普甲寺跡



普甲寺跡付近よりみた周囲の風景(平成19年(2007)5月28日、管理人撮影)

 普甲寺(ふこうじ)というのは、京都府宮津市に位置した山岳寺院で、光明山寺と同じく別所と呼ばれる寺院です。大江山を有する要衝に位置し、この地をめぐって幾度も戦乱が繰り広げられてきた舞台でもあるのです。

 ところで、普甲寺にはまたまた春屋妙葩が登場します。何故か「本朝寺塔記」では春屋妙葩がよくその足跡をみせ、「鹿王院」「円成寺跡(大豊神社)」に続いて登場するのはこれで3度目です。空海・役行者・行基といったメジャーどころが一度も出ていないのと対照的です。


普甲寺と寛印供奉

 普甲寺は『伊呂波字類抄』7、不、諸寺によると、延喜年中(901〜23)に建立といい、『拾芥抄』巻下、諸寺部第9、諸寺では美世上人が開山であるという。また『草余集』巻上、偈頌、重誓によると、開山は棄世上人であるという。つまりその開創について、詳しいことはほとんどわかっていない。

 普甲寺といえば、『沙石集』にみえる説話で有名である。それによると、丹後国鳧鴨(ふこう)という所に上人がいた。極楽往生を願い、すべてを捨ててひたすらに聖衆来迎を願っていた。当時、世間の人は正月の初に願い事をして祝う風習があったため、この上人も、「自分も祝い事をしよう」と思って、大晦日の夜、書状を書いて一人の小間使いの小僧にもたせて、「この書状を持って、明朝元日に門を叩いて「物申さん」といいなさい。「どこから来た?」と問いかけるから、「極楽より阿弥陀仏の御使である。御文である」といって、この書状を私に渡しなさい。」といって、外に出かけさせた。小僧は上人に言われた通りに門を叩いて、約束したように問答した。上人は急ぎ慌てて裸足のまま出て書状を受け取り、頂戴して「娑婆世界は衆苦充満の国なり。早く厭離して、念仏修善勤行して我国来るべし。我、聖衆と共に来迎すべし」と読みつつ涙を流していた。この事を毎年怠らずに行なっていた。丹後国に国司が下向してきて、その国について聞き及んでいる時、このような上人がいることを聞いて、上人と対面した。国司はまず「何事でも仰って下さい。結縁しましょう」と切り出した。上人は「遁世の身であるので、別に所望などありません」と返事したにもかかわらず、国司は「そうではあるでしょうけれども、人の身には必要あること事があるでしょう」といったため、しいて答えて「迎講と名づけて、聖衆の来迎の装いをして、心を慰め、死ぬための用意としたいものです。」といった。そのため国司は仏・菩薩の装束を、上人の所望によって新調して送ってきた。これが迎講の始まりである(『沙石集』巻第10本、9、迎講事)

 この説話は『今昔物語集』巻第15、始丹後国迎講聖人往生語第23にもみえるのであるが、これが鳧鴨、すなわち普甲寺であるとするのは『沙石集』が最初である。また『古事談』巻第3によると、この迎講を最初に行なったのは寛印供奉であるとする。

 寛印は延暦寺楞厳院の僧で、恵心僧都源心の弟子である。後に諸国を遍歴して丹後国に到った。僧房の側にたまり池があったが、漁師達は夜に池に向って網を投げ入れて魚を捕ろうとしていたため、寛印は制止したものの、漁師は承知しなかった。寛印は歎息して夜に池に向って、錫杖を振り下ろした。すると後日の朝に漁師が網をおろすしてみると、魚は一匹をいなかったという。寛印は一生の間、ただ懺悔を修し、毎夜必ず法華経一部を読んでおり、老いても怠らなかった。その最後は身心乱れず、手に香炉を捧げて念仏を怠らず、西に向いて気絶して示寂した(『続本朝往生伝』砂門寛印伝)。『塵添アイ(土へん+蓋。UNI58D2。&M056019;)嚢鈔(ちりぞえあいのうしょう)』によると、迎講を始めたのは師の恵心僧都源信で、弟子の寛印をそれを嫌ってみることすらしなかった。ある日紫雲がそびえて音楽が聞こえ、光とともに25の菩薩が来るのをみて感動し、それが師の迎講の功徳によるものであることを知って、寛印は迎講の儀式を丹後の国府の天の橋立に移し、毎年3月15日にこれを行なったという。 


天橋立全景(平成19年(2007)5月28日、管理人撮影。見づらいけど…) 

普甲山別所

 別所とは、ヒジリとよばれる出家者が本寺を離れて人里隔てた場所に居を構えて住み、修行や念仏を行う場所である。普甲寺としてとしてとして史料にたびたび姿をみせる。

 康和4年(1102)5月15日に叡尊(真言律宗の西大寺叡尊とは別人)が丹後国普甲山別御房にて『大毘盧遮那経疏』の書写を終了している(京都国立博物館蔵『大毘盧遮那経疏』巻18奥書〈『平安遺文』題跋篇678〉)。また彼は同年4月6日より5月23日まで『大毘盧遮那成仏経疏』の書写・転読を丹後国普甲山別所の寂光御室にて行なっている(東京大学史料編纂所所蔵『大毘盧遮那成仏経疏』巻20奥書〈『平安遺文』題跋篇670〉)。光明山寺でのべたように、別所では経典の書写が多く行なわれていることが確認され、ヒジリ達は別所のような山林深い清浄の地で経典を書写したのである。

 また文治2年(1186)8月27日、最珍が普光寺にて『円珍和尚伝』を書写し終っている。『円珍和尚伝』は宮(行慶)の御所より常喜院(行乗)に賜わった御本を書写したものであるという(『円珍和尚伝(東寺観智院蔵本)』識語)。 


普甲寺跡の普賢堂(平成19年(2007)5月28日、管理人撮影)

普甲寺の戦乱と廃絶

 鎌倉時代の普甲寺の動向は一切不明であるが、鎌倉時代初期には園城寺の影響下にあったらしい。聞如院現忠は丹後国普甲寺の学頭に任命され、そのため園城寺から普甲寺に赴いたが、その際丹波国で賢童をみつけたため、園城寺に連れ帰った。これが後の現舜であるという(『三井寺続燈記』巻第1、僧伝1之1、釈現舜伝)

 南北朝時代の貞治4年(1365)2月に僧性盛が普甲寺に絵師常調に新調させた涅槃像一鋪を安置している(「普甲寺涅槃仏画像識語」黄微古簡集)。中世になると丹後国府中(宮津市)は、天橋立が霊地であることにともなって、多くの禅僧が訪れることとなる。その最初の人物は春屋妙葩である。彼についてはこれまで多く述べてきたから、ここでは特に記述しないが、春屋妙葩は細川頼之と対立して応安4年(1371)から康暦元年(1379)まで丹後に隠棲して悠々自適の生活を送っていた。その間の時期に、「普甲晴嵐」と題した普甲寺を詠んだ詩文を書いている(『智覚普明国師語録』巻7、丹陽十題、普甲晴嵐)。また応永元年(1394)8月には愚中周及(1323〜1409)が普甲山に登って雲荘菴に居住しており(『仏徳大通禅師愚中和尚語録』巻第6、年譜、応永元年甲戌条)、彼の詩文集である 『草余集』には普甲寺について詠んだ多くの詩文が載せられている。

 しかし普甲寺は京都より大江山を抜けて丹後に出るための要衝の地であり、この頃から戦乱の影は普甲寺にひそめるようになってくる。応永7年(1400)4月に東弥九郎の遺領が丹波観音寺に寄進されているが、東弥九郎は「謀叛人」との戦いで丹後国普甲寺にて戦死したという(「天竜寺都聞中歓寄進状」福知山市観音寺文書)

 それでも普甲寺は永享8年(1436)の恒例千部の次第にて、丹後府中の寺院のとともに普甲寺は第三座となっており(『成相寺旧記』一宮大聖院家之事)、長禄3年(1459)5月に書写された「丹後国惣田数帳」(成相寺文書)によると、普甲寺は加佐郡に14町9段304歩、与佐郡石河荘に2町、丹波郡末次保に3町4段50歩、久延保に1町3段146歩、光武保に1町6段153歩の寺領を有していた。

 戦国時代となると、ますます戦乱の波が普甲寺に押し寄せ、文明元年(1469)応仁の乱で細川勢の丹後侵攻に対して、援軍の山名氏の領国但馬より垣屋平右衛門尉・出雲守が到着し、光山寺(普甲寺)に陣取っている(『応仁別記』)。その他伝説でも応仁元年(1467)、応仁3年(1469)、明応7年(1498)、永正3年(1506)、同4年(1507)、天文16年(1547)、同11年(1542)と度々合戦があったといい、とくに天文11年(1542)2月の丹後一色氏と若狭武田氏の合戦によって堂塔がことごとく焼失したという(『丹後州宮津府志』巻之5、古跡之部、普甲山)。今では山門跡・弁天堂・普賢堂が縁(よすが)を偲ばせるにすぎない。



[参考文献]
・井上光貞『日本浄土教成立史の研究』(山川出版社、1956年9月)
・佐伯有清『智証大師伝の研究』(吉川弘文館、1989年11月)
・吉田清『源空教団成立史の研究』(名著出版会、1992年5月)
・宮津市史編さん委員会『宮津市史 通史編上巻』(宮津市、2002年5月)


普甲寺山門跡の礎石(平成19年(2007)5月28日、管理人撮影)



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