2006年のだいあり〜(下半期)

12月31日
京都の禅寺に○△面(○△づら)と称された寺院が三つあります。

相国寺は第二世住持で実質上の開山である春屋妙葩(1311〜88)が声明が得意とし、相国寺に広めたことから、「相国寺の声明面(しょうみょうづら)」と称されています。また大徳寺は多くの茶人との関係が深いことから「大徳寺の茶人面」と称されています。三つ目はほとんどオチに近いのですが、「妙心寺の算盤面(そろばんづら)」で、健全な財政での組織運営を得意としたからといいます。

妙心寺は中世にはたびたび財政が困窮することが多かったようで、妙心寺の方丈が雨漏りをするのをみて修繕費用の寄進を侍者を通じて申し出た信濃の高梨氏に、開山の関山慧玄(1277/97〜1360)は二度と来てはならないと言ったという逸話(『正法山六祖伝』妙心関山玄禅師伝)にもそれが窺えます。また応永の乱(1399)に連座して室町幕府より廃絶処分とさせられ、また応仁の乱(1467)でも焼失するなど辛酸を舐めています。そのことから寺院経営には意を注いでいるのです。


ところで、「妙心寺の算盤面」について、まことしやかに伝えられる伝説があります。それは「大徳寺の茶人面」と相対するもので、私は学生時代に同期のT氏に聞きました。

その伝説を要約すると、
「ある時ある信者(朝廷とも)から妙心寺と大徳寺に以下のような申し出があった。それは牧渓の絵の寄進と、ある一定の金の寄進と、どちらか好きな方を選び受け取って欲しいというものであった。妙心寺は迷うことなく「カネッ!金!」(←T氏はこう言っていた)といって、金の方を選び、一方の大徳寺は文化を重用視して「では、牧渓の絵を…」といった。そのため世間の人々は妙心寺の先見性の無さと過度の吝嗇ぶりを嘲笑して「ソロバン妙心寺」と呼ぶことになった。」
というものです。


K氏や東京にある某国立大学の先生もこの「妙心寺の算盤面」に関する伝説をいっていましたので、かなり有名な伝説のようですが、そのソースについて聞いてみると「知らない」とか「忘れた」と言われてしまいます。この伝説はあまりに話がうまく出来すぎており、私は妙心寺の吝嗇ぶりに大徳寺側が揶揄して作った伝承と思っていました。

ところが今日なにげなく『正法山誌』(『妙心寺誌』〈東林院、1938年4月〉)をみていると、「妙心寺の算盤面」に関する伝説に似た記事がありました。『正法山誌』とは江戸時代臨済宗屈指の学僧である無著道忠(1653〜1744)が撰述した妙心寺の寺誌です。その記事は要約すると以下の通りになります。

「太原和尚は牧渓の観音像と左右猿鶴の3幅と、銭50貫文をもって、まず妙心寺の知事に、“あるいは画、あるいは銭。一つは大徳寺に納め、もう一つは妙心寺に納めたい。どちらか望む方を選んでほしい“といった。この時妙心寺には山門がなく、造営しようと思っても費用が乏しかった。そのため銭50貫文を(選んで)門を造る資金とした。太原はそのため3軸の絵を大徳寺に寄納した。今も珍蔵されている。(『正法山誌』第六巻、太原寄附画銭于大徳妙心)」

太原和尚とは妙心寺派の禅僧太原崇孚(1499〜1555)のことですが、彼は戦国大名の今川氏のブレーンでもあります。小説やゲームの影響でむしろ現在では「軍師坊主」としての方が有名かも知れません。とすれば金の出所は今川氏関係なのでしょうか?

また『正法山誌』第八巻 山門によると、この時の資財で山門の閣下(高殿の下部分)を建て、その後に後陽成天皇に賜った金を営造の費用に充て、すべてが完成するにいたったとあります。つまり現在の慶長4年(1599)に建造された重要文化財の山門(写真左)は、牧渓を代償として建造されたということになります。ともすれば「妙心寺の算盤面」に関する伝説によって妙心寺の先見性の無さを嘲笑することは誤りであるということになります。山門は重要文化財ですし。


…でも、大徳寺の牧渓は国宝なんだよねぇ〜。m(- -m)~



12月30日
今日、イラクのサダム・フセイン元大統領の絞首刑が執行されたそうです。

裁判でも自身の処刑を予知していたのか、その言動は後世に「英雄」と評価されるよう振る舞まっているように見受けられました。このあまりに迅速なる処刑に、後世の人の評価が気になるところです。

年末に処刑された国家元首として、16年前の1989年12月25日に処刑されたルーマニアのチャウシェスク大統領(1918〜89)が思い起こされますが、近年実施された調査によると6割以上のルーマニア国民がチャウシェスク政権の方が現在よりも生活が楽だったと答えるなど、20年も歴ないうちに評価が様変わりしていることに驚かされます。またパラグアイのロペツ大統領(1826〜70)は、彼が引き発した無謀な三国同盟戦争(1864〜70)によってパラグアイ国民の成年男性の8割が戦死したため、後世悪鬼の如く忌まれたそうですが、現在のパラグアイでは愛国者・英雄として扱われているそうです。日本でも前の大戦の評価が著しく変貌を遂げたのですから、時間の流れというのはその時間を経過・享有した者が判断したことには留まらず、後世の判断という新たな展開をみせるということはいうまでもありません。

またサダム・フセイン元大統領にせよロペツにせよ、愛国心の鼓舞とともに他者排斥を行っており、サダム・フセイン元大統領にいたってはそれがもとで刑場の露と消えたのですから、他者排斥を是認する側の一方としては、その死とともに「悲劇的英雄」となる土台が築かれていることになります。すなわちある時代において敵視すべき対象がが生じた場合、その対象に何らかの行動を起した者は「英雄」となり、またその対象によって何らかの迫害等を受けた者は「悲劇的英雄」として復活するのです。


日本古代史において「英雄時代」をめぐる論争がありますが、現代社会においても「英雄」というものが如何に形成されるか、注視すべき問題であるといえるかもしれません。



12月29日
京都では初雪が降りました。

アパートの前の花壇の椿が一層美しくなっています。


   我が門の 片山椿 まことなれ
   我が手触れなな 土に落ちもかも

  右の一首は荏原郡の上丁物部広足

 (『万葉集』巻第20、第4418番歌)

でもよ〜くみるとサザンカ。



12月23日 
臨川書店が時限的ではありますが、増補史料大成・増補続史料大成を大安売りしています。

増補史料大成とは、平安・鎌倉時代の貴族の日記を集めた叢書で、臨川書店で刊行されています。その続編の増補続史料大成は室町時代の古記録をも収拾し、日本史研究における一大叢書となっています。

さてその増補史料大成がどれだけ大安売りをしているかというと、『中右記』全7冊は上製版は7冊揃で定価38,850円となっていますが、割引価格では15,540円、普及版(写真左)では3,990円と10分の1近く割り引きされているのです。この破格の安さは古書市場よりも安いのです!

時限的に大安売りのは、絶版として残部を一掃することが理由だそうですが、臨川書店のホームページにはそのようなことは一言たりとも書いておらず、宣伝は古書籍購入者に配布したリーフレットのみなのですが、それでも注文が殺到しているようです。7万円分も購入した豪の者もいたとか…。



12月22日
今年が急速に終りを告げようとしています。そして昨日は終い弘法でした。

M氏「今日はトウジですね」
私「昨日じゃなかったですか?」
M氏「今日カボチャ食べる日でしょ?」
私「弘法さんとカボチャが関係あるんですか?」
M氏「?」

M氏が言っていた「トウジ」は「東寺」ではなく、「冬至」であるということはいうまでもありません。


冬至といえばフレイザー(1854〜1941)の『金枝篇』によると、古代ローマのユリアヌス暦では12月25日が冬至と定められ、その日以降太陽の力が次第に高まってくることからその日は「太陽の誕生日」とみなされ、4世紀初に西方教会がそれをキリストの誕生日として採用した(『金枝篇』3〈岩波文庫、1951年8月〉72〜73頁)そうです。

ともすればクリスマスと冬至の淵源は同じということになり、クリスマスにカボチャを食べても、逆に冬至にケーキを食べてもよいということになります。 ~旦_(^^ )お茶でもどうぞ
(↑なりません!)



12月17日
夜に二条の映画館TOHOシネマズ二条に行って来ました。
お目当ては「敬愛なるベートーヴェン」(監督クリストファー・ウィルキンソン)です。


この「敬愛なるベートーヴェン」はベートーヴェンの晩年を描いた映画です。詳細な内容はネタバレになるのでいいませんが、「敬愛なるベートーヴェン」のオフィシャルHP(「大フーガ」が流れるので注意!)では紹介されない本作品の魅力といえば、まずはベートヴェンの人格破綻が描かれていることでしょう。

ベートーヴェンの映画といえば「不滅の恋 ベートーヴェン」(バーナード・ローズ監督。1994年)が奇人っぷりを描いてましたが、今作はベートーヴェンのさらなる爆裂ぶりが堪能(?)できます。映画中でツェルニー(←少年少女の敵!)やリース(←うそっぱち伝記作家)といったベートーヴェンに近しい人物があまりでてこなかったのは気がかりでしたが、これは本作品が史劇というよりは歴史ドラマといった性質に近いのが理由かもしれません。ヒロインは架空の人物ですし…。あとベートーヴェンの最大の支援者であるルドルフ大公(1788〜1831)は映画の中では枢機卿の赤い法服を着ていました。彼がお坊さんだったとは知りませんでした。てっきり颯爽とした成年貴族だと思っていたので、でっぷりとした中年のお坊さんとはイメージが随分崩れたものです。今度から「ルドルフ大公」ではなく「ルドルフ法親王」と個人的に呼んでみることにします。

本作品の主たるテーマはベートーヴェンの作曲した曲のなかで最も難解とされる「大フーガ」についての解釈が中心です。一応「第九」も間に挟まりますが、「客よせパンダ」みたいなものかもしれません。

「大フーガ」とは「弦楽四重奏曲第13番変ロ長調 Op.130」の最終楽章(第6楽章!)として作曲されたものですが、出版社は曲の長さ(16分ほど)と聴衆のあまりの不評っぷりにおそれをなし、ベートーヴェンに要請して最終楽章を彼が新たに作曲したものと差し替えましたが、結果宙ぶらりんとなった「大フーガ」を「弦楽四重奏のための大フーガ Op.133」として出版したものです。

映画では「大フーガ」を中心に「音楽における芸術とは?」みたいな問いかけが行われていましたが、映画自体にはオチのようなものはありませんでした。まぁ「不滅の恋 ベートーヴェン」のような「そりゃ〜ないでしょ!」というべきどうしようもないオチをもってこられるよりはマシかもしれませんが…。「大フーガ」を主題にもってくる位なのですから、端からベートーヴェンマニア以外は気に掛けてないのでしょう。実際にまわりにいた観客達も映画の終りのスタッフロールで席を離れる人はいませんでした。スタッフロールで流れるベートーヴェンの音楽を聴いていたからです!


それにしても夜は「大フーガ」の主題が頭の中をグルグル鳴っていて眠れませんでした。(−−)zzz.。ooOO○



12月8日
学生時代に所属していた部活よりの大会報告が届きました。

11月26日の全日本学生大会で、団体戦ベスト8に入ったそうです。

おめでとうございますo(^^o)



12月7日
職場先で、とあるイベントの準備のため、S氏とM氏が鏡餅をつくってました。

あまった餅と大根おろしでS氏がからみ餅をつくり、ちょうど昼時で手が空いていた私を含めた4人に振る舞いました。

食べた瞬間、4人が全員悶絶!!!

何故か大根おろしが尋常でないほど辛かったのです。そのあまりの辛さにI氏(この4人の中には私も含めて3人I氏がいるけど…)が「ビールが欲しい!」とわめいてました。


酒と餅ですが、古川瑞昌『餅の博物誌』(東京書房社、1972年3月。326頁。限定1,500部絶版)によると、酒とそれに対峙する食品の優劣論は、日本では室町時代後期の『酒食論』(『群書類従』19)・『酒茶論』(『群書類従』19)にはじまったとされています。

『酒食論』は上戸を代表する造酒正糟屋朝日長持と、下戸を代表する飯室律師好飯の二人の仮託された人物による酒・飯の優劣論より、両者折衷の「中戸」なる概念を代表する左衛門大夫中原仲成による「中道の理」の優位性を説くものです。

『酒茶論』は酒を愛する忘憂君と、茶を好む滌煩子の仮託された二人による酒と茶の優劣論争で、多くの類文を引用して論が展開されます。結局「酒もまた酒なり。茶もまた茶なり」と論争のみで終始してしまい、『酒食論』のように第三の道が開かれるということはなく、五山文学の枠組みよりでるものではありません。

つまり『酒食論』は「中道」を論ずるため、『酒茶論』は五山文学のレトリックの体現としての仮託論争であって、実際に酒と飯・茶の優劣を論ずるものではないのです。

これらの系統をひく『酒餅論』(『室町時代物語大成』7)は、江戸時代中期に刊行されたもので、こちらは酒と餅の論争ではなく、擬人化による「合戦」を描いたものです。この頃は『仁勢物語』上、二四段の挿絵(写真左。『日本古典文学大系90 仮名草子』〈岩波書店、1965年5月〉183頁より一部転載)にみられるように、もちつきは現在とは異なる縦づきであるものの、庶民文化の形成と共に盛行し、酒と対抗し得る有力な食材へと変化していったのです。このように江戸時代には酒とそれに対峙する代表的食品として、展開を遂げたのです。


S氏つくった「激辛からみ餅」は、そのような文学上の対立軸で捉えられがちであった酒と餅を、対立ではなく融合へと進化させた、いわば伝統に起因する餅の変遷における画期といえるでしょう!

…だからといって辛すぎるのもちょっとY(>_<、)Y



12月4日
日本赤十字社より献血協力要請のハガキが来てました。
今の時期、O型とB型の血液が不足しているということです。
そのため献血に行ってきました。

献血手帳が10月からカード化されたそうです。


献血終了後、献血センターの近くのプラッツ近鉄に行ってきましたが、2月で閉店することになるそうです。これで京都から大きな書店(旭屋書店)がまた一つ消え去ってしまうことになります。


帰りにベートーヴェン・ピアノソナタ第29番「ハンマークラヴィーア」と第32番のCDを購入して帰りました。演奏はアルフレッド・ブレンデルです。

両曲ともベートーヴェン後期作品に属しています。私は前まではベートーヴェンは断然中期作品群が好きでしたが、最近は後期作品群の方がよく聴いているようです。音楽に対する嗜好が変わったのでしょうか?

第29番「ハンマークラヴィーア」と第32番は、両曲とも難易度・深遠さが高く、そのためかなりカルト的なファンがいることで有名です。とくに第29番は難易度が極めて高く、ベートーヴェン自身も「50年もすれば人も弾くさ」といったとか。しかし第29番の第3楽章、第32番の第2楽章の美しさは一聴に値します。興味を持たれた方は「Blue Sky Label」を参照して下さい。



12月2日
朝、寒いと思ったら霜(写真左)がおりてました。

丹波では初霜ということになりそうです。



11月29日
カッセル ロドルフ他編著『原典 ユダの福音書』(日経ナショナルジオグラフィック社、日経BP出版センター、2006年7月。190+22頁。\1,890。写真左)を購入しました。

以前、大学時代の友人との飲み会で、友人Nがユダの福音書が発見されたということが新聞に載っていたとの旨をいっていましたが、私はネットのニュースでみた程度なので詳細は知りませんでした。そのため友人Nと私で、大学時代に西洋史(中世)を専攻していた友人Yに聞きましたが、友人Yはそのニュース自体を知らなかったようです。


さて、ユダといえば「イエス・キリストの使徒の一人で、師匠を密告して処刑させた裏切者」という認識くらいしか私にはありませんが、ニュース等では「『ユダの福音書』には、ユダがイエスをローマの官憲に引き渡したのは、イエス自身の言いつけに従ってしたことだと書かれて」いると、センセーショナルに記されていました。そこで私も「まぁ騒がれているんだし、飲み会のネタに読んでみるかぁ」と購入した次第なのです。

さて内容はというと、原典本文以外の主な部分(解題等)はネットにあがってます。(≡≡;) !!!

が、一応ざっとみた感じでは、以下のような感じでしょうか?

問題の『ユダの福音書』は直接ユダが関わったものではなく、引用文献から2世紀には成立していたと考えられています。もとはギリシア語だったそうですが、現存する唯一の写本であるチャコス写本はコプト語で記されており、放射炭素測定法によると紀元275年頃が成立したそうです。

そもそも福音書には、現在新約聖書にある『マタイによる福音書』・『マルコによる福音書』・『ルカによる福音書』・『ヨハネによる福音書』の四福音書(これらは観念が共通することから「共観福音書」と呼ばれている)が一般的で、現在のキリスト教では「福音書」といえばこの四福音書を正典としていますが、福音書にはほかにも件の『ユダの福音書』、講談社学術文庫に翻訳がある『トマスによる福音書』、『ダ・ヴィンチ・コード』で有名になった『(マグダラの)マリアによる福音書』(小林稔訳『ナグ・ハマディ文書 II 福音書』〈岩波書店、1998年〉所収)といった多くの福音書があったようです。

多くのイエスの使徒が記した(あるいは記したとされる)福音書が多くあったにも関わらず、内容の似通った共観福音書のみが正典とされ、他は「外典」とされたのは、2〜4世紀に吹き荒れた神学論争の中で、歴史の舞台から消え去ってしまったことによるのです。


これらの福音書の浮沈をみてもわかるように、指導者の弟子達の派閥がセクト化するにつれ、社会的影響力をもった一派が、他派の主張を抹殺にかかることは、初期キリスト教に限ったことではなく、多くの宗教・宗派でも同じことがいえるようです。

例えば真言宗の祖である弘法大師空海(774〜835)には以下のような説話があります。

承和2年(835)3月15日より以前、門弟達を集めて、大師は命じていった。
空海「この金剛峰寺は、建立の志はあるものの、いまだに半ば造るにおよばない。(私は)入定しようとしている。実恵禅師よ、なしとげられるか?」
実恵「力にしたがって勤めます。」
空海「禅師は国王の師であり、私事を行う暇はなかろう。真如禅師はどうだ?」
真如「ただ命令にしたがいます。」
空海「禅師は心は他国にある。もっぱら一箇所にとどまることはなかろう。真雅禅師はどうだ?」
真雅「ただ仰せにしたがいます。」
空海「禅師はなお別心がある。真済禅師はどうか?」
真済「檀越との約束で、寺を建立する計画があります。それでも奉仕できるでしょうか?」
空海「約束は変えてはならない。真紹禅師はどうか?」
真紹「王は洛東に小堂を建てようとしていますが、ただ命令にしたがいます。」
空海「それもまた道理である。改めて我が山(高野山)に来るべきではない。」
空海「真然禅師は、ひとり師のあとを守る思いがある。それ故にこの山(高野山)を禅師に託す。だが自力ではむずかしい。実恵禅師は扶持し助成しなさい。」

この説話は、空海が入定する前に、弟子達に高野山を託す人物がいるかどうか探り、それぞれの人物のその後を預言した上で、真然に高野山を託すというものです。登場する空海の弟子達と空海入定後の経歴をみてみると、東寺の初代長者となった実恵(786〜847)、天皇や藤原氏の帰依を受けて嘉祥寺・貞観寺を建立した真雅(801〜79)、宮中真言院に祗候した真済(800〜60)、入唐して後にインドに赴く途中で羅越国(シンガポール)で没した真如(生没年未詳)、禅林寺を建立した真紹(797〜873)、金剛峰寺執行として高野山の伽藍の造営にあたった真然(?〜891)ですが、説話と経歴が奇妙にも一致していることから、後世の仮託であることは歴然としています。

この説話は空海の伝記である『高野大師御広伝』下、承和二年三月十五日先是条に記載されているものです。『高野大師御広伝』は元永元年(1118)に三密房聖賢が撰述したもので、空海の伝記はそれ以前にも『空海僧都伝』(835)、『贈大僧正空海和上伝記』(895)、『大師御行状集記』(1089)、『弘法大師行化記』(12世紀前半)があります(いずれも『弘法大師伝全集』一〈密教文化研究所編、1965年〉所収)。このうち、『空海僧都伝』と『贈大僧正空海和上伝記』は空海の経歴の簡単な羅列にすぎませんが、『大師御行状集記』以後の伝記はいずれも空海の伝説的要素を包括しています。上記の説話もその一つなのですが、高野山の立場にたった本書が、高野山を受け継いだ真然の正当性を示すために、他の弟子は空海の諮問にたえなかったことが示されています。

結局、自派の優位性を示すために他者を悪し様にいうのは、古今の通例といえそうです。



11月25日
後輩Oの儀礼に関する発表の中にあった「&M056328;賓(スイヒン)」という用語について、

師「これは何のこっちゃ?」
後輩O「十二律のことだそうです」
師「十二律って何や?」
後輩O「音楽の一種みたいですよ」
私「正確にいえばオクターブ内を十二音で平均分割した音のことで、西洋音楽の平均律に相当します」
師「平均律って何や?そんな曲バッハにあったな」

と、徐々に後輩Oの発表の主旨からずれてきました。


しかしながら、平安時代初期の儀礼を研究する上では、儀礼そのものの再現をする必要があり、そこで演奏される雅楽についても知らなければなりません。

唐から古代の日本に伝来された雅楽は、現在でも宮内庁式部職楽部に伝えられていますが、応仁の乱後の1世紀にわたる中絶の影響もあってか、平安時代の史料に出てくる曲が現在では全く失われていることがあります。雅楽に関する最古の総合的な楽書である『教訓抄』全13巻(1233成立)に多くの雅楽の曲名が見在できますが、同書の代表的注釈本である『日本思想大系23 古代中世芸術論』(岩波書店、1995年10月、812頁)をみると、相当数が失われていることが知られます。

幸いなことに、日本には多くの古楽譜が残存しています。『天平琵琶譜』(747年以前書写。正倉院文書の紙背)や『五絃譜』(11世紀頃書写、陽明文庫蔵)といった唐楽の楽譜は、林謙三『雅楽 古楽譜の解読(東洋音楽選書10)』(音楽之友社、1969年12月。547頁、絶版)によって解読され、五線譜の楽譜におこされています。しかしこれら古楽譜も、基本旋律のみの単一パートであり、総スコアの状態でないので、音楽としての体をなしていません。私も試みに遠くは玄奘三蔵(602〜64)がインドでハルシャヴァルダナ王(位606〜47)に問われたまでに有名であったという「秦王破陣楽」を、『五絃譜』の五線譜による解読でみてみましたが、旋律線しかない(曲の基本旋律だけを譜に現わすのが唐代の約束であったという。林謙三説)ので、かなりヘンテコな曲となってしまいます。やはり音楽として演奏するには、五線譜訳の際には音の長短の明示と総譜化が必要なようです。


そのため雅楽の曲の復原に大変強い関心を持っていたのですが、今日休日ということもあり思文閣美術館で展覧会「雅楽の変遷−古の音色を求めて−」(写真左)に行ってきました。ちょうどこの日は14時からシンポジウム「音の復原と曲の復原」(講師は冨金原靖氏とスティーヴン・G・ネルソン氏)が開催されるというので、さらに興味がわきます。
ただ、二日酔いが甚だしかったため、太秦の自宅から、左京百万遍交差点付近の思文閣美術館まで自転車で行くというのは、かなりしんどかったです(´ヘ`;) 



11月24日
夜に飲み会がありました。

私は普段はおとなしく(?)呑んでおり、今日もそうしていましたが、大学時代の友人達と飲むと、朝まで口論をしつつ呑み続けていました。

酒といえば、9月18日条で「長年探し求めてい」ると書いた中村喬編訳『中国の酒書』(東洋文庫、平凡社、1991年。写真左)を「日本の古本屋」を通じてようやく入手できました。内容は北宋時代(960〜1127)の『北山酒経』と『酒譜』の訳注で、『北山酒経』は醸造技術書で、ちょっとばかりマニアックでした。『酒譜』は酒に関する故事を記した書です。

日本にも酒書としては、醸造技術書『御酒之日記』(1489成立、1566書写)があり、鎌谷親善「御酒之日記-その解説と翻刻」(『酒史研究』13、日本酒造史学会、1995年)に翻刻されています。『北山酒経』よりもかなり後代の書ということになります。

日本における酒に関する故事を記した書としては、「亭子院賜酒記」(911)が有名です。これは『紀家集』巻第十四断簡、『本朝文粋』巻十二、『朝野群載』巻第三、『群書類従』第一九輯に所収されていますが、『本朝文粋』所収のもの(ただしタイトルは「亭子院賜飲記」となっている)は『新日本古典文学大系』27(岩波書店、1992年5月。462頁。\3,800)に訓読されてます。


それによると、延喜11年(911)6月15日(旧暦計算スクリプトVersion1.5によると、現行暦の7月18日にあたる)に、宇多法皇(867〜931)が暑さの暇つぶしに、当時酒豪として知られた藤原仲平・源嗣・藤原兼茂・藤原俊蔭・藤原経邦・良峰遠視・藤原伊衡・平希世の8人を呼び寄せて、濃い酒を定量づつ、20盃まで廻し呑みさせることとしました。
(↑ちょっと体育会系入)

「1石(19リットル)呑んでもまるで水を砂にそそいでいるようだ」とまでいわれた酒豪達でしたが、6・7周すると全員が酩酊し、あいさつもできず、方角もわからない状態となり、「風にあたってくる」といってウロウロするのでした。そのなかでも平希世(?〜930)は門外にて泥酔し、藤原仲平(875〜945)にいたっては殿上であるにもかかわらず嘔吐し、また藤原経邦(生没年不詳)は最初は調子よく呑んでいたものの、結局嘔吐して苦しみのうなり声をあげる有様でした。そのようななかで、藤原伊衡(876〜938)のみが乱れなかったので、宇多法皇は彼に褒美として駿馬一頭を賜ったのでした。

「亭子院賜酒記」を記した紀長谷雄(845〜912)は結びとして、「最初は酒豪達のそうそうたる名を聞いて、中国の伝説的酒豪の伯倫(劉伶)が生まれ変わったとしても彼らにはかなわないだろうと思ったが、実際の有様をみてみると、病人・老人・半ば死にかかったような者でも、彼らと同じようなものだろう。評判ほどではない、という言葉はまるで彼らをたとえたものなのだろうか?」と酷評しています。

身につまされるような話です…(〃∇〃) 



11月21日
妹から娘(私からみて姪)の写真が写メで送られてきました。

みると、妹の旦那さんと、私の祖父(姪からみて曾祖父にあたる)にソックリです。


女の子だけど…。



11月20日
後輩Oが、
「唐の官制が『官職要解』みたい(にわかりやすい本)なものってないんですかね?」
といっていました。

『官職要解』とは、和田英松『新訂官職要解』(講談社学術文庫621、1983年。456頁。\1,418)のことで、日本の官職がわかりやすく概略されている本で、日本史専攻の学生必携書となっています。その一方で、ここで問題となっている唐の官職制度は、『唐六典』『通典』『唐会要』『旧唐書』『新唐書』によって知ることができるものの、これらはあくまで「史料」であって概略的なものではなく、この官職はどのような官職であるかという具体性にかけるのです。

私も学生時代に後輩Oと同じ質問を中国史の先生にしたことがあったのですが、その時に礪波護著『唐の行政機構と官僚』(中央公論社、1998年8月、250頁。\629。写真左)を奨められました。

そのことを思い出し、後輩Oに教えようとしましたが、著者名は思い浮かぶものの、書名が思い出せません。家に戻って、書名を確認して後輩Oにメールすると、すぐに「今みています」と返信されました。

すでに持っていたのでしょうか?



11月19日
日曜洋画劇場で、映画「デイ・アフター・トゥモロー?」(2004。アメリカ〈FOX〉)を放送していました。その一シーンに、ニューヨーク公立図書館で本を燃やして暖をとる場面がありました。゛(`ヘ´#) 。

ニューヨーク公立図書館といえば、東寺観智院旧蔵の『仁王経法曼荼羅』と『仁王経五方諸尊及曼荼羅』(ともに12世紀)が所蔵されています(ニューヨーク・スペンサー・コレクション)。前者は仁王経五大尊の諸形態を示しており、極めて貴重な史料なのです。『図像蒐成T』(仏教美術研究上野記念財団助成研究会、1993年3月。24、iii頁。B4版。京都国立博物館内のミュージアム・ショップ(便利堂)で購入可能。写真左)に影印・翻刻されています(一部は『大正新修大蔵経』図像篇第12巻にもあり)。そのような貴重書がある図書館の本を燃やすというシーンはとても印象的でした。

ちなみに、映画中では本をそのまま暖炉に放り込んでいましたが、本をそのまま大量に火に投げ込んでも燃えにくいのです。紙は燃えますが、本は紙と紙の間に空気があまり無いので、燃えにくいそうです。実際に明治初期に、江戸時代までの文書が紙くず同前となり、諸藩で焼却処分のために本や書類を積み上げて火をつけたにもかかわらず、全く燃えなかったという事例や、たまに古本で出回っている貴重本の中には小口に焦げ跡があり、明らかに火事にあったことを示しているものがあります(ただしそのような本は古本の相場よりも相当に安い)。

だからといって、本を燃やしていいわけではありません。 



11月18日
仕事の出回りで、とあるお宅にお邪魔しました。

この家は古くからこの地に住み、近所の某神社(写真左)の株内(っていったら場所が限定されるが…)を代々勤める家だそうです。

家はというと、トタンで覆われているので古いようにはみえませんでしたが、

家主「この家も大分ガタきてるしな〜」
私「そぉなんですか?」
家主「ここらでは新しい方なんだけどね」
私「築30〜40年くらいですか?」
家主「棟札(むなふだ)に安政元年(1854)って書いてあったけど」

古すぎます。ペリー来航(1853)の翌年で、築150年以上といったところです。改めてよくみてみると、合掌入母屋造、一層の典型的な摂丹型六間取民家です。摂丹型民家は綾部市の旧岡花家住宅(16世紀半、重要文化財)が代表格で、この地域にも宝暦4年(1754)の摂丹型民家があります(京都府教育庁文化財保護課編『京都府の民家 調査報告第7冊』〈京都府教育委員会、1975年3月〉)。

「新しい方」といえば、新しい方なんでしょうけど…。



11月6日
文庫用の蔵書印(写真左、印影)を購入しました。


蔵書印は、本の散逸を防ぐために本に捺す印のことで、日本においては光明皇后(701〜60)の「積善藤家」の印がその嚆矢とされています。賀茂真淵(1697〜1769)のように神代文字(漢字伝来以前より日本に存在したされる偽作文字)で構成された蔵書印(アメーバの分離にしかみえない…)や、伴信友(1773〜1846)のように、「コノフミヲカリテヨムヒトアラムニハヨミハテテトクカヘシタマヘヤ(この本を借りて読んだ人は、読み終わったら必ず返してね)」という蔵書家の切実な願いが記されている蔵書印など、ユニークなものが多数あります。

私も去年より9p四方の蔵書印を用いていましたが、あまりにも印が大きすぎて捺せない本があった(←バカ)ので、新たに2p四方の蔵書印を購入した次第なのです。

印文は「嗣簡閣印」で、『春秋左氏伝』襄公二十五年条の、「大史書して曰く、『崔杼その君を弑す』と。崔子これを殺す。その弟、書をぎて、死者二人なり。その弟また書す。すなわちこれを舎(すて)る。南史氏、大史ことごとく死せるを聞き、を執りて以往す。既に書するを聞けり。すなわち還る。」(原漢文)を典拠としています。

…ちなみにシャチハタです。



11月5日
昨晩、眠っていると23時頃に父母より電話がありました。とくに母は酔っぱらっているようでした。

私「…寝てたんだけど」
母「何で寝てんのさ!」
私「何でも何も、明日は仕事だし…」
母「うそつけ!明日は日曜でしょ!」
私「日曜でも仕事あんだけど…」
母「日曜は休みに決まっているでしょ!」

とまぁ、酔っぱらっているので、全く話が通じません (-。 -; )

眠っているところを妨害されて腹が立ったので、翌朝6時に電話をかけて叩き起してあげました。



11月4日
岩波文庫の聖戒編/大橋俊雄校注『一遍聖絵』(岩波書店、2000年7月、第4版2004年1月。500円。164頁。写真左)を購入して読んでみました。

『一遍聖絵』は、時宗の開祖の一遍(1239〜89)の絵巻による伝記で、最近I氏が同書について語っていたので、読んでみるか〜、と購入した次第なのです。

中世の民衆生活・信仰を知ることができる貴重な史料で、多くの珍妙な風俗が描かれていますが、そのなかでも第七の京都市屋道場での踊念仏の図(76〜77頁)は傑作で、下が空洞となっている二階で何十人もひしめきあって踊っている上に、下で子どもが梁にぶら下がっています。『一遍聖絵』にはそのような場面が何度も描かれており、一度くらい倒壊してもおかしくはないのですが、倒壊したというような記述はありません。某物置会社のCMではありませんが、「100人乗っても大丈夫!」というような状態です。

さて、読み終わった後に本棚に入れようとすると、同じ本があるではありませんか!

…購入したまま忘れていたようです。( ° ° ) 


もう一冊はMさんにプレゼントしましたが、嬉しくなさそうでした。 



11月2日
お休みだったので、午後に京都府立文化博物館の特別展「始皇帝と彩色兵馬俑展−司馬遷『史記』の世界」に行ってきました。

今回の主題の司馬遷『史記』は、私が学生時代にはまっており、あまりのはまりっぷりに友人から「『史記』マニア」と呼ばれたことがありました。

全体的な感想としては素晴らしい展覧会でした。始皇帝陵の展示は直接『史記』に触れられてはいない部分(『史記』には兵馬俑の記述がない)がありましたが、それでも十分『史記』の世界を堪能することができます。注文をつけるとすれば、考古遺物が中心の展示のため、土木技術(とくに陵墓偏重)に関するものや、身の回りの品々が多かったため、他の文献も展示して多様な世界観を提示して欲しかったくらいなものです。

さて、図録『始皇帝と彩色兵馬俑展−司馬遷『史記』の世界』(TBSテレビ/博報堂、2006年。2,300円。203頁)を購入して家で読んでみますと、写真は何点かピンぼけ。さらに展示会場にあった始皇帝陵地下宮殿のパネルは掲載されていません。写真は中国側に提示されたものを用いたようです。 



10月31日
知人のNさんが、雑誌『美術画報』55(アートコミュニケーション、2006年10月。1,500円。201頁。写真左)紙上で対談をしていました。

見慣れている顔とはいえ、紙上の対談ともなればとても格好良くみえるものです。



10月30日
そういえば最近この「だいあり〜」では、お寺のことと書評(比較的古い本)ばかり書いているようです。

とはいえ、毎日同じような生活をしていると、変わったことにも遇いません。通勤の電車の中では睡眠か読書。たまの休日に出かけるところはお寺、ともなれば、自然そのような記事構成になってしまうのはやむを得ません
(↑言い訳)。

たまに変わったことがあるとすれば夢なのでしょうが、そのようなものを日記にかいた日にゃ〜、勝手に人の夢分析されてしまいます。例えば、『夢記』を記した明恵(1173〜1232)は後世マザコン扱いされていますし、『感夢記』を記した円珍(814〜91)は、その夢から勢力争いを推測されたりしています。もし80cm砲グスタフ/ドーラが砲撃した夢をみた、なんていったら、フロイトさんは大喜びするでしょう!Σ(・□・ ;)



10月24日 
本日世界の中心の綾部、願成寺(写真)に行ってきました。

雨が降っていましたが、到着した時には晴れていました。

左の庫裏は老朽化のため数年以内に解体するそうです。「丹波国何鹿郡寺院明細帳」(1883)には庫裏の記載がないので、それ以降の建造のようですが、それにしても惜しいものです。



10月21日
職場に出入りしている本屋さんに、欲しい本を注文することが最近多いのですが、注文していた本が忘れた頃に届いて驚くことがあります。とくに岩波文庫は学術系の本よりも届くがの遅く、注文したときにはあれほど読みたかったにもかかわらず、時間が経過しすぎているので、読むのが面倒臭くなるのです。

岩波文庫のスウィフト作/深町弘三訳『奴婢訓』(岩波文庫、岩波書店、1950年5月。124頁。2006年2月再版16版。460円)がまさにその例で、忘れた頃に届いてしまい、さらに届いた日には私はお休みの日だったので、他の人に読まれて、「面白かった」と先に内容と結論をいわれてしまいました( - -)ノ・・・

さて、この岩波文庫『奴婢訓』には「貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷になることを防止し、且社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」という長ったらしい名前の小篇が収録されていました。これは18世紀初頭アイルランドにおいて、子女が多くの子をなして貧窮し、人口増加によって社会的問題になっているにもかかわらず政府が何ら手をさしのべないため、その無策を諷刺するためにスウィフトが記したものですが、その内容たるや、増えた子どもを売却して食べてしまえばいい(←はしょりすぎ)という非常に過激なものとなっています。

普段でしたらあまり気にもしないのですが、先日姪が産まれたこともあり、読んでいてへこんでました。 



10月19日
妹が出産しました【祝】\ヘ(^∇^ヘ)


予定日は22日だったのですが、昨日の夜に陣痛がはじまり、今日の夜に産まれたということです。陣痛が始まった日の夜に妹と電話で話していた時に、「ちょっとお腹が痛いんだよねぇ〜」と言っていました。何ともなさそうだったので電話を切りましたが、本日21時17分に父から電話で「産まれたぞぉ〜」と出産を知った次第です。

とりあえずお約束の「男?女?」と聞いてみました(←知ってたけど…)。体重3,080gの女の子だそうです。妹のメールによると、陣痛は26時間にも及んだようです。名前は夕瞳(ゆめ)というそうで、何故そのような名前にしたかという由来を長々書いてありましたが、メールが長すぎて私の携帯では全部はみれませんでした…。


父は電話で「かわいいかわいい」を連呼していました。初孫なので嬉しそうです。



10月16日
講談社学術文庫から『日本後紀』の全現代語訳(写真左)が出ました。

『日本後紀』は、『日本書紀』・『続日本紀』につぐ六国史(古代日本の官選編年体史書6書の総称)の3書目で、承和7年(840)に藤原緒嗣等によって編纂されました。全40巻でしたが、散逸のため現在ではわずかに10巻が残存するのみとなっています。内容は8世紀末から9世紀初頭が編年で記され、蝦夷との戦い、薬子の変(810)などが記述され、とくに人に対する評価の容赦なさが有名となっています。

『日本書紀』・『続日本紀』には現代語訳が数種出版されていましたが、『日本後紀』は散逸がネックとなって、5年前には『日本後紀』の全現代語訳はおろか、訓註本すらありませんでした。そのこともあって私の所属する大学のゼミでは訓読のテキストとなっていました。私が「『日本後紀』の全現代語訳が出ないかな〜」というと、後輩Wが「森田悌さんあたりが出すんじゃないですか?」といっていました。その頃に講談社の読者用ハガキに「六国史の全現代語訳を出して下さい」といった旨のことを書いて投函した記憶があります。

4年前に黒板伸夫/森田悌編『日本後紀(訳注日本史料)』(集英社、2003年11月。1392頁。\36,750)が出ました。これは逸文も含めて集成したもので、極めて有益なものですが、如何せん値段が36,750円という高値な書籍ですので、容易に入手できるようなものではありません。


この度出版された森田悌『日本後紀(上)全現代語訳』(講談社学術文庫、2006年10月。420頁。\1,365)は、値段は一冊あたり集英社の『日本後紀(訳注日本史料)』の22.5分の1で入手しやすくなっています。

それにしても編者は後輩Wの予言通り森田悌氏に、出版は私のハガキの通り講談社学術文庫になったことは、何か機縁を感じるざるを得ません。



10月15日
夕方に太秦安井を通りかかると、今宮神社(京都市右京区)の神輿が目前を通過していきました(写真左)。

シンコペーションで打ち鳴らされる太鼓と、それに呼応する鐘(担がれている)と男声は、勇壮なる調和をみせています。

今宮神社の祭日は、本来ならば16日なのですが、日曜日の今日(15日)となっています。これは祭の担い手を確保するための方策で、近年この方式は多くの神社のお祭りで行われているようです。

それでも祭の担い手の確保は難しいようで、この祭りの神輿の移動も人の手によるのではなく、軽トラックの荷台に載せられています。


夜は梅田で友人二人と焼き鳥と呑みでした。



10月5日
休日だったので母校にいってみると、北九州中国書店の巡回車が来ていました。

中をのぞいてみると、いつもの店の人がいました。ここでは何度か購入しているので顔見知りなのです。書架をみてみると欧陽詢撰/汪紹楹校『芸文類聚』上・下(上海古籍出版社、1982年1月。写真)が売っていましたが、値段をみてみると6,000円弱。

この『芸文類聚』100巻は中国唐代の類書(内容を事項によって分類・編集した書物)で、欧陽脩らによって武徳7年(624)に撰述されたもので、現存する類書としては『北堂書鈔』についで古く、日本でも『日本書紀』編纂における文飾の種本に用いられたことでも有名です。


類書は辞書としても有用なので、常々欲しいと思ってましたが、残念ながら丁度持ち合わせがない!

私「すみません。持ち合わせがないので、これを私の家に送って頂きたいのですが…」
店の人「ツケでそのままもっていっていいですよ」

ツケ? 飲み屋じゃあるまいし…

というわけでそのまま本を持って帰りました。

家に帰って本を開いてみると、しっかりと請求書と郵便振替用紙が入っていました。ε= (++ )



10月4日 
吉川弘文館より刊行される『新訂増補国史大系』には、重要かつ使用頻度の高い本は普及版として刊行されています。

しかしながら普及版の多くは分冊されています。そのため、普及版のうち一冊のみ購入して、普及版ではない合冊本を購入してしまったというような、まさに「帯に短し襷に長し」という悲劇(?)がたびたびおこっています。


かくいう私も『新訂増補国史大系第3冊 日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録』(吉川弘文館、1934年11月)を普及版で3冊分冊で購入したあげく、合冊の普及版ではないのも購入してしまう、という事をしてしまったので、分冊にする意味はあるのかと常々思う次第でした。

ところで『続日本後紀』を使用する機会があったので、スキャナをかけようと合冊の普及版ではない本を開いてみましたが、510頁あるので、合冊本の丁度真ん中にある『続日本後紀』にスキャナをかけるのは、極めて困難なのです。

そこで普及版(『新訂増補国史大系 続日本後紀普及版』〈吉川弘文館、1953年4月〉写真左)を用いてみますと、きれいにスキャナがかかります。

意外な使い道があった普及版ですが、よくよく考えると学生がコピーしやすいように考えて製本されているのかもしれません。 



9月30日
久しぶりの更新です。

さて明日はなんと10月1日です!(←当たり前だ)

旧暦では10月は冬なので、ついに冬に突入です。

ともすれば、この一年一体何をしていたのかと、すでに「回顧と展望」状態です(5月じゃないけど…)。



9月28日(承前)
最近、なぜか梵字にふれる機会が多いのですが、梵字に関する入門書はすぐれたものはなかなかありません。佐和隆研編『仏像図典』(吉川弘文館、1962年2月)位しか思い浮かばないものです。

そのため、博物館図録の付録や、他人が使っているものをみて真似する位しかなかったのですが…。

しかしT氏が参考文献で掲げていた齋藤彦松/Saito Print研究会編『悉曇要軌』(摂河泉文庫、2004年11月。185頁。写真左)を知りました。同書は発音・書体・対比文字・字義・発音法まで、梵字に関する有りと有らゆることがマニアックにのべてあります。

是非とも入手したい本です (・_・ )


(後日註)
Mさんが発行先で入手され、貰い受けることができました。



9月28日
「パソコンの液晶のライトが壊れた」ということを7月22日に報告いたしましたが、ついに写真(…みづらい)のようになってしまいました。

名付けて「ノートパソコンのデスクトップ化」です。

以前にB商会さんに
「ノート(パソコン)だと肩がこってしんどい」
というと、
「それならモニターとキーボードを外付すればいい」
と仰っていました。

私は「そんなことしたらバカじゃないですか!」
といいましたが、まさにその「バカ」になってしまったのです(_ _,)/~~


ご推察の通り、モニターとキーボードはB商会さんの調達なのです。 



9月18日
ネットの日本の古本屋で『増補竜宝山大徳禅寺世譜』(思文閣、1979年。和装本箱入308頁。写真左)が売っているのを視ましたが、それを売っている古書屋さんが京都市内であることをわかったので、電話した後、行ってみました。

お店の主人が「思文閣の近く」と仰っていたのですが、市内には思文閣の店舗やビルが幾つかあり、さらにまぎらわしいことに、当該店の近くにも思文閣のビルが二棟あったのです。

ただし、主人の対応がよく、電話で案内されつつ、目的の書籍を入手できました。帰りにはたまたまY氏にお遇いしました。


ところで最近、私の愛する平凡社東洋文庫が、岩波書店より既刊されているものとかぶっていることが多いようです。

例えば『催馬楽』は岩波の日本古典文学大系(土橋寛・小西甚一校注『日本古典文学大系3 古代歌謡集』(岩波書店、1957年)。むしろ底本であるらしい…)や、『制度通』は岩波文庫(伊藤東涯著/吉川幸次郎校訂『制度通』1〜4(岩波書店、1944〜48年初版))とかぶっています。平凡社東洋文庫といえば、マニアックでありながら厳選された優れた古典を訳した文庫(…だけどハードカバー箱入3,000円!)として有名で、一冊読むごとに世界観が変化していくような古典が選ばれています。しかしながら絶版になるとなかなか入手しにくく、私も『抱朴子』外篇(本田済訳注、東洋文庫525・526、平凡社、1990年)や『中国の酒書』(中村喬編訳、東洋文庫528、平凡社、1991年)は長年探し求めていますが、未だに入手できていません。

その一方で、近年岩波書店のものとかぶっているものは、復刊や古本市場で比較的容易に入手可能となっています。善本が絶版となっているにもかかわらず、入手可能な古典がかぶっているという現状は、あまりよいことであるとは思えません。 



9月12日
昨日の11日は大学時代の友人と飲み会でした。

古き友と飲むというのはとてもよいことです。



8月22日
私の大学時代の恩師の所にお伺いしたとこを、恩師は足を骨折していました。

私「どうなさったのですか?」
師「あそこの庭に松の木がみえるやろ?」
私「ちょっと枯れてますね」
師「あそこらへんに除草剤をまいたねん」
私「それで枯れてるんですか?」
師「バチがあたったんや」

よくよく聞いたら、道で転んだのだそうです。



8月17日
夜、近所のいつも通る道を通りかかると地蔵盆をやっていました。

地元の人間ではないので珍しく思い、近くによって写真を撮っていると、おばさんが参加者と間違えたのかヤクルトをくれました。 



8月14日
とある本を読んでいたI氏が
「これでネギって読んだっけ?」
というので、みてみるとその本の「祝部」の説明に「衝宜(ねぎ)」とあります。
ご親切にふりがなまでありますが、「衝宜」で「ねぎ」と読むのは聞いたことがありません。「ねぎ」は普通「祢宜」とは記します。

そこでI氏がぐぐってみると、鹿嶋神宮のホームページに
「衝宜(ねぎ)」とあるではありませんか!

そんな言葉があるのか〜と関心していましたが、『日本国語大辞典』にもそのような言葉はなく、疑問に思っていました。するとI氏が鹿嶋神宮のホームページのテキストをwardにコピペすると、「衝宜」の部分が「禰宜」となったではありませんか。正確に申しますと「禰」字の本字で、ユニコードの字であると思いますが、一般的に用いられているフォントのシフトJISにはありません。

つまり「衝宜」は「祢宜」の誤植であるということです。恐らくは著者と印刷社の間でフォントの統一ができていなかったのでしょう。



8月6日
生まれてはじめて鮎寿司(あゆずし)というものを食べてみました。

南丹市園部町小山東の淡路屋さんで特注(というよりは注文以外は受け付けない)しました。

鮎寿司は『延喜式』に丹波国が中央に貢進する進物の中に「鮨年魚(すしあゆ)」としてみえ、中世にも代表的な進物として知られています。例えば室町幕府料所の桐野河内荘(現南丹市園部町東域)では、幕府へ鮎寿司を100単位で進上しているほどです。

この古代・中世以来の伝統的食料品を一度食べてみたくなり、2匹入って1,050円という値段ですが注文してしまいました。

さて、お味の方はと申しますと、尻尾は飯鮨(いずし)のようですが、中央部はとても美味です。そして頭はというと、骨が固くて「まずい!」の一言です。

なお賞味期限は信じがたいほど短いのでご注意を。

写真はI氏撮影・提供。容器と緑のギザギザ以外は私の胃袋へ。



8月1日
今日は八朔ですが、調査に行って参りました。場所は丹波の南丹市と篠山市です。

写真は南丹市のとある廃寺の薬師堂。



7月30日
本日は私の誕生日です【祝】\(゜▽゜* )

この日におこった歴史上の出来事に

827年7月30日  京都で大地震
1864年7月30日 映画「コールドマウンテン」で有名なクレーターの戦い
1912年7月30日 明治天皇崩御

がありますが、いずれもめでたい日ではないようです。



7月28日
鹿王院に行ってきました。

お昼すぎに行った時は快晴でしたが、出た時は何となく雲行きがどんよりとしていました。

案の定、15時10分頃から急に降ってきました。20分後の15時30分には止みました。夕立でしょうか?

雨ばかり降って困るものです。雨が止んでから10分程して蚕ノ社(木嶋神社)に行くと、池水が満ちていました(写真)。近年池水を潤す湧き水が枯渇しているので、珍しいこともあるものです。他に雨が多くてよいことといえば、天神川のゴミが流されてきれいになった位でしょうか。



7月22日
最近、櫟谷宗像神社に行って以来、不運続きです。
あげればきりがないのですが、

@食べに行ったらお金が足りなかった(←バカ)
Aキャッシュカードを紛失した(←大バカ)
Bパソコンの液晶のライトが壊れた。

というところです。B以外は完全に私の不注意なのですが…。

それと、階段から転落した後、しばらく熱が続いていたので19日に病院に行ったら、肋骨が骨折している、といわれました。これで骨折は通算5回目です。医者が「肋骨の骨折は特にこれといった治療法もないので…」とはいっていましたが、コルセット(腰巻ですな)と痛み止めを処方してくれました。そのお陰で痛みはありません。(^_^ゞ)


本日経過報告のために病院に行きました。

医者「何かこの前の診察から変わったことありませんでしたか?」
私「とおっしゃりますと?」
医者「薬のせいで体調が悪くなったとか?」
私「そぉ〜ですね〜、痔になりましたが…」
医者「ぷふっ(笑)」
私「(か、関係ないのか!)」



7月21日
前日の話に関連して。

先日、恩師と食事をしましたが、その時にテレビでワールドカップでイタリアが優勝して、イタリア人がローマの大画面前で歓喜して「イターリア!イターリア!」と絶叫しているのをみて、隣の席にいた人がポツリと「たかがサッカーでこんなに大はしゃぎして…」といっていました。

第2次世界大戦後、ヨーロッパが戦争の疲弊によって大国の地位より転落し、さらに植民地も失っていきました。東西冷戦期には、ヨーロッパ各国同士の戦争というのは事実上不可能となり、またヨーロッパ自体がアメリカ・ソ連といった超大国の狭間での生き方という選択を迫られ、実際の戦争が国家間紛争の発露にはなり得なくなりました。

そのような意味で、ワールドカップは国家間の発露という形を受け持っていたのかもしれません。ワールドカップも含めた国際競技が、戦争が非日常化された時代において、各国間の紛争の発露を定期的に生産して(かつてローマ皇帝の義務とされたローマ市民への「パンと娯楽」の「娯楽」部分の供給のように)、結末の“予期不可能”な儀礼を現出ともいえるかもしれません。この際に「テレビ観戦」が「遊び」なのか「儀礼」なのかは、意見の分かれるところですが、時間と空間における広範囲な注釈をもつという点では、「儀礼」ということができるかもしれません。「観戦」という形も、戦場においての実在、例えばペロポネソス戦争のアテーナイのシケリア遠征軍が、シケリア唯一の脱出手段の海軍が敵軍と海戦を行い、それを見ている陸兵が一喜一憂し、敗北してそれが自軍が全滅することを意味するのをみて絶望するという状況(トゥーキュディデース著/久保正彰訳『戦史』下(岩波文庫、1967年8月。221〜24頁))のように、「観戦」というものが、集団における敗北が、自身の敗北に密接に関わり得る、あるいはむしろその逆の所属集団の勝利が、自身の勝利であるとする本義的なものから、擬制的関係を現出させたといえるかもしれません。しかしながらこの擬制的関係も、1969年にエルサルバドルとホンジュラス間での“サッカー戦争”のように、観戦が実際の戦争に発露するというケースもあるように、完全に機能しているとは言い難い部分があるのも事実です。

それにしても、イタリアが近代において実際の戦争でフランスやドイツに勝利したことなど一度もないのに、サッカーでは何度も優勝しているのですね。不思議なものです。



7月20日
テレビのニュースをみていたら、国際サッカー連盟(FIFA)は、ワールドカップドイツ大会決勝でフランスのジダンが、イタリアのマテラッツィに頭突きして退場となった問題で、ジダンから事情聴取を行い、3日間の社会貢献活動処分と7500スイスフラン(約70万円)の罰金を科し、マテラッツィにも2試合の出場停止処分と5000スイスフラン(約47万円)の罰金が科されたということ。

ニュースの解説では
「喧嘩両成敗の形に終わった」
と説明していましたが、
実際の「喧嘩両成敗」の意味とは全く違うと思います。そもそも「喧嘩両成敗」というのは、日本の中世法独特のもので、外国に類似の法律はありません。

すなわち、両者にそれぞれの罰を与えるというものではなく、理由如何を問わず、双方を同様に処罰する、というのが喧嘩両成敗なのです。

小さい頃、兄弟喧嘩して親に理由如何を問わず親のゲンコツが降ってくるというのであれば、それは喧嘩両成敗ですが、片方にゲンコツ2発、もう片方にゲンコツ1発とお小遣い1ヶ月停止であった場合は、双方に処断を加えているものの、喧嘩両成敗ではありません。詳細は清水克行『講談社選書メチエ353 喧嘩両成敗の誕生』(講談社、2006年02月。1,575円)をどうぞ。



7月15日
嵐山の櫟谷宗像神社に行きました。

櫟谷社と宗像社がどのような形態で祀られているのか見るためでしたが、雨が激しく降っていたので「なんだ、春日造か」とブツクサいって、賽銭も入れず拝みもしないで帰ろうとした矢先、雨に濡れた石段で滑って下まで勢いよく転落。両腕と右腰をしこたま打ったのでした。

たたりじゃ〜 ガクガク(((( ;゚Д゚))))ブルブル 



7月10日
本屋に行って平凡社東洋文庫のコーナーをみると、『択里志』(平凡社、2006年6月。3,100円、写真)が新刊で売っていました。

これは『朝鮮群書大系』13(朝鮮古書刊行会、1910年)では『八域誌』という書名ですが、李氏朝鮮の地誌・地勢書として比較的著名です。現代語訳が中心ですが、原文・索引付で参照に極めて便利なものとなっています。

この『択里志』が現代語訳されたのですから、次は『新増東国輿地勝覧』だ〜。ヾ(^O^ )ノ

無理かな?



7月6日
本日は第2土曜日で、京博の常設展は無料です。

ついでに近くの智積院の庭園を満悦。

近隣の寺を廻っていると高台寺の円徳院が公開中とのこと。

さればと入ってみると、建築物はかなりどーでもよく、長谷川等伯筆という障壁画もイマイチ。さっさと帰ろうかと、帰り道の順路探していると庭園への順路を示す看板が…。

「庭みてさっさと帰るか〜」

と庭園に行って仰天!


桃山風の雄大な庭園で、豪快な石橋をアクセントとした池泉回遊式の枯山水で、素晴らしいものでした。

残念なことは、シダ植物のようなものが点在していたため若干意匠がそがれていたことです。また背後の植木はもとからあったものかはわかりません。もともとは無く、借景式だったかもしれません。


さて、この庭園は何物で、近世の様相はどうであったのかと思い、近世京都の庭園案内書『都林泉名勝図絵』(上下2冊、講談社、1999・2000年。900〜960円。写真)で調べてみましたが、高台寺の塔頭に関する記載はなく、他の史料にも庭園についてはよくわかりませんでした。


それにしてもカメラを持っていかなかったことは、残念でなりません。



7月2日
自転車のサドルが壊れてしまいました。

先輩にいただいた自転車はいろんなところにガタがきてます。

どうせなので一気に修理してしまえ、とばかり自転車屋へ。

私「すいません。自転車直して欲しいんですけど…」
店の人「ほぉ、サドルですか」
私「あとランプの電球もなんです」
店「前ブレーキもガタきてんね」
私「あと駕篭もなんです」
店「合わせたら結構値はりますよ」
私「あと後ろブレーキもなんです…」
店「…お客さん、新しいの購うた方が安いでっせ!」


というわけで自転車を新調することになりました。

店の人は
「こんなに長い間乗って貰ろうて自転車も幸せですわ」
と感激してました。





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