嘉祥寺



嘉祥寺(平成21年(2009)8月13日、管理人撮影)

 嘉祥寺(かじょうじ)は京都市伏見区深草坊町に位置(外部リンク)する天台宗の寺院です。嘉祥3年(850)に文徳天皇が父仁明天皇の陵墓に近接して建立された陵寺がはじまりです。文徳天皇は清涼殿を嘉祥寺に移して堂とし、後に光孝天皇が五重塔を建立しました。嘉祥寺からは貞観寺が分離し、その後嘉祥寺は貞観寺の影響下に入りました。その後仁和寺の末寺となり、中世に廃絶しました。現在の嘉祥寺は寛文2年(1662)に天台僧空心が再興したもので、本尊歓喜天は庶民の信仰を集めました。


仁明天皇陵と「陵寺」としての嘉祥寺

 嘉祥寺は文徳天皇が父仁明天皇の霊をたすけるために嘉祥3年(850)に建立したものであるという(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)

 仁明天皇は嘉祥3年(850)正月2日に病に倒れた(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年正月乙酉条)。天皇は幼少の頃から病に伏せがちであり、医者のすすめる薬も効かなかったから、自身で薬を調合して服用していた。当然医者は止めたが一定の効果があったらしく服用を続けていた。それらの薬の中には金液丹といった、仙術で不老不死のためとされる薬もあった(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年3月癸卯条)。これらの薬は水銀など猛毒の重金属を含む劇薬であり、闘病と劇薬が天皇の体を確実にむしばんでいったようである。仁明天皇は清凉殿を普段の座所としていたため、闘病生活を清凉殿で送っていた。同月20日に内宴(内裏の仁寿殿で文人を召して催す詩賦の宴)を行なったが、天皇は病床にあったため、内宴を行なう仁寿殿で行なう慣例通りには執行できず、清涼殿に御簾を垂らして内宴を行なった(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年正月己亥条)

 その後一時快復したらしいが、翌月の2月1日には再度病床に伏せり、皇太子(のち文徳天皇)は殿上に侍り、公卿もことごとく付き従った(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年二月庚戌朔条)。5日には病状が悪化し、皇太子および諸大臣を病床に呼び寄せて遺制を述べた(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年2月甲寅条)、翌日病気のため体力が低下する中、僧侶を御簾の中に入れて病床を廻って加持させた(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年2月乙卯条)。そのような中で19日には太皇大后(橘嘉智子、786〜850。仁明天皇の母)が天皇の病状を思うあまり数回悶絶し、自身も病に倒れてしまった(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年2月戊辰条)。さらに25日には同母姉妹にあたる秀子内親王も薨去してしまった(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年2月甲戌条)

 3月19日に天皇の残る時間はわずかであったためか、天皇は落飾して入道した。子の宗康親王(828〜68)・源多(831〜88) も出家した。病床の清涼殿では僧侶らによって七仏薬師法が修され、七仏像が描かれて御簾の前に掛けられた。七重輪灯を庭の中に立てた(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年3月丁酉条)

 3月21日、天皇は清涼殿で崩御した。41歳であった(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年3月己亥条)。22日には御葬司の任命があり(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年3月庚子条)、25日に山城国紀伊郡(京都伏見区)の深草山陵に葬られた。薄葬とするように遺言があったため、綾や錦の類はすべて紙や布で代用された。また鼓吹(楽器演奏)方相(大舎人が楯・桙をもって呪師に扮して目に見えない鬼を追い出すように行列・行進すること)も行なわなかった(『続日本後紀』巻20、嘉祥3年3月癸卯条)。奈良時代において盛大に行なわれた先帝の追善行事供養は、平安時代になると次第に規模を縮小していった。とくに顕著であったのは淳和天皇とその兄嵯峨天皇の薄葬であった。

 嵯峨天皇の子であった仁明天皇もまた薄葬とするよう遺勅し、また送終の礼(追善行事)も倹約するよう望んでいたが、実際には盛大に実施されていた。仁明天皇の追善行事供養は、子の文徳天皇によって行なわれた。仁明天皇在位中の承和の変において、皇太子恒明親王は廃嫡され、道康親王(のち文徳天皇)が擁立された。これを擁立したのは藤原良房であったが、以降藤原摂関家は勢力を拡大していくことになる。そのため文徳天皇即位後の仁明天皇追善行事供養は、藤原摂関家にとって勢力拡大の歴史的転換点とみなされるようになる。さらに生母藤原順子の影響下で、奈良時代に光明皇后によって確立された追善行事が復活し、盛大に営まれたと考えられている。

 嘉祥寺はこの仁明天皇陵の「陵寺」として嘉祥3年(850)に建立されたものである。「陵寺」とは、山陵に付属する寺院のことであり、山陵の追善儀礼が次第に仏教化するにつれ、墓辺の喪屋的建物が墓寺となったものをいう。奈良時代においては官大寺において天皇の追善が行なわれていたが、平安時代になると平安遷都による奈良の官大寺との隔絶によって、奈良の官大寺による追善法会は下火となった。さらに嵯峨・淳和天皇の薄葬を契機に、山陵の付近の寺院にて追善法会が行なわれるようになり、次の仁明天皇の追善法会は天皇が日常居住した清涼殿と、「陵寺」である嘉祥寺で行なわれるようになった。

 清涼殿は平安宮の紫宸殿の西北、仁寿殿の西にあり、中殿と呼ばれた。南北9間、東西2間で周囲に庇を廻らす。この清涼殿は仁寿殿の機能が分化されて成立したもので、その史料上の初出は弘仁4年(813)になってからのことであった。のちに天皇が普段から居住する建造物となったが、それが固定化されるのは宇多天皇からのことであり、それ以前に清涼殿を御在所としていたのは仁明天皇であった。仁明天皇は清涼殿で崩御したことは前述したが、嘉祥3年(850)5月9日に清涼殿を荘厳して金光明経・地蔵経それぞれ1部を安置し、また新たに地蔵菩薩像1体を造り、100僧を屈請し、仁明天皇の七七日御斎会(四十九日法会)が行なわれた(『日本文徳天皇実録』巻1、嘉祥3年5月丙戌条)。その後仁寿元年(851)2月13日に文徳天皇は清涼殿を移して嘉祥寺の堂としているが(『日本文徳天皇実録』巻3、仁寿元年2月丙辰条)、仁明天皇の御在所にして、追善法会の空間であった清涼殿を、そのまま陵墓に近接する陵寺に移転することによって、仁明天皇の日常が崩後も連続性をもって行なわれるよう配慮されたものかもしれない。

 仁明天皇が葬られた深草山は、長岡京や平安京に近接する地とみなされており、延暦11年(792)8月3日に山城国紀伊郡の深草山の西面に埋葬を禁止することが決められたが、その理由というのは「京城(長岡京)に近きによる」ためであった(『類聚國史』巻第79、禁制、延暦11年八月丙戌条)

 仁明天皇の深草山陵は貞観3年(861)6月17日に陵域が決められているが、東西は1町5段(150m)、南限は純子内親王冢(つか。山田1994では純子内親王の薨去が貞観5年のことであるから冢は不審とみて、家とする)地まで、北限が峰までであったという(『日本三代実録』巻5、貞観3年6月17日庚申条)。さらに貞観8年(866)12月22日には勅して深草山陵の四至を改定し、東は大墓に至るまで、南は純子内親王の北垣に至るまで、西は貞観寺の東垣に至るまで、北は谷に至るまでとされている(『日本三代実録』巻13、貞観8年12月22日癸巳条)。また延喜ゥ陵式の記載によると、兆域は東西1町5段(150m)と貞観3年の詔と同じであるが、南7段(70m)、北は2町(200m)で守戸として5烟が充てられた(『延喜式』巻第11、ゥ陵寮、陵墓、深草陵)。この四至は現在の地名に当てはめると、北限は深草真宗院山町の南の谷、南限は名神高速道路、東限は深草古墓の付近、西限はJR奈良線の路線付近と推測されている(山田1994)

 その間貞観6年(864)には深草山陵の兆域内に仁明天皇の寵愛深かった女御の藤原貞子(?〜864)が埋葬されている(『日本三代実録』巻9、貞観6年8月3日丁巳条)。翌年の貞観7年(865)8月3日には平子内親王(?〜877)が母藤原貞子のために周忌法会を嘉祥寺で実施しており、丈六の薬師如来像1体、夾侍2体、胎藏界曼荼羅図1鋪、金剛界曼荼羅図1鋪、金字の毘盧舎那経1部、金字の本願薬師経1巻、金字の随願薬師経1巻を施入しているが(『菅家文草』巻第11、願文上、為平子内親王先妣藤原氏周忌法会願文)、仁明天皇陵は嘉祥寺内に位置しており、仁明天皇陵の前頭に伴善男(811〜68)は嘉祥寺の食堂を造営していたが、「汚穢の事」などがあるため、伴善男失脚とともに破却していることからみると(『日本三代実録』巻13、貞観8年9月25日丁卯条)、嘉祥寺は陵寺としての機能をもちながらも、清浄の地の陵墓と、不浄の地の寺院との境界が意識として明確に分かれていたことが知られる。実際に仁明天皇陵に直接荷前する際には、あくまで天皇陵にて実施されたが、天皇や女御藤原貞子の追善法会など仏教的要素が加味される場合は、嘉祥寺がそれを担った。

 仁明天皇の代に見出されて出世を遂げた伴善男(811〜68)は、仁明天皇陵に平生から奉仕しており、毎年八講会を設けて、仁明天皇陵に「飾り奉る労」があったという。実際、応天門の変にて伴善男が失脚した際に、斬罪を免れて流罪となっているが、仁明天皇陵への功績が死罪を減じた理由とされた(『日本三代実録』巻13、貞観8年9月25日丁卯条)。この伴善男が行なった八講会であるが、仁明天皇陵で修されたものではなく、寛平元年(889)9月24日に嘉祥寺にて法華八講を修されていることからみると(『日本紀略』寛平元年9月24日癸丑条)、伴善男の八講会も、嘉祥寺で修された法華八講であったとみてよい。記録上には現われないが、嘉祥寺の八講会は毎年修されていたものであり(『愍諭弁惑章』跋文)、寛平元年(889)には僧侶を屈請し、四日間に限って嘉祥寺にて法華八講を行なっていた(『願文集』巻2、所引、新国史逸文、寛平元年9月24日癸丑条)

 嘉祥寺の建立は嘉祥3年(850)に開始されたが、本格的な造営が行なわれたのは翌年になってからであった。仁寿元年(851)2月13日に先皇(仁明天皇)の御忌斎会における行事司を定めたが、この日のうちに清涼殿を移して嘉祥寺の堂とした。この清涼殿は先皇(仁明天皇)が日常を過ごした場所であったから、文徳天皇は行くのは忍びなく、そのため寄捨して仏堂としたのである(『日本文徳天皇実録』巻3、仁寿元年2月丙辰条)。同年3月20日には先皇(仁明天皇)の御忌斎会を嘉祥寺で修し、百官はことごとく会した(『日本文徳天皇実録』巻3、仁寿元年3月壬辰条)。翌仁寿2年(852)12月11日には天皇の勅によって嘉祥寺を永代真雅に付属させた(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)


京都御所清涼殿(平成21年(2009)11月4日、管理人撮影)。現在の清涼殿は安政2年(1855)の再建で、裏松固禅(1736〜1804)の考証をもとに平安京内裏の清涼殿を再現したもの。平安京内裏の清涼殿よりも若干小規模で、また考証の誤りによって壁面が高くなり、また屋根の傾斜も大きくなっているため、建物全高が高くなっている。

嘉祥寺「西院」年分度者

 古代の仏教は国家のために奉仕をその存在の第一義とされたため、「国家仏教」と称される。そのため律令制下の仏教は国家の統制を受けて国家のために祈祷する存在であった。寺院や僧は官僚の統制を受けたが、出家・得度自体も非常に強い国家の管制下にあった。

 そもそも得度というのは、本来は在家者が出家して僧籍に入って沙弥(しゃみ)になることをいうのであるが、それは国家よりみれば租税徴収対象が減員するだけであり、出家者は極力減らす必要があり、また一元管理する必要があった。換言するならば得度というものは、官僚からみれば戸籍・民政・租税徴収を主に掌った民部省の戸籍より名を削除し、治部省の僧尼籍に編入することである。僧尼籍に編入することによって課税の対象より除外されるのであるが、同時に彼らは国家の厳重な管理下に置かれた。そして僧尼の刑罰は一般民衆に適応される刑法典「律」ではなく、令の「僧尼令」に定められており、重科の場合のみ僧籍を剥奪されて民部省の戸籍に復帰し、その後「律」で裁かれた。

 得度者(度者)の人数には制限が加えられたことは前述したが、度者は毎年一定数のみ許可されていた。そのことを年分度者という。奈良時代では最大10名が許可された。延暦17年(798)9月に年齢制限を加え、試験制度(年分度試制)が導入されている。延暦22年(803)正月には法相・三論両宗から5名づつと変り、延暦25年(806)正月には最澄の上表によって、宗派・寺院ごと合計12人の定員が設けられた。それ以降、寺院ごとに年分度者設置の申請があり、年分度者数はうなぎ登りに増加した。嘉祥寺においても真雅は年分度者設置を求めた。

 天安3年(859)3月19日、大僧都伝燈大法師位の真雅は表を抗(ささ)げて上奏した。
「道の極味は、秘蔵に勝るものはありません。人の高行は転法輪にあって、秘蔵して直ちに開くことはなく、縁を待ってすなわち開くものです。法輪だけが転ずるわけではなく、逢う時に初めて転ずるのです。法が興(おこ)るのも道が隆盛するのも、それは理由があることなのです。伏してよくよく考えてみると今上陛下(天皇陛下)、私真雅は幸いにも聖明の主にあい、たまたま仁造の時にあい、道の喜びといい人の喜びといい満足しています。いわゆる悉曇梵字というものは、おしなべて聖の教父であり、人天の智母なのです。字相を学ぶ理由は、広く世間の庶智を生じることであり、字義を見る者は深く出世の妙智を証明するでしょう。これは大海が多くの川を飲み込んでしまうのに似ています。大地が万物を載せるのと同様なのです。如来の説法はこの字から発するもので、薩タ(土へん+垂。UNI57F5。&M005190;)の円覚はかの文から開かれるのです。私真雅はいやしくも師から弟子へと伝えられる関係の人となりましたが、どうして法をひろめる思いがないといえましょうか。縁を待ち、運をあおいでいますが、年齢は力を傾けるように衰えていきます。ただいまこのたびの際会に当って心期を果たさなければ、それは黄河が清くなるのを待つようなもので、人の寿命は一体どの位の長さがあるというのでしょうか。もしくはそれ嘉祥寺は、先帝(文徳天皇)が深草天皇(仁明天皇)のおんために建立したものです。旧跡は風流で、さながら目の当たりにするようです。伏して願わくは、すなわちかの寺の新院に長らく三人の度者を賜い、教科として悉曇の文相を採用し、学習として梵字の字義を習わせたいものです。すなわちこれは声明の業で法文の要です。そのため真言宗は声明の業を大切な教えとするのです。学ばなければならない法門は、あまりにも多いのですが、今最も重要のものを選んで三人に学ばせましょう。まさに一人をして大仏頂梵字を諳んじさせて書かせ、一人は大隨求梵字を諳んじてさせて書かせ、一人は悉曇章梵字を諳んじさせて書かせます。また護身については摩由の力はことさらに高く、存命については尊勝の助けが最も深いものです。そのため莎底ヒツ(くさかんむり+必。UNi82FE。&M030828;)蒭(五百羅漢の一人)は損なった心を明王に返し、善住天子(五百羅漢の一人)は縮まった命を御仏に延ばしてもらったのです。救済の功は世界にわたってつくすことはありません。度脱の力は万刧をへても極まることはありません。そうすればこの三人に『大孔雀明王経』3巻および『仏頂尊勝梵字一道』を読ませ、毎年三月上旬に例の三人を試験し、今上降誕の日(天皇誕生日)にこれを得度させます。その得業の後、持念の僧となって嘉祥寺の西院に住み、孔雀尊勝を転読し、つねに善良なる陛下をお守りし、久しく天子の都を護ります。とくに弟子の中で首席の者を永代相承してこの業を行なわせます。そうすれば今上陛下。徳は乾坤(世界)に満ち、明るさは太陽や月に等しく、不死の聖体を転法の力に保ち、つきることのない寿命を密教の声明の功績にあげましょう。深草聖帝(仁明天皇)には正覚の花はさらにあざやかで、田邑先皇(文徳天皇)には無価の宝はいよいよ照らされるでしょう。すなわち世は(菩薩が入る)東戸と同じであり、時は南薫(六月に吹く涼風)となり、天下清平で、人や物は安楽となるでしょう。」 詔してこの奏上を許可した(『日本三代実録』巻2、天安3年3月19日乙亥条)

 このように嘉祥寺において年分度者が三人定められたが、得度した者は嘉祥寺の「西院」に住することとなっており、これが後に紛糾をもたらすことになる。

 嘉祥寺の「西院」はこの3年後の貞観4年(862)7月27日に「貞観寺」と改めるよう朝廷から下知が下された(『類聚三代格』巻第2、貞観14年7月19日官苻)。このことからもともと嘉祥寺の子院としての位置づけに過ぎなかった「西院」が嘉祥寺本体からの独立思考を持つに至り、朝廷に働きかけて嘉祥寺と対等である「貞観寺」という一個の寺院になったことが窺える。それは同じく御願寺でありながら仁明天皇陵に付属する陵寺に過ぎなかった嘉祥寺と、その時代の天皇の玉体や国家の安全を祈願する、まさしく祈願所である貞観寺とでは自然位置づけが異なっており、それは嘉祥寺・貞観寺間において、双方の主張が対立する懸案事項における朝廷の対応が自然と異なることも意味していた。

 天安3年(859)に嘉祥寺に年分度者3人が設置され、得度者は嘉祥寺西院に住することとなっていたことは前述した通りである。嘉祥寺西院が貞観寺となると、前述の規定は矛盾が発生してしまい、実際にはどのような事態となったのかは不明だが、少なくとも「嘉祥寺年分度者」と称されているにもかかわらず、貞観寺に住することについて疑問を唱える者がいたようである。そのため西院の後身である貞観寺は、年分度者自体が本来ならば貞観寺に付属するものであると主張したのである。

 貞観寺側は、貞観寺が建立された当初はその名前が定まっていなかったから、仮に嘉祥寺の年分と号しただけであって、実際には西院(貞観寺)のこととして得度させたものであるとしたのである。そして年分度者がいまだに「嘉祥寺年分度者」と号されていることについて、後代の人が疑いをはさむことを恐れ、嘉祥寺年分度者を貞観寺年分とするよう要望したのである。結果、貞観14年(872)7月19日に貞観寺の主張が全面的に認められ、嘉祥寺年分度者は貞観寺年分度者と変更されたのである(『類聚三代格』巻第2、貞観14年7月19日官苻)


 元慶2年(878)2月5日、嘉祥寺は申牒して、7僧を嘉祥寺に安置することを要請し、長く定額とし、御願を勤修して国家を祈念することとした。僧に欠員があれば、寺家は後任を推薦して官に申請して任命することとした。また貞観寺に准じて、「僧綱不摂領」とした。ただし貞観寺座主や三綱らに嘉祥寺を検知させることとした(『日本三代実録』巻33、元慶2年2月5日辛未条)。この嘉祥寺の申牒は、真雅の上表によるものであったという(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)


深草十三帝陵(平成21年(2009)8月13日、管理人撮影)。深草十三帝陵は嘉祥寺の西隣に位置する。

仁明天皇陵への回帰と祟りと嘉祥寺

 嘉祥寺は仁明天皇陵の陵寺として出発し、御願寺としての地位を得たかにみえたが、嘉祥寺の「西院」という、一子院にすぎなかった貞観寺に御願寺としての地位を奪われ、ついには貞観寺の下位に置かれるまでとなってしまっていた。それは仁明天皇が清和天皇にとっては祖父、陽成天皇にとっては曾祖父と、次第に世代が離れていったことにも一因があろう。ところが、元慶8年(884)に陽成天皇の退位にともない、光孝天皇が即位すると嘉祥寺をめぐる状況は一変することになる。光孝天皇の即位は、当時、出家・臣籍降下した者を除いた皇親のなかで最年長、かつ一品親王で最高位にあったことによるものであり、また摂政藤原基経との関係が深かったが決定的要因となった。その光孝天皇は、仁明天皇の第3皇子であり、父仁明天皇との血統をことさらに強調していた。そのため仁明天皇の陵寺である嘉祥寺は重視されるにいたり、逆転していた貞観寺との関係も再転することになる。

 元慶8年(884)6月23日、光孝天皇の勅によって、近江国の米156斛、丹波国の米379斛、貞観銭12貫文を嘉祥寺の五重塔を造営するための費用に充当した(『日本三代実録』巻46、元慶8年6月23日壬子条)。このように光孝天皇によって嘉祥寺に五重塔が建立されることとなった。これ以前、嘉祥寺の建造物として確認できるのは、清涼殿を移した本堂、貞観8年(866)に破却された食堂くらいにすぎず、他に推測できるものとしては貞観7年(865)に寄進された丈六の薬師如来像を安置する堂があった可能性が考えられるくらいであり、嘉祥寺が光孝天皇によって寺観が調えられようとしていたことが窺える。仁和3年(887)5月24日には光孝天皇の勅によって、仁明天皇の女御の藤原貞子のために、嘉祥寺において転念功徳を修し、寄捨料として信濃調布200端を充てた。公卿以下が行事に参会した(『日本三代実録』巻50、仁和3年5月24日丁酉条)

 仁明天皇との連続性を強調していたのは光孝天皇だけではなかった。村上天皇もまた仁明天皇からの連続性を意識しており、その結果が仁明天皇の仏事の代表格である諷誦を多く行なっている。村上天皇が崩御すると、康保4年(967)6月9日、村上天皇の二七日(14日忌)のため、貞観寺・法琳寺・嘉祥寺・勧修寺・比叡山・東法華堂にて諷誦が行なわれた(『本朝世紀』第8、康保4年6月9日条)。長元9年(1036)5月15日には一条天皇崩後四七日(28日忌日)の諷誦が7ヶ寺で実施されたが、その一つに嘉祥寺が選ばれている(『類聚雑例』長元9年5月15日条)。また平安時代後期の規定ではあるが、宮中における仏教法会のひとつである季御読経において、嘉祥寺の僧が1人屈請されることとなっていた(『江家次第』巻第5、2月、季御読経事)

 嘉祥寺では3月・10月中旬の2度にわたって地蔵悔過が行なわれていた。法会の実態は不明であるが、布施料として細屯綿20屯(仏聖2座の料として)、僧・沙弥12口の春の料として布38端・庸布12段、同じく僧・沙弥の冬の料として絹12疋・庸綿50屯・布26端・庸布12段が支出された。また銭4貫文が支出され、うち2貫文が二度の客僧の布施料として、うち2貫文は二度の雑用料として用いられた。これらは法会の月以前に送られることとなっていた(『延喜式』巻33、大蔵省、寺々菜料)。ほかに嘉祥寺地蔵悔過料として海藻19斤、海松(みるめ)9斤、凝菜(テングサ)2斗4斗、紫菜(あまのり)3斤、布乃利(布海苔)9升6合、細昆布16把、未醤(味噌)1斗4升4合、醤(ひしお)8升、芥子(ケシ)4升8合、塩1斗9升3合6勺の支出が規定され、冬もこれに准ずることとなっていた(『延喜式』巻36、大膳下、真言法)。ほかに油は3升(『延喜式』巻36、主殿寮、諸寺年料油)、酢は4升であり(『延喜式』巻40、造酒司、雑給年料)、米2石4斗、糯米4斗6升、大豆2斗は、仏聖以下沙弥以上の一度の料であり、当月の上旬に寺家に運送し、官に申請して京職に奉らせることとなっていた(『延喜式』巻35、大炊寮、嘉祥寺地蔵悔過料)。この地蔵悔過について、他に類例はないため不明であるが、おおむね後の地蔵講に繋がる先駆的なものという評価がある。なお仁明天皇崩後の七七日御斎会(四十九日法会)が嘉祥3年(850)5月9日に清涼殿で行なわれているが、その際に金光明経・地蔵経それぞれ1部を安置し、また新たに地蔵菩薩像1体を造っていることから(『日本文徳天皇実録』巻1、嘉祥3年5月丙戌条)、この地蔵悔過は仁明天皇の個人的信仰に基づいたものである可能性があろう。

 嘉祥寺は仁明天皇陵の「陵寺」として建立されたものである。仁明天皇の御代には国家的仏事が大きな変貌をとげた時代と評価されているが、また祟りについても評価が二転した時期でもあった。仁明天皇の父嵯峨上皇は遺誡によって、「世間の事、物怪(もののさとし)あるごとに祟りを先霊のせいにするのは、はなはだいわれなきことである」として、先霊の祟りを否定した。ところが所司が物怪あるごとに卜筮すると「先霊の祟りは卦兆に明らか」とするため、大納言藤原良房は遺誡を改めるべきか否かを文章博士らに審議させたところ、彼らは卜筮を信じるべきものとみなし、「君父の命はよろしきを量りて取捨す。さすれば改むべきは改む」として、先霊の祟りを再度肯定した(『続日本後紀』巻14、承和11年8月乙酉条)。このように先霊の再定義があったこともあり、仁明天皇陵に近接した嘉祥寺が建立されることとなったのであるが、それでも仁明天皇陵では怪異が発生してたびたび朝廷を驚かせている。

 康平6年(1063)3月29日に深草山陵(仁明天皇陵)が鳴るという怪異があったため、軒廊御卜(こんろうのみうら)を行なっている(『扶桑略記』第29、康平6年3月29日条)。軒廊御卜とは、炎旱・長雨などの全国的自然災害、動植物の異変、諸大社・諸国衙から奏上された異変に際して、内裏紫宸殿の右側に連なる回廊(軒廊)で、上卿主催のもと、神祇官・陰陽寮の官人が出仕して行なう当時最高位の卜占である。神祇官は灼甲を、陰陽寮は六壬式占を用いた(西岡2002)。陵墓の鳴動は物怪として軒廊御卜となり、結果次第でおおむね陵墓へ幣帛使が派遣された。寛治7年(1093)11月17日、深草山陵(仁明天皇陵)が鳴動したという奏上を嘉祥寺が朝廷にしたため、27日に軒廊御卜を行なった(『中右記』寛治7年11月27日)。12月24日には臨時に深草山陵に使をつかわし、祈請を行なった(『中右記』寛治7年12月24日条)。康和元年(1099)5月にも深草山陵が鳴動したため、諸国の兵仗を制止する宣旨を下すよう求められている(『後二条師通記』康和元年5月3日条)。このような仁明天皇陵の鳴動は、嘉祥寺からの奏上によっているようであるが、仁明天皇の鳴動の時期と嘉祥寺の衰退のはじまりは奇妙な一致をみせている。これは衰退しつつある嘉祥寺側が、朝廷に対して再度関心をむけさせるためのアプローチを行なった結果である可能性があり、すなわち仁明天皇の祟りを鎮める目的で建立された嘉祥寺が、鳴動という事象を事実報告、ないしは故意に捏造して朝廷の関心を呼び起こし、嘉祥寺の衰退に歯止めをかけようとしたものなのかもしれない。実際、多武峰の尊像破裂(御破裂)は、多武峰側が自身への関心をむけるため故意に報告したものと考えられており、同様のことが仁明天皇陵と嘉祥寺で行なわれた可能性がある。



宮内庁治定の仁明天皇陵(平成21年(2009)8月13日、管理人撮影)。この仁明天皇陵は幕末期に治定されたものであり、実際の仁明天皇陵は、現在地からみると北西に位置していた。

嘉祥寺領日根荘

 古代から中世にかけての大寺院では、寺院の経営・運営のため何らかの寺領を有している場合が多かった。常住の僧侶の人件費のほか、その寺院が御願を修している時にはその修法料が莫大なものとなることがあった。例えば何らかの修法を日夜行なう場合には、修法にかかる人件費のみならず、仏前の灯油料、供物料がかかった。嘉祥寺料として山城国の正税1,736束4把が経常されていたが(『延喜式』山城国正税)、それでも根本的には不足であり、とくに灯油料は、当時極めて高値であった菜種油を一日中、一年を通じて用いたから、国家が計上した正税のみでは賄うことは困難であった。

 嘉祥寺から分離した貞観寺には「貞観寺田地目録帳」という史料があり、それによって古代における貞観寺領のリストを知ることができる。その一方で嘉祥寺の寺領に関する史料は少なく、その実態を明らかにすることを困難なものにしている。嘉祥寺領は史料上では現在3ヶ荘が知られている。その一つが長門国(山口県)の嘉祥寺領河棚荘である。

 この河棚荘は現在の山口県下関市豊浦町付近に位置した荘園である。いつ頃嘉祥寺領として立券されたか不明であるが、治承元年(1177)には在庁官人に検断されるという事件がおきている。長門国の新任の国司が就任すると、在庁官人は河棚荘に立ち入り、国司の庁宣が下されていないことを理由として、領家すなわち嘉祥寺に荘物を納めることを停止させた。そのため荘官は新任の国司に対して庁宣を下すことを訴えた。この裁許は太政入道殿(平清盛)の手に委ねられ、清盛は同年9月に立券以後の例の通りに国衙使を停止させ、荘家を煩わす言動を禁止した(「長門国司下文」尊経閣所蔵東寺文書〈平安遺文3810〉)

 しかしそれ以降もたびたび国司や守護による検断があったらしく、文治年間(1185〜90)には院宣によって地頭職を停止され、嘉祥寺側に有利に働いた。さらに建久6年(1195)には河棚荘は守護によって検断され、領家すなわち嘉祥寺の所務が妨げられた。同年11月4日に幕府は文治年間に院宣が下され地頭職が停止されていたことから、今回さらに違乱することは罪科を招くこととみなして、守護の収公押領を停止させた(『吾妻鏡』建久6年11月4日条)

 もう一方の嘉祥寺領の荘園が伯耆国布美荘(鳥取県米子市)である。史料上の初出は嘉禄3年(1227)4月のことで、平公長が父から譲られた布美荘他の地頭職が幕府より追認されているが(「将軍藤原頼経袖判下文」出羽色部文書〈鎌倉遺文3604)、このときに嘉祥寺と布美荘が関係あったか不明である。暦応3年(1340)8月18日には、嘉祥寺が布美荘内の長須郡村・仁王丸名が濫妨されたことについて訴えたため、幕府は安富右近大夫に対して、子細を陳述するよう申し述べている(「室町幕府引付頭人奉書」加賀前田家所蔵文書〈南北朝遺文 中国・四国編988〉)。さらに康永4年(1345)10月18日には、嘉祥寺所司が、進三郎入道長覚に嘉祥寺領布美荘の領家職を押領(領地などを不法に占拠すること)されたことを訴えたことにより、幕府は山名時氏(1303〜71)に対して取り締まるよう命じている(「室町幕府引付頭人奉書」前田家所蔵文書〈南北朝遺文 中国・四国編1429〉)。さらに嘉祥寺所司の訴えにより嘉祥寺領布美荘の領家職のことについて、貞和2年(1346)4月18日に奉書が出されて山名時氏のもとに到ったにもかかわらず、完遂されなかったらしく、山名時氏は同年9月23日に請文(うけぶみ。上位の者から文書を受けたとき、承諾を答申する文書)を出している(「山名時氏請文」前田家所蔵実相院及東寺宝菩提院文書二〈南北朝遺文 中国・四国編1481〉)。また同年12月14日、幕府は、嘉祥寺所司が訴えた嘉祥寺領布美荘の領家職に対する河村弥五郎の押領について、山名時氏に取り締まりを命じるとともに、困難があっても罪科に処して、必ず遂行するよう申し付けている(「室町幕府引付頭人奉書」前田家所蔵実相院及東寺宝菩提院文書二〈南北朝遺文 中国・四国編1504〉)。これを受けてか翌貞和3年(1347)6月23日、山名時氏は小林左京亮に取り締まりを命じている(「山名時氏遵行状」前田家所蔵実相院及東寺宝菩提院文書二〈南北朝遺文 中国・四国編1554〉)。これ以降の嘉祥寺領布美荘の様相は不明である。

 さらにもう一方の嘉祥寺領の荘園に和泉国日根荘がある。日根荘は摂関家である九条家の所領として有名であり、九条政基(1445〜1516)が同荘に下向して直務支配したときの記録『政基公旅引付』は、中世村落の実態を示す史料として名高い。この日根荘が九条家の所領となる文暦元年(1234)以前より、嘉祥寺は日根荘を領有していた。ただし九条家が現在の大阪府泉佐野市を中心とした荘域であったのに対し、嘉祥寺領は現在の大阪府泉南郡田尻町嘉祥寺を中心とした地域(外部リンク)を荘域としていた。

 永久4年(1116)5月28日の官宣旨によると、嘉祥寺領日根荘の四至(東西南北四方の境界)は、東は尾張岡、南は大路ならびに大蔵山、西限は尾張岡を坪境とし、北は海であったという(「官宣旨案」京都大学総合博物館所蔵勧修寺文書『御教書類』2。川端1995所引。以下同じ)。東の「尾張岡」は、現在の田尻町の尾張池の北方に隣接する小丘の船岡山のこととみられ、南の「大路」は、現在の国道26号線と大阪府道64号の中間を並走していた、古代の官道のことで、中世では熊野大路となっていた。西は「尾張岡」を「坪境」とするとあるが、「尾張岡」は東にみえるから詳細は不明で、書写の際に何らかの錯簡があるとみられている。ただし「坪境」については条里に関係するものとみられている。「坪」は8世紀中頃に成立した土地管理法である条里制における条里割の基本単位であり、面積1町の正方形(一辺109m)を基本単位としていた。さらに坪は36集まって「里(のちに坊)」を形成したが、つまりこの「坪境」は条里制における最小単位である坪と坪の境界を現していた語が転じて地名となったものとみられる。実際、田尻町において船岡山から樫井川までの約2kmにわたって条里型土地割が確認されており、律令体制下からこの地がすでに開発・整備されていたことが知られる。北は海とあることから、大阪湾が北限であり、さらに何らかの場所が境界となっていたようであるが、原本欠損のため不明である。

 官宣旨によると、日根荘はもと「淳和上皇御領」であったという(「官宣旨案」京都大学総合博物館所蔵勧修寺文書『御教書類』2)。ここにみえる「淳和上皇」について淳和院の誤りとみられている。淳和院と日根野の地の関係は貞観3年(861)6月2日に、和泉国日根郡の田ならびに山岡23町7段199歩(約2.3ha)を淳和院に施入されたことにはじまる(『日本三代実録』巻5、貞観3年6月2日乙巳条)。この21年前に淳和上皇は崩御していたため、この時淳和院を管領していたのは正子内親王(810〜79)であった。正子内親王は嵯峨天皇の皇女で、仁明天皇の同母妹にあたり、淳和天皇の皇后となった。この淳和院領日根郡の田畑を嘉祥寺に施入したのは宮内卿源覚(849〜79)の力があった(「官宣旨案」京都大学総合博物館所蔵勧修寺文書『御教書類』2)。源覚は仁明天皇の皇子であり、正子内親王からみると甥にあたる。この施入は元慶5年(881)のことであるというが(「官宣旨案」京都大学総合博物館所蔵勧修寺文書『御教書類』2)、正子内親王も源覚も双方とも元慶3年(879)に崩卒しており、この元慶5年というのも何らかの錯簡があるとみられている。ところで元慶3年(879)に正子内親王が崩御し、その後子の恒貞親王の奏上により、ながく淳和院の号を用いること、諸国田園を修理粮食に充てることが定められていることから(『日本三代実録』巻38、元慶4年9月4日乙卯条)、これを機に淳和院領の整理が行なわれ、仁明天皇の陵寺である嘉祥寺に日根郡の田畑が施入されたとみる見解がある(川端1995)

 その後嘉祥寺領日根荘は歴代の国司に承認されて免租地となっていたが、やがて国衙によって収公される事態に陥った。嘉祥寺側は子細を奏上した結果、朝廷は国司に収公する根拠を尋ねることとなったが、国司側の陳情には根拠がなく、そのため康和5年(1103)に今まで通り嘉祥寺が領知する旨の宣旨が下されることとなり、同時に荘園の領域の四至もこの宣旨によって決定された。ところが多年にわたって嘉祥寺は別当が補任されず、国司も遷替したため、重ねて新儀をするありさまであった。厳覚が嘉祥寺別当に補任されると、厳覚は嘉祥寺の堂舎や塔を修復しようとしたが、嘉祥寺領の各地の荘園はすべて停廃していた。そのため嘉祥寺は康和5年の宣旨のままに四至を定めてボウ(片へん+旁。UNI7253。&M019876;)示(領域の境界を示すための石・木・立札の標識)を打ち、日根野荘の荘料によって公家の宝祚(天皇の長寿)を祈り、かつ堂舎の修造を行なうことを願い出た。嘉祥寺の申請は永久4年(1116)5月28日に宣旨として承認されている(「官宣旨案」京都大学総合博物館所蔵勧修寺文書『御教書類』2)

 また嘉祥寺領日根荘・布美荘は建長2年(1250)6月2日付の道元(1200〜53)の消息に突如として登場する。それによると、「御領(仁和寺領)において大嘗会(料の徴収)が免除されており、嘉祥寺領の和泉国日根荘・伯耆国布美荘も当然免除されるものと思っていたが、両荘は免除されず、官吏らによって(徴収されるという)水火の責めにあっているようになっている。どうしてこうなったのか。御領は免除されているのに、どうして嘉祥寺領に限ってこうなってしまったのか」(「道元禅師消息」永平寺所蔵。『田尻町史』所引)と嘆いている。道元と嘉祥寺の関係は明らかではないが、道元が深草の極楽寺に閑居を構えたことから、付近の嘉祥寺と何らかの関係があったとみられている。

 弘安4年(1281)5月28日、嘉祥寺領日根荘の番頭百姓は領家に対して、預所雑掌の罷免を求めている。この訴えによると、預所雑掌の罷免を求める理由として、@春日末社(現田尻町吉見の春日神社)に長谷雄兵衛入道が寄進して免田となっていた田1町5段を奪ったこと、A番米12石のほかを別に預所の公事にかけたこと、B先例に背いて漁田を免田としなかったこと、C人夫を召し使うこと、D名主の計となっていた分を年貢に準じて収納したこと、E御所の御馬と号して自分の馬を飼うこと、F雑掌の身であるのに荘官・番頭職を兼帯して百姓をわずらわせていること、をあげている(「日根荘番頭百姓等重訴状(和泉日根荘番頭等申状)」兼仲卿記弘安7年10月・11月巻裏文書〈鎌倉遺文14329〉)。この訴えは「領家」に提出されているが、この時の「領家」は一見穏当に考えると嘉祥寺のようにもみえるが、他の史料とはあわないため、嘉祥寺は「本家」であり、「領家」は大炊御門師経(1175〜1259)から伝領された人物であると推測されている(川端1995)

 訴えられた預所雑掌は逐次反論して、@領家の寄進ではなく、長谷雄兵衛入道が日根荘に「乱入」したときに寄進したものであって、1町5段は多すぎる。1町分は公分とし、5段は寄進のままとする。これは預所の非法なのではなく、領家が決定されたことである、A番米12石を公事にかけることについては、預所と百姓で協議したことであるのに、今更覆して預所の非法とするのは言語道断である、B(反論欠)、C人夫を120人、一宿の人夫120人、日帰りの人夫120人の計360人を使ったが、これは領家・預所が御用にしたがって召し使った者であり、また自領の人夫を使って他所で使うことについて抗議を受けるのはいわれなきことであり、人夫を使う時には他所の人夫を用いるのが定例である、Dこのことは公文のはかりごとであって、預所は関知しないところである。これをどうして預所の非法と申すであろうか(「日根荘雑掌訴状(某陳情)」兼仲卿記弘安7年10月・11月巻裏文書〈鎌倉遺文14331〉)、E預所の馬ではあるが、御馬にたてまつる御下知が下されている、F下司職のことは、すでに預所はかの職を止められている。預所の身で補任されているというのはいわれなきことである、と述べている。さらに預所雑掌の罷免を求めて領家に提出されたこの件は、すでに領家の裁定が預所側の有利なものとなっており、預所は、日根荘番頭百姓等が「春日末社」について訴訟の焦点のひとつとしたため、預所は本家嘉祥寺を経由して、神人統制権をもつ氏長者鷹司兼平(1228〜94)に訴えた(「日根荘雑掌訴状(日根荘預所陳情)」兼仲卿記弘安7年10月・11月巻裏文書〈鎌倉遺文14333〉)

 8月、鷹司兼平は雑掌の訴えを取り次いだ嘉祥寺別当守恵法印の言い分を認め、百姓らが領家の命に従うべきことを命じており、さらに事態が収まらないときには社家使を遣わす旨の宣旨を書き進めることとなった(「鷹司兼平御教書土代(某奉書)」兼仲卿記弘安7年10月・11月巻裏文書〈鎌倉遺文14330〉)

 その後応永7年(1400)3月2日に嘉祥寺三綱の訴えにより、幕府は和泉守護仁木義員(生没年不明)に対して日根荘の押領人を退けるよう命じている(「将軍足利義持御教書」前田育徳会所蔵宝菩提院文書。『田尻町史』所引)。また翌応永8年(1401)6月23日に石山寺三綱より、嘉祥寺は石山寺の別院であり、この地は石山寺座主が数代にわたって相伝してきたものであると申し述べている(「石山寺三綱等目安案」東寺所蔵観智院金剛蔵聖教。『田尻町史』所引)。応永10年(1403)8月27日にも嘉祥寺三綱の訴えにより、幕府は仁木義員に対して日根荘の押領人を退けるよう命じており(「将軍足利義持御教書」前田育徳会所蔵宝菩提院文書。『田尻町史』所引)、同17年(1410)9月17日にも幕府は和泉半国守護細川基之(生没年不明)に対して、石山寺の三綱からの訴えにより、別院嘉祥寺領和泉国日根荘半済分および籾井王子別当職について、被官人の押妨を止めるよう命じているが(「将軍足利義持御教書」前田育徳会所蔵宝菩提院文書。『田尻町史』所引)、この記事を最後として嘉祥寺領日根荘は歴史から姿を消し、ただ旧地である田尻町に地名として残されているだけとなっている。


大阪府泉南郡田尻町嘉祥寺の尾張池と船岡山(平成21年(2009)9月11日、管理人撮影)。この船岡山は史料にみえる「尾張山」と同一のものとみられ、ここを北限とする2平方キロメートル四方が嘉祥寺領日根野荘であったとみられる。

嘉祥寺別当

 嘉祥寺はその住持職として、「別当」という者がいた。嘉祥寺は元慶2年(878)2月5日に嘉祥寺に7僧を置くとともに「僧綱不摂領」とし、貞観寺座主や三綱らに嘉祥寺を検知させることとしているが(『日本三代実録』巻33、元慶2年2月5日辛未条)、いつ頃か嘉祥寺は貞観寺の影響力を離れるようになった。万寿2年(1025)3月1日に嘉祥寺は、嘉祥寺講師の観悟が死んだため、その替えの者を補するよう求めている(『小右記』万寿2年3月1日条)。ここには貞観寺の影は微塵もみえないが、嘉祥寺別当は貞観寺と嘉祥寺の定額僧を補任することが定例となっていた(『朝野群載』巻第17、仏事下、太政官嘉祥寺別当補任申牒)

 嘉祥寺別当が補任された記事の初例が、長久元年(1040)5月14日に嘉祥寺別当仲聖から譲られて補任された明円である。この明円もまた貞観寺・嘉祥寺の定額僧であったことから、嘉祥寺別当に推薦された者であった(『朝野群載』巻第17、仏事下、太政官嘉祥寺別当補任申牒)

 嘉祥寺は平安時代末期頃から仁和寺の傘下にあったらしく、天永元年(1110)12月に嘉祥寺別当に補任された寛智(1045〜1111)は仁和寺華蔵院の院主であり(『仁和寺諸院家記(恵山書写本)』巻下、華蔵院)、仁和寺の寺誌には、末寺として嘉祥寺があげられ、嘉祥寺別当は藤原信西(1106〜60)の縁者の顕耀律師、のち行耀僧都が補されたとある(『仁和寺諸院家記(心蓮院本)』嘉祥寺)。ただし鎌倉時代に入るまで嘉祥寺別当の補任は流動的であったらしく、大治元年(1126)5月には醍醐寺の静賀が嘉祥寺別当に任じられている(『醍醐雑事記』巻第7、権僧正御房御修法修造等事)

 貞永元年(1232)7月に嘉祥寺別当の範燿が同職を弟子の実耀に譲ろうとしたところ、仁和寺宮道深法親王が反対したという事件があり(『民経記』貞永元年7月21日条)、『秘蔵金宝鈔』(大正蔵2485)の奥書には、正応3年(1290)12月25日に山本僧正御房の御自筆本を賜って、「仁和寺嘉祥寺」において行誉が書写したことがみえている(『秘蔵金宝鈔』巻第1、奥書)。弘安4年(1281)8月に日根荘の雑掌と番頭百姓の紛争の際、雑掌側に立って鷹司兼平に雑掌の訴えを取り次いだ嘉祥寺別当守恵法印(「鷹司兼平御教書土代(某奉書)」兼仲卿記弘安7年10月・11月巻裏文書〈鎌倉遺文14330〉)は、仁和寺成就院の院主であった(『仁和寺諸院家記(心蓮院本)』成就院)。その後嘉祥寺は仁和寺成就院の影響下に入ったらしく、応永8年(1401)までの間に、同じく仁和寺成就院の影響下にあった石山寺の別院という扱いを受けていたらしい(「石山寺三綱等目安案」東寺所蔵観智院金剛蔵聖教。『田尻町史』所引)。その後、応永34年(1427)9月12日に武家の時宜に違い、嘉祥寺別当・石山寺座主を罷免された僧正兼守も、仁和寺成就院の院主であり(『仁和寺諸院家記(心蓮院本)』成就院)、仁和寺成就院の院主が嘉祥寺別当を兼帯する例が続いたようである。


嘉祥寺聖天堂(平成21年(2009)8月13日、管理人撮影)

嘉祥寺の再興

 嘉祥寺は中世に衰退して廃寺となった。その後、安楽行院の跡地に嘉祥寺が天台宗寺院として再興された。

 寛文年間(1661〜73)、天台宗の空心和尚(1626〜90)が一堂を再建し、その後貞享年間(1684〜88)に後西天皇女一宮(誠子内親王、1654〜86)より観世音菩薩・妙吉祥院像。位牌が安置されたといい、女房の添状もあったという(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書「紀伊郡寺院明細帳」102)。寺伝では後西天皇の勅許を得て再興したのは寛文2年(1662)のこととし、誠子内親王が貞享3年(1686)12月に薨去すると、位牌を嘉祥寺に納めたという(京都府史蹟勝地調査会1919〈西田直二執筆分〉)

 再興の空心は比叡山横川の僧で、福城房に住していたが、寛文元年(1661)に実円の嘱を受け、横川華蔵院第6世となる。寛文3年(1663)に霊元天皇の即位に際して秘密供を修し、その験があったとされたことから、後世華蔵院は歴代天皇即位に際しての勅願所となった。また毎年千両におよぶ供養料を賜っており、有名無実となっていた古刹の跡に小祠を建てるなど、古蹟復興をはかった。元禄3年(1690)4月16日に示寂した。65歳(『横河堂舎並各坊世譜』華蔵院、第6世空心)。空心の再興により、嘉祥寺は天台宗寺院となり、安楽行院の末寺となったが、法流は定まっていなかった(『比叡山延暦寺本末帳』巻2、孫末之部)

 本尊の歓喜天像は空心が竹林の井戸中より掘り出したものとされる(『拾遺都名所図絵』巻4、嘉祥寺聖天尊)。また嘉祥寺にはほかにも阿弥陀如来坐像(室町時代、木造寄木造、像高73.8cm)と十一面観音立像(室町時代、木造寄木造、像高139.1cm)がそれぞれ一体ある。

 嘉祥寺は聖天堂と称され、「聖天」とは本尊歓喜天の別称である。『拾遺都名所図絵』によると、本堂(庫裏)・歓喜天堂(本堂)・方丈・稲荷社・八幡社・仏殿・護摩堂・太仙宮が林立している(『拾遺都名所図絵』巻4、嘉祥寺聖天尊)。しかし明治時代の上知令とともに、実態のない仏堂は破却され、明治16年(1883)頃に残存していた建造物は、わずかに本堂・庫裏・不動堂にすぎなかった(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書「紀伊郡寺院明細帳」102)。歓喜天堂は、近世天台宗建築の上で特異な存在であり、多くは寺院の一堂にすぎないものであるが、寺院衰微の際に歓喜天堂のみが民間信仰のため生き残る例がある。この嘉祥寺もまたその一つである。歓喜天堂(現本堂)は棟札によると元禄12年(1699)の建立で、桁行4間、梁間3間の入母屋造本瓦葺の建物で、向拝が1間ある。この堂は3間四方の堂の前に長5畳の外陣がついたもので、外陣は3間となっており、八坂庚申堂・般修三昧院の元三大師堂などと似た建築であり、これらはひとつのタイプを形成していたと考えられている(京都府教育委員会1983)。なお嘉祥寺は明治26年(1893)3月4日に庫裏の増築を京都府に願い出ている(京都府立総合資料館蔵京都府庁文書「紀伊郡寺院明細帳」102)。


[参考文献]
・京都府史蹟勝地調査会編『京都府史蹟勝地調査会報告 第1冊』(京都府、1919年)
・京都府教育庁文化財保護課編『名神高速道路路線地域内埋蔵文化財調査報告』(京都府教育委員会、1959年)
・西口順子「平安時代初期寺院の考察-御願寺を中心に-」(『史窓』28、1970年。のち『平安時代の寺院と民衆』〈法藏館、2004年9月〉所収)
・『京都社寺調査報告V』(京都国立博物館、1983年3月)
・竹居明男「嘉祥寺・貞観寺雑考」(『文化史学』39、1983年11月。のち『日本古代仏教の文化史』〈吉川弘文館、1998年5月〉所収)
・京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会、1983年)
・大江篤「天暦期の御願寺-『新儀式』の記載の持つ意味-」(『人文論究』35-4、1986年。のち『日本古代の神と霊』〈臨川書店、2007年3月〉所収)
・古代学協会編『平安京提要』(角川書店、1994年6月)
・山田邦和「平安貴族の葬送の地・深草ー京都市深草古墓の資料」(森浩一編『考古学と信仰(同志社大学考古学シリーズVI)』 同志社大学考古学シリーズ刊行会、1994年)
・川端新「もうひとつの日根荘−嘉祥寺領和泉国日根荘について」(『ヒストリア』148、1995年9月。のち『荘園制成立史の研究』〈思文閣出版、2000年11月〉所収)
・西山良平「〈陵寺〉の誕生−嘉祥寺再考」(大山喬平教授退官記念会編『日本国家の史的特質古代・中世』思文閣出版、1997年5月)
・網野善彦・石井進・稲垣泰彦・永原慶二編『講座日本荘園史9 中国地方の荘園』(吉川弘文館、1999年3月)
・岡野浩二「誦経(諷誦)からみた天皇と仏教」(史聚会編『奈良平安時代史の諸相』(高科書店、1997年)
・西岡芳文「六壬式占と軒廊御卜」(今谷明編『王権と神祇』思文閣出版、2002年)
・『田尻町史 歴史編』(田尻町、2006年3月)


『拾遺都名所図絵』巻4、嘉祥寺聖天尊(『新修京都叢書』12〈光彩社、1968年〉316頁より一部転載)



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