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山王蔵
円珍は経典の蒐集・研究・校合を熱心に行なっており、蒐集された典籍は円珍の住房であった山王院に収蔵された。山王院に収蔵された典籍は、円珍自身が入唐して入手した典籍はもちろんのこと、門弟によって蒐集された経典も含まれ、また円珍は入唐後も唐僧に書簡を送って典籍入手に努めるなど典籍蒐集を怠らなかったこともあり、山王院の経蔵に収蔵された典籍は厖大な数にのぼった。円珍示寂34年後の延長3年(925)頃に書かれた山王院経蔵の蔵書目録である『山王院蔵書目録』4帖は、現在では2帖しか残存していないが、それでも2帖には1,090点、2,959巻におよぶ厖大な典籍が記載されている。この山王院の経蔵は、経典(園城寺蔵『弥勒経疏』)に朱印で「山王蔵印」と蔵書印が捺されていることから、「山王蔵」と呼ばれていた。山王蔵には円珍の在世中あるいは示寂後に専任の事務担当者が置かれ、蔵書の整理運用にあたった「山王印経蔵勾当」「山王院経蔵司」「山王院経蔵専当」という職があり、図書館の司書とほぼ同様の役であったことが推定されている(佐藤1937)。
山王蔵に収蔵された典籍の多くは、当初三井寺(園城寺)に収蔵されていたようである。典籍が請来されてから山王院に納められるまでの一例をあげてみると、円珍は『大日経義釈』を大中9年(855)に唐長安青龍寺の法全より入手して帰朝し、それを延暦寺におさめ、後に三井寺に仮に収蔵した。その後再度延暦寺に戻し、「山房」、つまり山王院に安置している(『唐房行履録』巻中、所引大日経義釈第9巻奥書)。また円珍は『瑜伽供養法次第』を大中9年(855)に唐長安青龍寺の法全より入手して帰朝した。宗叡は入唐する前にその『瑜伽供養法次第』を三井寺にて書写したとの経緯を寛平元年(889)9月8日に円珍は山王院にて追記している(『批記集』瑜伽供養法次第識語)。このように三井寺に収蔵された典籍が山王院に移されたことが確認されるが、いつ移されたのかはわかっていない。山王院に典籍が移されたと推定できる年代としては、円珍が天台座主に任じられて叡山に帰った貞観14年(872)9月頃の可能性がある。
円珍示寂後も山王院は円珍門弟の管領するところであった。延喜2年(902)秋、僧綱所より円珍の伝記を進上するようにとの牒が延暦寺の寺家に到来した。延暦寺の寺家は、記録を撰国史所(国史を編纂する役所)に進上するようにと山王院に牒した。そこで円珍の門弟である良勇(855〜922)が、円珍の平生の事・始終の事を記憶から思い起こし、同じく円珍の門弟の鴻与(生没年不明)が円珍の遺文を引勘した。また門弟達が議論を重ねた上で、最後に門弟の台然(生没年不明)が筆記した。その後、三善清行(847〜918)に委ねて撰述させ、円珍の伝記が完成した(『天台宗延暦寺座主円珍伝』)。このように山王院へ出された牒が円珍門弟達に伝達されているように、山王院は円珍門弟の所管する子院となっていたのである。以降、智証門徒で山王院あるいは千手堂と関係する著名な僧に、増命(843〜927)・明達(877〜955)・余慶(919〜91)・光日(生没年不明)・広清(生没年不明)・定基(977〜1033)・昌生(生没年不明)といった僧がいる。
天元4年(981)、法性寺座主職をめぐっての不和・確執から慈覚・智証両門徒は争いとなり、争いを避けて智証門徒の余慶(919〜91)は観音院に、同じく智証門徒の勝算(939〜1010)は修学院に逃れた。それでも叡山上には数百人の智証門徒が円珍の遺跡を守っていた。争いはエスカレートして慈覚・智証両門徒間の衝突・刃傷・放火が相次いだため、朝廷は天元5年(982)正月5日、蔵人掃部助恒曷を叡山に登らせ千手院経蔵を守らせた。しかし争いは止まず、正暦4年(993)8月10日、智証門徒1,000人は円珍像を背負い叡山を退去して大雲寺に移り、長徳年間(995〜99)の初め、園城寺に移った(『寺門伝記補録』第19、雑部乙、両門不和之事・両門別離之事)。これによって智証門徒は園城寺を中心として寺門派を形成した。園城寺に移った円珍像は園城寺後唐院に円珍関係文書とともに秘蔵され、現在に伝わっている。正暦4年(993)8月、智証門徒千人が叡山を退去したが、慈覚門徒は智証門徒側の勝算の房・満高の房・明肇の房・連代の房を焼き払い、千手院をはじめとした房宇40余宇、蓮華院・仏眼院・故座主良勇の房・房算の房・穆算の房・倫誉の房・実定の房・寿勢の房・湛延の房等を破壊した。これ以降、智証門徒が叡山に住むことはなかった(『扶桑略記』第27、正暦4年8月10日比条)。しかし山王院や千手堂は移転したわけではなく、その後も叡山上にあったため、山王蔵に収蔵された厖大な典籍がどのような運命を辿ったのか定かではない。園城寺に移転された後に比叡山僧兵の攻撃で園城寺が烏有に帰した際に焼失したのか、あるいは叡山上に留まり続け、信長の比叡山焼討ちによって焼失したのか、わかっていないのである。山王蔵の蔵書印「山王蔵印」が朱印で捺される園城寺蔵『弥勒経疏』のみが、山王蔵に収蔵された現存する唯一の典籍である。
その後の山王院について、詳細なことはわからない。『山門堂舎記』・『叡岳要記』といった延暦寺の寺誌に記載され、「東塔絵図」に描かれているから、中世まで細々ながら存在していたようである。信長の比叡山焼討によって焼失したと思われるが、天正年間(1573〜92)に行光坊雄盛が千手堂を再建した(『東塔五谷堂舎並各坊世譜』西谷、千手堂)。千手堂は寛文元年(1661)8月に修復された(『天台座主記』巻6、180世入道二品慈胤親王、寛文元年8月条)とも、天和3年(1683)に3間と4間の規模で再造されたともいう(『東塔五谷堂舎並各坊世譜』西谷、千手堂)。また山王院は万治4年(1661)と宝暦3年(1753)に修復が行なわれている(『山門堂舎由緒記』巻第3、西谷、山王院)。なお元和元年(1615)には密厳院賢祐が山王院に七社の像を安置する5尺と1間の規模の山王社1社を建立している(『東塔五谷堂舎並各坊世譜』西谷、千手堂)。
[参考文献]
・佐藤哲英「山王院蔵書目録について―延長三年筆青蓮院蔵本解説―」(『叡山学報』13、1937年)
・景山春樹『史蹟論攷』(山本湖舟写真工芸部、1965年7月)
・景山春樹『比叡山寺 -その構成と諸問題-』(同朋舎、1978年5月)
・小野勝年『入唐求法行歴の研究 -智証大師篇-』下(法蔵館、1983年4月)
・佐伯有清『智証大師伝の研究』(吉川弘文館、1989年11月)
・菅原信海『山王神道の研究』(春秋社、1992年2月)
・村山修一『比叡山史-闘いと祈りの聖域-』(東京美術、1994年2月)
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山王院の山王社(平成22年(2010)1月2日、管理人撮影)
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