貞観寺跡



京都市伏見区深草僧坊町(平成21年(2009)11月29日、管理人撮影)

 貞観寺(じょうがんじ)はかつて京都市伏見区深草に位置(外部リンク)した真言宗の寺院です。真雅によって仁寿2年(852)に嘉祥寺の西院として建立され、貞観4年(862)に独立して貞観寺と改められ、御願寺となりました。東寺をはるかに上まわる大伽藍と、厖大な荘園を有していましたが、やがて東寺、のちに仁和寺心蓮院の末寺となり、中世に衰退して廃寺となっています。


貞観寺僧正真雅@ 〜嘉祥寺建立と西院〜

 貞観寺を建立したのは真言宗の僧真雅(801〜79)である。真雅に関する根本伝記として、寛平5年(893)に真雅の弟子等よって編纂された『故僧正法印大和尚位真雅伝記』全1巻と、『日本三代実録』巻35、元慶3年正月3日癸巳条真雅卒伝がある。後者は前者をもとに編纂されたため、略された箇所もあるが、『故僧正法印大和尚位真雅伝記』には大僧都の補任記事に誤りがあるなど、双方は一長一短がある。『故僧正法印大和尚位真雅伝記』は長谷宝秀編『弘法大師伝全集』第10巻(六大新報社、1935年3月)に翻刻されている。

 真雅の本姓は佐伯直で、もとは讃岐国多度郡に属していたが、のちに佐伯直氏は宿禰の姓を賜って佐伯宿禰氏となり、右京に戸籍を移すことになる(『日本三代実録』巻35、元慶3年正月3日癸巳条、真雅卒伝)。真雅の実兄は弘法大師こと空海であり、27歳も年が離れていた。真雅は9歳の時郷里を辞して都にのぼり、16歳で兄空海を師主として出家した。真雅は19歳の時には具足戒を受けている(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)

 23歳の時、すなわち弘仁14年(823)勅があって内裏に参入し、御前にて真言三十七尊の梵号を唱え、声は宝石を貫いたようで、舌先はよどみなかったため、皇帝はよろこび、厚く施しをした(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)。ちなみにこの年に空海は10月13日には皇后院にて息災の法を三日三夜修法しており(『類聚国史』巻178、修法、弘仁14年10月癸巳条)、さらに同年12月24日には大僧都長恵・少僧都勤操とともに清涼殿にて大通方広の法を終夜行なっている(『類聚国史』巻178、仏名、弘仁14年12月癸卯条)。真雅が皇帝、すなわち淳和天皇をはじめとした朝廷の面々の知遇を得ることができたのは、兄であり師である空海の尽力によるものであったとみられ、そのことは空海の後継者の一人としての地盤を固めるのに役立っていたとみられる。

 承和2年(835)には兄であり師である空海が示寂したが、真雅は同年中に弘福寺別当に勅任されることになる。この時35歳、臈年17であった(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)。嘉祥元年(848)6月28日には権律師に補任され(『続日本後紀』巻18、嘉祥元年6月乙卯条)、同年9月20日には律師となった(『続日本後紀』巻18、嘉祥元年9月丙子条)。さらに嘉祥3年(850)には仁明天皇崩御による陵寺として、嘉祥寺を建立している(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)

 ところが真雅は嘉祥寺の建立に関わっていながら、その陵寺としての建立意義には満足していなかったらしく、嘉祥寺の中に「西院」を建立して自身の理想的な寺院の姿を模索していた。この嘉祥寺「西院」こそが、後の貞観寺である。

 仁寿2年(852)真雅は発心して貞観寺を建立しているというが(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)、貞観寺の寺号を賜ったのはこの後のことであるから、この時点ではまだ嘉祥寺西院であった。同年12月11日には天皇の勅によって嘉祥寺を永代真雅に付属させており(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)、ここに嘉祥寺全体が事実上真雅の掌握下に入った。

 古代の仏教は国家のために奉仕をその存在の第一義とされたため、「国家仏教」と称される。そのため律令制下の仏教は国家の統制を受けて国家のために祈祷する存在であった。寺院や僧は官僚の統制を受けたが、出家・得度自体も非常に強い国家の管制下にあった。

 そもそも得度というのは、本来は在家者が出家して僧籍に入って沙弥(しゃみ)になることをいうのであるが、それは国家よりみれば租税徴収対象が減員するだけであり、出家者は極力減らす必要があり、また一元管理する必要があった。換言するならば得度というものは、官僚からみれば戸籍・民政・租税徴収を主に掌った民部省の戸籍より名を削除し、治部省の僧尼籍に編入することである。僧尼籍に編入することによって課税の対象より除外されるのであるが、同時に彼らは国家の厳重な管理下に置かれた。そして僧尼の刑罰は一般民衆に適応される刑法典「律」ではなく、令の「僧尼令」に定められており、重科の場合のみ僧籍を剥奪されて民部省の戸籍に復帰し、その後「律」で裁かれた。

 得度者(度者)の人数には制限が加えられたことは前述したが、度者は毎年一定数のみ許可されていた。そのことを年分度者という。奈良時代では最大10名が許可された。延暦17年(798)9月に年齢制限を加え、試験制度(年分度試制)が導入されている。延暦22年(803)正月には法相・三論両宗から5名づつと変り、延暦25年(806)正月には最澄の上表によって、宗派・寺院ごと合計12人の定員が設けられた。それ以降、寺院ごとに年分度者設置の申請があり、年分度者数はうなぎ登りに増加した。天安3年(859)3月に真雅は嘉祥寺においても年分度者設置を求めている。ただし、真雅は嘉祥寺の「新院」に声明業の度者3人を設置するとともに、得業の後は持念の僧となって嘉祥寺西院に住むこととしている(『日本三代実録』巻2、天安3年3月19日乙亥条)

 ところで、嘉祥寺が永代真雅に付属されているにもかかわらず、真雅が何故に嘉祥寺に西院を建立し、後に貞観寺として独立するに至ったのかが問題となる。例えば、嘉祥寺において年分度者が3人定められたが、得度した者は嘉祥寺の「西院」に住することとなっており、嘉祥寺本寺には度者が直接的に配分されないことになる。

 真雅が嘉祥寺に西院を建立した理由として考えられるのが、僧綱の存在である。律令国家においては、出家とは僧籍に入って沙弥(しゃみ)になり、民部省の戸籍から治部省の僧尼籍に移ることを指すことは前述した通りであるが、これら僧尼を監督するのが僧綱である。僧綱は僧正・僧都・律師がその構成員であり、当時の高僧がこれら僧綱に任じられて、僧尼の監督にあたった。推古天皇32年(624)4月3日、ある僧が斧で祖父を殴打し、これを聞いた推古天皇はこの僧のみならず諸寺の僧尼も罪科に処そうとしたが、観勒の上表により件の僧以外の処罰を取りやめ、僧正・僧都の制を定め、観勒を僧正に任じている(『日本書紀』巻22、推古天皇32年4月戊申条)。これ以降、僧綱制が次第に確立していき、律令国家においては、僧尼の刑罰は刑法典である律ではなく僧尼令に規定された。僧尼に犯罪があったとき、格律に準じると徒一年以上の罪となる場合には還俗とすることとし、還俗の際に没収する告牒を以て、徒一年分に充てることとし、それ以上の罪があったとき、はじめて律に依って科断することとされた(僧尼令、准格律条)

 僧尼を統轄する僧綱は、僧尼に対する人事権を掌握しており、さらに中央の諸大寺と、近都の諸寺を統轄の対象とし、諸大寺に対しては直接寺務に介入し、諸寺に対してはこれを検察することとなっていた。すなわち真雅が嘉祥寺を朝廷から付属されていたとしても、嘉祥寺は、寺務をつかさどる三綱が掌握しており、三綱は僧綱によって統轄されていたため、嘉祥寺の寺務に対する真雅の権限は僧綱の掣肘を受け、嘉祥寺自体にかかわりを持つことが困難であったらしい。そのため嘉祥寺内に真雅の私院として「西院」を建立し、その西院内において真雅が権限を振るうことができたのである。

 真雅は藤原良房の信認を得ており、その後の真雅の躍進は藤原良房の外護の影響が非常に高い。嘉祥3年(850)3月25日に降誕した惟仁親王は、文徳天皇の第4皇子であったが、母は藤原良房の娘であり、同年11月25日には皇太子に立てられた。そのため童謡に「大枝を超えて走り超えて躍り騰がり超えて、我や護る田や捜り食むしぎや。雄々いしぎやたにや。」と謡われ、識者は「大枝」は「大兄」のことで、文徳天皇に4皇子ありながら3兄を超えて惟仁親王が皇太子となったことをいったものとされた(『日本三代実録』巻1、清和天皇即位前紀)。この惟仁親王こそ後の清和天皇であるが、このように3兄を超えて、わずか9ヶ月で皇太子となった惟仁親王を護持したのが真雅であった。真雅は降誕の時、惟仁親王の身を護持したという。そのため藤原良房は真雅と策謀し、寺院を建立して尊像を安置し、惟仁親王のために修善したという(『日本三代実録』巻35、元慶3年正月3日癸巳条真雅卒伝)。また真雅は藤原良房の娘明子が文徳天皇のもとに入った後、長らく懐妊しなかったため、藤原良房は真雅と語り、真雅が尊勝法を修したため清和天皇が誕生したともいう(『小野類秘抄』巻6、意、所引、吏部王記逸文、天慶7年12月18日条)

 このように惟仁親王(清和天皇)降誕の功もあって、藤原良房より信認を受け、仁寿3年(853)10月25日には少僧都となり(『日本文徳天皇実録』巻5、仁寿3年10月壬午条)、斉衡3年(856)10月2日には大僧都と僧官を累進している(『日本文徳天皇実録』巻8、斉衡3年10月戊子条)。さらに清和天皇が位についた翌年の天安3年(859)に真雅の奏上により嘉祥寺西院に年分度者を賜ったのも、清和天皇降誕にあたって真雅が功をなしたことへ対する摂政藤原良房からの賞であったとみられる。


善福寺(平成21年(2009)11月29日、管理人撮影)。善福寺には嘉祥寺のものとみられる礎石があり、この付近が嘉祥寺の寺域であったことが知られる。

貞観寺僧正真雅A 〜僧綱不摂領〜

 貞観4年(862)7月27日、嘉祥寺西院は貞観寺と号することとなった。しかしながら、嘉祥寺西院の年分度者はそのままとなり、改められなかった(『日本三代実録』巻22、貞観14年7月19日丁亥条)

 貞観6年(864)2月16日、真雅は僧正に任じられ、法印大和尚位に叙された(『日本三代実録』巻8、貞観6年2月16日癸酉条)。このように真雅は僧綱内で名実ともに頂点にたっているが、さらに法印大和尚位も授けられたことが知られる。この法印大和尚位は僧綱の位階の改定によったもので、もともと僧綱位であった満位・法師位・大法師に追加して、法橋上人位・法眼和上位・法印大和尚位の三階を定めたもので、とくに法印大和尚位は僧正の階とされた(『日本三代実録』巻8、貞観6年2月16日癸酉条)。またこの僧綱の位階の改定は真雅の奏上によるものであったという(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)

 貞観14年(872)7月19日、貞観寺は嘉祥寺西院の年分度者を貞観寺の年分度者を改めるよう朝廷に申牒し、これは許可された(『日本三代実録』巻22、貞観14年7月19日丁亥条)。前述したが、嘉祥寺西院であった貞観寺が、嘉祥寺から独立した後も、嘉祥寺西院の年分度者は名称を改められることなく、そのままとなっていた。この年になって、ようやく嘉祥寺西院年分度者は貞観寺の年分度者となった。これによって名実ともに貞観寺は官寺としての体裁が整うこととなる。また後述するが、この間貞観寺には多数の田地が寄進されて多くの荘園を有するようになっていた。

 貞観14年(872)に檀越の太政大臣藤原良房が薨去したが、真雅の活動はその後もますます盛んとなっていった。貞観16年(874)3月23日、詔があり、貞観寺にて大斎会が設けられた。道場の完成のためであった。律師道昌を導師とし、大僧都慧達を呪願師とし、諸宗派の僧侶100人を屈請して威儀師とした。雅楽寮は唐・高麗楽を、大安寺は林邑楽、興福寺は天人楽を演奏した。先んじて公子や王孫の年少の者40人が出て互いに舞った。親王や公卿・百官がことごとく集まった。斎会終了後、導師以下100人の僧に度者それぞれ一人づつを賜った(『日本三代実録』巻25、貞観16年3月23日壬午条)。さらに夏装一具・絹2疋・衾1条を100僧に施したが、衾は四位・五位の大夫100人が東西に列をつくって並び、これを手づから捧げた。さらに宝樹を庭に立て、400の衾を掛けた。これは天皇が親王・公卿に勧めて施させたものであった。堂上や幢などで寺を荘厳した(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)。同年9月21日には貞観寺に定額僧16人を置くこととし、もし欠員があった場合、官に申請して補充することとした(『日本三代実録』巻26、貞観16年9月21日丙午条)

 貞観18年(876)8月29日、勅があって貞観寺座主を設置し、僧綱に摂領させなかった。これは真雅の奏上によるものであった。真雅は奏上の中で、天台宗に准じて特に座主を置き、僧綱に摂領させず、座主は必ず両部大法を受学した者を選び、修練・加行に堪えて師範となる者を、三綱・別当が連署して上奏して任命することとし、もし座主や定額僧の中で僧綱に任じられる者がいた場合、本寺に帰して寄住させないこととした(『日本三代実録』巻29、貞観18年8月29日癸酉条)。このように貞観寺は僧綱の「摂領」、すなわち管理下に置くことを拒絶、僧綱の同寺における関与を完全に否定した。また天台宗のように一山一寺の統轄者たる座主を設置して寺内にてその者を選び、その一方で、たとえ座主や定額僧であったとしても、僧綱に任ぜられた場合は貞観寺から去らせるといった、僧綱との関係を完全に断絶した寺院となった。このように僧綱の管理下から離脱すること、ないしは離脱した寺院を「僧綱不摂領」というが、貞観寺以降、同寺に准じて僧綱不摂領の寺院が増加することになる。

 真雅は貞観寺に居住することは少なかったらしい。というのも清和天皇が降誕以来、貞観16年(874)までの24年間内裏に宿直して天皇を護持していたからであった(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)。また貞観寺が僧綱と関わることを極端に避けさせていたことは前述した通りである。しかしながら、自身は僧綱の頂点にある僧正の地位にあり、貞観16年(874)7月11日以来僧正の辞職を求めて再三奏上を行なったにも関わらず、遂に許可されることはなかった。

 晩年真雅は病に伏せ、医者や薬に頼ることなく、手に拳印を結び、口に仏号を唱えて遷化した。享年79歳。元慶3年(879)正月3日のことであった。真雅は清和天皇が降誕以来、左右を離れずに日夜護持していたから、天皇ははなはだ親しく重んじていた。天皇は狩猟を好んでいたが、真雅の奏請によって山野の狩猟を禁じて、自らもこれを断った斗ではなく、摂津国蟹胥・陸奥国鹿尾の贄を御膳に充てることも止めたほどであった(『日本三代実録』巻35、元慶3年正月3日癸巳条、真雅卒伝)

 真雅には愛犬がいて、これを飼っていたが、真雅の弟子の聖宝(832〜909)は犬が嫌いで、真雅が出かけている間に、門のあたりに猟師が犬を欲しそうにしているのを見て、犬を与えてしまった。真雅が帰ってきて愛犬を呼んだが来ず、次の日も来なかった。真雅は怒って、「この房に犬が嫌いな者がいることを私は知っている。私が犬をかわいがっているのを受け入れない者には、同宿するわけにはいかない」といったため、聖宝はこれを聞き自分のしたことを顧みて恐れて出奔してしまった。長い間山林修行を行ない、都に戻ってきた聖宝の近くを藤原良房の車が通りかかり、良房の覚えを得ることができた。ある時聖宝が師真雅から勘当されていることが良房に知られると、良房は聖宝を伴って貞観寺の真雅のもとに行った。良房に連れられた聖宝を見た真雅は、些細なことで勘当してしまったことを残念に思っていたことを告白し、師弟関係が修復したという(『醍醐雑事記』巻第1、准胝堂)。この聖宝こそが、醍醐寺の開山で、真言宗を広沢流と二分する小野流の祖である。


僧正真雅像(『三国祖師影』大正蔵図像10)

貞観寺荘園の形成

 貞観寺は御願寺として発展した。真雅は藤原良房と密接に結びつき、清和天皇の身を昼夜問わず護持したように、朝廷を中心とする活動を行なって、真言宗の勢力拡大につとめた。そのこともあって真雅の仏教界における威勢は類をみないものとなり、「幸いにして時来にかない、久しく加護に侍る。かの両師(実恵と道雄)と比するに、たちまち高下を知らん」(『日本三代実録』巻5、貞観3年11月11日辛巳条)と評されたように、真言宗においてもかつて法兄らが到達したものを超えるほどの権勢を誇った。

 そのこともあって、真雅が管領する貞観寺には多くの荘園が寄進されることとなる。朝廷と密接な結びつきのある貞観寺に寄進することによって、租税から免れることを狙うとともに、有力者と接近して地域の権益の保護をはかる目的があった。

 貞観寺の所有する田地は合計755町7段82歩(749ha)、甲子園球場580個分(東京ドーム162個分、札幌ドーム136個分)に及んだ。そのうち熟田、すなわち耕作可能の田畑は327町7段242歩(325ha)と、45パーセントほどにとどまり、残りは荒田148町3段86歩、未開地271町6段1歩、畠8町113歩となっていた。

 貞観寺の荘園は、いずれも初期荘園の免除領田制に基づく免田形の荘園に分類される。免田形の荘園は、律令国家の地方支配機構を利用して国司や郡司に経営をまかせ、班田農民の小作である賃租による労働に依存するもので、律令制度が弛緩すると初期荘園の多くは10世紀までに衰退していき、貞観寺の荘園もまた、大半がその後の史料にみえない。これら貞観寺の荘園は、施入者のパターンがあり、この様相は当時の貞観寺、ひいては檀越の藤原摂関家の関係を見る上で興味深い。それらを列挙してみると、貞観寺の寺僧などの貞観寺関係者、建立に関わった藤原良房、貞観寺内に堂宇を建立した弟の藤原良相、大納言源定、天皇の出納を職掌とした内蔵寮、地方の有力豪族であった。

 その貞観寺領の様相を知ることができる史料として、仁和寺所蔵の「貞観寺田地目録帳」がある。これは「貞観寺根本目録」ともいい、貞観寺が領有していた田畑の目録で、貞観14年(872)に成立した。もとは貞観寺が所蔵していたが、のちに仁和寺心蓮院に伝来。その後仁和寺の所蔵となった。もとは二巻であったが、現在は一巻のみが残存しており、『平安遺文』第1篇に翻刻されている。この「貞観寺田地目録帳」は貞観寺の三綱が連署し、その奥に真雅と別当三綱が署名した。さらに「太政官印」が捺されており、ここに記録された所領は官による正式な認可があったものであることが知られる。

 まず、貞観寺の寺辺の畠は2町6段(約2ha)であったが、この地1町8段(約2ha)の内、道澄寺が建立された1町2段280歩は、建立の後、延喜3年(903)から承平3年(933)までの31年間に、道澄寺に売却してしまっていた。ただし1段300歩は観音の地とした(「貞観寺田地目録帳」頭書、仁和寺文書〈平安遺文165〉)。ここにある道澄寺は、藤原道明(856〜920)と橘澄清(861〜925)が深草に建立した寺院で、2人の名を一字づつとって寺名としたもので(「道澄寺鐘銘」)、道澄寺の鐘は奈良栄山寺に現存する。延喜21年(921)6月7日に故民部卿藤原道明卿の追福の法事が道澄寺にて修せられ、東山の住僧である蓮丹法師(861〜933)が参会しているが(『類聚雑例』長元9年6月1日条)、以後の状況は不明で、道澄寺は現在廃寺となっている。

 また貞観7年(865)3月23日に同じく貞観寺付近の地である九条深草東外里十二坪の宅地6段(約6a)を僧淳達が施入しているが、この地の四至は、秦浄山の家と田が東限で、南限は秦広守の家と道、西限は田と深草の楢原、北限は官畠と田であった(「僧淳達宅地施入状案」仁和寺文書〈平安遺文146)


 藤原良房が施入した荘園に美濃国の若女荘(岐阜県大垣市か)がある。同荘は16町9段162歩(約17ha)あった。このうち熟田は13町2段350歩(約13ha)、荒地は3町6段172歩(約3ha)であった。これらのうち、田7町2段150歩(約7ha)、荒地3町6段172歩(約3ha)は太政大臣(藤原良房)家の所有地で、貞観4年(862)9月8日の官苻で施入されたもので、田6町(約6ha)は安八郡大領である守部秀名が寄進したもので、貞観6年(864)10月9日の官苻で施入された(「貞観寺田地目録帳」仁和寺文書〈平安遺文165〉)

 藤原良相は貞観9年(867)2月19日に7ヶ荘を一挙に施入している。信濃国筑摩郡の大野荘(長野県東筑摩郡波田町)地102町2段(約102ha)のうち、熟田は10町3段156歩(約10ha)、荒田11町2段54歩(約11ha)、未開地は約80町6段154歩(約80ha)であった。武蔵国高麗郡の山本荘(埼玉県入間郡毛呂山町)の地9町7段300歩(約9ha)のうち、熟田2町2段260歩荒7町5段40歩(約2ha)であった。同国多摩郡の弓削荘(東京都青梅市ないしは東京都八王子市)の地4町1段20歩(約4ha)のうち、熟田は1町9段340歩(約2ha)、荒田は2町1段40歩(約2ha)であった。
 武蔵国入間郡の広瀬荘(埼玉県狭山市)の地33町5段288歩(約33ha)のうち、治田は31町5段288歩(約31ha)、畠は1町4段(約1ha)、林は5段(約5a)であった(「貞観寺田地目録帳」仁和寺文書〈平安遺文165〉)。この地は現在の狭山市上広瀬周辺で、入間川が広大な氾濫原を形成している。奈良・平安時代の遺跡の分布から、氾濫原は耕地、崖上は集落、台地の奥は林となっていたことが知られる。広瀬荘の立荘経緯は不明であるが、郡内権力の対抗上、奈良時代後期よりこの地に大規模な開発が実施されて初期荘園が形成されたことが契機とみられている(田中2007)
 下毛野(下野)国芳賀郡の小野荘(栃木県芳賀郡)の地14町2段300歩(約14ha)のうち、熟田は8町9段300歩(約9ha)、荒田は5町3段120歩(約5ha)であった。備後国の深津荘(広島県福山市深津町)は95町(約95ha)あり、うち浜は6町(約6ha)、山は89町(約89ha)であった。伊予国伊予郡の苧津荘(愛媛県伊予郡松前町)は田49町5段131歩(約49ha)であった(「貞観寺田地目録帳」仁和寺文書〈平安遺文165〉)。また施入年は不明であるが、藤原良相は貞観寺付近の地2段(約2a)を同寺に施入している(「貞観寺田地目録帳」仁和寺文書〈平安遺文165〉)


 丹波国桑田郡の辛鍛冶荘(京都府亀岡市か)は熟田20町(約20ha)で、故大納言源定(816〜63)の賜田を、貞観6年(864)4月2日の太政官符にて施入したものである。さらに美濃国大野郡の栗田荘(岐阜県揖斐川町)は熟田15町(約15ha)で、同国方県郡の枚田荘(岐阜県大垣市)は熟田15町(約15ha)であった。この両荘も源定の賜田で、貞観6年(864)4月9日の太政官符によって貞観寺に施入された(「貞観寺田地目録帳」仁和寺文書〈平安遺文165〉)

 また貞観4年(862)10月15日には、藤原忠宗(生没年不明)から貞観寺に山城国乙訓部の田地1町4段200歩(約1.4ha)が施入されている。この地の八条榎小田里三十三坪の地の3段(約2.9a)は、うち2反60歩(2.1a)がもと故左大臣藤原冬嗣(775〜826)の所有地であり、320歩(約0.3a)は川辺女王(?〜810)の所有田であった。そのため藤原冬嗣に売却されていたことは沽券(土地売買証文)に明らかであったが、承和11年(844)の田地明け渡しの日に誤って収公してしまっていた。また同郡八条衾手里四坪の地1町(1ha)のうち、2反172歩(約2.5a)も藤原冬嗣の所有地であり、4段□68歩(約4a)は川辺女王の所有田であった。これも藤原冬嗣に売却されていたことは沽券(土地売買証文)に明らかであったが、これもやはり承和11年(844)の田地明け渡しの日に誤って収公してしまっていた。また七条石城道里三十一坪の地の4段200歩(約4.6a)も藤原冬嗣の地であった(「太政官符案」仁和寺文書〈平安遺文134〉)。ここでの施入者である藤原忠宗は、『尊卑分脈』では藤原緒嗣(774〜843)の子とする。藤原式家の緒嗣と、藤原北家の冬嗣は、いわばライバル関係にあり、貞観寺建立に関わった藤原良房は冬嗣の次男である。冬嗣の所有地が何故式家の忠宗の手に渡っていたのか不明であるが、式家の忠宗が北家の良房の寺院に寄進したことは、彼らの力関係を象徴する出来事であったといってよい。

 また山城国紀伊郡鳥羽(京都府伏見区)にある内蔵寮の地9町2段239歩(約9ha)が、貞観6年(864)9月8日の太政官符によって施入されている。この9町2段239歩(約9ha)の内訳は、熟田3町1段206歩(約3ha)、畠1町8段144歩(約1ha)、荒地4町289歩(約4ha)であった(「貞観寺田地目録帳」仁和寺文書〈平安遺文165〉)。また山城国乙訓郡(京都府長岡京市・向日市・大山崎町全域、京都市西京区・南区・伏見区の一部)にある内蔵寮の地である浅水の田1町(1ha)が施入されているが、これは熟田であり、貞観4年(862)10月23日の官符により「戒本料」としたものであった(「貞観寺田地目録帳」仁和寺文書〈平安遺文165〉)。「戒本料」とは、布薩の時に用いるものである。布薩とは毎月15日と30日に寺々に集まって戒本を誦し、自省して罪過を懺悔する行事で、『三宝絵詞』では鑑真(688〜763)が伝えたものとしている。この時、戒本の条目を授ける者を「戒本師」といい、戒本料は戒本師の布施、布薩の費用を賄うための田のことを指した。戒本料は戒本田ともいうが、大寺において行われるのが通例となっていた。例えば戒本田の施入は貞観寺以前では七大寺をはじめとした南都の官寺や、全国の国分寺でのみ行なわれていたことであり、記録の上では、その他の寺院に戒本田が施入された前例がなく、貞観寺がその初見となっている。また内蔵寮の田地が施入されているが、中央官吏の給与財源不足を受けて官衙領が設けられたのは元慶3年(879)以降のことであるから、内蔵寮が有していた官衙領はその先駆的なものであった。天皇の財産管理・宝物の保管・下賜・調達といった出納事務を行なう職掌上、余剰財源の確保のためとみられ、大同4年(809)5月18日には河内国にある内蔵寮の田11町(約11ha)を伊勢継子に賜っており、その没後は収公して再度寮田とする予定になっていることから(『類聚国史』巻107、内蔵寮、大同4年5月癸亥条)、少なくともこれ以前には内蔵寮領は成立したとみられる。内蔵寮は天皇の財産管理を行なうのが職掌であるが、この時清和天皇はまだ14歳の少年であったから、内蔵寮田の施入は摂政藤原良房がイニシアチブをとって行なわれたのであろう。

 遠江国長上郡の市野荘(静岡県浜松市)は167町(約167ha)あり、うち熟田95町1段164歩(約95ha)、未開地は71町8段196歩(約72ha)であり、これも内蔵寮の荘地であったものを、貞観6年3月4日の太政官符によって施入したものである(「貞観寺田地目録帳」仁和寺文書〈平安遺文165〉)
 遠江国長下郡の高家荘の地12町9段324歩(約13ha)はすべて荒れ地で、清原池貞が一身田として賜っていたのを、貞観7年(865)9月14日の太政官符で貞観寺に施入された(「貞観寺田地目録帳」仁和寺文書〈平安遺文165〉)。「一身田」とは、文字通りその人一代に限って賜った田地のことをさすが、大同4年(809)5月18日に河内国にある内蔵寮の田11町(約11ha)を伊勢継子に一身田として賜った例があるように(『類聚国史』巻107、内蔵寮、大同4年5月癸亥条)、もとは内蔵寮田であった可能性があり、池貞が没するとともに内蔵寮に収公されるべきところを、貞観寺に移管したものと思われる。高家荘の所在は不明であるが、磐田市の天竜川河口付近とする説があり、天竜川の洪水のため荒れ地となったとされる(浜松市史)。貞観7年(865)10月28日に遠江国長上郡(静岡県浜松市)の空閑地160町が貞観寺に施入されているが(『日本三代実録』巻11、貞観7年10月28日丙子条)、詳細は不明である。

 また貞観寺付近の畠1町(約1ha)は、刑部丞の高階常河が寄進した地で、桧皮葺板敷で5間の建造物が1棟、桧皮葺の甲倉が1棟あった(「貞観寺田地目録帳」仁和寺文書〈平安遺文165〉)。同じく貞観寺付近の3段(約3a)は基範王が、5段は秦秋麿が売却した地で、貞観寺上座の延祚法師が私的に購入し、自願の千手仏悔過灯料として施入した(「貞観寺田地目録帳」仁和寺文書〈平安遺文165〉)

 美濃国長友荘(岐阜県大垣市)は権博士守部広島が荒廃空閑地を寄進したことにより成立し、貞観3年(861)12月27日・同6年(864)10月9日両度の太政官符で施入されたものである。荘地は116町2段83歩(約115ha)に及んだが、熟田は60町(65ha)に止まり、未開地は全体の半分近い56町2段83歩(約55ha)にも及んだ(「貞観寺田地目録帳」仁和寺文書〈平安遺文165〉)。この長友荘は、美濃国安八郡に含まれる5郷のひとつ長友郷(『倭名類聚抄(天理大学附属図書館本)』巻第7、美濃郷第89、安八郡)との関連が考えられるが、さらに安八郡の大領に守部秀名なる人物がおり(「貞観寺田地目録帳」仁和寺文書〈平安遺文165〉)、安八郡が守部氏の勢力範囲内にあったことが確認される。長友荘が成立した貞観3年(861)の段階では、まだ貞観寺は嘉祥寺の西院という、一子院の扱いにすぎなかったが、嘉祥寺の西院に真雅が力を入れていることを見抜き、それが後に藤原良房の後援を得て清和天皇の御願寺となる将来性を視野に入れて、その前から同寺に施入した守部氏の慧眼が知られる。

 伊賀国の比自岐荘(三重県上野市)7町4段314歩は、阿拝郡・山田郡・伊賀郡の3郡に散在していた。このうち熟田は6町1段350歩、荒地は1町2段324歩であり、散位日下部民継の寄進地である。貞観7年(865)9月5日の太政官符によって施入された(「貞観寺田地目録帳」仁和寺文書〈平安遺文165〉)。この荘名について、伊賀郡比自岐村に庄家があったからと考えられているが(角川地名辞典)、あるいは木津川の支流の比自岐川河畔に散在していたからこの名があったのかもしれない。

 貞観4年(862)2月7日の太政官符によって、大領掃部豊成が寄進した岡田の地が貞観寺荘園となった(「貞観寺田地目録帳」仁和寺文書〈平安遺文165〉)。この岡田の地は、山城国紀伊郡にあることから、岡田郷(『倭名類聚抄(天理大学附属図書館本)』巻第6、山城郷第68、紀伊郡)との関連が考えられ、宝永2年(1705)の『山城名勝志』では、岡田郷を東福寺の門前に岡田の地があることから、岡田郷の旧地をそこに比定している。貞観寺に施入された岡田の地は、合計6町8段283歩(約68ha)で、うち熟田は3町2段54歩(約3ha)、地が2段229歩(2,740平方メートル)とあって(「貞観寺田地目録帳」仁和寺文書〈平安遺文165〉)、残り3町4段(約3ha)ほどに関する記載がなく、不明となっている。また年未詳であるが、右大臣(藤原良相)より岡田の地の3町3段260歩(約3ha)の地が貞観寺に施入されており、このうち熟田が2町(約2ha)、荒田が1町3段260歩(約1ha)であった(「貞観寺田地目録帳」仁和寺文書〈平安遺文165〉)

 このように貞観寺の荘園として、多くの荘園があがっているが、これらは以後の様相が不明な場合が大半であり、初期荘園がどのような道をたどったかの典型的な例となっている。


沓塚(平成21年(2009)11月29日、管理人撮影)。京都市伏見区深草僧坊町に位置する沓塚は、円墳であり、宮内庁によって陵墓参考地に治定されている。沓塚は聖宝が示寂した際に沓(くつ)を埋めたという伝承があり、そのことからこの周辺は聖宝が示寂した普明寺跡とみなされた時期があった。

貞観寺の堂宇と子院

 仁寿2年(852)に真雅は貞観寺を建立したというが(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)、貞観寺の寺号を賜ったのはこの後のことであるから、この時点ではまだ嘉祥寺西院であった。この仁寿2年(852)から漸進的に造営が進められていき、最終的には金剛界堂・大堂礼堂・胎蔵堂・新堂・宝塔・五大堂・南堂・潅頂堂・食堂・渡廊・雑舎・経蔵・鐘楼・南大門が林立する大寺院となった。貞観寺は「天皇一代が新たに修造された御願寺」とみられているが(『新儀式』巻第5、臨時下、造御願寺事)、藤原摂関家と天皇を結びつける象徴的な役割を有しており、それらは堂宇の発願でなされていた。

 金剛界堂は、三十七尊像と天部の像が合計70余体造立・安置されていた。これは大皇太后の御願であった(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)。この金剛界堂は西堂とも呼ばれており、皇太后の御願であったという(『日本三代実録』巻25、貞観16年3月23日壬午条)。ここにみえる「大皇太后」「皇太后」は染殿后こと藤原明子(829〜900)である。藤原明子は、良房の娘で、清和天皇の母である。

 大堂礼堂には、尊勝仏像・観音・地蔵菩薩像、金色の梵王・帝釈・四天王像が造立・安置された。これは朝庭(文徳天皇)の御願であった(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)。この堂は『日本三代実録』には「新道場」としてみえ、貞観16年(874)3月23日に落成のための大斎会が実施されている(『日本三代実録』巻25、貞観16年3月23日壬午条)。この堂では仏供ならび灯油料として白米が日に6升、小豆が日に9合、油が一晩に3合施入されており、これらは尊勝仏・延命菩薩分および、聖僧の合せて3座(3人分)の料とされた(『延喜式』巻26、主税上、貞観寺仏供并灯油料)

 胎蔵堂には、胎蔵曼荼羅仏像および天部の像が建立・安置された。これは真雅の私願である(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)。この胎蔵堂は「東堂」とも称され、三摩地法はあたかも天上にいるかのように修され、三昧耶界は自然に下界に降りてきたかのようであったと称された。この堂が嘉祥院の後園として造立され、貞観寺のもととなった建物であった(『日本三代実録』巻25、貞観16年3月23日壬午条)。なお貞観8年(866)12月22日に仁明天皇の深草山陵の四至が改定されているが、深草山陵の西限は貞観寺の東垣となっている(『日本三代実録』巻13、貞観8年12月22日癸巳条)

 新堂は先太政大臣(藤原良房)が発願した堂で、金色の釈迦仏像・左右脇士、檀色(白檀色か)の梵王・帝釈四天王等の像が造立・安置された(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)。またこの釈迦像は丈六であった(『日本三代実録』巻25、貞観16年3月23日壬午条)。なお承平元年(931)9月30日に重明親王(906〜54)は父醍醐天皇陵に参った後、貞観寺を参詣しているが、「良房太政大臣の堂」の仏像に礼拝し、柱絵に描かれた「八相成道」(釈迦の生涯を八つの場面で描いたもの)を視ており、貞観寺座主(延憲)がその意味を説明した(『吏部王記逸文』承平元年9月30日条、『醍醐寺雑事記』所引)。これは日本最初の絵解きの記録として知られる。

 他に西三条右大臣(藤原良相)が発願した宝塔には五大虚空蔵菩薩像5体が安置され、また同じく良相が発願した五大堂には五大尊像が安置された。また真雅の私的な念誦堂であった南堂には、金銅の仏像10余体が造立・安置されており、貞観寺側が建立した潅頂堂および食堂・度廊(渡廊下)・雑舎や、木工寮が建立した経蔵・鐘楼・南大門が貞観寺の建造物としてあげられる(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)

 他に観音堂があり、貞観5年(863)に貞観寺観音堂の灯分料として山城国紀伊郡紀伊里十九坪の田畠8段(約8a)が施入されたというが(「民部省勘文案」仁和寺文書〈平安遺文136〉)、この観音堂とその周辺事情については後述する。なお貞観寺付近に1段300歩の田畑があり、これは観音の地とされているから(「貞観寺田地目録帳」頭書、仁和寺文書〈平安遺文165〉)、あるいは観音堂がある程度の早い段階からあったのかもしれない。また仁和元年(885)11月18日に貞観寺西僧坊の小子房にて『蘇婆呼経』巻下が書写されており(石山寺所蔵『蘇婆呼経』巻下、奥書〈平安遺文題跋編79〉)、僧坊があったことが確認される。現在京都市伏見区深草に「僧坊町」という地名が残り、あるいはこの西僧坊の跡地であったのかもしれない。


 普明寺は貞観寺の子院とされているが(大隅1976)、その根拠は不明である。普明寺の建立経緯などは不明であるが、前身として考えられる寺院に、真雅が建立した普明院がある。

 普明院は仁明天皇の女御藤原貞子(?〜864)が亡き天皇のために建立したものであり、斉衡2年(855)3月11日に参議伴善男(811〜68)が使となり、この院を造営するよう真雅に伝達していた。同月15日に伴善男はまたやってきて、造寺に預からせる僧の名簿を要請した。真雅は嘉祥寺の寺主の□祚を推薦した(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)。この「□祚」であるが、貞観5年(863)の「貞観寺畠相博状案」(仁和寺文書、平安遺文141)に貞観寺の上座として署名している延祚(生没年不明)とみられ、「貞観寺田地目録帳」にも「上座延祚」と署名がみられることから、少なくとも貞観14年(872)まで同職にあった。すなわち貞観寺と普明院がかなり深い関係にあったことは確実であり、貞観寺上座の職位もまた、真雅の力によって得たものであったようである。また延暦寺山王院に瑜伽師地論・成唯識論述記を施入している延祚大徳なる人物がいるが(『山王院蔵書目録』)、この延祚と如何なる関係があるか不明である。

 延祚が真雅によって普明院の年預として推薦されたのは、前述したように斉衡2年(855)3月15日のことであったが、同月25日に伴善男はまたやってきて、基趾の地で地鎮し、堂舎を建立して尊像を造立し、一切経を書写した(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)。藤原貞子は仁明天皇の寵愛深く、貞子薨後の貞観6年(864)には仁明天皇の深草山陵の兆域内に埋葬されたほどであった(『日本三代実録』巻9、貞観6年8月3日丁巳条)。藤原貞子薨後はその娘が普明院と関わっていたらしく、貞観8年(866)3月11日、右大臣(藤原良相)は堀河院内親王(平子内親王か)の命によって、左中弁藤原家宗(817〜77)を使とし、普明院を真雅に付属させた。そこには「今より以後は敬って(真雅に)付属し、事々のすべては貞観寺のようにし、座主・三綱を住持とする」とあった(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)

 この普明院がいつ寺号を得たのか不明であるが、普明寺は真雅の門弟聖宝(832〜909)と深い関わりを有している。聖宝は普明寺にて7ヶ日間、仏法相応の霊地を祈念すると、その時醍醐寺の建立すべき地を得たという(『醍醐寺縁起』)。また聖宝は普明寺にて8尺(240cm)の四天王像を造立し、大部大乗経を書写し、大会を供している(『聖宝僧正伝』)。さらに聖宝は延喜9年(909)4月、普明寺にて病に罹り、陽成上皇は見舞いのため御幸し、宇多法皇も同じく御幸し、右丞相(右大臣源光か)も見舞いに訪れており、聖宝は同地で示寂している(『聖宝僧正伝』)。また説話であるが、聖宝が普明寺で示寂し、入棺した後に怪異な出来事があったため、棺を開けてみると幡だけが残っていたという(『密宗血脈抄』聖宝)。この説話は後に、聖宝が示寂した後に岩上に靴が二つだけあったため、その場所を「履之鼻(くつがはな)」と呼んだといい(『山城名勝志』巻第16、普明寺)、現在宮内庁によって陵墓参考地に治定されている沓塚にまつわる説話となっている。

 普明寺がいつ廃寺となったかは不明であるが、法隆寺の講堂再建説話に登場している。それによると、法隆寺講堂は焼失したが、この時の別当観理僧都は、近江(滋賀県)の荘園と引き替えに普明寺の建物を移建したという(『聖徳太子伝私記』下巻、講堂)。ところが法隆寺の講堂は解体修理における発掘調査によって、移建の痕跡が全くなかったことから、移建説は否定されているが、聖宝が法隆寺に東院を創立したという説話があることから(『五八代記』)、普明寺の聖宝と法隆寺との間には何らかの関係があり、また講堂が火災の後、上御堂が講堂の代用となっていたことから、普明寺から移建された建造物は、上御堂であった可能性が考えられている(太田1972)。なおこの堂は永祚元年(989)に倒壊しており、現在の上御堂は元亨4年(1334)に落成したものである。


 貞観寺のほかの子院として、法勝院があげられる。法勝院は貞観寺内にあったといい(『仁和寺諸院家記(恵山書写本)』下、法勝院)、建立年次は不明であるが、法勝院領は建立当初から領掌されており、海印寺座主基遍大法師が領掌していたという(「法勝院領目録」仁和寺文書〈平安遺文302〉)。この基遍は延長6年(928)に東大寺別当に補任された大法師基遍(『東大寺要録』巻第6、別当章第7、和上次第)と同一人物と思われるから、法勝院は10世紀前半にはすでに建立されていたことが知られる。

 法勝院は安和2年(969)7月7日子時(午後11時)に、9間四面庇の西僧房が焼失しており、この時、所領に関する公験文書の一切を焼失してしまったため、法勝院領を確認するための紛失状が作成されている。それによると法勝院領は山城・摂津・伊予・備前・甲斐・大和の6ヶ国にわたって、およそ80町(約80ha)にもおよぶ広大な寺領を有していた。その一例を甲斐国市河荘でみてみると、市河荘は13町9段310歩で、巨麻郡・山梨郡・八代郡にまたがって散在していた(「法勝院領目録」仁和寺文書〈平安遺文302〉)。この市河荘は、官物・年貢や臨時雑役・公事を免除された、免除領田制に基づく免田形の荘園であるとみられる(網野1990)

 その後法勝院は、仁和寺心蓮院の俊玄(生没年不明)が領掌している(『仁和寺諸院家記(恵山書写本)』下、法勝院)。俊玄は仁和寺心蓮院を再興した人物で、正和4年(1315)3月に二条兼基より伊勢国中島御厨を寄進されている(『仁和寺諸院家記(恵山書写本)』上、心蓮院)。以後仁和寺心蓮院と法勝院の関係は不明であるが、俊玄より附法した定我が、法勝院の本寺である貞観寺の座主となっており、以後4代にわたって仁和寺心蓮院の者が貞観寺座主となっている(『仁和寺諸院家記(恵山書写本)』上、心蓮院)。このように貞観寺は事実上仁和寺心蓮院の末寺となっているから、仁和寺心蓮院の俊玄が法勝院を領掌していたことは、貞観寺が仁和寺心蓮院の末寺となる転機であったとみてよい。


 貞観寺は普明院・法勝院といった子院のほか、本末関係にある末寺が存在した可能性があるが、それらがあったかどうかはわかっていない。ただし、貞観寺の末寺であると詐称した寺院が存在した。

 伊勢国成願寺は、永承年間(1046〜53)から康和元年(1099)まで半世紀もの間、東寺との間に伊勢国大国荘・川合荘の領有権をめぐって争っている。その中で成願寺は創建についてたびたび主張をかえている。最初は嵯峨天皇の御願で、所領は貞観5年(863)9月3日の官符で成立したとし(「伊勢国成願寺牒」東寺百合文書里〈平安遺文1187〉)、二度目は、秀良親王(817〜95)が勅旨田を承和年間(834〜48)の官符で施入したことで所領が成立したとし(「伊勢国成願寺僧観範解」東寺百合文書里〈平安遺文1219〉)、三度目は秀良親王と観宿大僧都(844〜928)がともに発願して建立したとし(「堀河天皇宣旨」東寺百合文書こ〈平安遺文1296〉)、さらに秀良親王が承和2年(835)3月15日の官符で成立した所領を、昌泰年間(898〜901)に国家のために寺院を建立し、所領を施入したとも主張していた(「東寺符案」東寺百合文書京〈平安遺文274〉)。発願者が嵯峨天皇・秀良親王・観宿と様変わりし、建立年時も寛平7年(895)に薨去した秀明親王が、薨去後の昌泰年間(898〜901)に建立したというような、極めて矛盾の多いものであった。

 そのような中で、成願寺側は貞観寺の末寺であると主張していたらしい。東寺側が得た証言によると、成願寺は貞観寺の末寺ではなく、物部頼季の伯父の隆源が差配していた寺であった。この隆源は争論の地である伊勢国出身者で(「東寺別当時円請文案」東寺百合文書こ〈平安遺文1297〉)、貞観寺上座であったが、隆源が所持していた公験は、観範が押領したという(「東寺領伊勢国川合荘文書進官目録案」東寺百合文書ニ函3〈平安遺文1249〉)。さらに成願寺庄司の物部頼季が東寺方田十五町の預職に補任されたが、永保3年(1083)8月16日に物部頼李が大国・川合両荘の文書を写し取り、成願寺別当の観範と同心して文書を偽作したといい、さらに隆源が殺害されると、観範は成願寺を押領したという(「東寺別当時円請文案」東寺百合文書こ〈平安遺文1297〉)

 このように成願寺の観範は、東寺・貞観寺の文書をもとに文書を偽造し、論田の領有権を主張しており、その辻褄合わせのため、発願者や建立年の主張がかわっていたのであった。実際に発願者の一人と主張する観宿は、東寺長者で貞観寺座主を兼任した人物であった。

 貞観寺観音堂の灯分料として田畠8段(約8a)を施入した貞観5年(863)9月3日付の文書があるが(「民部省勘文案」東寺百合文書〈平安遺文138〉)、そうした点を踏まえた上で検討を重ねると、矛盾点が多く、実態が不明となっている。まず灯分料の田畠8段(約8a)の内訳であるが、うち4段(約4a)は山城国紀伊郡紀伊里十九坪の地で、宝亀年間(770〜81)・承和年間(834〜48)・嘉祥年間(848〜51)等の図注に源定(816〜63)の賜田とあったという。さらに深草里二十九坪の2段(約2a)は同じく図注にも源定の賜畠とあり、飯喰里十九坪の2段(約2a)も同じく図注に源定の賜田とあったという(「民部省勘文案」仁和寺文書〈平安遺文136〉)。このように宝亀年間(770〜81)の図注に、まだ生まれていないはずの源定が所有する地が記載されているものとする。さらにこの地を施入したのは秀良親王(817〜95)とあるが(「民部省勘文案」仁和寺文書〈平安遺文136〉)、この施入日と同日の貞観5年9月3日付で、源定の賜田を秀明親王が成願寺に施入したとする文書がある(「民部省勘文案」東寺百合文書〈平安遺文138〉)。この文書は、前者をヒントに偽作された文書であるとされるが(村井1957)、矛盾点が多いことや、貞観寺の公験も押領されていることから、前者の文書もまた観範らによって偽造されたものとみてよい。実際に施入されたはずの山城国紀伊郡紀伊里十九坪の地は、「貞観寺田地目録帳」に記載されておらず、つまり他者によって存在が偽造された実在しない幻の所領であった。一見成願寺側に利益のないこの文書が偽造されたのは、賜田→源定→秀明親王→寺領という成願寺が描いた図式が、係争中の東寺に疑われたことによるもので、東寺と同様の権威を有する貞観寺も、この図式を持つ所領を有していたことを主張することで、成願寺が描いた図式に信憑性を持たせるとともに、貞観寺の末寺であると主張する根拠を得るためのものであったのであろう。

 成願寺の主張の大半は、弁護する側ですら疑わせるものであったらしい。成願寺は現在廃寺となっており、その所在地すらわかっていないが、皮肉なことに、貞観寺は12世紀以降、成願寺と係争した東寺の末寺となっている。


法隆寺上御堂(平成21年(2009)12月28日、管理人撮影)。『聖徳太子伝私記』には、法隆寺の講堂は普明寺より移されたものとある。講堂は移建の跡がないため、同時期に講堂とみなされたことがある上御堂が普明寺より移建されたものと考えられている。現在の上御堂は鎌倉時代後期の再建。

貞観寺座主

 貞観寺の住持職は座主(ざす)と呼ばれた。座主は平安時代初期に寺院を統轄する長官の称号として発生し、それまで用いられてきた別当に変わって天台・真言両宗において用いられるようになった。とくに有名なのは延暦寺・醍醐寺であるが、貞観寺も座主位が寺を統轄する長官の称号として用いられた。貞観寺座主は貞観18年(876)8月29日に勅によって設置された(『日本三代実録』巻29、貞観18年8月29日癸酉条)。前述したように、貞観寺は僧綱不摂領の寺院であり、三綱の上に設置された座主は、僧綱の監督を受けない独立した権限を貞観寺に行使することが可能となっていた。

 貞観寺は、嘉祥寺西院が真雅に付属され、寺号を得て独立した寺院であったから、それを最初に統轄したのは真雅であったとみてよいが、元慶9年(885)12月29日に恵宿(生没年不明)が貞観寺座主となっており(『故僧正法印大和尚位真雅伝記』)、記録にみえる限りでは恵宿が最初の貞観寺座主となっている。すなわち元慶3年(879)正月3日に真雅が示寂してから6年間、貞観寺を誰が統轄していたのか、わかっていないのである。

 その間、元慶3年(879)10月から清和太上天皇が宗叡(809〜84)とともに畿内寺院歴覧の旅に出ているが、その最初の地が貞観寺であった(『日本三代実録』巻38、元慶4年12月4日癸未条、清和太上天皇崩伝)。ところがその旅の最中、元慶4年(880)12月4日に清和太上天皇は崩御してしまう。貞観寺は清和天皇を護持するために建立された寺院であったから、このことはその後の根幹に関わる重要事項であった。同年12月10日に清和太上天皇崩御後の初七日を7ヶ寺で行なっているが、その中に貞観寺も含まれており(『日本三代実録』巻38、元慶4年12月10日己丑条)、元慶5年(881)正月7日には清和院の院物が施入されている(『日本三代実録』巻39、元慶5年正月7日丙辰条)。さらに三回忌にあたる元慶6年(882)12月4日には勅使を貞観寺・円覚寺・水尾山寺に遣わし、貞観寺には綿411屯を賜い、御期料としている(『日本三代実録』巻42、元慶6年12月4日壬寅条)。元慶7年(883)12月5日に、貞観寺の年分度者の試度(得度の試験)日を3月4日から12月4日に改定しているが(『類聚三代格』巻第2、元慶7年12月5日官苻)、前者の日は清和天皇の降誕日、後者の日は清和天皇の崩御日であった。このように、貞観寺の位置づけは、清和天皇を護持する寺院から、清和天皇の霊を弔う寺院と、位置づけが変化していったことが窺える。

 最初の貞観寺座主としてみえる恵宿は、真雅によって東寺の経蔵預に任じられていたが(『東寺要集』)、貞観18年(876)6月6日に、真雅と同じく空海の弟子であった真然(804〜91)の要請によって『三十帖策子』を彼に貸し出す使者となっている(『根本大和尚真跡策子等目録』〈大正蔵2162〉)。『三十帖策子』とは、空海入唐中の学習ノートであり、帰朝後空海はこれを手元に置いていた。東寺に納められて、以後門外不出となっていたが、前述したように真然のもとに届けられたのである。真雅は深遠に東寺に返納するよう迫っていたが、元慶3年(879)正月3日に真雅が示寂してしまい、さらに東寺長者に就任した宗叡と真然は仲が悪かったため、ついに東寺に返納されなかった。その後真然は『三十帖策子』を高野山金剛峰寺に納め、自身が高野山と平安京を往還する際には常に身に携帯していた。真然示寂後に金剛峰寺座主となった無空(?〜916)が示寂すると、観賢(854〜925)が東寺に取り戻したのであった(『東寺要集』)

 恵宿の後、貞観寺座主職は空席となっていたらしいが、寛平2年(890)に聖宝(832〜909)が貞観寺座主に任じられている。これは宇多天皇が真然僧正に対して宛てた書簡が契機となったもので、宇多天皇は、「残暑を思えば、お体いかがでしょうか。山(高野山)と館は隔たっていますが、頼みにすることは近いかのようです。苦行して年を送り、心を馳せることをどうして忘れましょう。朝夕の慈護を深くお願いするところです。貞観寺の座主は、久しく空席となっており、庶務が滞っています。誰を任命しようかと思っていますが、ただ聖宝師は深く真言を守っています。今この人を補任してはいかがでしょうか。ご教示ください」と真然に書き送っている。真然はこれを受けて、聖宝を貞観寺座主に推挙した(『聖宝僧正伝』)。前述したように、聖宝は真雅の弟子であり、かつ真然にも師事していた。また貞観寺の子院とみられる普明寺と関係が深く、そこで示寂している。

 聖宝の後、貞観寺座主となっているのが、観宿(844〜928)がおり(興福寺本『僧綱補任』巻第2、延喜18年条)、延喜9年(909)9月3日には貞観寺にて修法が行なわれている(『貞信公記』延喜9年9月3日条)。また済高(857〜942)は貞観寺座主・勧修寺別当を兼任した(興福寺本『僧綱補任』巻第2、延長3年条)。延長3年(925)閏12月4日には延憲(生没年不明)が貞観寺座主の宣旨を受けて補任されており(『貞信公記』延長3年閏12月4日条)、承平2年(932)3月7日には貞誉(873〜944)が貞観寺座主に補任されている(『東寺長者補任』巻第1、天慶7年、権律師貞誉伝)

 この後、貞観寺の活動の詳細は明らかでないが、東寺の末寺として位置づけられ、東寺潅頂会をはじめとした多くの法会に貞観寺僧の姿がみえる。万寿4年(1027)9月26日には東寺潅頂会の讃衆として貞観寺の勧慶が招集されており(「潅頂会讃衆請定」東寺百合文書カ函1)、長元3年(1030)11月9日には東寺潅頂会に貞観寺僧が招集された(「東寺潅頂会讃衆廻請」教王護国寺文書3)。長元8年(1035)10月8日には潅頂会の讃衆として貞観寺の僧が招集され(「潅頂会讃衆請定」東寺百合文書よ函1)、長暦2年(1038)10月27日にも東寺結縁潅頂会に貞観寺の僧が招集され(「潅頂会讃衆請定案」東寺百合文書ニ函2)、同4年(1040)10月7日、翌月十五日の東寺潅頂会にも貞観寺の僧が招集され(「結縁潅頂会讃衆請定」東寺文書六芸之部楽乙-9-3)、康和3年(1101)12月11日の東寺潅頂会の讃衆に貞観寺僧が招集された(「結縁潅頂会讃衆請定案」東寺文書六芸之部書14-7)。さらに長治元年(1104)11月4日には東寺潅頂会の讃衆に貞観寺僧が招集されているが、ここでは貞観寺は東寺の末寺と位置づけられた(「結縁潅頂会讃衆請定」東寺文書六芸之部楽乙-9-3)。永承7年(1051)6月5日には八省院大極殿の観音経転読僧千口に貞観寺の僧が招集され(「千僧読経東寺分僧廻請」教王護国寺文書4)、嘉承3年(1108)の宮中真言院後七日御修法の請僧として、東寺末寺の貞観寺永舜が招集され(『御質抄』末)、天仁3年(1110)の宮中真言院後七日御修法の請僧として、東寺末寺の貞観寺永俊が招集され(『御質抄』末)、天永3年(1112)の真言院後七日御修法に東寺末寺の貞観寺僧永意が招集された(「真言院後七日御修法請僧交名案」東寺文書六芸之部書14-11)

 それから200年ほどの貞観寺の動向は不明であるが、14・15世紀頃には貞観寺座主に、仁和寺の子院である心蓮院の院主が就任する例が続き、定我(生没年不明)・定澄(生没年不明)・守融(生没年不明・東寺長者)・永盛(1354〜1421)が就任している(『仁和寺諸院家記(恵山書写本)』上、心蓮院)。仁和寺心蓮院は、心蓮坊と号した世毫(1076〜1153)が建立した院家であり、鳴滝の福王子の西側に位置し、付近に華蔵院・深修庵があった。その後荒廃したが、14世紀に俊玄が再興し、二条兼基の祈願所となっていた(『仁和寺諸院家記(恵山書写本)』上、心蓮院)。この俊玄は、貞観寺の子院法勝院を領掌しており(『仁和寺諸院家記(恵山書写本)』下、法勝院)、心蓮院ではじめて貞観寺座主となった定我は、俊玄の附法の弟子であった(『仁和寺諸院家記(恵山書写本)』上、心蓮院)。また貞観寺の文書は心蓮院に移管され、「貞観寺田地目録帳」も心蓮院が所蔵していることから、貞観寺領もこの時有名無実となっていたようである。

 その後の貞観寺について、ほとんどわかっていない。衰退して廃寺となったとも、応仁の乱で壊滅したともいうが、その正確な時期を知る手がかりはない。伏見区に現存する墨染寺は、古の貞観寺の旧地で、その西端にあたっていたという(『山州名跡志』巻之13、紀伊郡、墨染寺)。他に伏見区深草僧坊町という地名が残り、貞観寺の西僧坊の跡地とみられる。



[参考文献]
・京都府史蹟勝地調査会編『京都府史蹟勝地調査会報告 第1冊』(京都府、1919年)
・村井康彦「平安時代における庄園経営の諸相」(『ヒストリア』19、1957年8月)
・京都府教育庁文化財保護課編『名神高速道路路線地域内埋蔵文化財調査報告』(京都府教育委員会、1959年)
・西口順子「平安時代初期寺院の考察-御願寺を中心に-」(『史窓』28、1970年。のち『平安時代の寺院と民衆』〈法藏館、2004年9月〉所収)
・太田博太郎「普明寺堂の法隆寺移建について」(『仏教芸術』84、1972年3月)
・熊谷保孝「四季御読経と貞観寺真雅」(『政治経済史学』118、1976年3月)
・大隅和雄『聖宝 理源大師』(大本山醍醐寺寺務所、1976年4月)
・小山田和夫「『故僧正法印大和尚位真雅伝記』と『日本三代実録』真雅卒伝について」(『日本歴史』363、1978年8月)
・竹居明男「嘉祥寺・貞観寺雑考」(『文化史学』39、1983年11月。のち『日本古代仏教の文化史』〈吉川弘文館、1998年5月〉所収)
・総本山仁和寺・京都国立博物館監修『仁和寺大観』(法蔵館、1990年)
・網野善彦「甲斐国の荘園・公領と地頭・御家人」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第25集、1990年)
・佐伯有清『聖宝〈人物叢書202〉』(吉川弘文館、1991年6月)
・奈良六大寺大観刊行会編『奈良六大寺大観』第1巻(岩波書店、1991年)
・古藤真平「仁和寺の伽藍と諸院家(中)」(『仁和寺研究』2、2000年)
・秋山敬『甲斐の荘園』(岩田書院、2003年)
・田中広明「武蔵国の地域開発-貞観寺領入間郡広瀬庄について」(『古代文化』59(2)、2007年9月)


墨染寺(平成21年(2009)8月13日、管理人撮影)



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