山王院



比叡山延暦寺東堂山王院(平成16年(2004)11月13日、管理人撮影。ちょっと暗いけど…) 

 山王院は東塔の惣持院の西方に位置(外部リンク)する小堂です。見た目は、まるで田舎の小高い丘にあるひなびた神社のようです。ここは智証大師円珍(814〜91)の住房であったことで知られています。


山王の起源

 延暦4年(785)7月中旬、最澄は寂静の地を求めて叡山に昇り、草庵を構えてそこに住した(『叡山大師伝』)。奈良時代末期より平安時代初期にかけて、寺院より離れて人里離れた深い山中に草庵を構えて住む僧が多くなっていった。最澄のその一人であるが、最澄が叡山に構えた草庵は、後に延暦寺という巨大寺院へと発展していくのであるが、この時は山にわずかな建物があるだけの存在でしなかった。それでも最澄在世中より叡山の伽藍は増加していき、しだいに寺院としての体裁が整ってくるようになっていった。

 最澄は弘仁9年(818)4月26日、九院を定めたが、その九院には止観院定心・惣持院・四王院戒壇院・八部院・西塔院・浄土院とともに山王院が含まれている(『叡岳要記』巻上、九院)。その5日前の4月21日に最澄が記した「弘仁九年比叡山寺僧院等之記(日本国大徳僧院記)」(園城寺蔵)の中で「仏法を住持し、国家を護らんがために、十方一切の諸仏、般若菩薩、金剛天らの八部護法善神王ら、大小比叡と山王眷属、天神地祇、八大名神、薬応、薬円、心を同じうして大日本国を護り(後略)」と述べている。ここで最澄は他神とともに「山王眷属」をあげ、「山王眷属」が護国に利することを主張している。


 ここで突然「山王」となるものが登場するのであるが、この「山王」はもともと日本にあった概念でも、最澄が創始した概念でもない。最澄が入唐した際に入寺した国清寺には「地主山王元弼真君」なる祠があったという。これについて熙寧5年(1072)に入宋した成尋(1011〜81)は天台山に参詣した時の見聞として以下のように記している。

 「次に地主山王元弼真君に礼拝した。真君は周の霊王(前571〜前545)の子で、王子晋といい、寺は王子の邸宅であった。王子は仙人となってから数百年を経て、智者大師に謁見して受戒し、地(天台山)に付属した。あたかも日本天台の山王のようである。『天台記』に“真人は周の霊王の太子喬であり、字は子晋。笙を吹くことを好み、鳳凰が鳴くような音をたてた。伊洛(伊川と洛陽。現在の河南省一帯)の地にいる間、道人浮丘公に接し、嵩山に登ること30余年後、その行方はわからなかった。たまたま白鶴に乗り、その時代の人に(出会って)謝して去った。この時真人は桐柏真人・右弼王・領五岳司といった仙官に任命され、帝に侍って治華山に来た”とある」(『参天台五台山記』巻第1、熙寧5年5月14日癸巳条)

 真君は『列仙伝』にも伝がある道教の神であるが、成尋は真君を「あたかも日本天台の山王のようである」としている。この真君について、唐の元和年間(806〜20)に記された天台山に関する伝記・地誌集である『天台山記』に「塘より南1里、洞門に至り、門外の西南1里余で、王真君の壇に至る。真君はすなわち桐柏真人である。小殿があり即ち真君の儀像がおごそかである。開元年間(713〜41)の初め、玄宗皇帝がこれを創立した。道士7人を得度させ清掃し水を打つことをさせた」とあるように、最澄が入唐する60〜90年ほど前に玄宗皇帝によって王真君壇が建立されていることが知られる。後唐朝(923〜36)の天台山僧の従礼は、真君を祀ることを在家の人に薦めた時、真君の説話を語った上で、「そのため天台山の僧坊・道観(道教の寺院)では、みな右弼(真君)の形像をつくって、香果(かくのみ)を捧げるのだけなのである。これより俗間は号して山王土地とすることは非なることである」(『宋高僧伝』巻第16、明律篇第4之3、後唐天台山福田寺従礼伝)とあるように、天台山では真君の塑像をつくって祀ることが盛んであり、真君は「山王」と称されていたことが確認される。

 このように最澄は中国天台山における「山王」、すなわち真君祠にならって、叡山においても山王を比叡寺(のち延暦寺)に祀ったものであった。しかし中国天台山が山王を道教の神としたのに対して、最澄は日本の国情にあわせて、地神の日吉の神を山王として信仰した。のちに「山王信仰」として日吉の神々に対する信仰は形成されていったが、山王院の位置づけは明確にされなかったようである。


山王院の建立

 弘仁9年(818)4月26日、最澄は九院を定め、そのなかに山王院が含まれており(『叡岳要記』巻上、九院)、最澄の九院設立構想の中に山王院が位置づけられていた。しかし同年7月27日に十六院を定めた時には山王院はみえていない。

 山王院には5尺(150cm)の千手観音立像1体と聖観音像1体が安置されており、建造物は桧皮葺の5間堂であった。これは仁寿年間(851〜54)に藤原基経(836〜91)がもと板葺であった堂を桧皮葺の新堂に改めたものである(『山門堂舎記』山王院)

 山王院の建立についての詳細はわかっていないが、『叡岳要記』・『山門堂舎記』には山王院の建立縁起として、3説話を掲載しており、それぞれが異なった内容となっている。以下に3説話を掲げておく。

 @養老6年(722)正月に稽首勲が千手観音像を造立したが、天平宝字元年(757)12月18日にこの像は天に飛び去ってしまった。丑寅(東北)の方角の高峰に落雷があり、天皇は勅使を丑寅の高峰に遣わした。この仏像は木の根本に安座しており、取り出そうとしたものの、この仏像は動かなかった。勅使は力及ばず、空しく帰ってこの旨を上奏した。天皇は聞いて、これより以後は取り出してはならないと命令した。延暦4年(785)、最澄が叡山に登った時、草庵を結んでこの千手観音像を安置した。その後、山王院の号を宣下された(『叡岳要記』巻上、山王院、所引尊敬記)

 A伝教大師(最澄)が三輪明神を勧請して鎮守とした(『叡岳要記』巻上、山王院、所引山王院縁起逸文)

 B叡山に最澄が草庵を構える以前、近江国に一人の信女がおり、道心は甚だ深く、信じる力は堅固であり、六道衆生に利益せんがために6体の観音を造立することを願っていた。時に比羅山に光を放つ木があった。彼女は夢に瑞相をみて、ついで霊木を伐採した。後に一老父がやってきて、「我まさに汝の願うところの像をつくらんと欲す」といって、江(琵琶湖)のほとりまで材を曳き、山頂に斧を運んで彫刻した。日を経ないうちに完成したが、老夫は見えなくなっていた。(この観音は)六観音の一つである(『山門堂舎記』山王院、耆旧相伝)


 また三善為康(1049〜1139)によって永久4年(1116)に編纂された文章集である『朝野群載』のなかに年未詳の「山王院千手堂住僧等曜知識文」が載録されている。そこにみえる説話はBにみえる説話とほぼ同様であるが、そこでは仏像が千手観音となっている(千手観音は説話@)ことと、「智証大師(円珍)が入唐求法して帰朝した後、この堂にて灌頂の事を修せられた。これよりはじめて山王院千手堂と称す」(『朝野群載』巻第17、仏事下、山王院千手堂住僧等曜知識文)と記載されることから、最澄の九院構想を始源とする記事を否定して、円珍が灌頂を行なった貞観2年(860)に山王院の号がはじまったものであり、@とBの説話は本来は聖観音と千手観音間の元来一つの縁起であったものが、千手観音の縁起と聖観音の縁起に分かれてしまったという説がある(菅原1992)

 しかし山王院と千手堂の関係について、明確でない部分が多い。延長3年(925)4月28日の「園城寺公文勘注文」(園城寺文書、平安遺文221)には「山王院地請文」2通と「千手堂判文」1通の存在が示されており、山王院と千手堂が別個のものであったことが確認され、千手堂が山王院となったという説は否定される。

 文永4年(1267)以前に成立した延暦寺の寺誌である『叡岳要記』の千手院の項目では「今の千手堂これなり。今は園城寺にあり」と述べた上で、「桧皮葺5間、本願は伝教大師。千手観音・聖観音像1体を安置す」とあるように、千手堂は山王院と同一であるとは述べておらず、『叡岳要記』の記された「今」(1267以前)には園城寺にあると述べている。それに対して元亨4年(1324)に杲鎮の延暦寺寺誌に関する口述を筆記した『九院仏閣抄』では山王院について、「惣持院の西方にあり。本尊は千手観音。今は千手堂と号す」とあるように、山王院は現在では千手堂と号すると述べている。この両者の記事のどちらが正しいのか、これだけでは判別しがたい。
 京都国立博物館蔵「東塔絵図」(鎌倉時代)では画面左側に「山王院」とあって、桧皮葺の間数不明の建造物がみえ、その前方に桧皮葺の建造物2軒、3間の板葺の建造物1軒の計3軒の建造物が描かれる。そのさらに左方には「千手□」とある桧皮葺の5間の建造物1軒が描かれる。この「千手□」が千手堂だとすると、『叡岳要記』が記す桧皮葺5間の建造物に近いが、『叡岳要記』が述べるように園城寺には移転しているわけではなく、「東塔絵図」では千手堂は山王院付近に位置していることが確認される。また『九院仏閣抄』が記すように山王院と同一ではないことも確認されるのである。これらが意味するところは明確ではないが、あるいは山王院内にあるいくつかの建物の一つに千手堂があったということがいえるのかもしれない。


智証大師円珍

 山王院を智証大師円珍が住房としていたことは前述した通りである。ここでは智証大師円珍について略述する。

 智証大師とは円珍示寂後に朝廷より賜った諡号である。円珍は、俗姓は因支首で讃岐国那珂郡金倉郷(香川県丸亀市)の人である。父は宅成といい、母の佐伯氏は空海の姪であった。弘仁5年(814)に誕生した。幼い頃から才を示したため、15歳の時に叔父である僧仁徳にしたがって叡山に登り、義真の弟子となった。19歳の時、年分度者の制によって得度し、天長10年(833)4月15日に授戒した。授戒の後は最澄が定めた『山家学生式』の規定にしたがって12年篭山した。

 その間承和5年(838)冬、石龕にて坐禅している時、たちまち金人が現われて「お前はまさに我が形を図画して慇懃に深く信仰しなさい」といった。円珍が誰何すると、金人は「我はこれ金色の不動明王である。我は法器(仏法を受ける素質をもつ者)を愛するから、常にお前の身を擁護しよう。お前は早く三密の奥儀をきわめて、衆生の舟航となりなさい」といった。円珍はその形を熟視してみると、容貌は魁偉・奇妙で、威光は火が燃え上がるように盛んで、手には刀剣を持っており、足は虚空を踏んでいた(空中浮遊のこと)。そこで円珍は画工にその蔵を写させた。像は今でもある(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)。この像こそ園城寺に伝わる秘仏「黄不動」であるといわれている。円珍にはこのような霊験説話が多い。

 12年篭山が終わった後、経論をきわめ尽くしてしまい、疑問があってもそれを教えることが出来る人がいなかった。そのため円珍は入唐留学に想いを馳せるようになった。承和14年(847)正月、大極殿吉祥斎会において、法相宗の明詮(789〜868)と激しい論戦を行なった。そのため円珍の名は朝野に轟くこととなった。

 嘉祥3年(850)春、夢に山王明神が現われて、「公(円珍)は早く入唐求法の志を遂げなさい。留まってはならない」と告げた。円珍は「そのうち請益闍梨和尚の仁公(円仁)が三密をきわめて本山(叡山)に帰着されるでしょう。今さらどうしてせわしくも航海に出ようとすることがありましょうか」と答えた。神は重ねて「公(円珍)の言葉のようであったら、世の中の人が多く髪を剃って僧となっているのに、公(円珍)はどうして昔にせわしくも剃髪の志をとげたのか」といった(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)。翌年春に明神は重ねて入唐をすすめたため、円珍は入唐を許諾した。そこで円珍は入唐の意志を上表したため、天皇は深く感じ入って入唐を許可した。また円珍は太政大臣藤原良房(804〜72)のあつい帰依を受けていたため、この後も藤原良房・基経父子の助力を得ることができた。

 仁寿元年(851)4月15日、円珍は入唐の志を遂げるために九州太宰府に向かい、同3年(853)7月16日に新羅商人の船に乗船して一路唐に向い、12年間の入唐留学の末、天安2年(858)6月19日に帰国した。

 帰朝した円珍は叡山の「旧房」に住み、所伝の大法・天台宗の章疏を諸僧に教授した(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)。この「旧房」について、『朝野群載』やそれを引用した『九院仏閣抄』では「山王院千手堂」とする。ただしこの旧房とは山王院の近くになった西谷の住房である唐院(後唐院)であるとする説がある(佐伯1989)。また『寺門伝記補録』では、貞観2年(860)に円珍が園城寺唐坊廓内に一座を構え、山王三聖を勧請したことを記した上で、故叡岳大師(最澄)の房内にも神座があって、房を山王院と号したとする(『寺門伝記補録』第8、山王勧請)

 貞観10年(868)6月3日、勅によって天台座主に任じられた。円珍は時に55歳であった。同14年(872)9月に叡山に帰ったが、それ以降は朝廷の要請があっても叡山の外には出ることがなかったという。寛平2年(890)12月26日に少僧都に任じられた。しかし翌寛平3年(891)2月には病となったのか、自身の火葬法を指示している。同年10月29日、袈裟をつけて手棒を頂戴し、水で口をそそぎ、右側に臥せて5更(午前3時〜5時)に入滅した。78歳。円珍入滅の36年後の延長5年(927)12月27日、朝廷は円珍に智証大師の諡号を賜った。


園城寺後唐院大師堂(平成16年11月13日、管理人撮影。参考までに…)

山王蔵

 円珍は経典の蒐集・研究・校合を熱心に行なっており、蒐集された典籍は円珍の住房であった山王院に収蔵された。山王院に収蔵された典籍は、円珍自身が入唐して入手した典籍はもちろんのこと、門弟によって蒐集された経典も含まれ、また円珍は入唐後も唐僧に書簡を送って典籍入手に努めるなど典籍蒐集を怠らなかったこともあり、山王院の経蔵に収蔵された典籍は厖大な数にのぼった。円珍示寂34年後の延長3年(925)頃に書かれた山王院経蔵の蔵書目録である『山王院蔵書目録』4帖は、現在では2帖しか残存していないが、それでも2帖には1,090点、2,959巻におよぶ厖大な典籍が記載されている。この山王院の経蔵は、経典(園城寺蔵『弥勒経疏』)に朱印で「山王蔵印」と蔵書印が捺されていることから、「山王蔵」と呼ばれていた。山王蔵には円珍の在世中あるいは示寂後に専任の事務担当者が置かれ、蔵書の整理運用にあたった「山王印経蔵勾当」「山王院経蔵司」「山王院経蔵専当」という職があり、図書館の司書とほぼ同様の役であったことが推定されている(佐藤1937)

 山王蔵に収蔵された典籍の多くは、当初三井寺(園城寺)に収蔵されていたようである。典籍が請来されてから山王院に納められるまでの一例をあげてみると、円珍は『大日経義釈』を大中9年(855)に唐長安青龍寺の法全より入手して帰朝し、それを延暦寺におさめ、後に三井寺に仮に収蔵した。その後再度延暦寺に戻し、「山房」、つまり山王院に安置している(『唐房行履録』巻中、所引大日経義釈第9巻奥書)。また円珍は『瑜伽供養法次第』を大中9年(855)に唐長安青龍寺の法全より入手して帰朝した。宗叡は入唐する前にその『瑜伽供養法次第』を三井寺にて書写したとの経緯を寛平元年(889)9月8日に円珍は山王院にて追記している(『批記集』瑜伽供養法次第識語)。このように三井寺に収蔵された典籍が山王院に移されたことが確認されるが、いつ移されたのかはわかっていない。山王院に典籍が移されたと推定できる年代としては、円珍が天台座主に任じられて叡山に帰った貞観14年(872)9月頃の可能性がある。

 円珍示寂後も山王院は円珍門弟の管領するところであった。延喜2年(902)秋、僧綱所より円珍の伝記を進上するようにとの牒が延暦寺の寺家に到来した。延暦寺の寺家は、記録を撰国史所(国史を編纂する役所)に進上するようにと山王院に牒した。そこで円珍の門弟である良勇(855〜922)が、円珍の平生の事・始終の事を記憶から思い起こし、同じく円珍の門弟の鴻与(生没年不明)が円珍の遺文を引勘した。また門弟達が議論を重ねた上で、最後に門弟の台然(生没年不明)が筆記した。その後、三善清行(847〜918)に委ねて撰述させ、円珍の伝記が完成した(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)。このように山王院へ出された牒が円珍門弟達に伝達されているように、山王院は円珍門弟の所管する子院となっていたのである。以降、智証門徒で山王院あるいは千手堂と関係する著名な僧に、増命(843〜927)・明達(877〜955)・余慶(919〜91)・光日(生没年不明)・広清(生没年不明)・定基(977〜1033)・昌生(生没年不明)といった僧がいる。

 天元4年(981)、法性寺座主職をめぐっての不和・確執から慈覚・智証両門徒は争いとなり、争いを避けて智証門徒の余慶(919〜91)は観音院に、同じく智証門徒の勝算(939〜1010)は修学院に逃れた。それでも叡山上には数百人の智証門徒が円珍の遺跡を守っていた。争いはエスカレートして慈覚・智証両門徒間の衝突・刃傷・放火が相次いだため、朝廷は天元5年(982)正月5日、蔵人掃部助恒曷を叡山に登らせ千手院経蔵を守らせた。しかし争いは止まず、正暦4年(993)8月10日、智証門徒1,000人は円珍像を背負い叡山を退去して大雲寺に移り、長徳年間(995〜99)の初め、園城寺に移った(『寺門伝記補録』第19、雑部乙、両門不和之事・両門別離之事)。これによって智証門徒は園城寺を中心として寺門派を形成した。園城寺に移った円珍像は園城寺後唐院に円珍関係文書とともに秘蔵され、現在に伝わっている。正暦4年(993)8月、智証門徒千人が叡山を退去したが、慈覚門徒は智証門徒側の勝算の房・満高の房・明肇の房・連代の房を焼き払い、千手院をはじめとした房宇40余宇、蓮華院・仏眼院・故座主良勇の房・房算の房・穆算の房・倫誉の房・実定の房・寿勢の房・湛延の房等を破壊した。これ以降、智証門徒が叡山に住むことはなかった(『扶桑略記』第27、正暦4年8月10日比条)。しかし山王院や千手堂は移転したわけではなく、その後も叡山上にあったため、山王蔵に収蔵された厖大な典籍がどのような運命を辿ったのか定かではない。園城寺に移転された後に比叡山僧兵の攻撃で園城寺が烏有に帰した際に焼失したのか、あるいは叡山上に留まり続け、信長の比叡山焼討ちによって焼失したのか、わかっていないのである。山王蔵の蔵書印「山王蔵印」が朱印で捺される園城寺蔵『弥勒経疏』のみが、山王蔵に収蔵された現存する唯一の典籍である。

 その後の山王院について、詳細なことはわからない。『山門堂舎記』・『叡岳要記』といった延暦寺の寺誌に記載され、「東塔絵図」に描かれているから、中世まで細々ながら存在していたようである。信長の比叡山焼討によって焼失したと思われるが、天正年間(1573〜92)に行光坊雄盛が千手堂を再建した(『東塔五谷堂舎並各坊世譜』西谷、千手堂)。千手堂は寛文元年(1661)8月に修復された(『天台座主記』巻6、180世入道二品慈胤親王、寛文元年8月条)とも、天和3年(1683)に3間と4間の規模で再造されたともいう(『東塔五谷堂舎並各坊世譜』西谷、千手堂)。また山王院は万治4年(1661)と宝暦3年(1753)に修復が行なわれている(『山門堂舎由緒記』巻第3、西谷、山王院)。なお元和元年(1615)には密厳院賢祐が山王院に七社の像を安置する5尺と1間の規模の山王社1社を建立している(『東塔五谷堂舎並各坊世譜』西谷、千手堂)



[参考文献]
・佐藤哲英「山王院蔵書目録について―延長三年筆青蓮院蔵本解説―」(『叡山学報』13、1937年)
・景山春樹『史蹟論攷』(山本湖舟写真工芸部、1965年7月)
・景山春樹『比叡山寺 -その構成と諸問題-』(同朋舎、1978年5月)
・小野勝年『入唐求法行歴の研究 -智証大師篇-』下(法蔵館、1983年4月)
・佐伯有清『智証大師伝の研究』(吉川弘文館、1989年11月)
・菅原信海『山王神道の研究』(春秋社、1992年2月)
・村山修一『比叡山史-闘いと祈りの聖域-』(東京美術、1994年2月)


山王院の山王社(平成22年(2010)1月2日、管理人撮影)



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