四王院跡



比叡山延暦寺大講堂東側(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)。この地が四王院の旧地であった。

 四王院はかつて比叡山東塔の大講堂の西側に位置(外部リンク)した子院です。開山は光定で仁寿4年(854)に建立されました。東塔の一子院でありながら文徳天皇の御願寺としての位置づけをもっていました。信長の比叡山焼き討ち以降、再建されることなく現在に至っています。


四王院の建立

 四王院は光定(779〜858)によって延暦寺中に建立されたが、それ以前より延暦寺を開創した最澄によって建立の構想があった。
 最澄は弘仁9年(818)4月26日、九院を定めたが、その九院には止観院定心・惣持院・戒壇院・八部院・山王院・西塔院・浄土院とともに四王院が含まれている(『叡岳要記』巻上、九院)。ところが、構想とは裏腹に実際には最澄生前には未着手のものが多かった。例えば九院のうち、最澄生前に建立されたとみられるのは、わずかに止観院・八部院・山王院だけであった。

 このように、最澄生前には未着手であった九院も、その示寂後に門弟らによって建立されるようになっていった。さらに彼ら門弟も朝廷の尊敬を受けるに到り、最澄が九院構想で示した計画は、門弟らによって成就されることとなる。四王院を建立したのは、最澄の門弟で、後世「別当大師」と尊崇されるようになる光定である。

 仁寿4年(854)、勅があって光定は延暦寺僧別当に任じられた。同年には御願をつかさどって、四王院の事を起工した(『延暦寺故内供奉和上行状』)

 このように文徳天皇の仁寿4年(854)に四王院が建立されたことが知られるが、中世の延暦寺の寺誌『叡岳要記』によると、それを溯ること16年前の仁明天皇の承和5年(838)正月3日に四王院供養が行なわれたとする。同書によると本願主は光定内供で、乾(北西)には多聞天、巽(南東)には持国天、艮(北東)には増長天、坤(南西)には広目天の四天王を安置した。供養の衆は左右に分かれ、左方には呪願師(導師が願文を読むのに続いて呪願文を読む役僧)に東寺の実恵律師(786〜847)、引頭(いんず)に興福寺の明福少僧都(776〜848)、唄師(ばいし。梵語の経文を曲調をつけて詠む)は寿豊律師(?〜839)、散花(花をまいて仏を供養する)は西大寺の善海律師(?〜847)、讃頭(さんとう。経文の斉唱にあたって先導する者)は延暦寺の安恵内供(805〜68)、梵音(四箇法要の四種の声明曲の一つ)は延暦寺の円豊(生没年不明)、錫杖(四箇法要の四種の声明曲の一つ)は延暦寺の恵亮(生没年不明)、堂達(どうたつ。儀式の荘厳・伝達・差配を行なう)は澄恵大法師(生没年不明)がつとめた。右方には導師(衆僧の首座として儀式を執り行う)に薬師寺の豊安大僧都、唄師に東寺の忠継(仲継)律師(?〜843)、引頭に東大寺の泰景少僧都(772〜851)、散花に興福寺の延祥権律師(769〜853)、讃に延暦寺の円珍(814〜91)、梵音に元興寺の静安大法師(790〜844)、錫杖に延暦寺の安然(841〜?)、堂達に大安寺の平法大法師(生没年不明)がつとめた(『叡岳要記』巻上、四王院供養)

 以上の通り、四王院の建立に仁寿4年(854)説と承和5年(838)説の二説があることが知られるが、双方とも光定が建立に大きく関わっていたことが確認できる。光定については戒壇院にて説明したから、ここで詳細は述べるようなことはしないが、仁明天皇が光定にむかって戯れに「そもそも止観宗(天台宗)というのは、真言の道を称揚するものだ」といったため、光定は怒って「我ふたたび参らず」といって階(きざはし。宮中)を下りて比叡山に帰ってしまい、天皇が試しに召し還そうとしても、さらに怒って戻らなかったが、それでも天皇は甚だ愛咲した(『延暦寺故内供奉和上行状』)というエピソードや、光定が比叡山上では稲粒が乏しいことを訴えたため、天皇は「光定乞食袋」と書き付けた袋を賜い、その中に糧食が詰められており、以後恒例化した(『阿娑縛抄』巻第195、明匠等略伝中、別当大師)ということからも知られるように、光定は仁明天皇の信認が極めてあつく、また第2世天台座主の円澄が承和3年(836)に示寂すると、円澄の盟友のような立場にあった光定は延暦寺内で重きをなし、円澄が後継指名した円仁が承和14年(847)に唐から帰国するまで、延暦寺内で並ぶ者はいなかったらしい。円仁が帰国して、仁寿4年(854)に第3世天台座主に補任する太政官牒を受けると同時に、光定もまた延暦寺僧別当に補任された(『延暦寺故内供奉和上行状』)

 このように朝廷・延暦寺双方で重きをなした光定による四王院の建立は、延暦寺における一子院の建立という範疇にとどまらず、文徳天皇による御願寺という位置づけを有するようになる。四王院は「天皇一代が新たに修造された御願寺」とみられており(『新儀式』巻第5、臨時下、造御願寺事)、天安2年(858)3月28日の太政官牒によって、四王堂の供料のうち、三宝ならびに四王および梵王・帝釈供養の供養料として、毎日白米2斗4升8合(座ごとに3升6合1)が美濃国(岐阜県)の支弁で充当されることとなった(『九院仏閣抄』四王院、太政官牒)、なお元慶2年(878)5月15日には美濃国に勅して、毎年春に延暦寺四王堂に送る仏僧供料の利息の残りの稲米10斛・黒米10斛を都に送るよう命じている(『日本三代実録』巻33、元慶2年5月15日庚戌条)

 また光定は天安2年(858)8月10日に延暦寺八部院の坊にて示寂したが(『延暦寺故内供奉和上行状』)、その3日後の8月13日には天台座主円仁を四王院検校とする官苻が下されている(安亮とする説もある)(『九院仏閣抄』四王院)。さらに翌天安3年(859)正月27日には四王院七禅師を定める官符が下されており、円豊・康済・長薗・サン(のぎへん+粲。&M025333;)賢・長仙・塵躬の7人の僧は仁寿4年( 854)4月13日に宣旨によって四王院に入院したが、いまだ官牒を受けていなかったため、このような官苻が下されることとなった(『九院仏閣抄』四王院)



比叡山延暦寺大講堂東側(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)

四王院の修法と焼失

 四王院はその名の通り、堂宇内に高さ6尺5寸(195cm)の金銅四天王立像が安置されており、文徳天皇の発願により鋳造されたものであるという(『叡岳要記』巻上、四王院)。康保3年(966)10月28日の四王院の火災において、北方像のみが残存したものの、腰から焼け絶えてしまったため、頭・足は別となり、見る者は悲しみの涙を拭ったという(『吾妻鏡』元久2年10月13日条)。

 四王院に安置された四天王像は、国家安全の祈祷である四天王法の修法の本尊となる。四天王法は乱世の時に修法するものとされていた(『阿娑縛抄』巻第138、四天別総、第一可修此法事)。延長4年(926)3月7日に左大臣藤原忠平は空慧の定心院・運昭の四王院の解文を申せしむべきの事を忠行に仰せている(『貞信公記』延長4年3月7日条)。天慶3年(940)正月3日、明達(873〜951)は平将門・藤原純友の降伏祈祷のため、延暦寺四王院にて14口(人)の伴僧とともに四天王法を修法している。さらに同年8月29日にも伴僧14口を率いて、不断七日の四天王法を修法した(『阿娑縛抄』巻第138、四天別総、先縦等)。また応和2年(962)11月11日には四王院にて東西の諸徳(名僧)を招聘して内論議の事を議定し、同19日の夜に行われた(『天台座主記』巻1、15世権律師延昌、応和2年11月11日条)

 四王院は幾度も焼失や倒壊の憂き目に遭っている。康保3年(966)10月28日、延暦寺の講堂・鐘楼・文殊楼・常行堂・法花堂・四王院・延命院および故座主喜慶ら7人の房舎の全21宇が焼失した(『扶桑略記』第26、康保3年10月28日条)。天禄3年(972)には延命院とともに再建の作事が開始され、3月下旬には落成した(『慈恵大僧正拾遺伝』)

 応徳2年(1085)8月26日夜、大風が吹いて四王院が倒壊した。ただちに新造されることとなった(『天台座主記』巻2、36世法印権大僧都良真、応徳2年8月26日条)。寛治2年(1088)8月29日に、講堂・四王院・文殊楼などが竣工したため、供養が行なわれた(『天台座主記』巻2、36世法印権大僧都良真、寛治2年8月29日条)
 元久2年(1205)10月2日子刻(午後11時)、延暦寺の法華堂の渡廊に放火され、延焼して講堂・四王院・延命院・法華堂・常行堂・文殊楼・五仏院・実相院・丈六堂・五大堂・御経蔵・虚空蔵王・惣社・南谷・彼岸所・円融坊・極楽坊・香集坊が灰燼を化した。この放火は堂衆の所行であったと疑われている(『吾妻鏡』元久2年10月13日条)。建永元年(1206)7月24日には法華堂・常行堂・四王院・文殊楼・実相院などは再建のため棟上が行なわれている(『天台座主記』巻3、68世権僧正法印承円、建永元年7月24日条)

 中世の延暦寺の寺誌『叡岳要記』によると、四王院の建造物は桧皮葺の5間の堂で、檐下の四隅に極彩色で荘厳されていた(『叡岳要記』巻上、四王院)。また特に必然性がないにもかかわらず、平面は正方形であったといい、ここに天台宗建築を特徴づける象徴的な意味があったとされる(藤井2006)

 永仁6年(1298)9月17日に延暦寺の円恵・承玄の弟子20余人は甲冑を帯びて比叡山東塔北谷の性算の住房を襲撃した。政所の辻にて合戦となったが、円恵・承玄の弟子20余人は散々に敗北して、19日亥刻(午後9〜11時)、退却する途上に大講堂の軒下やそのほか3ヶ所に放火し、大講堂・戒壇院・文殊楼・法華堂・常行堂が一夜のうちに灰燼と化してしまい、四王院も類焼してしまった(『元徳二年三月日吉社并叡山行幸記』・『天台座主記』巻5、99世前大僧正尊教、永仁6年9月17・19日条)。その後再建に着手され、元徳2年(1330)3月27日に大講堂・延命院・四王院・法華堂・常行堂の5堂の修造が完了している(『閻浮受生大幸記(五代国師自記)』諸寺興隆大幸)。しかし元弘元年(1331)4月13日夜、法華堂より出火・類焼して大講堂・延命院・常行堂などが再度焼失し、四王院もまた同様の運命をたどった(『天台座主記』巻5、120世三品尊澄親王、元弘元年4月13日条)

 その後四王院についての記録らしい記録はないが、明応8年(1499)7月11日、細川政元の被官赤沢朝経・波々伯部宗量らが延暦寺を攻撃し、早朝に細川勢に放火され、根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などが焼失した(『大乗院寺社雑事記』明応8年7月12・23日条)

 延暦寺は元亀2年(1571)9月12日の織田信長の比叡山焼討ちによって壊滅し、四王院もまた焼失した。その後再建されることなく、現在まで到っている。


[参考文献]
・藤井恵介・玉井哲雄『建築の歴史』(中公文庫、2006年1月)
・武覚超『比叡山諸堂史の研究』(法蔵館、2008年3月)


比叡山延暦寺大講堂東側の戦勝供養塔(平成21年(2009)8月14日、管理人撮影)。案内板の背後に位置している。



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