焼け、天明8年(1788)の天明の大火に際して、罹災地域の中に含まれており、かつ他の本隆寺の堂はすべて焼けているに対して、焼失を免れています。
その秘密は『拾遺都名所図絵』(http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7/km_01_026f.html)をみるとわかりますが、本堂と祖師堂は他の建物とは距離が隔たっており、それが類焼を免れた原因であるようです。
参考文献:
・『上京区寺院明細帳』
・『京都府の近世社寺建築』
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本隆寺の塔頭「正寿院」です。
慶長5年(1600)6月に建立されました。開基は日修の弟子の日聡です。その他のことはあまりわかっていません。
昭和3年(1928)・昭和7年(1932)に本堂・庫裏の増改築を行なっています。
参考文献;
・『上京区寺院明細帳』
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本隆寺の塔頭「玉樹院」です。
玉樹院は慶長10年(1605)に建立されました。開基は日豊。二代目は日明です。
享保20年(1735)に焼失したため、元文3年(1738)に再建されています。昭和14年(1939)にも本堂と庫裏が増改築されています。
参考文献;
・『上京区寺院明細帳』
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本隆寺の鎮守です。
天正年間(1573〜92)に檀越が協力して創建したといい、享保15年(1730)6月に焼失しましたが、延享年間(1744〜48)に本隆寺22世日就によって再建されました。
その後天明8年(1788)の天明の大火で焼失しましたが、寛政10年(1798)5月に本隆寺30世日東によって再建されました。
参考文献;
・『上京区寺院明細帳』
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常槃井のある場所のすぐ横から、民家と民家の間の小道を北に10mほど行くと、写真のような塚があります。
これは「絹懸塚(きぬかけつか)」といい、またの名を鏡塚というそうですが、由来はわかっていません。
[参考文献]
・『山州名跡志』巻之7
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何気なく家の近所を歩いていると、「常槃井」という文字と、寛文12年(1672)に清水宗善なる人物が撰した旨のことが書かれている石がありました。
これは常槃井(ときわい)と読むそうで、源義経のお母さんの常盤御前が愛用したからこの名があるといいますが、江戸時代にはそんな説話は「信用し難し」と切って捨てられるほど…。まぁ伝説ですから…。今では水は沸きませんが、写真の右側にみえるように、蛇口がついています。何故?
常槃井
清水宗善誌之
願以此功徳
平等施一切
同発菩提心
往生安楽国
寛文十二壬子歳
十月十二日
銘文は「願わくはこの功徳を以て平等に一切に施し、同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん。」とあるように、回向文です。
[参考文献]
・『山州名跡志』巻之7
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石像寺の阿弥陀三尊石仏です。
元仁2年(1225)に造立されたもので、光背に種子があり、光背には周縁を彫りおこした天台系の石仏です。
元仁2年(1225)に伊勢権守佐伯朝臣為家によって建立された旨の銘があり、鎌倉時代の京都近辺の石仏としては、比叡山延暦寺西塔香炉丘の弥勒石仏・北白川の阿弥陀如来石仏・大津市藤尾町の阿弥陀三尊磨崖仏と並び称されるものです。
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石像寺の本堂は、享保15年(1730)・天明8年(1788)の二度にわたって焼失しており、現在の本堂は北野其院よりの移転だそうです。本堂は明治10年(1877)に再建されたそうです。
石像寺の境内には藤原家隆の墓がありますが、後代のものだそうです。
参考文献;
・『京都坊目誌』
・『上京区寺院明細帳』
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「石像寺」です。一般には「釘抜地蔵」で有名です。
浄土宗鎮西派の寺院で、百万遍の知恩寺の末寺です。その創建についてはわかっていませんが、空海の開基で、重源が再興したと伝えられています。
その後、慶長19年(1614)に浄土宗寺院になりました。
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出張が今日で終わりなので、きしめんを新幹線ホームで食べました。
今は暑いので、冷やしきしめんです。
…そいや今日は私の誕生日です。
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名古屋の若宮八幡宮の拝殿が修復工事中です。
今年が奉遷400年記念になるらしいので、傷んでいる社殿の修復を行なっているようです。
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浜松に出張に行きました。
浜松市に「誕生井戸」なる井戸があり、2代将軍徳川秀忠の誕生地だそうで、もとは下屋敷があった場所で、家康の側室が秀忠を産んだそうです。
もとは50m西方のところにあったようです。
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本隆寺の本堂は京都でも屈指の古さをもつ日蓮宗系寺院の本堂建築ですが、改造が大きく、正面はもともと2間通りが吹放ちの板間であったのを、昭和37年(1962)の改造で外陣を囲ってしまっています。
また四方縁の高欄も、もとはなかったのを文政9年(1826)に設けたものです。
参考文献:
・『京都府の近世社寺建築』
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本隆寺の本堂は、京都に現存する中では屈指の古さを誇り、明暦3年(1657)に建立されたものです。
ほかには伏見の宝塔寺の本堂(1608)があるくらいですが、本隆寺の本堂のすごいところは、享保15年(1730)の西陣焼けや、天明8年(1788)の天明の大火に際して、罹災地域であるにもかかわらず、焼失を免れているところです。
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本隆寺は日真が長享2年(1488)に六角西洞院に建立し、その後四条大宮に移転。天正11年(1583)に現在地に移転したといいます。
写真の薬医門は天明の大火(1788)の後、文化4年(1807)3月に本隆寺31世日明によって再建されました。
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「本隆寺」です。
小さなお寺が多い西陣では、一・二をあらそう大寺です。
写真は勅使門。
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先日、鉾参通(千本町通)の民家の壁にあった「昔ながらの町屋」という場所に行ってみました。
「三上長屋」というそうで、蜂蜜専門店などがあるそうです。
おしゃれな町屋というよりは、中国北京の路地裏か何かのようですね。
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鉾参通(千本町通)の町屋の壁に、写真のような地図がありました。
「昔ながらの町屋」とあります。
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猫寺の正面の通りは、「鉾参通」という名称となっていますが、いつからそのような名称になったのでしょうか。
この通りはもともと千本町通といい、現在鉾参通と通称される場所は、歓喜町(Google地図)と西千本町・東千本町の3町を東西に打通した統一名称であるようです。
歓喜町はここにもとは歓喜寺があったことからの名称であるといい、また西千本町・東千本町には長福寺なる寺院があったといいますが、天正年間(1573〜92)に両寺とも寺町通(北区鶴山町)に移転したといいます。西千本町・東千本町はもとは西長福寺町・東長福寺町といいましたが、享保年間(1716〜35)に現町名に改められたといいます。
写真は歓喜町の交差点から猫寺方面を撮影しました。
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またまたまた比叡山延暦寺に登ってきました。
今回は叡電の八瀬比叡山口駅で降りて北に1kmほど歩き、八瀬近衛町の登山口付近から登ったのでした。京都バスがここまで走っているのですが、知らなかったので歩いてしまいましたが、登山口前にその名も「登山口前」というバス停を見つけたときのガッカリといったら…。
今回は黒谷道を登りました。報告はこちら。
京都市内は真夏の様相を呈していましたが、山上はまだ清涼な風が吹いています。
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嵯峨の清涼寺に行ってきました。
嵐電嵐山駅がビアガーデンとなっているので、そこで一杯呑んできました。│。・_・。)ノ日
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4日に愛知県陶磁資料館で作陶したのですが、その時造った水指が届きました。
仁清造の東福門院好兎耳付水指を、永楽妙全が神楽岡の土で写した水指をさらに写したものです。永楽妙全の水指は、仁清の本歌とは形状が本質的に違うのですが、それを写したため、全く本歌とは似てもにつかないものとなっています。
胴には無学祖元の「臨剣の偈」を刻んでいます。
ヽ( ´∀`)ノ
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今日は祇園祭の宵々山でしたので、行ってきました。
祇園祭は宵々山ですら、例年、某アニメ映画のム★カ大佐の名台詞「●がゴミのようだ!」というような状態になっていますが、大雨の後であったということもあり、人が少なかったのです。(・∀・)/
写真は長刀鉾。祭囃子の音を聞くと夏の訪れを感じます。
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雷雨をともなう激しい大雨の後の空模様。
紫色の空です。
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円仁のものとみられる石碑が法王寺より発見されたとのニュースが流れていました。
以前に述べたことがあるように、私は円仁に深い関心を持っているのですが、円仁の日記『入唐求法巡礼行記』には法王寺に関する記述がないので、一体どのような寺なのか調べてみました。
法王寺は河南省の登封に位置し、かの有名な嵩山の南麓にあります。後漢の永平14年(71)に建立されたといい、唐の貞観年間(627〜49)に太宗皇帝が勅して仏像を増設したそうです。さらに開元年間(713〜41)には功徳寺と改名し、北宋の慶暦年間(1041〜48)には再度法王寺と改めたそうです(『河南通志』巻20、古蹟、河南府)。
『天台宗延暦寺座主円珍伝』には、今度は円珍が大中10年(856)5月に鄭州と滑州の境を通過したことが書かれているため、円珍も法王寺の付近を通過したようですが、実際に立ち寄ったかどうかはわかりません。
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西陣付近の地誌を探ろうと、何気なく『拾遺都名所図絵』をみましたが、そこに、「獄門寺」なるあまりにもおどろおどろしい名称の寺院についての短い記述がありました。現在は廃寺となっているため、その周辺を少し調べてみました。
獄門寺はかつて大和国高市場郡にあり、西福寺という名の真言宗寺院でしたが、寛弘3年(1006)に京都の近衛西洞院に移転してきました。『雍州府志』によると、獄門寺の名称は、獄門寺の横に牢獄があり、同時に処刑場となってことによるもので、死刑囚に最期の結縁功徳を施していたため、いつの日か「獄門寺」と呼ばれるようになったそうです。
さらに『雍州府志』によると、獄門寺には聖徳太子自刻とされる7尺(210cm)の薬師如来立像があり、天正13年(1585)には正親町天皇の祈願文を得るほどの信仰を集めました。豊臣秀吉が朝鮮出兵で、殺戮した朝鮮人の耳鼻を切り取って耳塚を築きましたが、この時、獄門寺の僧に供養を命じたところ、僧は拒絶。怒った秀吉は寺の財産を没収して、櫟谷七野神社の付近に移転させたといいます。
現在櫟谷七野神社の西隣には「薬師前町」という地名(Google地図)が残っており、これは獄門寺の本尊薬師如来から付けられた名称であるようです。江戸時代の絵図には「西フクシ」として、櫟谷七野神社の西隣に隣接して描かれています。
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さすがに「獄門寺」という、あんまりな名称に疑問を持った人がいました。それが天明5年(1785)に獄門寺の住職となった蔵鋒でした。
蔵鋒は天明6年(1786)11月に、獄門寺の名称を「羅漢寺」と改めるべく、付近の住民の了解を得ようとします。ところが意外にも、付近の住民の理解は得られず、許可は延び延びとなってしまいます。そこで蔵鋒は既成事実を得ようと五百羅漢の造立を開始しました。
蔵鋒の夢は天明の大火で挫折しました。天明8年(1788)1月29日、京都中を襲った大火を見て、蔵鋒は火の手が回る前の2月1日には仏像・仏具、戸や障子、はては畳や諸々の道具に至るまで、野の畑に出して類焼を防ごうとしました。ところが、付近の住民達も荷物を畑に大量に避難させたため、ついに火事は荷物に類焼。さらに蔵鋒が避難させた仏像・仏具にまで類焼して残らず焼けてしまいました。ただ本尊の薬師如来と天皇の綸旨、縁起が焼け残っただけで、蔵鋒が力を尽くした五百羅漢はもちろん、獄門寺の建物など、すべてを失ってしまいました。老齢に達した蔵鋒は気力を失って獄門寺より去り、以後の彼の行方はようとして知ることはできません。
天明の大火で焼失した建物は、仮本堂として再建されました。この時の建物は明治元年(1868)の調査によると、南北4間四方ほどの規模で、入口は南と北に2つづつあり、中央に仏壇を設け、南に面して薬師如来を祀っていました。西側にカマドと井戸がありました。この調査の頃には住職もおらず、特定の寺院と本末関係になかったことから、間もなく廃寺となりました。聖徳太子自刻とされる薬師如来像の行方も、その時以来現在に至るまで不明となっています。
参考文献;
・『雍州府志』
・『明治二年上下京社寺取調帳』
・『庚午十月改社寺録 上京二部壱』
・『京都坊目誌』
・『慶長昭和京都地図集成』
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元廬山寺通から智恵光院通を北に向けて歩いていくと、右手に写真のような何やら場末な鳥居がみえます。これが櫟谷七野神社の西側の鳥居です。(Google地図)
この櫟谷七野神社は貞観元年(859)に春日大神・高砂大神を祭って鎮座したとされ、永禄2年(1559)に伊勢・八幡・賀茂・松尾・平野・稲荷を配したといいます。
「七野」の由来は、この付近に内野・北野・柏野・紫野・平野・浅野・蓮台野といった7ヶの「☆野」という地名があったことによるとされています。この西陣は近世にこそ手工業の発展をみて栄えますが、中世には葬送の地とされ、この世とあの世の境界とされていました。
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徳寿院と真教院の裏手(Google地図)は、かつて「千本廻」と称されていました。
江戸時代には粟田口の青蓮院や、公家の梅園家・広橋家の領地であったといいます。
そこで『旧高旧領取調帳』をみてみると、青蓮院門跡が65石、公家の広橋家が31石、公家の一条家が21石、伏見宮が19石、公家の冨小路家が11石、大慈院(大徳寺塔頭)が8石、公家の西大路家が2石となっていて、他に公家の梅園家・橋本家、地下官人の山井景順が1石にもみたず、さらに少ない石高を地家官人10家以上で分け合っていました。
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「千本廻」の地は、現在でこそ住宅地となっていますが、江戸時代には周囲には真教寺・徳寿院以外の建物はなく、大半が田畑となっていました。
ここから船岡山までは人家もほとんどなく、ひたすら畑。そのため江戸時代の絵図には、規模が大きい寺院ではないにもかかわらず、寛永14年(1637)の絵図以来、必ず真教寺と徳寿院が描かれています。これは付近にランドマークとすべき場所がなかったことによるようです。
参考文献;
・『旧高旧領取調帳』
・『京都坊目誌』
・『慶長昭和京都地図集成』
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真教寺です。山号は松久山。(Google地図)
浄土宗の寺院ですが、もとは天台宗寺院で、延暦寺の末寺でした。慶長4年(1599)に典故なる僧が建立して、知恩院の末寺となったとも、慶長6年(1601)に声誉が建立したともいいます。天明8年(1788)の天明の大火で焼失しましたが、再建されて現在に至っています。
参考文献;
・『京都坊目誌』
・『上京区寺院明細帳』
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徳寿院です。山号は社乾山。(Google地図)
浄土宗の寺院で、慶長10年(1605)に薩摩の僧信阿が開基として建立されました。やはり天明の大火で焼失しましたが、嘉永3年(1850)に再建されて現在に至っています。
参考文献;
・『京都坊目誌』
・『上京区寺院明細帳』
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因隆寺です。(Google地図)
真宗大谷派の寺院で、寛永元年(1624)に空円を開基として建立されました。天明8年(1788)の天明の大火で焼失していますが、復興して現在に至っています。
参考文献;
・『京都坊目誌』
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京都御所の参道。
京都御所の北側にはグラウンドがあり、サッカーや野球をする市民で賑わっています。
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猫寺こと称念寺です。(Google地図)
本堂は寺伝によると宝暦5年(1755)に建造された桁行3間、梁間4間、1間向拝付の入母屋造本瓦葺の建物です。
あと1980年代の京都府の近世社寺建築の調査の際には、改造が大きかったとはいえ17世紀中期に建造された切妻造、本瓦葺の四脚門があったそうですが、現在は新造の門に替えられています。
参考文献:
・『京都府の近世社寺建築』
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