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知人の個展「杉山雅之展ー視線の破片ー」に行ってきました。
ギャラリー16で7月7日(土)まで開催されています。場所は細身美術館の南、みやこメッセの西側で、入場無料です。
パンチングメタル(鉄)という、穴のあいた鉄板を箱状に溶接して塗装した作品が展示されています。隣にいたおじさんはきわめて熱心に観ていましたが、芸術オンチの私は「わけがわからんぞぉ〜」と思いながら観ていました。
そぉいえば、昔読んだ細野不二彦『ギャラリー・フェイク』(何巻かは忘れてしまった)というまんがで、主人公のフジタが鉄のオブジェをつくっている芸術家に対して「そんなわけのわからんものをつくっていないで、金になる仕事をしろ」(だったかな?)といっていたシーンがありましたが、何故かその時ふと思い出しました。
隣にいたおじさんのような、みる人がみればわかるんでしょうけど…。
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最近、電車の中で哲学の本を読むことが多いのです。
何故かというと、さっぱり理解ができないので、読んでいるとものの数分で寝られるからです。(爆!)
前に読んでいたウェーバー(1864〜1920)の「文化科学の論理学の領域における批判的研究」(森岡弘通訳『歴史は科学か』〈みすず書房、1965年9月〉所収)も本文は100頁ほどですが、それでも読み終わるまで1週間もかかってしまいました。
(↑読んでいるうちに眠っちゃうから)
さて、今はベルクソン著・真方敬道訳『創造的進化』(岩波文庫、1979年7月第1版、2005年11月第22版)を読んでいます。
本書はフランスの哲学者ベルクソン(1859〜1914)の代表作で、エラン・ヴィタル(l`eran vital)という「生命のはずみ」と訳される概念を提唱しているのですが、この概念はあまりにも難解で、母国フランス人にとっても神秘的な難しさがあるとされ、これを教義とする新興宗教まで存在するとか。
まさに読んで眠るのに相応しい(?)本です。
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22日に上司が焼き肉をおごってくれた理由は、その焼き肉屋さんは開店セールで生ビール1杯100円だったからだそうです。しかし上司の奥さんはお酒を飲まれないので、ご自分一人で呑まれるのは家族の手前気が引けるため、私を呼んだようです。
当日は上司と私の二人で、会話とお酒がすすみましたが、と〜ぜん二日酔いになりました。
上司「二日酔いになったやろ?」
私「はい。ちとしんどいかったですねぇ〜」
上司「そりゃそ〜だ。二人で19杯呑んだんだからな」
今回は1杯100円でしたけど、次から二度とおごってくれなさそうです。
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またまた恩師と後輩Sの3人で奈良県に行って来ました。目的地は補厳寺と崇神天皇陵と長岳寺と大和神社です。
長岳寺の見学(境内自体は見ず、周囲だけ)終了後、いつも通り後輩Sの運転とカーナビの案内で大和神社に向っていましたが、細〜い脇道を1qほど行った途中、謎の建造物が…。
最初、五重塔か何かの心柱だけが残ったものだと思っていましたが、これは長岳寺境内飛地に位置する「五智堂」という鎌倉時代末期の建造物で、重要文化財だそうです。
左の写真ではみえませんが、梵字で大日如来・阿弥陀如来・薬師如来・釈迦如来が刻まれています。恩師は「五智堂というよりは、四面堂では?」と仰っていました。
思わぬところにこのようなものがあったので、3人ともびっくりしてました。ヽ(^◇^*)/
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上司およびその家族と焼き肉しました。
娘さん達(5歳と2歳)は最初なつかなかったのですが、可哀想に思ったのか、最後には一緒に遊んでくれるようになりました。
…あれっ!?
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『図説 園部の歴史』(園部町・園部町教育委員会)がでました。
なんと豪華オール天然色なのに3,500円です!
南丹市立文化博物館で購入できるんだそうです。| *゚ー゚)。
夜は恩師と上司の3人で飲み会でしたが、白熱した議論となりました。
(↑翌日もちろん二日酔い)
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先日、京都コンサートホールのHPをみていると、16日(今日ですな)18:00から第46回同立交歓演奏会が開演され、演目はブラームス交響曲第2番、ベートーヴェン交響曲第5番「運命」、ブラームス大学祝典序曲を演奏し、入場料は一人1,000円とありました。ブラームス大好きの私はもちろん行ってきました。
「同立交歓演奏会」とは同志社大学と立教大学の両交響楽団の演奏会のことであるらしく、多くの観客が来てました。指揮は橘直貴さんと金洪才さんで、ブラ2は立教大学と橘さん、運命は同志社大学と金さん、大学祝典序曲は両大学と金さんでした。
最後の大学祝典序曲はもともと楽器編成は大きいのですが、両大学混合だとさらに大人数にみえます。「これだとワーグナーやブルックナーでも演奏できたんでないかな〜」と思っていたので、アンコール曲でワーグナーの「パルジファル」より「聖金曜日の奇跡」(…だと思う)を演奏したとたん、危うく吹き出しそうになりました。
雰囲気もよく、楽しい演奏会でした。
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出雲2日目は出雲市多久谷町にある別所神社(写真)に行って来ました。
別所神社は後輩Sが地図よりみつけた(!)小社ですが、境内に中世のものとおぼしき五輪塔があり、中世より 何らかの形で存在し続けて来たことは間違いないようです。
さて、私はこの旅行で5月17日に自動車運転免許を取得して以来、はじめて車の運転をしました。しかし恩師は高速道路以外の運転を許可されなかったので、未だに高速道路以外で運転したことはありません。
一般道路を走ることが出来るのはいつのことになるのやら…。(゚〜゚;)ノ
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夜、宿泊先にT氏が来訪されました。
出雲在住のT氏に直前に連絡をとっていたのですが、仕事が終了してお疲れのところ、わざわざ来訪されました。お疲れだったのでしょうが、恩師と私はそんなことお構いなく、T氏に質問攻めにしていました(爆!)。私もT氏との会話の中に色々と示唆を得るところが大きかったので、今回の旅での思わぬ収穫でした!
さてT氏より『鬼の源流』(島根県立八雲立つ風土記の丘、2006年7月)を頂きました。鬼はこれまで文献・民俗学的に研究されてきましたが、考古学的視点にたって研究されたものは少なかったのです。本書は鬼を考古学的視点にたって総合的に著述した希有なものです。
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休みをとって、一泊で出雲に行って来ました。
恩師・私・後輩Sの3人で行ってきたのですが、相も変わらず、運転の大半は後輩Sがしていました。
しかのみならず、行程の決定、宿泊の手配・調整、レジュメ作成の大半を後輩Sが行なっていたので、私は何もせずただ旅を楽しむことだけに専念できました。後輩Sには感謝に堪えません!ε=ε=*゚ー゚)っ
実際には若干のハプニングがあって、後輩Sの行程の大半は残念ながら省かれてしまいましたが、1日目は島根県立古代出雲歴史博物館、出雲大社、日御碕神社に行ってきました。
写真は日御碕神社の楼門。
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朝、出勤しようとアパートの自転車置き場を見てみると、私の自転車のサドルがない!
誰かに盗られたんでしょうけど、これだけ盗んでどぉ〜するんでしょうか?
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恩師と後輩Sの3人で籠神社(宮津市)・廃寺普甲寺(宮津市)・多久神社(京丹後市)に行ってきました。恩師の車で行ったのですが、道程の大半は後輩Sが運転していました。私はというと、助手席で船を漕いでいるだけでした。○o。(-。-,,)~"
普甲寺は既に廃寺となった別所ですが、ここで寛印が迎講を胎動させ、数多の学僧が写経事業に精魂を傾け、五山禅僧が詩文に酔い、守護大名の一色家がその敵との間に熾烈な合戦を行なった舞台なのです。
今はその面影はほとんどありませんが、夕日に映る初夏の山々と、天空にそびえ立つ普甲寺の棚田との対比は絶妙に美しいものです。
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運転免許とやらを取得しました。
近所の太秦自動車学校にかよってました。妹が「ミッションにしろ」といったので、ミッションにしましたが、難しいこと!
あまりに難しいので「安心パック」という何度補習受けても、一額払っておけばお金がいらない、つまり下手クソ専用パックを採用しましたが、もとがとれてしまった(!)
まぁ、なんとか1ヶ月ほどでとれました。
合格したことを実家に伝えようと電話してみると、母が電話に出ましたが、妹が娘(7ヶ月)を連れて遊びに来ていたようです。
私「免許受かったさ」
母「あら、受かったの。受かったてさ」
妹「へぇ、受かったんだ。」
電話の向こうで妹の声がします。
妹「受かったんだってさ〜」
誰に言ってるの?
妹「受かったんだって〜。受かったんだって〜」
めい「…」
妹「あら、おめでとうなの?」
めい「…」
妹「おめでとうなんだ〜」
めい「…」
妹「おめでとうだって〜」
母「おめでとうだってさ」
私「…そりゃど〜も」
写真は長岡の運転試験場。
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京都国立博物館の特別展「藤原道長」展に行ってきました。
素晴らしかったです!
とくによかったのが、常設展示での西大寺の「十二天像」や、雪舟「四季山水図巻」、狩野山雪「雪汀水禽図屏風」、伝牧渓「遠浦帰帆図」で、この4作品には思い入れがあることもあるのですが、やはり京博の常展は凄いな〜と思った次第です。
…えっ、特別展?
常設が凄すぎて覚えてません。( -д-)
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お知り合いから本を頂きました。
坂江渉編著『風土記からみる古代の播磨』(神戸新聞総合出版センター、2007年3月)です。
送り主さまはその中で何本か書いてらっしゃるのですが、この本は兵庫県内くらいでしか販売されていないようなので、ありがたいことです。
中身は難しすぎず、砕けすぎずのバランスがとれた好著です。
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岩波文庫の『ローマ建国史』上(岩波書店、2007年4月)を購入しました。
リィヴィウスの『ローマ史』の翻訳です。
この本の翻訳が出るとは思っていなかったので、朗報です!
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今宮神社(写真左)ではやすらい祭をやっています。
このやすらい祭とは、なんと
京都三大奇祭の一つ
なのです!
さっそく祭の内容についてレポートを!
といいたいところですが、ネットに6時〜6時半に終了とあったので、その時刻にいったみると「3時」とあるではないですか〜!
というわけで、無駄足の報告でした。 ヒイィィィ!!(゚ロ゚ノ)ノ
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続けて鶴林寺に行ってきました。
そーいえば恩師にはある特技があります。
それは『阿弥陀経』を暗誦することができるのです。
この特技はとても便利で、お寺の信仰や伝統に敬意を示すためお経を唱えることができるので、お寺では喜ばれるのです。
ここまでは美談。
ただ一つ問題が…。
恩師はご本尊がなんであろうと、必ず『阿弥陀経』を唱えるのです。『阿弥陀経』の後には「な〜むあ〜みだ〜」と続くため、薬師如来や大日如来などの前で「な〜むあ〜みだ〜(南無阿弥陀仏、つまり「阿弥陀仏に帰依します」の意)」と唱えるのです。今日訪れた鶴林寺本堂(写真左)に安置される本尊・薬師如来の前でも勿論「な〜むあ〜みだ〜」。
これって、ご本尊に喧嘩売ってる?
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恩師と後輩O、後輩Sの4人で浄土寺に行ってきました。
写真左は阿弥陀堂です。
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あさって5日は冬至からちょうど105日目にあたります。
この日を中国では「寒食」といったそうです。
寒食について、中国魏晋南北朝時代の年中行事書である『荊楚歳時記』(二月、寒食)に次のようにあります。
暦によると清明の2日前になる。また冬至から106日目である。介子推が3月5日に焚死した。(そのため)国の人はこれを哀しんで、毎歳春の暮れに火をつかわなかった。これを「禁煙」という。これを守らなかった者は雨雹が田を傷つける。(宗懍撰/守屋美都雄訳注他『荊楚歳時記』(平凡社、1978年2月、303頁)97〜98頁の書き下し文を現代語訳した)
このように、寒食の日は火使わないという風習があったそうです。介子推とは中国春秋時代の晋の文公に仕えた人ですが、彼の焚死は漢代以降に成立した説話らしいので、寒食と介子推焚死説話は直接的関係はないそうです。寒食の「禁煙」の淵源というのは、古い火を消して新しい火をつけることにあり、冬至と関係する点でフレイザー『金枝篇』で述べられる「復活の火」に類似した風習(フレイザー著/永橋卓介訳『金枝篇』4〈岩波文庫、1951年11月〉295〜299頁参照)のようです。寒食は中国唐代に盛行し、火を使わないほか、先祖の墓参も行っていました。日本にもその風習の存在自体は唐から伝えられていましたが、結局根付かなかったようで、その要因を古代日本人の火に対する穢感、および先祖墓参意識の希薄さにもとめる説があります(劉暁峰「寒食不入日本考」)。
寒食の期間についてさまざまな説があり、一定をみませんが、現在中国では清明節を毎年4月4日から6日の3日間とし、寒食はその1・2日後にあたるとするそうです。つまり今日(2日)から寒食となることになりますが、単に「冬至より105日後」というのを重視すれば5日になります。
しかし「火」を使わない、というのはなかなか理解し難いことで、単に火を使わないということなのか、あるいは火を通した食事をしないということなのかわかりません。「火を通した食事をしない」ということになると、サラダや刺身・干物といった料理しか思い浮かばない私には困りものです。寒食を行わなかった者は「雨雹が田を傷つける」そうですが、むしろ現在では黄砂の方が深刻であるといえそうです。
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花色づき、草虫馳せる季節です。そのような季節には庭園にいって四季を楽しむのも一興でしょう。
というわけで等持院に行って来ました。
等持院といえば借景式の庭園が有名です。
…借景?
@江戸時代(1799)の等持院の庭園(before)
(『都林泉名勝図絵』下〈講談社学術文庫、2000年5月。960円〉113頁より転載)
A本日の等持院の庭園(after)
…借景の山がないっっ!!
ガビ━━━━━━━ヽ) ゚●゚ (ノ━━━━━━━ン!!
借景の衣笠山がコンクリート建造物にとって換わられているのです。建てる時に問題にならなかったんですかねぇ〜。
まぁコンクリートこそが現在における自然風景であるというのでしたら、それはそれでありなのかもしれませんが…。
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京都の桜が見頃になってきました。
写真は今朝、出勤途中に撮った広隆寺の桜。
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何必醇他著/原田信男校註『料理百珍集(生活の古典双書23)』(八坂書房、1980年9月、268頁)を日本の古本屋で入手しました。本書は絶版となっていますが、新装版として復刊されています。
この本は江戸時代中・後期に出版された「百珍もの」といわれた料理書「豆腐百珍」・「豆腐百珍続篇」・「豆腐百珍余録(豆華集)」・「鯛百珍料理秘密箱」・「万宝料理秘密箱」(前篇・抄)・「柚珍秘密箱」・「甘藷百珍」・「海鰻百珍」・「蒟蒻百珍」の9書を翻刻・集成して復刻したものです。「百珍もの」とは江戸時代中・後期に出版された一つ素材の料理法を百通り簡潔に記したもので、本書では豆腐・鯛・卵・ゆず・さつまいも・ハモ・こんにゃくといった各素材について、それぞれおよそ100種類、計840種もの料理法を記載しています。
豆腐や卵・こんにゃくの料理法を100通りも記され、いづれも比較的安価な食材なのである、ということは『料理百珍集』のレシピの通りに毎日料理すると経済的にお得なのではないか、と思い購入したのです。しかし実際にはあまりに簡潔に記されすぎて、さっぱりわかりません。例えば「雪花(から)菜を熬(に)る烹調(かげん)にて」といわれても、「雪花菜」が何だかわからないため、それを煮る加減というのは一体どの位の加減なのか、その時点で挫折していまうのです。また別の食材・調味料を入れる際に、どれだけ入れればよいか等は書かれていないので、購入してそれを一つ作るにしても、厖大な手間と調査が必要なようです。(∵)ホエー
それにしても、豆腐やこんにゃくは健康によく、ダイエットになるので毎日食べても問題ないでしょうが、鯛・ハモは素材そのものが高値なうえ、そのような健康的に高リスクである食材を毎日食べるなんて「通風になりたい」といっているものではないでしょうか?
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回転寿司に行ってきました。
食べ終わって店員さんを呼んで、会計して貰いました。
店員「お寿司が合計38皿でよろしいですね。」
私「!!?」
店員「?…、あっ、し、失礼しました!」
どこをどう間違えて38皿になるのでしょうか?
それとも38皿も食べられる大喰らいに見えたのでしょうか。(´・ω・`)ショボーン
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昨年の9月18日条で「長年探し求めている」と書いた葛洪撰/本田濟訳注『抱朴子』外篇(東洋文庫525・526、平凡社、1990年)を「日本の古本屋」を通じてようやく入手できました。(・_・
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電車で読む本がなくなったので、職場に出入りしている本屋さんから中川孝編訳『六祖壇経』(たちばな出版、1995年10月。369頁)を注文。注文してから入手までわずかに5日でした。しかし比較的厚い本にもかかわらず、現代語訳・訓読文・原文・註と丁寧な本であったため、読み終わるまで3時間もかかりませんでした。
『六祖壇経』は中国唐代の禅僧慧能(638〜713)の言行録ですが、知人Eは慧能は唐臼を踏んでいる時に悟ったといってましたが、これを読むと慧能は師弘忍が金剛経を読むのを聞いて悟ったとありました。知人Eが白隠の六祖図で混同したのかもしれません。
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せっかくの休日ですが、風邪をひいたようです。
ちょっと頭が痛い(;-_-) =3
私は風邪をひく度に、佐藤仁編訳『朱子行状(中国古典新書)』(明徳出版社、1969年6月)を読んでいます。この本は何年か前、古本で1冊100円で売っていたので、同じ中国古典新書シリーズの何冊かと一緒に購入したものです。
最初読んだときはとくに感想はなく、感想がないというよりはむしろ何となく不快な思いをさせられたという方が近かったのかも知れません。二度と読むことはないと思ってましたが、風邪をひくと何となく眼につくので、読むことが多くなりました。そのうち、
@風邪をひく、A寝る、B暇、Cふとみると眼につく、D読む
の繰り替えしで読んでいくうちに、今まで鼻についていた部分が、共感へと変っていった(ような気がする)のです。風邪をひくのは1年に何回もあるわけではないので、その間の自身の心境の変化というのを推し量る上で、読むのが楽しみな本です。
といっても1年に何回も読むのではないだけど…。
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恩師と後輩O、後輩Sの4人で南山城のお寺を調査しました。
近くに来たついでで浄瑠璃寺に行ってきました。
本堂(写真左)を拝観する時、恩師が「寒い(のは嫌だ)から、君らだけでいってきなさい」と仰るので、3人で拝観することになりました。室内がそんなに寒いのかな〜と思っていましたが、本当に寒いっ!゚●゚!
あまりの寒さに何かいるのではないかと思った程です。
(↑阿弥陀仏が九体もいる)
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たまたまネットで朝鮮日報をみると、
「【スクープ】韓国木版印刷物は世界最古じゃなかった!?」
とありました。
それによると、世界最古の木版印刷物とされる「無垢浄光大陀羅尼経」が新羅時代(8世紀から751年以前)のものではなく、高麗初期(11世紀前半)のものであるとのこと。
「無垢浄光大陀羅尼経」は当サイト内の本朝寺塔記「仏国寺(多宝塔と釈迦塔)」にて『無垢陀羅尼経』として紹介した通り、1966年9月の仏国寺釈迦塔舎利具盗難未遂事件の際に釈迦塔が解体された時発見されたものです。今回のスクープというのは、それとともに発見された修理記録「釈迦塔重修記」が最近判読され、「無垢浄光大陀羅尼経」が11世紀に作られたことを証明する内容が記録されていたそうです。これによって世界最古の現存木版印刷物は、日本で天平宝字8年(764)に恵美押勝の乱後の鎮魂のため称徳天皇が発願した百万塔陀羅尼となることになります。
「最近判読」、…って漢文も読めないのか!と一瞬思いましたが、110枚の紙辺に分裂していたそうで、復元が困難な状況だったようです。また画像をみるとどうやら漢文ではなく、「白紙墨字大方広仏華厳経写経跋文」のように、吏読(ハングル以前の漢字による朝鮮語表記法。万葉仮名や宣命体みたいなもの)で記されているようです。
時代がいつかくらいは紙質などでわかりそうな気もするのですが、現存する新羅時代の文書で、年代がはっきりするのは、「佐波理加盤附属新羅文書」(正倉院蔵、752年頃)、「色毛氈貼布記」(正倉院蔵、752年頃)、「白紙墨字大方広仏華厳経写経跋文」(竜仁湖巌美術館蔵、755年)、「新羅村落帳籍」(正倉院蔵、755)、「元和帖」(鮎貝房之進氏旧蔵、818年)位なもので、比較対照とするにはあまりにも残存数が少ないのです。
「無垢浄光大陀羅尼経」が現存最古の木版印刷物でなくなるということは、海印寺蔵の高麗版大蔵経(13世紀)、現存最古の金属活字印刷物である「白雲和尚抄録仏祖直指心体要」(1377年頃)といった、朝鮮半島が前近代における印刷の先進を示していたこと証明するとされた遺物が、印刷技術史より消滅(実物が消えるわけではない)することになり、韓国人には歯がゆい自体でしょう。
なお記録の上では、『皇龍寺刹柱本記』(868)に『無垢浄光大陀羅尼経』にしたがって小石塔99躯を安置し、その小石塔ごとに舎利1枚・陀羅尼4種・経1巻・舎利1具を納めたことが記されているので、大量(99躯)にある小石塔に陀羅尼4種を納入するとすれば、自然木版印刷になるような気もしないでもないので、“「無垢浄光大陀羅尼経」が新羅のものではない=新羅には木版印刷がない”という証明にはならないのです。
ともあれ、これまで判読されなかった「釈迦塔重修記」によって、世界史の観念が一変する可能性が出てくるのですから、やはり文献史学の妙はここにあるといってよいでしょう。印刷技術史を証明する一遺物の位置づけが下がったことは残念なことではありますが、もっとも李基白編著『韓国上代古文書資料集成』(一志社、1987年1月)によると、高麗時代の文書も146通しかないのというので、それが1つ増えただけでも喜ぶべき事なのかも知れません。
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今日、飲み会が京都駅付近の京すいしんにてありました。7時集合だったのですが、一時間ほど早く来てしまったので、美術館「えき」KYOTOの展覧会「ヘミングウェイが愛した街 1920年代の巴里の画家たち展」を観に行って来ました。
ざっと見ただけなので特に印象はなかったのですが、ギゼの「モンマルトルからのパリの眺め」は露骨に透視図法を用いているので笑えます。あとヴラマンクはさすが!といったところです。
ヘミングウェイ?あったっけ?
最初の方に本などがちょこっと展示されていた位でしたかねぇ〜。
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京都府立総合資料館に行ったついでに、同館2F展示室で催されている企画展「先人達の京都研究」をみてきました。入場は無料です。
「集古図」や裏松固禅(1736〜1804)自筆本「内裏考証図」など、近世の京都(丹波・丹後も含む)研究に関する優れた資料が多数展示されています。
このたびの展示ではじめて『丹波負笈録』と『丹波志桑船記』の存在を知ったのですが、丹波にも多くの研究があることを改めて実感しました。
またとない展覧会でしょう。
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友人Nと後輩Mの三人で食事をしました。
食べ放題だったのですが、店員が注文したものをよく間違えること!
「食べ放題だからいいや」と最初は全く気にしていませんでしたが、これがジャブのように序々に効いてくるのです。帰り際には三人とも「苦しい」と連呼し、お腹は妊婦さんのように大きくなっていました。(゚Д゚;)
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近年、日本語が乱れているとよくいいます。
私もその代表格といわれる「ら抜き言葉」によってよく年長者に怒られたものですが、「ら抜き言葉」も標準語において可能・受身・自発・尊敬を表わす「られる」語形との区別(これは戦後文部省の指導によって規定された)との解釈があるようなので、発展的に考えると決して間違っているとはいえないそうです。
今月、岩波文庫で鈴木大拙編校『盤珪禅師語録』(岩波文庫、1941年9月)が再版されました。『盤珪禅師語録』は盤珪永琢(ばんけいようたく、1622〜93)の語録です。盤珪永琢は江戸時代初期の臨済宗の禅僧で、一般民衆に平易な日本語で語りかけて教化しました。白隠(1685〜1768)が絵で一般民衆を教化したのと、ひとつの対照を示しています。
その中で、短気が直らないという僧に対して盤珪永琢が「そなたはおもしろいものを生まれ附れ(い)たの。今も爰にたん気がござるか。あらば只今爰へおだしやれ。なをしてしんじやうわひの」いう場面(9頁)がありますが、現代語仮名遣いにすると、
「そなたはおもしろいものを生まれついたの。今もここにたん気がござるか。あらば只今ここへおだしやれ。なおしてしんじようわいの」
となり、現在でも十分意味が通る言葉となっていますが、「ござる」「しんじよう」は現代日本語では誤りとなってしまいます。
過去に「正しい」とされた日本語だからといって、現在に通用するともかぎらないことは、『倭名類聚抄』・『日葡辞書』をみても明らかです。逆に現在「正しい」とされる日本語ですら、未来にどのようになっているかわからないものです。
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またまた、何かをググって出たのか忘れましたが、「話題のナレッジベース」にて、「キリストの墓」が発見されたとの記事が。
…あんれ、キリストの墓ってエルサレムの聖墳墓教会でなかったベか?
記事を要約すると、1980年にイスラエルのタルピオットで発見された骨壷の中に、イエス、マリア、マタイ、ヨゼフ、マグダラのマリア、「イエスの息子、ユダ」という銘が刻まれていたということだそうで。
今月19日に友人Nと友人Yと飲み会をした時(2月19日条参照)、友人Yがようやくユダの福音書(2006年のだいあり〜(下半期)〜の11月29日条参照)を立ち読みで読んだという話となりましたが(友人Yはユダの福音書を典型的なグノーシス派だとか何とか云々といっていました)、今回のニュースはその矢先なので、我ら友人達の飲み会には何か不思議な因縁があると思った次第です。
しかし、タルピオットの骨壷は、重要人物が惜しげもなく出てくるので、専門でない私でも、何か「胡散臭さ」を感じざるを得ません。
似たような話として、天台宗の円仁(794〜864)は没した後に天梯尾の中岳に葬られ、現在も慈覚大師廟があるのですが、伝説によれば山形県の立石寺にも墓があるといい、昭和23年(1948)に遺骨と木造頭部彫刻が発見されたことがあります。いまだに立石寺のそれが実際に円仁のものなのかどうかは異論が多いのですが、日蓮の「慈覚大師事」(1280)に「御頭は出羽の国立石寺に有り云云」とあるので、中世までには相当有名な話であったようです。円仁には東北巡錫伝説があり、実際弟子の安慧(795〜868)は出羽講師となって天台宗を布教していったので、墓の伝説が形成される余地があったのです。
これからみてみれば、タルピオットの骨壷が実際にキリストの墓かどうかということよりも、むしろタルピオットの骨壷の存在によって初期キリストがいかなる形態にて、いかにして伝播していったかということの方が明らかになる可能性が高そうです。
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東京大学史料編纂所のHPによると、同所が耐震性能を満たしていないため、3月16日(金)をもって図書閲覧室が「当分の間、完全に閉室」となるらしいのです。それと複製・複写関係の閲覧申請の受付は3月9日(金)到着分で締め切るというのです。
ナニソレ、聞いてないヨ。ヽ(゚皿゚;)ノ
日本史関係史料の研究・編纂と出版を目的とする東京大学附置研究所という位置づけではありますが、架蔵される影写本群と所蔵される史料によって、日本史史料レファレンスにおける事実上の中心地なのです。
すなわち、おおげさにいえば、
東京大学史料編纂所の閉鎖=日本史の研究の停滞
という図式がなりたつのです。
ただし、これを機に影写本と謄写本の全冊デジタル画像による閲覧を行おうとしているようなので、決して日本史の研究の停滞を目論んでいるわけではないようです(たぶん編纂所図書閲覧室だけの閲覧だとは思うけど…)。
そぉいえば、今日の東京大学史料編纂所HPはやたら重かったような…。
まだみていない史料を駈け込み閲覧申請をしようと、大勢の研究者が同HPに殺到しているのかもしれません。
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夕方ふと窓の外をみると、もう梅の花が咲いています。
月の耀くは晴れたる雪の如し
梅花は照れる星に似たり
憐れぶベし 金鏡の転きて
庭上に玉房の馨れることを
(『菅家文草』巻第一、詩一)
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かなり激しい二日酔いです。
昨日、友人Nと友人Yと飲み会をしました。
私は三ヶ月ぶりに久しい友人と飲んだということもありましたが、夜中に家に帰ったときはそんなに酔っている気はしませんでした。
がぁ、朝になるとものすごい二日酔いです。
せっかくの休みだったのですが、一日中トイレと布団を行き来していただけでした。
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職場でたまたまフランス料理のマナーについての会話になったとき、Z氏は以前に友人とともにフランス料理のフルコースを食べたという話をしていました。その時にZ氏は、
「目の前にあるナイフとフォークはどの順番で使えばいいか迷いますね」
とS氏に語りかけていました。
S氏には高校生の時にマナーを選択科目として習っていたらしく、
「確かに知らない人だったら迷うかもしれませんね」
とその煩多を思う出すように述べていました。
「そのようなときはどうすればいいか困りますよ」
とZ氏は肩を大きく反り返らせて諦観の表情をあらわしていたので、
マナーなんぞわかるはずもない私は何気なく、
「隣の人の真似をすればいいんじゃないですか?」
といったところ、Z氏はいかぶしそうに、
「…その隣がこちらの動きを見てるんだよ」
とあたかも自分の横の人がナイフとフォークを持って隣を見ながら困惑するような表情を浮かべる真似をしていました。
フランス料理を滅多に食べることのない人間にとって、そのマナーというのはひたすらに煩多に感じるものです。とはいえマナーは周囲の人を不快な思いにさせないよう、それぞれの文化的尺度で生み出されたものなのですから、おいそれと軽視することはできません。
昨年夏に亡くなった作家の吉村昭さんの『私の引き出し』(文春文庫、1996年5月)に収録される「自然であること」に、マナーに関する氏のエッセーがありますが、そこに、
「勝者である官軍の薩摩の武士が、江戸の町を闊歩する。或る料亭に入った薩摩の武士が、店の者に威張り散らしながら料理と酒を注文する。料理が並べられ、その中に丼に入った豆腐もある。
武士が、やおら豆腐を食べると、店の者は忍び笑いをする。それは食べるものではなく、料理を口にする前に箸をさしこむもので、店の者は食事作法を知らぬ田舎侍と陰口をたたいて冷笑をするのである。
なぜ、このようなシーンを記憶しているかというと、なんとなく不快な思いがしたからだ。
豆腐は食べるものであり、それを箸を清めるのに使うとは。そんな習わしが果してあったかどうか知らないが、もし事実だとしたらいやらしいし、それを食べた武士を蔑む方がおかしい。
その習わしを江戸の粋だというのかも知れないが、粋とは逆で、不粋だと思った。」(同書、262〜263頁)
とあるのをみて、私は氏の見解に賛同するあまり、大声で「然り!」と叫んでしまったことがあります。
中国、唐代に段成式(773〜835)によって撰された万般の怪事異聞を集録した『酉陽雑俎』続集巻四、貶誤にも、
「陸暢は、はじめ、董渓の令嬢を妻に迎えた。毎朝、女奴隷たちが、「イ」(水差しとそれに付随する盥)をささげてきた。銀のハコに藻豆(洗顔・手洗い用の一種の石鹸)を盛ってあった。陸は、つかい方を知らないまま、いつも水をかけてそれをのみこんだ。その朋輩が、質問した。
「君は、貴族の家の女婿になって、さぞ楽しい思いをしているだろう」
だが、陸は答えた。
「貴族の家の礼法は、非常につらいものがある。毎日、わたしに、からい「ショウ」(焼いた麦や米をついて粉状にしたもの)を食わせて耐えられないのだ」(今村与四郎訳『酉陽雑俎4(東洋文庫401)』〈平凡社、1981年9月〉181頁。一部難字をカタカナとし、難語に( )で註書した)
と、貴族の慣習を知らない人物の失敗を冷笑する記事があります。このあとにも同じく藻豆(洗顔・手洗い用の一種の石鹸)を食べて女奴隷に冷笑される成り上がり貴族の記事があるのですが、本来周囲の人を不快な思いにさせないためにあるマナーが、かえって当人を傷つけているのです。ただしこの根底には支配者と被支配者の構造逆転が底辺にあり、新たに被支配者となった者が、自身のプライド保持のため、マナーをもって己が心を満足たらしめるという構造となっていることが興味深いことです。それはすなわち本来ならば穏やかに口頭や慣習で伝えられてきたマナーが、新興者との差別化をはかる道具となっているということです(映画「タイタニック」でもそんなシーンがあった)。
江戸時代でも村の祭りにおいて、旧勢力の家系によって独占的に祭祀されていた宮座が、新興勢力によって祭祀権の拡大を求められ、それによって宮座組織は「左」「右」に再組織化されるものの、旧勢力と新興勢力との間で祭祀に関する対立が近代になるまで受け継がれていくという例もあります(肥後和男『宮座の研究』弘文堂書房、1941年8月)。
いつの時代も、勃興する新興勢力と、何とか面目を保とうとする旧勢力があるのですが、新興勢力は、金と権力で相手をねじ伏せようとし、旧勢力は慣例と儀礼であいてを屈服させようとします。マナーはその間にあって両者の間を平穏に保つ手段となっていますが、その悪用は、ただ使用者の品位を貶めるのみならず、マナー自体の存在価値を危うくしかねないものなのです。
マナーをさりげなく、美しくつかえるようになりたいものです。
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来週の報告の準備のため、Adobe Illustrator(アドビ イラストレーター)を使っていたのですが、ある図形をつくって画像表示しようと思っていたところ、その図形をかなりの数つくらなければ目的を達成し得ないことが判明。
最初はコピペでやっていたのですが、1時間ほどでようやく所定の半分と、全く埒があかないので、もっと簡単な方法がないかとぐぐっていたら、「アドビ イラストレーター講座/Illustrator イライラ・ストレス解消委員会」というサイト発見!
みると「直線ツール」なるものをつかえばよいと判明(この間わずか1分)したので、早速つかってみることに。
…ってぇ、
「直線ツール」がないぃ〜!!
ガ━━━━━━(゚д゚lll)━━━━━━ン
サイト内検索をかけてみると、「バージョン10から「直線ツール」も搭載されました」とあり、私が使っているのはバージョン8.0。
もとの黙阿弥…。
そういえば、Adobe(アドビ)のIllustrator(イラストレーター)にせよ、Photoshop(フォトショップ)にせよ、InDesign(インデザイン)にせよ、まったくヘルプの機能を果たしていないことには笑けます。とくにInDesign(インデザイン)は説明書自体が冗談かと思うほどブ厚いにもかかわらず、堂々巡りの果てには意味不明で、説明書としての役割を果たしていないです。それでもヘルプや説明書から丹念に操作方を読みとっていって使う人がいるのですから、驚くほかはありません。最初に読みとってネット上で報告した人には、未解読の古文書の読解か未解決の数式の証明のように、何らかの栄誉が与えられて然るべきではないでしょうか?
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日本の古本屋を通じてレーベヂェフ編/除村吉太郎訳『ロシヤ年代記』(弘文堂、1943年2月、874頁、写真)を入手しました。箱なしだったのでかなりの安価で入手できました。私は結構ロシアの歴史が好きで、古書市で目当ての本がない時にロシアの本ばかり買ってきたことがあった位です。逆にそんなことがあるので最近は古書市には行かないのですが…。
この『ロシヤ年代記』は古代ロシアの年代記である『原初年代記』『キエフ年代記』『ガリーチ・ヴォルイニ年代記』の三書を収録しており、とくに後者二書はほかに翻訳がないので貴重なのです。『原初年代記』はロシア最初の歴史書なので、「ロシアの『古事記』『日本書紀』」といえるかもしれません。
どうです?読みたくなるでしょう?(・ω・)
(↑なりません!)
同書の序によると「「ロシヤ年代記」は所謂古代スラヴ語で書かれているので、現代ロシヤ語きり知らない訳者には原本から直接に訳すことができなかった。そこで訳者が用いたテキストは現代語への抄訳書「古代ロシヤ年代記」(編輯者ヴェ・レーベヂェフ、翻訳者ヴェ・バノーフ、モスクワ-レニングラード「アカデミヤ」版、一九三六年)である。」(2〜3頁。当用漢字、現代語仮名遣いに直した)とあるように現代ロシア語で書かれた抄訳書を訳したものだそうです。翻訳者が「政治的に貴重な部分が省略してあるのは遺憾である」云々(3頁)といっているように、内容的にかなり端折っているようです。現在は『原初年代記』が完訳で出版されているので、『原初年代記』はそちらを参照した方がよいようですね。
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2月3日から体調がよくありません。
ところで一昨日(5日)訪れた質美八幡宮には、名もしれぬ摂末社がいくつも林立していました。扁額や標識がないので神社名がわかりません。すると恩師が突然戸を開けようとするではありませんか!
私「何してるんですか!?」
師「開けとるんや」
私「何故ですか?」
師「神社の名前わからへんから」
戸が開くと奥に新たなる戸が…。さらにガコガコと奥の戸を引っ張る恩師。
師「こっちは届かないな〜。おい、ここ引っ張れ」
私「引っ張れって…、バチあたりますよ」
師「あたらへん。むしろ神さんは感謝しとる」
私「本当ですか〜?」
師「田舎の神社でも訪れてくれてありがとうってな」
と非科学的な会話をしつつ、私も師の悪行に荷担していくのですが、奥の戸は固くてなかなか開きません。すると恩師は思いっきり戸を引っ張りました。すると戸は師の念にこたえて大きく開きました(→“壊した”ともいう)。残念ながら内部には鏡があるだけで、神社名がわかるようなものはありませんでした。恩師は「神社名がわかるようなものはないなぁ〜。こっちの神社はどうやろ?」と次々と摂末社の戸をご開帳(?)していきました。
結局摂末社の名前はわからなかったのですが、車の中で恩師と私は「体調が悪い〜」と弱っていました。
たたりじゃ〜 ガクガク(((( ;゚Д゚))))ブルブル (第2段!!)
ちなみに悪事に荷担しなかった後輩Oはピンピンとしてまし2月3日から体調がよくありません。
ところで一昨日(5日)訪れた質美八幡宮には、名もしれぬ摂末社がいくつも林立していました。扁額や標識がないので神社名がわかりません。すると恩師が突然戸を開けようとするではありませんか!
私「何してるんですか!?」
師「開けとるんや」
私「何故ですか?」
師「神社の名前わからへんから」
戸が開くと奥に新たなる戸が…。さらにガコガコと奥の戸を引っ張る恩師。
師「こっちは届かないな〜。おい、ここ引っ張れ」
私「引っ張れって…、バチあたりますよ」
師「あたらへん。むしろ神さんは感謝しとる」
私「本当ですか〜?」
師「田舎の神社でも訪れてくれてありがとうってな」
と非科学的な会話をしつつ、私も師の悪行に荷担していくのですが、奥の戸は固くてなかなか開きません。すると恩師は思いっきり戸を引っ張りました。すると戸は師の念にこたえて大きく開きました(→“壊した”ともいう)。残念ながら内部には鏡があるだけで、神社名がわかるようなものはありませんでした。恩師は「神社名がわかるようなものはないなぁ〜。こっちの神社はどうやろ?」と次々と摂末社の戸をご開帳(?)していきました。
結局摂末社の名前はわからなかったのですが、車の中で悪事に荷担しなかった後輩Oはピンピンとしてましたが、恩師と私は「体調が悪い〜」と弱っていました。
たたりじゃ〜 ガクガク(((( ;゚Д゚))))ブルブル
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恩師と後輩Oの3人で京丹波町の質美八幡宮に行ってきました。ここには「産子集会所」なる謎の建造物があるのです。
『京都の社寺建築(乙訓・北桑・南丹編)』(京都府文化財保護基金、1980年9月)202〜203頁によると、質美八幡宮の「産子集会所」は、もと神宮寺の本堂だった建物で、壁面・天井板は失われていますが、江戸時代初期の密教系本堂の様式を色濃く残しています。どハデな赤い鉄板葺の屋根は、茅葺を覆ったものです。明治の廃仏毀釈によって多くの神宮寺の建物が失われているため、丹波における貴重な神宮寺の建築例となります。
篠山の磯宮八幡宮、福知山の大原神社にも行ってきましたが、磯宮八幡宮の護摩堂、大原神社の産子集会所も神宮寺跡です。
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今日は節分です。
廬山寺では追儺の鬼法楽(鬼おどり)が行われているのでみてきました。
会場アナウンスでは「千年続く行事」云々といっていましたが、実は大正からのものだそうです。(。・x・)ゝ
とはいえ、京都市内で追儺の鬼法楽が行われてる例は他にないので縁起かつぎに行ってきた次第なのです。謎のインド踊りが前座としてあり、3時から4時半まで大変混雑する中を立ち放しだったので疲れました。
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今朝、京都は久しぶりの雪でした。
電車の中で高校生が「きれい!」とわめいていました。
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ヤコブス・デ・ウォラギネ著/前田敬作・今村孝訳『黄金伝説』1〜4(平凡社ライブラリー574・578・582・592、2006年5〜10月。1,900円)を購入しました。
この『黄金伝説』(1267年以前)とは13世紀後半にドミニコ会修道士ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230頃〜98)によって編纂されたキリスト教の聖人や殉教者の伝説集です。近年マグダラのマリア関連で何かと話題になる本です。以前に人文書院から出版されていましたが、絶版となっており入手困難でした。今回平凡社ライブラリーから再版され、名著が入手し易くなりました。『黄金伝説』編纂のやや後代にあたる日本の高僧伝『元亨釈書』30巻(1322)ですら現代語訳の完全なものはないのですから、出版社による再版の英断は評価すべきものがあります。
と、上で偉そうなことをいっていますが、(実は)本当は購入する気などさらさらなかったのです。先日、職場に出入りしている本屋さんに、平凡社ライブラリーで欲しい本を注文しようと思ったのですが、書名を失念。「そぉいや〜、平凡社ライブラリーで『黄金伝説』出てたなぁ〜」と、何の気無しに注文しました。本を注文したことすら忘れていた時、『黄金伝説』が本屋さんから届きましたが、本が4冊だったので嫌〜な予感が…。請求書をみて愕然!
1冊1,900円×4冊=7,600円!!
茫然自失としてしまいました。ヘ(゚∀゚ヘ)ポー!!
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妙心寺玉鳳院に行ってきました。
普段は参拝することができないようですが、今は特別拝観することができます。
案内のおばちゃんは開山堂の建立年代を室町時代といっていました。しかしみた感じでは江戸時代っぽかったので、あとで京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会、1983年)で調べてみると、明暦2年(1656)建立とあり、江戸時代のものだそうです。しかし建造物・庭園など細部にいたるまで近世京都の庭園案内書『都林泉名勝図絵』(1799)と全く変化していないことには驚かされます。
境内は撮影禁止なので写真はありません。写真左は玉鳳院入口。
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近年、市町村合併とともに多くの新しい地名が誕生し、同時に古い地名は埋没しつつあります。郡・市町村名ですらこの有様なのですから、大字・小字にいたってはその痕跡すら消えかかっています。しかしながら字名は歴史的にも極めて重要なものであり、歴史地理学ではかかせない存在なのです。特に小字名はその地域の歴史・風土・生活等の記憶の断片です。
かやぶき民家の山村集落で有名な美山町は、ユニークな小字名を多く残す地域となっています。『日本行政区画便覧』3(日本加除出版株式会社出版部編、1901年7月)よりいくつか紹介してみましょう。
@「ドンナ木」
どんな木?という疑問形の地名。
A「クリス」「ダン」
カタカナでみると外国人の名前のようですが、「栗栖」「段」です。
B「勘定ヶ本」
まるでお金にうるさい人が住んでいたかのようですが、実際には「勧請」のようで、神仏の分霊を請じ迎えてまつることをいいます。祭礼地域をさす地名のようです。
C「ムシュウ」
無臭! におわない! ということはその周囲は臭かったのかなぁ〜、と妄想してしまいますが、近くに「武州口」という地名があるため、「武州」なのでしょう。□△武蔵守とか武蔵介というような人が住んでいたのかもしれません。
D「七塚」
かつて柳田國男が『十三塚考』で明らかにした十三塚との関連がありそうです。十三塚には多くの場合、境界伝説・埋蔵金伝説といった民間伝承が付随しますが、この七塚ではどのようになっているのかわかりません。
E「天狗松伊助山ヨリ弥佐衛門山迫限」
かなり長い小字名(アルファベットでは42文字)です。今のところ日本で一番長い地名は「愛知県海部郡飛島村大字飛島新田字竹之郷ヨタレ南ノ割(あいちけんあまぐんとびしまむらおおあざとびしましんでんあざたけのごうよたれみなみのわり)」ということになっていますが、こちらは「京都府南丹市美山町字盛郷天狗松伊助山ヨリ弥佐衛門山迫限(きょうとふなんたんしみやまちょうあざもりさとてんぐまついすけやまよりよざえもんやまさこかぎり)」となり、「天〜(以下略)」のほうが長くなります。ということは確認され得る限り日本一長い地名ということになるかもしれません。地名の語原は四至(所領などの東西南北の四方の境界)のようです。
F「ゲド谷」
ゲド戦記と関連ありません。ゲドとは「外土」で、飛び地や遠隔地を意味します。
このように小字名には風土・生活等の記憶が多く含まれています。ちなみに私の出身地の北海道には何故か小字名はありません。
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私の学生時代に所属していた部活では、「演ずる」という性質のため、「序」「破」「急」が重要視されています。教える先生方も「能では〜」と常々仰っていた通り、「序」「破」「急」は本来的には能の用語なのです。しかしよく意味を詮索せず緩急をつける程度としか思っていなかったので、「序」「破」「急」の概念的本義を知りたくなりました。
能といえば世阿弥(1363〜1443)が多くの著述を残しており、世阿弥著/小西甚一編訳『世阿弥能楽論集』(たちばな出版、2004年8月。407頁。3,200円。写真左)に本文・現代語訳が収められており、購入してみました。その中で『風姿花伝』『花習』は「序」「破」「急」について記されています。双方とも、私が習った「序」「破」「急」の意味とは若干異なっており、とくに『花習』では「序」「破」「急」にも時宜があり、臨機応変の必要性を説いています。また『風姿花伝』は古典として権威付けのように引用されることが多いのですが、この『風姿花伝』が能のみならず他の芸道においても有用な書物であることを実感させられました。
さて本自体は「序」「破」「急」の概念的本義を知るために購入したものですが、訳者の現代語訳の平易さと巧みさには脱帽させられます。世阿弥の論書17部を収めていますが、世阿弥の次男が世阿弥より聞き書きした『申楽談義』は収められていません。『申楽談義』は能楽史において極めて重要な書なので、収録されなかったことは残念です。
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ふぐの子糠漬です。
ふぐの内蔵には猛毒のテトロドトキシンが含まれています。テトロドトキシンは経口摂取で青酸カリの850倍の毒性をもつという猛毒で、当然卵巣にも毒が含まれているのですが、石川県の伝統的な調理法であるふぐの子糠漬は、ふぐの卵巣を1年間塩漬けにした後に2〜3年糠漬にするという製法によって猛毒テトロドトキシンが消えるので、それを酒の肴等にするものです。しかし毒が消えるメカニズムはよくわかっていないので、製法はかえられないそうです。
そのふぐの子糠漬は珍味として有名で、私も食べてみたくなりネット販売で入手しました。
味はというと、前記の製造法のため、
とにかく塩っ辛い!!!
全部を一度に食べたら、毒はないとはいえ高血圧で健康を害してしまうかもしれません。
お茶漬けにもあうそうです。(*^0^) =3
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噂のマクドのメガマックとやらを食べてみました。
一見して大きさは普通のビックマックと変わらないようですが、自重で下部が沈んで潰れているのです。結局大きさは、増加した肉(ハンバーグ2個増)と自重で潰れ沈んだ分をあわせると±0で、変わらないのかもしれません。
しかし周囲の人がみんなメガマックを食べていたのには驚かされました。
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今日は京都国立博物館の特別展「京都御所障壁画」を見に行ってきました。
絵画はすべて幕末のもので、私の専門とは全く関係がないのでめぼしいと思うようなものはありませんでした。むしろ常設展会場でやっている新春特集陳列の「神仙図」「神像」「高台寺蒔絵と南蛮漆器」の方が面白かった位です。
住吉弘貫筆「朝賀図」をみてると、「どっかで見たような構図だなぁ〜」と思いましたが、思い出せません。よくみてみると烏形幡・日像幢・月像幢が描かれているので、即位・朝賀儀礼を研究している後輩Oのレジュメでみたということを思い出しました。そのレジュメは『古事類苑』(儀礼部だったかな?)から転載した線描画でしたが、後輩Oはその本画像が何であるか突き止められなかったのです。構図的には『古事類苑』の線描画は住吉弘貫筆「朝賀図」をもととした可能性がありそうです。私もまさか京都御所の障壁画だとは思わなかったので仰天しました。
あと後輩Oの同期である後輩Aが烏形幡・日像幢・月像幢の絵画資料を探していました。即位・朝賀儀礼で用いられる烏形幡・日像幢・月像幢は『続日本紀』『延喜式』に記述され、日像幢は正倉院に遺品らしきもの(日光形)がありますが、詳しいことはわかりません。藤原光忠が文安元年(1444)に書写した『文安御即位調度図』(『群書類従』第7輯〈続群書類従完成会、1932年10月〉105〜106頁)に図がありますが、どの天皇即位儀礼に用いたものか不明で、ましてや中世の図が古代の儀礼実態を示しているわけではありません。
どちらにせよ、近世末期に描かれた住吉弘貫筆「朝賀図」で二人の研究が進むというわけではなく、二人がその絵の存在を知ったところで、その研究の深化には関係がないといっちゃえそうです。
それに二人、今日論文提出日なんですよねぇ〜(;・・)/~~~
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今日は大雪でした。
一面雪化粧で、まるで北海道のようになっていました。
写真はかつて神護寺領吉富荘があった場所。
(↑つまり吉富)
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実家からダンボールで食料品が送られてきました。
その中に四角い緑色の怪しい物体が…。
一体これは何なのかと思い、臭いをかいでみましたが、冷凍されているので無臭。私の母は冷凍食品と一緒にパンツ(←凍ってる)を送ってくる人なので、生活用品であるのかと思いました。
ともすれば生活用品で、
@四角い
A緑色
B固い
の三つのキーワードに当てはまるものといえば、どぉ考えても「石鹸」しか思い浮かびません。
ということでお風呂にでも置いておこうと思いましたが、ダンボールの中に「それ」が5つも6つも入っているのです。いくらなんでも石鹸を沢山送ってくるはずもありません。再度ダンボールを捜索してみると、一枚の紙が出てきました。その紙には箇条書で「サケ切身 生 焼いて」「〆サンマ さしみでどうぞ」「ホタテ 焼く」と書いてあります。その一番下には…
・もち レンジで40秒
…餅だったんですねぇ〜。危うく餅で体を洗うところでした。
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あけましておめでとうございます。(*^ー^)/°:*【祝】*:
皆さんは年末年始をいかがお過ごしでしょうか?
私は昨日一年に一度しか聴かないベートーヴェンの第九を聴き、今朝は一年に一度しか聴かないJ.シュトラウス2世のワルツを聴いて過ごしていました。
今日は八坂神社(写真左)に初詣に行って来ましたが、非常に人が多くてとても疲れました。あと八坂神社に行ったついでに春日神社(近所の)・大酒神社・木嶋坐神社(蚕の社)・今宮神社(花園)・神輿岡神社(北野天満宮御旅所)・平野神社・北野天満宮・今宮神社(紫野)・下鴨神社・下御霊神社にも参拝してきました。
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