円成寺跡(大豊神社)



大豊神社鳥居および椿ヶ峰(平成19年(2007)6月16日、管理人撮影) 

 円成寺(えんじょうじ)とは、京都市東山の椿ヶ峰の西麓に位置した寺院であり、現在は廃絶してその痕跡すら窺えない寺院なのです。円成寺という寺院は紛らわしいことに数多くあります。特に有名なのは奈良県の忍辱山円成寺(大日如来像と庭園で有名)なのですが、奈良県の忍辱山円成寺の江戸時代に成立した縁起のうち、一つは東山円成寺を移したものと主張している(『和州忍辱山円成寺縁起』)ので、さらにまた紛らわしいのです。また円成寺は「円城寺」とも表記するのですが、そのこともあって滋賀県の園城寺(三井寺)と混同されることがよくあるのです。

 その円成寺ですが、東山の大豊神社と少なからざる何らかの関係があるとみられています。すなわち大豊神社は、円成寺の鎮守社の後裔であるとされているのです。椿ヶ峰は東山三十六峰の一つで、景勝地となっています。『山城名勝志』巻第13、愛宕郡部3、円成寺にも「土人いわく、この寺、乱の後に和州忍辱山に移す。跡旧は鹿谷村にあり。今田となりて方四町あり。鹿谷の氏神大宝明神、円成寺の鎮守社、云々」とあります。


円成寺の建立

 円成寺の開創について、『日本紀略』寛平元年(889)3月25日条に「尚侍藤原淑子、円成寺を建つ。」という極めて短い断片的な記事によって、尚侍藤原淑子なる人物が円成寺を建立したことが知られる。この『日本紀略』の記事があまりにも短いため、円成寺建立の記事としてよく引用されるのが『伊呂波字類抄』の記事である。

 『伊呂波字類抄』は中世初期の百科辞書的役割をもつ史料で、「いろは」順にて配列されていることから、その名がつけられている。その中には「諸寺」という項目があり、当時の代表的寺院が列挙される。円成寺も『伊呂波字類抄』の「恵(え)」の諸寺に以下の記事がある。

 円成寺、藤原淑子病悩にして、益信僧正を請じ、験を得て病を癒えたり。よりて師檀となり、山庄東山椿峰西麓の家を以て寺となす。即ち円成寺これなり。
 右大臣正二位藤原朝臣氏宗の終焉の地なり。故に尚侍正一位藤原淑子、発願してこれを建つ。寛平(宇多天皇)ことさらに御願ありて、宝塔をつくり建つ。聴衆・立義またつぶさに備われり。貞観・安祥・元慶寺の例に準じて、度者三人を賜る。

 この記事から、円成寺は藤原淑子なる人物が病気であった時、益信(やくしん)僧正なる僧侶の力によって病が治癒することができたため、益信に帰依して師檀関係(寺僧と檀家)を結び、東山椿峰西麓にあった山荘の家を寺としたことにはじまるという。
 さらにこの場所は右大臣であった藤原氏宗が終焉をむかえた地であり、そのため藤原淑子はこの場所に発願して円成寺を建立したという。また宇多天皇の御願によって宝塔を建立し、聴衆・立義の次第を加えられて、貞観寺・安祥寺・元慶寺の例にならって度者3人を賜ったとある。

 この記事の前半部分はともかくとして、後半部分は若干わかりにくいため、解説を有するのだが、その前に円成寺を建立した藤原淑子なる人物と僧正益信なる僧について、円成寺が建立された寛平元年(889)まで動向をみてみる。


尚侍藤原淑子

 藤原淑子(838〜906)は権中納言藤原長良(802〜56)の娘で、母は難波連淵子である。父の藤原長良は、左大臣藤原冬嗣(775〜826)の長子である。藤原冬嗣は朝廷で重きをなし、藤原摂関家の基礎を築き上げた人物であったが、長男の長良はふるわず、むしろ次男の良房(804〜72)は嵯峨天皇の庇護を受け、その娘源潔姫を正室とした。結果、人臣最初の摂政に任じられる等して、藤原摂関家を現出させた。このままであると藤原氏の中心は良房の家系となるはずであったが、良房には子がなかったため、兄長良の子である基経(836〜91)を養嗣子に迎え、以後基経は権力への道を邁進することとなる。兄基経の権勢獲得は妹の淑子にも注目を集めることとなり、淑子は後に右大臣となる藤原氏宗(811〜72)の後妻となり、また典侍となって後宮に仕えて宮廷に多大な影響力をたもった。淑子は貞観14年(872)2月11日に夫の氏宗を喪っているが、その後も宮中に留まり続けている。

 兄基経は、良房にも増して摂関家の勢力拡大につとめた。基経は摂政(876)・太政大臣(880)を歴任し、陽成天皇の廃位を断行して光孝天皇を擁立した。万機の政をまず基経に諮問させ、実質上の関白の初例を開いたから、基経の権勢はますます上がった。光孝天皇は在位3年で崩じたが、臨終に際し子の源定省(宇多天皇)を親王に復し皇太子とした。この時、宇多天皇の即位に尽力したのが藤原淑子であった。宇多天皇即位にあっては、その即位に消極的であった基経を淑子が説得にあたったものと考えられている(角田1966)。これによって藤原淑子に対する宇多天皇の信任は絶対的なものとなり、養母に擬されることとなる。宇多天皇自身も幼少の時、円成寺建立される以前の東山椿峰西麓にあった淑子の山荘を訪れたと語っており(『扶桑略記』第23、延喜7年正月3日庚辰条)、両者の親密度が窺える。


僧正益信

 益信(827〜906)は真言僧で、「円城寺僧正」とも称される。真言密教を二部する流派である小野流・広沢流のうちの広沢流の流祖である。

 備後国(現広島県東部)の人で、俗姓を品治氏といい、武内宿祢の後裔を称した。石清水八幡宮を創建した行教の弟であるという。もとは大安寺に住んで法相宗を学んでいたといい(『元亨釈書』巻第4、慧解2之3、円成寺益信伝)、法相宗を明詮僧都より学んでいたともいう(『東寺長者補任』巻第1、延喜6年条)。その後、真言宗に転じて宗叡僧正に学んだが、さらに源仁僧都に従い伝法潅頂を受けて密教の法系を継いだ(『東寺長者補任』巻第1、延喜6年条)。源仁の弟子は他に聖宝がおり、聖宝は小野流の祖となり、益信は広沢流の祖となった。現在の真言宗の流れはすべてこの二派から出ているのであるが、法相宗から移った益信、三論宗から移った聖宝と、いずれも他宗派出身の僧であることは興味深い。益信は仁和3年(887)正月29日に伝法阿闍梨となっている(『東寺長者補任』巻第1、延喜6年条)

 益信と藤原淑子とが面識を得るきっかけについて、『伊呂波字類抄』では藤原淑子の病を益信が治癒させたことによるとしているが、実際の事情はわからない。益信が藤原淑子の山荘付近を根拠として活動する僧であったとする見解(角田1966)は、以外に正鵠を得ているのかもしれない。この淑子との面識は益信の生涯を一変させ、宇多天皇が仁和4年(888)3月に即位してわずか1ヶ月後の4月7日に権律師に任命されている(興福寺本『僧綱補任』第2、仁和4年条)。寛平元年(889)3月25日の段階では権律師であったが、翌年(890)5月17日には律師となり(興福寺本『僧綱補任』第2、仁和4年条)、ついに僧正位まで登りつめることとなった。

 以上、簡単に円成寺を創建した藤原淑子および益信について、円成寺が建立された寛平元年(889)までの状況をみてきたのであるが、実際の建立事情は『伊呂波字類抄』にみえるものよりも複雑となっており、円成寺の主張も時代によって異なる。以下はそれについて追っていくとしよう。


僧正益信像(『三国祖師影』)『大正新修大蔵経 図像部10』(大正新修大蔵経刊行会、1934年5月)より転載。同書はパブリックドメインとなっている。 

御願寺と円成寺の定額寺化

 御願寺とは、天皇の御願を修する寺という意味で、太上皇・皇后・親王等建立の寺院についても使用される。御願寺の建立は平安時代初期から末期までの間を通して行われている。性格上、それらの寺院が華やかななりし時は、天皇・太上皇・皇后・親王等の一代のみであり、東寺・延暦寺・仁和寺・醍醐寺のような例外はあるものの、あとは時代の流れにまかせて衰退する傾向にあった(なお存在意義自体が変更された禅林寺・大覚寺・勧修寺・蓮台寺のような寺院がある)。これら御願寺の類型について、『新儀式』では、@天皇一代が御願寺を修造する寺、Aまず勝地を定めて次に預人や上卿の仰せを奉って、僧俗司の双方が勤仕する寺、Bただ俗官があって僧司がない寺、C申請によって供料を充て所司を経ず、後院の仰せを奉り造営する寺、D公家に付属して定額寺となる寺、という分類を行なっており(『新儀式』巻第5、臨時下、造御願寺事)、このうち円成寺はDに分類される典型的な御願寺であり、他の御願寺と同じように時代の流れにまかせて衰退する運命をたどった。

 円成寺が建立されてから4ヶ月後の寛平元年(889)7月25日、円成寺は定額寺となった(『類聚三代格』巻第2、寛平元年7月25日官符)。これより以前、益信は同寺を定額寺とする運動を行なっており、申状を太政官に申請していた。
 以下、益信の申状によると、益信は件の道場(円成寺)にて門徒を率いて天皇の長寿を祈っているとして、円成寺における重要経典として「四部の経」を定めて、『仁王護国般若経』2部・『守護国界主陀羅尼経』1部10巻・『金光明最勝王経』1部10巻・『妙法蓮華経』1部8巻をこれにあてた。これらの経典はいずれも護国経典であり、国家護持に効力があるとされた。その上でいくつか申請を行なっている。それらを箇条書に示し、いくつか解説を必要とする語を赤色にしておく。

 @講読に堪え得る僧12人に六年間寺に籠らせ、日夜仁王三昧を勤修させる。
 A六年たった年に満位に叙し、続けて補入して、不断を修させる。
 B円成寺に習学する僧は、各宗の経論を試験し、階業の一とする。
 C「四部の経」を講説することに堪え得る僧をえらび、毎年夏中の講を実施させる。
 D夏中の講を階業の一とし、講がおわった後、また一階を叙す。
 Eこの時の布施供養の供え物は寺物とする。
 Fながく円成寺に住み、精励して論義・決釈に堪え得る僧を三会の聴衆に各1人を進める。
 G円成寺を僧綱・講読師の支配下におかない。
 H門徒の中より年長有徳者をの互撰による年預として、雑務を担当させ、座主職は設置しない。

 解説を補足すると、@の「六年間寺に籠らせ」というのは、最澄が延暦寺で創始したもので、寺に篭って外界との接触を断つことによって、すぐれた僧を育成しようとする手法である。
 Bにみえるように、この段階では円成寺は特にどこ宗派の寺院であるということは決まっておらず、各宗派から習学する希望者を募っていたのである。その習学希望者のエサとなったのが、Aにみえるように6年間寺に篭った者には自動的に「満位」すなわち伝灯満位という僧位に叙されるというもので、貞観7年(865)4月15日には伝灯満位以上の僧を諸国講読師に擬補することが定められている。またもう一つのエサとなったのが「階業」システムの採用である。BDの「階業」とは講師五階(試業・複・維摩立義・夏講・供講)と読師三階(試業・複・維摩立義)のことで、諸国講読師となる資格を得るためのカリキュラムのことである。すなわちCでのべられている「夏中の講」とは、講師五階の一つである「夏講」のことをさし、夏中(夏安居中の3箇月間である4月16日〜7月15日のこと)という長期集中講義を実施するカリキュラムである。この「階業」システムは多くの定額寺で取り入れられており、円成寺はそれらを踏襲したにすぎないのであるが、諸国講読師に任ぜられることは、僧綱位への近道であったから、円成寺習学募集のためには充分なエサであった。
 Fの「三会の聴衆」とは「光明山寺跡」(光明山明遍)でも若干説明したが、三会(さんね)とは興福寺維摩会・宮中御斎会・薬師寺最勝会のことで、これらの法会の講師を歴任した者は已講(いこう)と称され、已講は貞観元年(859)10月4日より僧綱に任用されることとなったため、三会は僧綱位への登龍門であった。円成寺僧を三会の聴衆とすることで学問的深化をはかったかのようにみえるが、のちに益信は円成寺僧を維摩・最勝両会の輪転竪義とするよう申請していることから、益信は円成寺僧を僧綱位へ進出させようと目論んでいたことが知られる。そうでありながらもGにあるように、円成寺に対する僧綱の支配を拒絶した。僧綱は、中央の諸大寺と、近都の諸寺を統括の対象とし、諸大寺に対しては直接寺務に介入し、諸寺に対してはこれを検察する。諸国講読師は国分寺・部内諸寺を検察し、国分寺僧を沙汰し、僧を教導すると定められていた。
 このように寺院は基本的には僧綱・諸国講読師の支配下に入ることになっていたが、俗別当を置くという例外があった。俗別当は、中央諸大寺にあっては弁官がこれを兼任し、公卿が任じられる場合でも、実際の活動は弁官史官が行っており、地方にあては国司が任ぜられていたという(西口2004)。俗別当を介在させることによって太政官への直接ルートを得て、僧綱の介入を不要とし、寺院の自治を継続させるのである。これを「僧綱不摂領」という。とくに「僧綱不摂領」を強く主張したのが真雅(801〜79)で、貞観寺では座主および定額僧で僧綱に任ぜられた者がいた場合には、本寺に帰らせて寄住させなかった。円成寺も「僧綱不摂領」をとり、僧綱の干渉の排除を目指していた。
 Hでは、座主職のような終身的代表者を設置せず、東大寺・東寺・高野山のように「年預(ねんよ)」という1年交替で互選され、寺務に従事する寺僧集団の代表を設置するとした。のち寛平2年(890)11月23日には弁史を俗別当とすることとし、国家直属の官寺体制を施行したのである。


年分度者と維摩会・最勝会の輪転・竪義

 円成寺は寛平2年(890)11月23日に年分度者(ねんぶんどしゃ)を賜り、あわせて維摩会・最勝会における輪転竪義(りんてんりゅうぎ)を許された。この時設置された年分度者は2人で、金剛界業1人、胎蔵業1人であり、いずれも真言宗の業である(『類聚三代格』巻第2、寛平2年11月23日官符)。これらの許可は先だって提出された益信の奏上をうけたものであるが、益信の申請は必ずしもすべて許可されたわけではない。

 古代の仏教は僧尼令の得度・授戒制度によって官僚の統制を受け、また国家のために奉仕をその存在の第一義とされたため、「国家仏教」と称される。そもそも得度というのは、本来は在家者が出家して僧籍に入って沙弥(しゃみ)になることをいうのであるが、それは国家よりみれば、戸籍・民政・租税徴収を主に掌った民部省の戸籍より名を削除し、治部省の僧尼籍に編入することである。僧尼籍に編入することによって課税の対象より除外されるのであるが、同時に国家の厳重な管理下に置かれた。そのことは僧尼の刑罰については刑法典である「律」ではなく、令の「僧尼令」に定められたことにも明らかである。

 そのため度者(得度者)の人数には制限が加えられた。毎年一定数のみ許可されることとなったのであるが、そのことを年分度者という。奈良時代では最大10名が許可された。延暦17年(798)9月に年齢制限を加え、試験制度(年分度試制)が導入されている。延暦22年(803)正月には法相・三論両宗から5名づつと変り、延暦25年(806)正月には最澄の上表によって、宗派・寺院ごと合計12人の定員が設けらた。それ以降、各寺院ごとに年分度者設置の申請があり、年分度者数はうなぎ登りに増加した。益信も円成寺に年分度者設置を求めていた。

 この時、益信は貞観寺・安祥寺・元慶寺の例になぞらえて、年分度者三人を賜わり、2人は真言宗、1人は法相・華厳・律・三論・成実・倶舎・天台の7宗の教を学ばせることを申請していた。しかし国家は「顕教業の度者は許す限りにあらず。」として、1人に法相・華厳・律・三論・成実・倶舎・天台の7宗の教を学ばせるもくろみは拒絶されてしまった。年分度者には、延暦17年(798)9月に試験制度(年分度試制)が導入されたということは前述したが、円成寺では三部経(『十八道一尊儀軌』・『守護国界主陀羅尼経』1部10巻・『六波羅密経』1部10巻をさす)の文義より問題を10問出し、5以上に通じていた場合を合格とし、毎年3月に出家・得度させ、東大寺戒壇院で授戒させることとした。

 また新薬師寺・本元興寺・崇福寺・海印寺等の例になぞらえて、維摩・最勝両会の輪転竪義を求めていた。維摩・最勝両会は興福寺維摩会・薬師寺最勝会のことで、輪転竪義とはこの両会の際に新薬師寺・本元興寺・崇福寺・海印寺から毎年交替で出題者を決めて、講師に対して質問することをいう。その年次は海印寺の下に置くこととしている。昌泰3年(900)10月3日には維摩・最勝両会の輪転竪義に浄福寺が加わった際には、浄福寺は円成寺の下位に置かれた(『類聚三代格』巻第2、昌泰3年(900)10月3日官符)。これら維摩・最勝両会の輪転竪義の寺院うち、崇福寺・円成寺は完全に廃寺となり、海印寺・本元興寺は衰退、まともに残っているのは新薬師寺のみとなっている。浄福寺も一時廃寺となったが、近世に浄土宗寺院として完全に寺地を改めて復興している。


現在の浄福寺本堂(平成18年(2006)7月31日、管理人撮影)

円成寺内部組織の改編

 円成寺には藤原淑子を通じて宇多天皇の庇護も加えられていた。そのことは寛平9年(897)正月3日藤原淑子が円成寺に播磨国の封戸50戸を施入する願文を菅原道真に作成させた文言のなかに、「微々として発願し、妾心に出づると雖も、一々荘厳するは、専ら聖慮によるなり。」とある(『菅家文草』巻第12、願文下、呪願文)とあることからも明らかである。また益信も僧正に昇進し、東寺長者を歴任、宇多天皇の師となるなど仏教界での立場を不動のものとした。益信の立場によって円成寺は隆盛を極めていたと想像することは難くない。

 事実、寛平2年(890)7月には盂蘭盆の納灯油七所の一つに数えられ(『元亨釈書』巻第24、資治表5、寛平2年7月条)、また延喜2年(902)3月3日に霊巌寺に替えられるまで、御灯(みとう。毎年3月3日と9月3日に天皇が北辰(北極星)に灯火を献じて国家の平安を祈る行事)の寺を円成寺がつとめていた(『年中行事秘抄』3月、3日御灯事)

 しかし円成寺も延喜6年(906)3月7日に益信が示寂し、また同年5月28日に藤原淑子が薨ずると、その前途に暗雲が立ちこめることとなる。

 円成寺はそれまで益信の門徒が掌握していたが、円成寺内部で益信の門徒の寡占に反対する運動が発生したらしく、延喜6年(906)9月19日には益信の門徒単独支配を停止させ、大臣(藤原氏宗)の子孫をこれに加えて、益信門徒・大臣の子孫が互いに領知させ、同時に俗別当を廃止している(『類聚三代格』巻第3、延喜6年9月19日官符)
 詳細は不明であるが、益信門徒の寡占に反対する勢力は氏宗の孫の僧遍真が円成寺に住していることを利用し、遍真のような大臣の後裔も円成寺支配に加わるべきであると主張したのである。これはもともと円成寺は淑子が円成寺を夫氏宗の菩提を弔うために建立されたものであるという歴史的背景を国家側面に想起させるものであった。確かに円成寺は淑子は夫氏宗の菩提を弔うことを目的として建立された側面もあったが、もともと淑子と氏宗の間には子がなく(淑子は後妻)、また淑子は氏宗と先妻との間の子には冷淡であったというから、遍真のような氏宗の後裔は円成寺内で冷遇されていた。一方で淑子が益信に深く帰依したことから、益信の門徒の方が円成寺内の勢力は強かったらしい。
 円成寺内部で益信の門徒の寡占に反対する勢力の主張は、円成寺が淑子と宇多天皇の親密な関係により、御願寺のような役割を果たしていた側面を軽視する結果となり、また淑子と益信の死没はそれにさらに拍車をかけ、他の御願寺と同じように零落への道を歩み出すのである。


大豊神社前の水路(平成19年(2007)6月16日、管理人撮影)

真寂と円成寺

 真寂(886〜927)とは斉世親王のことで宇多天皇第3皇子である。法三宮とも称される。斉世親王は菅原道真の娘を妃としていたが、延喜元年(901)に菅原道真は斉世親王を擁立しようとしているとの嫌疑をかけられ左遷、斉世親王もわずか16歳での出家を余儀なくされた。そこで延喜2年(902)に益信の弟子となって円成寺に入り、延喜8年(908)5月3日に東寺潅頂院にて宇多法皇より伝法潅頂を授けられた(『御室相承記』寛平法皇)。さらに延喜10年(910)8月10日、真寂が円成寺にて寂照より伝法潅頂を受けている(『儼避羅鈔』巻10、潅頂作法上)

 延喜12年(912)3月16日、円成寺塔供養が修されるが(『貞信公記』延喜12年3月16日条)、真寂と宇多法皇の間で何らかの尽力があったのかもしれない。この時期に円成寺で何らかの修造が行なわれたようである。延喜22年(922)正月8日に真寂は『不潅鈴等記』を記したが(『不潅鈴等記』識語)、その中の「円城寺護摩堂壁図」(下図)によると、円成寺の護摩堂は六角堂であり、北から東廻りの順番に大日如来・金輪・五大尊・愛染明王・観音・仏眼が描かれていたようである。真寂は仁和寺円堂院にも住していたが、仁和寺円堂院にも五大尊が描かれており、『東宝記』によると現存する東寺「五大尊」は仁和寺円堂院壁画をもとにしたものであるという(『東宝記』第2、仏宝中、真言院十二天五大尊事)。円成寺の護摩堂も仁和寺円堂院もほど同時期に造営されたものであるから、円成寺壁画は東寺五大尊からある程度は想像できそうである。また寛弘8年(1011)に一条天皇の葬送に関連して円成寺を訪れた藤原行成(972〜1027)の見聞によると、仁和寺法皇の御室は塔の西にあり、僧房の南端にあるという(『権記』寛弘8年7月17日条)

 円成寺は真寂在世の間、厚遇を受け続け、『延喜式』では丹波国正税・公廨のうち円成寺料が1,000束と規定され(『延喜式』巻26、主税上、諸国本稲)、延長4年(926)12月19日、諸大寺における宇多法皇六十算賀誦経に際して、円成寺に絹50疋を給せられている(『扶桑略記』第24、延長4年12月19日壬寅条)が、延長5年(927)9月10日、父宇多法皇に先立って示寂した。42歳。その著作は『三家撰集目録』自述書録によると37部にもおよび、『梵漢語説集』のように100巻およぶものすらあった。またその目録には前述の『不潅鈴等記』や、『慈覚大師伝』は含まれていないことからも窺えるように、真寂の著作には『三家撰集目録』に載せられていないものも含まれている可能性があり、真寂の著作はさらに多数にのぼるものとみられる。

 真寂の葬儀が行なわれた場所や墓地は不明であるが、『大法師浄蔵伝』に、浄蔵が円成寺にて、ある「殿上法師」の七々日(四十九日)法会に参加したというから、ある「殿上法師」とは真寂の可能性があり、とすれば円成寺にて法会が行なわれたこととなる。真寂の長男である源英明(?〜939)は承平3年(933)11月6日、中納言藤原保忠らとともに円成寺に赴いて一篇の漢詩を遺して、父の遺蹟の感慨を叙している(『本朝文粋』巻第10、詩序、山寺、付僧房、冬日遊円城寺上方)


『不潅鈴等記』円城寺護摩堂壁図(『大正新修大蔵経78 続諸宗部9』(大正新修大蔵経刊行会、1932年1月)より転載。同書はパブリックドメインとなっている。) 

一条天皇の葬送と円成寺

 それからの円成寺は断片的に記録に現われる。寛和元年(985)3月7日、円融院が東山に御して、白河院・円成寺・観音院に御膳を供しており(『小右記』寛和元年3月7日条)、永祚元年(989)5月9日には源致方の七七忌(四十九日)法事が円成寺にて修されている(『小右記』永祚元年5月9日条)。この時期の寺僧として、寛朝(916〜98)の潅頂弟子として「円城寺明信」なる僧が知られている(『御室相承記』寛朝大僧正、潅頂弟子事)

 寛弘8年(1011)に一条天皇は病床に臥せるようになり、6月13日に譲位し、19日に出家したものの、22日午刻に一条院にて崩御した。32歳。
 7月9日に御骨を円成寺に安置した(『御堂関白記』寛弘8年7月9日条)。本来であったら金輪寺に安置すべきところであったが、日次がよろしくないため、禅林寺付近に安置することとなった。そこで選ばれたのが円成寺であったのである(『小右記』寛弘8年7月9日条)。11日には権中納言源俊賢(961〜1027)らに御在所を修補させ、この日より明救僧都(947〜1020)を円成寺にて阿弥陀護摩を奉仕させ、国々に固関させた(『御堂関白記』寛弘8年7月11日条)

 当時大納言であった藤原実資(957〜1046)の『小右記』によると、参院したところ、たまたま春宮権大夫で権中納言藤原頼通(992〜1074)らにあって会話したところ、頼通は「故院(一条天皇)はご存命の日、中宮や左府(藤原道長)や、近習の人々に仰せられていたのであるが、「(自分が没したら)土葬の礼を行い、また骨は円融院法皇(円融天皇。一条天皇の父)の御陵付近に埋めて欲しい」と仰っていた。しかし忘却されてその事は行われなかった。相府(左大臣藤原道長。頼通の父)は思い出し、また歎息されたのです。」と語った。そこで実資は、御骸骨はしばらく円成寺に安置し奉り、三箇年を過ぎれば大将軍(金星の精)は西方に位置するから、円融院法皇の陵の付近に移し奉るべきとした。また一周忌の間、円成寺において阿弥陀護摩を修し、伴の僧侶は6人。また円融院の前に移すまでの3箇年間は、5人の僧をもって念仏を奉仕させることを提言した(『小右記』寛弘8年7月12日条)

 7月20日に円成寺に埋葬されたが、小韓櫃の物に御骨袋を納め、それを一辺が2尺(60p)の方形で1面のみ戸がある物をつくり、唐櫃に納めた。唐櫃の上に小屋を造り、宝形にあって戸の中に安置した(『小右記』寛弘8年7月20日条)。その堂について藤原行成によると、円成寺の東堂にて御骨を小堂に奉納させた。堂は方が1間で、まるで三昧堂のようであったという。1面に戸があり、四角の角木の上に板を葺き、これが屏の上にみえたという。その上に蕨形を置いた。次に戸を開き、もとは戸の内側にあった厨子一基を寺僧らがかつぎ出した。大蔵卿朝任ら2人は小堂をかついで、戸の内側に入れた。相公(左大臣藤原道長)は堂の戸を開き、桶を取り出し、さらに御骨壷を件の桶に入れて奉納した。またこの日まで阿弥陀護摩を行なっていた明救僧都は東寺阿闍梨の安尊と交替した。安尊の御在所の廊は22間あり、その屋の北妻を壇所とた。明救は御在所の南の戸の外にて奉仕していたが、5人の僧がこの日より加わったため、北妻を壇所としたのであった(『権記』寛弘8年7月20日条)。また初め金輪寺の山に埋める予定であったので、権中納言源俊賢と陰陽師光栄朝臣がその場所に赴いて絵図を描き、石の卒堵婆を設置した(『小右記』寛弘8年7月20日条)

 これで円成寺への一条天皇御骨の仮安置が終了したのであるが、長和5年(1016)5月17日に山陵使を円成寺等に派遣して、後一条天皇の即位を告知しており(『御堂関白記』長和5年5月17日条)、寛仁元年(1017)10月26日には藤原朝経を山陵使として円成寺に遣わし、立太子の由を一条天皇の遺灰に告知している(『立坊部類記』寛仁元年8月9日立坊、外記日記、寛仁元年10月26日辛卯条)。また寛仁元年(1017)12月19日、山陵使を円成寺などに遣わして、後一条天皇の元服を告知している(『小右記』寛仁元年12月18日条・『左経記』寛仁元年12月19日条)

 方忌を避けて円成寺に安置していた一条天皇の御骨を、円融寺の辺に移したのは寛仁4年(1020)6月16日になってのことであった。その日は時々細雨がふっていた。この時入道殿(藤原道長)は円成寺に赴いて諷誦を行ない、絹30疋を布施した。戌の剋に御骨を円融寺の北方に移した。一条天皇の御骨壷は小塔に奉納して韓櫃に納め、僧4人がこれを荷った(『左経記』寛仁4年6月16日条)


一条天皇円融寺北陵に治定されている竜安寺朱山遠景(平成17年(2005)2月23日、管理人撮影)

円成寺の東寺末寺化

 万寿4年(1027)9月26日、翌10月4日の東寺潅頂会の讃衆に、円成寺長久等の僧を招集している(「潅頂会讃衆請定」『東寺百合文書』カ函1)。これを初見として、円成寺は東寺が主催する仏事にたびたび姿をみせるようになる。『御質抄』末によると、承保3年(1076)の宮中真言院後七日御修法の請僧に円成寺の教舜がみえるが、円成寺は東寺の「末寺」として位置づけられている。

 とくに東寺潅頂会では、幾度も円成寺僧が招集され、長元3年(1030)11月9日には同月15日の東寺潅頂会に円成寺等の僧が招集され(「東寺潅頂会讃衆廻請」『教王護国寺文書』3)、長元8年(1035)10月8日、同月17日の潅頂会の讃衆に円成寺等の僧が招集され(「潅頂会讃衆請定」『東寺百合文書』よ函1)、長暦2年(1038)10月27日、翌月2日の東寺潅頂会の讃衆に円成寺などの僧が招集され(「潅頂会讃衆請定案」『東寺百合文書』ニ函2)、長暦4年(1040)10月7日、翌月15日の東寺潅頂会に円成寺等の僧が招集された(「結縁灌頂会讃衆請定」『東寺文書』六芸之部楽乙-9-3)。康和3年(1101)12月11日、東寺潅頂会の讃衆に円成寺等の僧が招集され(「東寺結縁潅頂讃衆請定写」『東寺百合文書』丙外2-47)、3年後の長治元年(1104)11月4日、翌月3日の東寺潅頂会の讃衆に円成寺等の僧が招集されている(「結縁潅頂会讃衆請定」『東寺文書』六芸之部楽乙-9-3)

 また東寺は宮中真言院の後七日御修法でも中心的役割を果たしたから、末寺化した円成寺も後七日御修法にで番僧に請定されることがしばしばあった。延久5年(1073)正月2日に円成寺に対して宮中真言院の後七日御修法の番僧が請定されている(『御質抄』本)。また治承5年(1181)、宮中真言院後七日御修法にて、円成寺の禎喜(1099〜1183)が胎蔵界を担当しているように、後七日御修法にて主導的役割を果たす僧もいた(「真言院後七日御修法請僧交名」『東寺百合文書』ろ函1-21)。なお円成寺の禎喜は仁安2年(1167)4月6日に院宣によって仏舎利を奉請している(『仏舎利勘計記』仁安二年四月六日奉請条(『東寺百合文書』丙外18-31)

 その他の法会でも、円成寺はいくつかの活動が散見される。長元9年(1036)5月15日、後一条天皇の四十七日誦経を円成寺等七箇寺にて修されている(『類聚雑例』長元9年5月15日条)
 永承7年(1051)6月5日、同月17日の八省院大極殿の観音経転読僧千口に円成寺等の僧が招集されている(「千僧読経東寺分僧廻請」『教王護国寺文書』4)。また延久5年(1073)5月11日、後三条天皇崩後初七日の七箇寺誦経の中に円成寺がみえ(『師守記』貞治3年7月9日、中原師茂勘例、延久5年5月11日)、同月21日、後三条天皇二七日の七箇寺誦経の中に円成寺がみえ、寺ごとに商布十段・名香一つつみを施入されている(『師守記』貞治3年7月9日、中原師茂勘例、延久5年5月21日)


東寺潅頂堂北門(平成19年(2007)12月31日、管理人撮影) 

円成寺の衰退と廃寺

 天永2年(1111)3月4日、円成寺の塔一基が焼失した。これは別当公任が塔につく金属をとるために放火したためであり、円成寺の衰退を象徴するものとなった(『殿暦』天永2年3月6日条、『中右記』天永2年3月7日条)。この頃には藤原基長が東山に赴き、円成寺の花を詠んでいる。

  頭をろしてのち東山の花見歩き侍けるに、円城寺の花をもしかりけるを見てよみ侍ける
    前中納言基長
  いにしへに変わらざりけり山ざくら花は我をばいかゞ見るけむ
  (『千載和歌集』巻第十七 雑歌中 第1056番歌)

  基長中納言、東山に花見侍けるに、布衣着たる小法師して、誰とも知らせでとらせ侍ける
   (加)賀左衛門
  散るまでは旅寝をせなむ木のもとに帰らば花の名だてなるべし  
  (『後拾遺和歌集』巻第1、春上 第124番歌)

 円成寺には寺領として近江国愛智荘があった。愛智荘(えちのしょう)は愛智川の東岸にあたり、現在の愛智川町・湖東町がその荘域にあたる。愛智荘は元興寺領愛智荘と、東大寺領愛智荘があり、さらに日吉社領近江国愛智荘が知られているが、円成寺も同所に荘園を有していた。
 しかし永久5年(1117)10月1日の円成寺の解状によると、円成寺には当初32ヶ所の荘園があったが、その時までに有名無実化して、わずかに3ヶ所のみ残るだけとなっていた。わずかに残っていた荘園のうち、愛智荘も近江国司に押領されてしまったため官に訴え出たところ、12月29日、近江国司の妨を停止し、もとのごとく愛智荘を円成寺に領掌されることとなった(「官宣旨案」(「東寺百合文書」チ函2)平安遺文1883)。これを受けて翌永久6年(1118)2月26日には近江国司はこれを遵行している(「近江国司請文案」(「東寺百合文書」ウ函4)平安遺文1885)

 中世の円成寺の状態はよくわかっていない。承久3年(1221)6月10日の「尊長所領譲状案」(『華頂要略』55上、寺領目録。鎌倉遺文2754)に「一所 東山円城寺房地堂田畠山隣村北西領等」とあり、尊長(?〜1227)は道覚法親王(1205〜50)に同所を譲渡している。

 のちに佐々目有助僧正(?〜1326以降)は東寺の宿老の寺僧であったため、末寺円成寺の別当に補任された。しかし鎌倉幕府滅亡の時、円成寺は何らかの原因(鎌倉方についたか)のため、闕所(土地・財産の没収)された。結果円成寺を掠奪する者があり、広沢流祖益信ゆかりの寺院ということもあって、別人が別当職に補任されて保護が加えられた。しかし私領と寺地が混ざっている上に、闕所であるということもあって、元弘3年(1333)11月に勅裁によって別当職は仁和寺に付された。しかし竹鼻新左衛門入道覚智が擾乱の際をうかがって円成寺を領有してしまっていた。そのため竹鼻の領知を停止して仁和寺に返付するようにと、度々御教書にて命じられていたが、まったく効力はなく、竹鼻はこれを無視した。さらに東寺西院が焼失した際に、円成寺の敷地と同寺領近江国愛智円城寺を御影堂に寄附し、そのため竹鼻にも御教書によって奪った敷地を返却するように命じられていたものの、竹鼻はすでに春屋妙葩に売却したあとであった(「山城国東山円城寺申状案」『東寺百合文書』無号102)。これについて康暦元年(1379)10月の「山城国内春屋妙葩知行分所領注進状」(鹿王院文書)に円成寺村が記載されており、春屋妙葩が円成寺の敷地を領有していたことが確認される。なお春屋妙葩については「鹿王院」を参照。

 その後の円成寺の状況は全くわかっていないが、微々たる寺勢でも存在はしていたようである。しかし応仁元年(1467)9月、応仁の乱で南禅寺が焼失した際に、類焼してしまった。


大豊神社拝殿および本殿鳥居と椿ヶ峰(平成19年(2007)6月16日、管理人撮影) 

大豊神社

 円成寺が位置したと思われる大豊神社は少名彦命・天満宮の相殿で、かつては「椿峰山天満宮」と称されていた。寛仁年中(1017〜21)に鎮座したと伝える。文政3年(1820)12月に出火・焼失している(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書『愛宕郡神社明細帳』7)

 摂末社として、日吉社・愛宕社・稲荷社・稲荷社が鎮座したが、昭和4年(1929)に稲荷社と稲荷社は合祀・改築された。現在愛らしい狛鼠(こまねずみ)が稲荷社の社前を守っている。



[参考文献]
・景山春樹「花山法皇の那智参篭と円成寺趾」(『史迹と美術』30(5)、1960年4月)
・角田文衞「円成寺と浄福寺」(『日本歴史』244、1968年9月)
・波多野忠雅「宇多天皇尚侍藤原淑子の円成寺」(『史泉』41、1970年12月)
・大沢聖寛「『円城寺八巻次第』の引用文献について」(『印度学仏教学研究』96(48-2)、2000年3月)
・鹿王院文書研究会編『鹿王院文書の研究』(思文閣出版、2000年2月)
・西口順子『平安時代の寺院と民衆』(法藏館、2004年9月) 


摂社稲荷神社と狛鼠(平成19年(2007)6月16日、管理人撮影) 



「平安時代前期の御願寺」
「本朝寺塔記」に戻る
「とっぷぺ〜じ」に戻る